徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

「人事評価」をするのは仕事ではない

 人事課なんてのは社内の人達の情報をまとめたり、部署間の調整をするのが仕事であり、何の専門知識も経験も持たず、学歴に秀でている訳でもない人格が優れている訳でもない人達が他人を「評価」するというのは実に滑稽だ。麻生大臣が「10万円再配布の予定はない」と発言した際、まるで自分のお金かのような言い方していたのが興味深い。彼は特に専門知識がある訳でも、優れたトレーダー経験がある訳でも証券マンだった訳でもないのに、ここまで偉そうに発言できる。同じように人事課の人間も、現場経験や技術や専門知識を持たない人間が人事の仕事に就くと、あれやこれやと実際に現場で自分の手を動かしている社員にあれこれケチをつけて、評価を下げたり難癖つけたりすることを仕事だと本気で思い込んでいる。

 

 「itスペシャリストが語る芸術」というブログで、「お金を稼ぐには、モノを売る、作る、サービスするという手段が必要。それ以外の手段は全て虚業であり、そんなものを仕事とは言わない」と言われていた。現場経験を持たない人事の人というのは大抵は、マトモに仕事をしていないことにる。それならばせめて、他の社員のサポート業務に徹するか、暇な仕事の合間に専門技能についての勉強でもすればいいのだが、そんな無駄なことをする暇はないとばかりに、会議や打ち合わせに邁進し、そこで他の社員の悪口陰口噂話という「評価」をし、それで仕事をしたつもりになっている。

 

 そして驚くことに、(実際は驚くに当たらないのだが)そんな無能な人事ほど、他部署の人間や若い女性社員からの評判をとても気にしている。それで、どんな行動に出るかというと、社内で嫌われてそうな人や、大人しいタイプの人、女性社員の評判が悪そうな人に対し、噂話だけで低い人事評価を下してパワハラをし、退職に追い込んだり鬱病やひどい場合には自殺追い込んだりすることで、社内の他の部署に自分達の功績をアピールしようとする(教師にもこの手の人間は本当に多い。大人しそうな生徒には当たりがキツく、運動部やうるさい生徒には甘い。そうすることで陽キャ生徒の『おこぼれ』を貰うことに生きがいを感じている哀れな教育者だ)。何の技能も経験も専門知識も持たない人が、懸命に働いている現場の人を噂話や評判だけで偉そうに評価し、実際に現場を見たりその相手と仕事について深い議論をした訳でもないのに、低い評価をつけたり給料を下げたり、閑職に追いやったり退職に追い込むことで、自分達は立派に「お仕事」を果たしたと本気で思い込んでいる。人事と書いたが、ロクな経験も専門知識も持たない管理職にしても同様である。経験がないから自分の信念も矜恃もない。だから、どんな部下であっても守り育てるという考えもない管理職は掃いて捨てるほどいるし、そんな政治家も多い。人事部とは本来、専門技能を持たない無能の集まりである筈なのに、女子社員にモテたいがあまり、自分の職域を超えて暴走してしまった連中なのである。可哀想な連中だ。他人を評価する立場になると、どんな無能でも自分は偉くなったと勘違いしてしまう。だから人は、誰にも強制されなくても、自分で自分を律し、教養や哲学などを、学び続けないといけない。それをしない社会人は、畜生にも劣る。多くの政治家もそうたが、徳も信念もなく他者を評価する立場になった人の顔の醜さといったらない。その下卑た下品な笑い方は、その会社の先行きを如実に表しているだろう。もっとも、そんな会社に喜んで居座る人間の方にも、非はあると言えばあるのたが…。

 

歩きスマホをする人間は何故駅のホームでポケットに手を入れて歩くのか?

 飲食店でトナラーに遭遇したら、高確率でそいつはクチャラーで、ススラーである。会社で大きな音でキーボードをバタバタ叩く人間がいたら、彼は間違いなく仕事ができないし、部下を持ったらパワハラをする。同じように、歩きスマホをする人間は駅のホームでスマホ片手にポケットに手を入れて歩き、電車内では他人との社会的距離を保たない。

 

 駅のホームでの歩きスマホや、ポケットに手を入れて歩く行為は極めて危険で、いずれも犯罪行為にかぞえていいと思う。特に乗り降りの際もスマホをぼーっと眺めながらいっこうに前に進まない人が前にいて、イライラさせられた経験のある人も多いのではないだろうか。これらの行為を平気でできるのは自己中心的とか周りが見えてないという以前に、認知能力の大事な部分が少なからず欠陥している可能性が高い。自分の行為が、周囲に、ひいては自分の未来にどのような影響力があるか考える能力が足りないのだ。これも、学校での暗記教育の悪影響かも知れない。学校では暗記が重視され、原因と結果の関係を考察するような思考力は育成されない。歩きスマホやポケットに手を入れて歩くという「原因」が、駅のホームへの転落や或いは他人をホームへと突き落とすという「結果」に繋がる可能性が高まることが想像できないようだし、何やら自分は安全だと思い込んでるらしい。

 

 彼等がそれまで生きてこれたのは、周りの人達が彼等に気を配った結果に過ぎない。駅のホームでは周囲が避けて、乗り降りの時は蹴飛ばしたいのをじっと我慢し、ポケットに手を入れて不安定な人を避けて歩いてきたからだ。朝のホームは急いでる人も多いだろうから、歩きスマホをしながらポケットに手を入れて歩く人は、本当に迷惑なのである。迷惑の総量を考えれば、とっくに死んでもおかしくない連中だ。周りの配慮で、「たまたま」生き延びてこれただけなのである。そんな人間は、学校や職場などの日常生活の中でも、他人に迷惑をかけるのが立派な証だとでも思ってるのだろう(潜在意識では少なくともそうだ。ポケットに手を入れて歩きスマホをしてる人間は排泄物を垂れ流しながらそれを他人に掃除させることに快感を感じてるボケ老人と何ら変わらないのである)。

 

 このような下劣な輩がいる限り、新型コロナウイルスはなくならないだろう。ワクチンができても、変異を繰り返し人々が適切に他人を気遣うことができるようになるまで何度でも流行するだろう。気遣うと言っても、必要以上に優しくしたり、余計なお世話をすることではない。ただスマホから少し顔を上げ、ポケットから手を出して歩くという、それだけで、新型コロナウイルスの問題は解決するのである。

 

 

社会進出した女性が職場でやることはおしゃべりとお菓子パーティー

 女性の社会進出が謳われ、先日も森元首相の失言が問題となり、代表を辞任することになった。個人的にはもっと前から辞任するべきだったと思うが、正論をいった途端に問題視されるのはどうかと思う。まるで、失言までの振る舞いは問題がなかったみたいではないか。彼の発言の内容「(女性は競争意識が強いから)女性がいると会議が長くなる」という内容自体は正論で、よく言ったものだと思う。「国がたった2500億円も出せないのか」という寝言は失言にならず、正論を言ったら失言になるのだから、この国の倫理観はどうかしてるだろう。

 

 実際、僕が短い社会人経験の中で見てきた女性も、会議において全く意味のない適当な思い付きを話す人が多かった(最近は、そんな女性みたいなおっさんも増えてきているが)。そして、やたらと打ち合わせをしたがり、打ち合わせを大事な仕事だと思ってる人も女性が多い(個人的には、打ち合わせは仕事じゃない)。要するに、何が重要で何が重要でないか、優先順位をつけるだけの論理的な思考能力を持たない女性が多量に社会進出してしまっているのが現状だ。仕事に責任意識を持たずに、業務時間中に平気で下らない雑談をし、どうでもいい噂話や社内人事などを過剰に騒ぎ立てて職場の空気を陰湿でネチネチしたものにする。本人たちはそれで、自分は立派に仕事をしてると思ってるらしいが、盗人猛々しいとはこのことで、そんなことは断じて仕事ではないのだ。そして、そんな女性(主におばさん)に限って、「新入社員の~さんは~が駄目だ」とか、偉そうに後輩を批評している。学歴も教養も人としての優しさもないような人達が、後輩(学ぶところがない人間を先輩扱いするのはどうかと思うが)を偉そうにドヤ顔で評価するなど、勘違いも甚だしい。しかし、国が女性の社会進出や育休産休制度の充足を推し進めたせいで、こうした「勘違いおばさん」は大量に日本の職場に流出してしまった。彼女らは若い人たちが真面目に仕事に取り組むのを低劣な陰口や噂話で妨害し、自分たちは夫の稼ぎをアテにしていつでも辞めれれる気楽さに支えられながら、ぶら下がりワーママとして日本経済を汚染していくのである。

 

 しかも彼女らの雑談の内容といったら、昨日の休みはどこに旅行に行っただの有名な店で何を食べただのといった、低劣で下らないものばかりだ(その内容ですらマウントを取り合うのだから始末に負えない)。聞いていて何一つ勉強になることはなく、ユーモアがあるわけでも高潔さがあるわけでもないから、黒板を爪で引っ掻くような耳障りな音になって職場に響き渡る。それも本人達は高尚な会話をしてると思ってやまないので、いつまでもいつまでもやめることはない。

 

 それだけで留まるならまだしも、彼女らの最大の悪徳は他人の悪口、それも入社して間もない新入社員に対する陰口や悪口である。「新入社員の~さんは偉そうだ」だの「~さんはこのままだとこの会社でやっていけない」だの、マトモな頭も学歴もないおばさん方が、どの口で真面目な若い新入社員達のことをそんな風に上から偉そうに言えるのか神経を疑う。ひと昔前であれば、結婚・出産を機に女性は退職していったが、それは、子育てに集中するという理由もあったろうが、そうすれば、現在のワーママさん達のように悪口や陰口で、自らの品性を貶める心配もなかったのだろう。女性を家庭に縛り付けておいたことが、かえって彼女たちの人格の成長に寄与していたのだろう。新入社員というのは大抵の場合ぶら下がりワーママより遥かに真面目に一生懸命働き、それが職場の雰囲気をとてもいいものにする。それだけでも、彼等彼女等は会社にとても大きな貢献をしているのである。大して役に立たないぶら下がってるだけのワーママが、悪口を言っていい訳がないのだ。

 

 とはいっても、このことは女性だけの問題ではない。女性を社会進出させるような政策を敷いた政治家も無能だし、職場で女性に媚びる男も無能だ。特に、自分の意見を持たず、何らかの決断に際しても常に女性の顔色をうかがっている男の見苦しさといったらない。そういう男は女性社員へのアピールのために、大人しそうな男性社員に必ずといっていいほどパワハラをする。更に、女性社員は大人しい男を仕事ができない男だと吹聴して退職や降格に追い込むが、その際に正義マンのように大人しい男を痛めつける男性管理職は必ず存在する。大抵は専門知識も経験もない無能で、他人の仕事にケチをつけるような部署でしか働いてこなかったような連中だ。何かを作って他人に評価されるという経験をしてこなかったので、弱い立場の人を叩いて自分の存在意義をアピールしようとするのだ。そして、女性も同じく専門知識も経験も(ついでに言うと資格も学歴も教養も)ないから、こんな無能を「仕事ができる」と吹聴したりする。その結果現在の日本のように、無能が中抜きで優秀な技術者を搾取し、日本の技術力が地の底まで落ちるという事態になった。COCOAの中抜きが騒がれているが、あれも、もとはというと政府にIT技術に関して正しい専門知識と経験を持つ人がいなかったことが原因だ。女性の社会進出を促すことは、このように専門知識も経験も正しい判断力も持たない人を重要なポストに据える風潮と地続きにある。

 

 現代の日本の社会進出した女性は、職場でお菓子パーティーしながら新入社員の品定めをすることを高尚な「仕事」だと本気で思い込んでいる。何も問題解決につながらない、何の価値も生み出さない仕事しかしない、そんな連中が正社員といして多額の福利厚生を受け、ボーナスをたっぷりと受け取り、産休育休を満喫し、会社で子育ての愚痴と自慢を繰り返しながら、真面目に働く人たちを搾取しているのである。この風潮が続けば、日本はそのうちアニメか観光ぐらいしか外国に誇れる産業がなくなり、(金融日記からの引用)水商売中心の第三次産業国家になり、中国の金持ちの靴の裏を舐めて生活するような弱小国家になっていくだろう。最も、権力者に媚びるのが好きな日本の女性にとっては、それも本望なのかも知れないが。習近平に日本が支配されたら、習近平宛に「あなたの子供が生みたい」なんて手紙を送ったりするのだろうか。おぞましいことだ。

 

 

古代ローマの最も偉大な哲学者「セネカ」の名著、「人生の短さについて」

f:id:potemalu02:20210110133225p:plain忙しい人にとって人生は短い。

 

セネカ古代ローマの最も偉大な哲学者である。

 ルキウス・アンナエウス・セネカ〔紀元前1~65年〕という古代ローマの哲学者をご存じだろうか?クラウディウス朝時代の人で、幼き日のネロの教師も務めたことがある人物だそうだ。今回は、彼の名著「人生の短さについて」という本を紹介する。この本は、全ての日本人が100回音読すべき名著である。古代ローマにこのような偉大な哲学者がいたことを、僕はこれまでの人生で知らずにいたことを大いに恥じた。それほど偉大な思想を持つ哲学者なのである。その理由を以下につらつらと書いていく。

 

・人の人生は十分に長い

 「人生の短さについて」というタイトルを目にした際に僕は浅はかにも、「人の人生は短いから一生懸命働けとか、勉強しろとか下らないことを書いているのだろう」と愚かな推測をしてしまった。彼の主張は全く逆である。しかし、単に長いと言っている訳ではない。以下の分を参照にされたい。

 

『じっさい、ひとの生は十分に長い。そして、偉大な仕事をなしとげるに足る時間が、惜しみなく与えられているのである。ただし、それは、人生全体が有効に活用されるならの話だ』(人生の短さについて、1.3より)

 

 つまり、人生は長いのに、無駄遣いすることで短くなってしまうということだ。ここまでなら現代の一般的なレベルの思想といっていい。しかしセネカが偉大である理由は、彼が立派な社会的役割に従事する人間や、忙しく働く人間についても、人生を無駄にしていると言及している所である。以下の文を参考にされたい。

 

『多忙な人は、みな惨めな状態にある。その中でもとりわけ惨めなのは、他人のためにあくせくと苦労している連中だ。彼らは、他人が眠るのにあわせて眠り、他人が歩くのに合わせて歩く。だれを好いてだれを嫌うかという、なによりも自由であるはずの事柄さえ、他人にいいなりにならなければならない』(人生の短さについて 19.3より)

 

 おわかりだろうか。セネカにとって「多忙な人」は、社会的に立派であろうが、どれだけ沢山の人に尊敬されていようが、富があろうが、等しく惨めなのだ。それはひとえに、奴隷の鎖自慢に他ならないからだ。現代の忙しく働いている全ての日本人は、これを理解して欲しい。他人のために自分の時間を犠牲にする人間は、等しく自分の人生を無駄にしているのである。そんな人にとって、人生は短く無駄なものになる。

 

ブラック企業で働く人も、上司や同僚にアピールするために長時間労働や残業に勤しむ人も、流行りものにとびついてレジャーや娯楽や飲み会に必死になる人も、酒や性(セネカ曰くこれほど恥ずべき時間の使い方はない)に夢中になる人も、等しく人生を浪費しているのだ。以下に、2000年先の日本を予言していかたのような、セネカの言葉を引用する。

 

『彼ら(酒と性に溺れる人たち)はどれだけ長い間、宴会をしているかーー今や、宴会に出ることが仕事になってしまっているではないか』(人生の短さについて 7.2 一部改変)

 

『彼ら(人生を浪費してる人たち)は、理髪店で薄くなった髪を前のほうに寄せ集めたりしている』(人生の短さについて 12.3 一部改変)

 

ボードゲームとか、球技とか、日光浴などで人生を浪費している人たちの例を、ひとつひとつ挙げていくときりがない。ようするに、そんなことに一生懸命にならなければ楽しめないような人は、閑暇な人とはいえないのだ』(人生の短さについて 13.1)

 

 どうだろうか?飲み会で若い女の子とお喋りすることを目当てに会社に来てるおっさんや、いい年して髪の毛を必死で寄せ集めてハゲを隠すことに腐心してるおっさん。下らないレジャーやスポーツ観戦などに夢中になってSNS映えを目論むことに必死な現代人たちを、まるで実際にその目で見たかのように予言している。つまりそれほどまでにセネカの慧眼は鋭く、彼が物事の本質を見抜く優れて思想家だったということである。では、どのように過ごせば、人生を浪費せずに、十分に長いものとして活用することができるのだろうか?そのことについても、セネカはしっかりと教えてくれている。

 

・真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある

 『すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、全ての時代を付け加えることができるからだ』(人生に短さについて 14.1)

 

 つまりは、過去の偉人に学び、自分に向き合う時間を持て、ということなのだろう。あらゆる時代を付け加えることで、自分の時間もうまく使うという表現はとても面白いし、見事だ。実際、多忙な人は、自分と向き合っていない。自分自身と向き合うことに耐えられないから、他人に依存して虚しさを埋めようとし、結果、人生を浪費する。ブラック企業でいくら働いても給料も上がらず、人生が豊かにならないのと同じで、他人のためにいくら時間を使っても、自分の人生を豊かにすることはできないのだ。

 

 過去の偉人は、具体的にはソクラテスプラトンセネカは挙げているが、今の時代には、ルドルフ・シュタイナー等の優れた哲学者の著作をふんだんに読むことができるし、「ITスペシャリストが語る芸術」などのいいブログも多数存在する。そういった優れた思想家達と静かに向き合う時間は瞑想に例えられるといっていい。瞑想の中で、彼らは我々の師となり、兄弟となり、友人となり、人生に大きな幸福をもたらしてくれる。瞑想を通して自分と向き合う人にとって、人生は限りなく長く、豊かで実りあるものとなるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※Kindke unlimitedなら無料で読めるが、個人的にはこれほどの名著は金銭を払って読むことをオススメする。ちなみに僕は、電子書籍と紙の本を買った。書き込み用と布教用に、もう何冊か買おうか迷っているところだ。連続スクロールができるibooksもオススメである。

「報連相」はパワハラを正当化する危険な概念

 「報連相」という言葉がある。「報告・連絡・相談」の略でホウレンソウと呼ぶそうだ。日本の会社では社会人の基本としてできなければいけない姿勢らしく、これが出来ないと仕事ができないとみなされたり、ひどい場合はADHD等の発達障害だのと言われたりする。

 

 さて、この「報連相」だが、個人的には、仕事を円滑に進めるものというよりも、パワハラの温床となってる印象が強い。その理由をいくつか述べていきたい。

 

 まず第一に、「報連相」は部下から上司に一方的にされるものであるという前提があることだ。これは極めておかしい。仕事における情報を共有する必要がある2者が存在する場合、情報の共有は互いが互いに向けて行わなければならないはずである。それなのに、「部下→上司」の一方のベクトルだけで、報連相の必要性が問われているのである。部下から上司だけでなく、上司から部下への情報の共有という形での「報連相」は必須のはずである。(上司⇄部下) 例えば、何か新しい決まりを作る時に、部下を無視して勝手に上層部のみで話を進め、ある日突然部下に「今日から〜はこうしてくれ」と命令する上司は多いが、これは、部下に対して必要な「報連相」の手順を一切踏まない、トップダウン方式の一方的で乱暴なコミュニケーションである。部下は溜まったものではないだろう。普段自分たちには「報連相」を要求する癖に、重大な決定事項に対しては、部下に一切の「報連相」なしに決められてしまうのだ。そしてそんな上司ほど、部下が必要ないと判断した業務内容に関して「報連相」をしないでいると「あいつは報連相ができない駄目な奴だ」と周囲に吹聴したりする。情報の共有が目的なら、あらゆることに関して上司から部下に対しても「報連相」が積極的に行われるべきである。なのにそれがないのは、情報の共有とは名ばかりの、報連相を通した部下から上司への「忖度」を要求しているに過ぎないということだ。「忖度」はクライアントに対してすべきものであって、上司にするものではない。それは仕事ではないし、そんな仕事に給料を発生させてもならないのだ。

 

 第二に、仕事を円滑に進めるのに必要なものは部下から上司への「質問」であって「報告・連絡・相談」などではない。「この仕事は〜ですか?」という質問に答えられない上司は無能である。仕事が円滑に回らないから。にも関わらず「報連相」に「質問」が含まれないのは、質問されて答えられなかった場合に上司は自分の体裁が崩されたと考えるし、「相談」という形を取らせることで自分を優位に保ちたいからである。ここでも忖度が要求されている。上司は何か優れたコンサルタントか何かにでもなったつもりで、部下に「相談」という形を通した忖度を要求しているのだ。実際に相談する価値がある上司なら分からないでもないが、大抵の仕事は実際にこなしている部下のほうがよく分かってるし、優れた上司は、人に仕事を任せるものなのだ。

 

 第三に、「報連相をしろ」という指示そもののが、恐ろしく曖昧だということだ。「〜の結果が出たらいついつまでに俺に『伝達』しろ」とか、「〜さんから連絡がきたら俺に『伝達』しろ」とか、「〜の仕事で分からないことがあればすぐ俺に『質問』」しろ、とかであれば、まだ部下も実行しやすいだろうが、目的語も期日も設定せずに、ただ「報連相しろ」とだけいうのは、「具体的な指示は出せないけれども業務の間は度々俺に『忖度しろ』」と言っているに等しい。(そもそも報告と連絡って何が違うんだ) このことに限らず、曖昧な指示というのは常にパワハラである。部下が判断に迷うし、自分の判断で失敗すれば責任を負わされ、かといって判断を仰げば「さっき言っただろ」などと恫喝されることになる。「報連相」という曖昧な指示を出す時点で、パワハラをしますと公言してるのと同じだ。「報連相を大事にしましょう」というのは、「パワハラを大事にしましょう」と言ってるのと同じだと思っていい。

 

 以上三つをまとめると、優れた上司というのは、上司から部下に対して積極的に報連相を行い、部下の質問に快く答え、具体的な指示を出せる人間ということである。人の上に立って働くのだからその程度やって当たり前だと思うが、日本の会社では不思議とこれらの当たり前のことを怠り、コロコロ変わる曖昧な指示を出して、部下に忖度を要求して自分の機嫌が損なわれると「あいつは報連相ができない」とか「発達障害だ」とかキレ散らかす上司で溢れている。僕が社会人になってから出会った数少ない優れた上司は、少なくとも僕の知る限りでは一度も「報連相」という言葉を口にしなかった。それでいてその上司は、新しい情報を手に入れる度に僕に教えてくれたり、仕事を頼む時は手法と納期を必ず具体的に伝えてくれたものだ。そんな上司ほど僕の雑で適当な仕事ぶりでも高く評価してくれて、周りに伝えてくれたりした。

報連相」を重視していた上司達は例外なく、周囲の人間に僕の悪口を言っていた。「報連相」を要求する人間としない人間は、こうも違うのだと、優れた上司と部下の悪口を言う上司を見比べて、しみじみと感じたものである。

 

 

 

バスや電車の車内放送でやたらうるさい車掌は自己顕示欲の塊

コロナウイルス感染拡大防止にご協力頂いてる皆様、ありがとうございます」

「発車間際のご乗車は、ご迷惑です。おやめください」

「停車駅には充分にご注意下さい」

 

 こういった説教臭い車内放送や駅の構内放送が随分と増えた。特にJRはこの手の偉そうでおせっかいな車内放送が多い。車内マナーやら何やらについて長々と説教し、自分は誠実な人間だとでもアピールしてるんだろうか。日記やブログに書いておけばいいような個人的な見解を、社内放送という公共の場で糞尿のように垂れ流すイカれた神経は、まともな人間のものではないだろう。

 

 そうでなくてもJRは殿様商売気質が抜けずに、平気で電車を遅らせるような大変なサービス精神に溢れた会社である。自分達がお国の大切な仕事をやってやってる偉くて立派な人間だと本気で思い込んでるのだろう。だから、車内放送という自己実現の場で、まるで高名な演説家にでもなったような気分で、下らない説教を延々とのたまうのだろう。

 

 公務員にありがちがなことたが、利用者に不便をかけたり、手間をかけさせたりすることで自分達の収入を確保してる職業の人達は一定数いる。NHKがそうだし、お役所の雑多な手続きが必要とされる部署もみんなそうだ。国民の役に立つどころか、不便を押し付け、手間をかけさせ、その上金を巻き上げるクズみたいな職業は世の中にありふれている。

 

 車内放送を利用して自己実現をする低劣な車掌にしてもそうである。仕事帰りで疲れている人達に、自己顕示欲から下劣で低劣な「お説教」をしてマウントを取って悦に浸っている。少しでも静かな時間で疲れを取りたいのに、車掌の下らないお説教で疲労がいっそうひどくなる。きっと、客の気を吸い取って気分がよくなっているのだろう。金を貰っておまけに客の気まで吸い取るとは、何とも見下げ果てた職業である。

 

 国民から金を貰ってるのに、国民にやたら偉そうな政治家もそうだ。10万円の給付にしたって、国家予算から出るなら、税金から出るということである。もともとは国民の金なのだ。それを、自分の金みたいに給付を惜しむゴミのような政治家がいた。以前に自分が試行したお金の配布が失敗したと言われたことを根に持って、反対したのだ。実際に生活に苦しむ国民よりも、自分の下らない見栄が大切という呆れ果てた坊ちゃん政治家だ。国民に養って貰ってる癖に、国民にマウントを取りたがる、ニート以下の存在である。

 

 金を貰ってる癖にやたら偉そうな面をしてる人間は、人を恫喝して金をせしめるヤクザと同レベルの存在である。まともな人間ではない。

 

 

 

鬼滅の刃の流行り方に日本の芸術教育の悪い所が出てる

f:id:potemalu02:20201018033752j:image 「本当に面白いと思ってるのか…?集団で夢を見てるだけじゃないのか?」

 

 漫画「鬼滅の刃」が人気で、先日映画も公開されて、大盛況とのことだ。僕も原作漫画を読んだことがあるが、確かにキャラの心理描写が丁寧で繊細でその模様も面白く、セリフ回しに独特のものがあって、好きな人はすごく好きな漫画だろうと納得がいく。個人的に、バトルの描写を画と勢いの良さで押し切っているのがとても好感が持てる。少年ジャンプのバトル漫画の多くは謎に「頭使ってます、複雑なバトルしてます」アピールが多く、そこに何だか小賢しいものを感じて、イライラさせられることが多いのだが、鬼滅の刃はそういったバトルの際の「頭使ってます」アピールを最低限にして、勢いとスピード感を重視しており読んでて気持ちがいい、古き良き少年漫画と言えよう。

 

f:id:potemalu02:20201018041317j:image少年漫画はとりあえずかっこいい必殺技を使ってればいいのである!

 

 人物描写も丁寧で、ジャンプのバトル漫画にありがちな、「強そうに見えたけど実は噛ませで一瞬で退場してその後出番がない」といった雑なキャラが殆どいない。特に12鬼月の上弦の月という6人の強キャラは、全員強さの表現も過去の描写も丁寧で、「ランクが上の癖に作者の息切れにより雑に退場する」というジャンプの漫画の敵幹部にありがちな展開がないのは非常に好感が持てた。特に上弦の1と2はその格に相応しく凄まじい強さで、味方の主要なキャラをちゃんと屠ってから退場していった。「強そうなキャラは強くあって欲しい」という読者の素朴な期待にしっかりと応えた、好感の持てる描写である。

 

f:id:potemalu02:20201018041607j:image6人が6人とも全員強く、キャラも立っているし過去の描写をしっかりしている。これが他のジャンプの人気漫画だと、1〜2人は一瞬で雑に処理したり、強さがイマイチ伝わらないようなキャラを混ぜてくるのだが、鬼滅の刃はしっかり描ききってくれた。

 

 さて、実際面白いは面白いのだが、そこまで大絶賛するほどのつもりはなく、漫画も気になる話のある巻を数冊買った程度である。特に序盤は、王道と言えば聞こえはいいのだが冗長な展開が続き、本誌で最新話を知っていなければ読み進めるのは苦痛であったと思う(面白くない訳ではない)。手放しで最初から最後まで絶賛しようとは思わない。だのに、世間では、最初から最後まで全てが神展開の如く持て囃されており、どこがどう面白いのかを細かく丁寧に自分らしい言葉で語る人が少なく、そこに日本人の芸術教育の危うさを感じるのである。これは、学校や家庭での日常の教育が危ういことをそのまま意味する。

 

 街中や電車で小さい子供が鬼滅の刃のグッズやおもちゃを持って楽しそうにしているのを見ると、微笑ましく思う一方で、本当に自分で好んで、鬼滅の刃を好きになったのだろうかと訝しんでしまう。やたらと鬼滅の刃好きをアピールしているタレントや芸能人は言わずもがなだが、小さい子供も、「有名だから」という理由で「鬼滅の刃好き」を強制されているのではないかと心配になるのだ。鬼滅の刃は確かに色んな敵が出てきて面白いが、主人公の武器の変化にバリエーションがなく、必殺技もそうそう数が多い訳ではない。従って、特に男の子にとっては、「自分だったらこの世界でこんな武器をもってこんな風に戦いたい」などの妄想の余地が少なくなるのだ。魂の力で武器を組み上げたり、様々な術を編み出したりするような漫画は、そこに読者の妄想がふんだんに働く。そう言ったワクワクするような想像を刺激するような設定や世界観は、どちらかというと男性漫画家の方が得意だ。鬼滅の刃は、自分だったらどんな日輪刀を作るとか、どんな呼吸を使うとか、もう少しそんな想像の余地が出るような設定にしてもよかったのではないかと思う。

 

 「みんなが面白いと言っているから」「売れているから」という理由で漫画やアニメを好きになるのは、きっかけとしては良くても、それを芸術に対する基本姿勢にするのはあまり良いことではない。人に漫画を勧める時も、「面白いから読みなよ、売れてるから読みなよ」というのでは、まるで説得力がないし、脅迫や洗脳に近いものがある。子供も無意識に大人が称賛するものを好きになる傾向があるので、ある程度は仕方ないかも知れないが、大人が売れているからという理由で無批判に鬼滅の刃を絶賛する態度を見せると、子供はそれを真似て、やはり無批判に、人気があるだけの漫画やアニメを無理に「好き」と言うようになる。それはやがてマイノリティの排除に繋がり、炭次郎に似つかわしくないような「残酷」さに繋がっていくのではないかと思う。

 

 芸能人が鬼滅の刃好きをアピールするのも、別に悪いことではないと思うが、どこがどう面白いと思うのか、自分の言葉で説明できないといけない。以前、とあるバラエティ番組で、人気芸人が「鬼滅の刃のいい所は、引き延ばしたりせす、キレイに終わったところ」と、5chで散々言われ尽くしたような感想を述べていることがあった。インターネットの掲示板に書かれていることをそのまま引用してテレビで語るなら、「芸」人の肩書きなんて捨てて、ニュースキャスターにでもなればいいと思う。そもそも引き伸ばそうが、面白ければ問題はないはずだ。引き伸ばして、面白くなくなるから問題なのであって、鬼滅の刃も続けていれば更に面白くなった可能性もまたあり、作品の評価を述べる際に「引き伸ばしてない」などというコメントは論点がズレている。こういったインターネットの掲示板に媚びて自分の語る言葉を持たないコメントも、「みんな一緒がいい、みんながいいと言うからいい」をよしとする日本の教育の悪い点が現れている。まして芸人なら、本質をついてかつ笑えるような評論をして見せるべきである。

 

 「〇〇の呼吸」という設定についても、呼吸は自律神経の基礎であり、ヨーガなどでも呼吸法を身につけることで、様々な力を身につけることができるという現実的な効果を知っていると、深く考察できて面白い。それを、しょせん漫画の設定の世界と捉えて、呼吸、呼吸と面白おかしく連呼する幼稚な大人が多いことにも辟易する。呼吸法を身につければ、実際に多くの病気を自分で治したり、通常では出すことの出来ないような力を出したり、ある種の霊能力を発揮することもできる。そんな風に、自分なりに深く考えたり考察する事で、漫画は自分の世界を広げ、人生を豊かなものにする。

 

 だから、漫画の好き嫌いを選ぶ権利を、他人に握らせてはならない。たとえそれが、親や教師や、親しい友人であってもだ。売れているから面白い?人気があるから自分も好きアピール?笑止!千万!漫画の好き嫌いを自分でしっかり選ぶことは、自我という日輪刀を鍛えるために絶対に必要なことである。炭次郎が刀の素材となる鋼を自分で選んだように、自分の人生を豊かにするための素材は、自分でしっかり選んで初めて、糧として活かされていくのである。