徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

咳払いは底辺の自己申告

 

 コロナがこれだけ流行ってる昨今でも、カフェや電車で大きな音を立てて咳払いする輩が尽きない。本人は何か威厳でも示しているつもりなのかも知れないが、うるさくて不潔で迷惑なだけであり、わざとやってる分、電車内で赤ちゃんが泣き喚くより遥かにタチが悪い。

 

 公共の場でしつこく咳払いをする人間は、それだけで底辺だと思って差し支えない。多分社会的にも底辺だろうし、何より人間として底辺だ。後者の問題の方が本人にとって深刻である。なんせ、何もしなければマトモな人間と見做される場で、わざわざ大きな音を立てて自分を底辺にまで貶めてるのだから、ご苦労なことだ。

 

 痰が絡むならしずかに飲み込めばいいし、大きな音を立てる必要性なんかどこにもない。にも関わらず大きな音で咳払いをするのは、承認欲求が強いからに他ならない。承認欲求を満たしたいならブログを書くなりストリートミュージシャンでもやればいいのに、わざわざ「ウオッホン!」とゴリラでも出さないような下品な音を立てて、不快感と下劣さを周囲に振り撒き、本人は素晴らしい美声を披露したかのように満足そうな顔をしている。近頃はトナラーとかクチャラーとかキーボードをバチバチ強く叩く人間とかカフェで電話をする異常者が沢山増えた気がするが、咳払いするおっさんもそうした種族の一員なのだろう。承認欲求満たしたい族の特徴として、本人は無能で何の取り柄もないし難しい努力も何もしないのに、周りからチヤホヤされたいと思っているというものがある。学校では教師が何の努力もなく自分の言葉が神のように崇められることが当たり前だと思い、そうした承認欲求が満たされないと思うとキレ散らかし大人しい生徒に校則がどうとかネチネチと執拗なハラスメントを行う。運動部などの目立つ生徒には決して行わない。無能でついでに陰湿な人間の承認欲求に随分と甘い世の中になったと思う。勉強ができなくても殺されることのない世界だから、低学歴は自分が頭がいいと信じて疑わないし、何故か地頭は高学歴よりも優れていると本気で思い込んでいる。ミサワのバイトリーダーみたいな上司や先輩はそこかしこに溢れかえっているし、彼等のマウント行為は留まるところを知らず、また性欲も限りなく、配偶者がいようが常に職場の若くて可愛い女子社員に虎視眈々と狙いを定めて、いかにして彼女達とお近づきになるかに全神経を集中させながら仕事に取り組む。無論、肝心な仕事は部下に押し付けるか外注するかで、全く「仕事に取り組んで」などいないのだが。

 

 チヤホヤされたいなら、勉強するなり読書するなり何か芸術の分野で努力するなり自分で色々調べるなりブログでも書くなりツイッターでバズるように必死に呟くなりなんなりいくらでもやることがあるだろうと思う。適当な思いつきを自分が逆らえない相手に垂れ流して押し付けたり、注意されないのをいいことに公共の場で大きな音で咳払いをするなんてことをして他者の注目を集めたいのだろうか。こんな人間が殺されない世の中はどうかしてる。世が世ならあっさり刺し殺されているだろう。もっとも日本が、そんな世界になるまで、もうあまり時間は残されてないのかも知れないが。

 

 

会社は学校と同じ

 

 教育がおかしいから、社会もまたおかしくなるのである。学校では頭の悪い教師が自分の適当な思いつきを生徒に称賛させ、それをテストの問題にして教師が勝手気ままに思うことを生徒に無理やり解答させることで、何も生み出さない教師は自己実現欲を満たす。他人に自分の思い込みを押し付けるのは、彼等のような劣った人間にはたまらない快感だ。また、生徒が受験に失敗すれば彼の悪口を後の世代にまくしたてて侮蔑し、自分に逆らうものは受験に失敗すると脅し、従って落ちても知らん顔をして更に罵倒する。どんなバカでも、他人を評価する立場に立つと、自分が偉くなったと勘違いする。生徒より長く存在しただけの教師が教壇に立つと、自分が神にでもなったと勘違いする。

 

 会社もこれと同じで、長く会社に存在しただけの無能が管理職になり、部下に対して適当な思いつきを垂れ流し、それを部下が忠実に実行することで悦に浸る。「報連相をしろ」というのも自分を気持ちよくしろという意味である。教師が異様なまでに権力を持つ学校と同じように、上司が異様なまでに権力を持つのが日本の会社である。それは、政治とかの場においても同じなのだろう。そして彼等は誰も、仕事をしないし責任を取らない。その癖承認欲求は強く、自分がチヤホヤされないと子供のように泣き喚く。ノドグロの話をしてるのではないと指摘されると子供のように拗ねて不機嫌をあからさまに顔に出した環境大臣がいたが、教師も上司も、自分は生徒や部下に機嫌をとって貰う立場の人間であり、そうならないのはおかしい、と本気で思っており、それが損なわれると思うと怒り狂うのだ。「星野くんの2塁打」という道徳のお話で、監督がなぜ怒り狂ったのかというと、星野くんが自分に忖度しなかったからだ。監督であれは、チームを勝利に導くのが役目だが、この監督は自分の承認欲求が満たされることが一番大事なので、自分の指示に逆らって、2塁打を打って皆に注目されてチヤホヤされた星野くんが許せなかったのである。こんなのが道徳の教科書に載るというのは、もはや教師の承認欲求に基づくハラスメント行為は国家公認という訳だ。まあ国が、レジ袋の廃止やプラスチックスプーンの有料化等を通して公然と国民にハラスメント行為を行っているのだから、別に不思議ではないが。

 

 またそんな教師や上司のいうことをハイハイ聞いてバカになっていく生徒や部下も沢山いる。彼等は「教師・上司の命令の履行」を仕事や勉強だと思っており、それを実行することが正義であり道徳であり、それを信じて疑うことはない。彼等はテレビを好み、テレビのニュースキャスターやコメンテーターが喋る言葉を神の言葉のように崇めており、それを反芻して喋ることを教養だと思っている。故に、仕事や勉強というものをしたことがないのである。自分で何かにじっくり考えて取り組んだり、物事や世の中を深く考察することもない。その結果が円の実力の50年前までの水準の後退であり、うまい棒の値上げであったりする。

 

 彼等の多くはテレビやツイッターから生き方の指標を学ぶので、留まるところを知らない贅沢と強欲に支配されて狂ってしまっている。彼等のいう「普通」は常に贅沢を意味する。教師は自分が有名俳優のように扱われるのが「普通」だと思うし、上司は政治家の偉い先生のように崇められるのが「普通」だと思っている。主婦は仕事もしないで職場にぶら下がって高い給料を貰い、高級グルメや海外旅行に身をやつして子供に無駄な習い事をさせることを「普通」だと思っている。狂った人間が人の上に立っているのだから、当然のように社会も狂っていく。トナラーはそこかしこに溢れかえり、どんな無能でも必至になって他人にマウントをとるようになり、ツイッターでイキり散らかすみっともない大人が溢れ、誰も真面目な人間がいなくなり、真面目であれば仕事を押し付けられたり教師の恫喝の吐け口にされたり自殺に追い込まれたりと徹底的に搾取される。優しい人は舐められ、人を自殺に追い込んだりパワハラ三昧の人間が妻から「本当は優しい人」と聖人のように持ち上げられる。

 

 聖書では、「悪を善のように話し、善を悪のように話すことは許されない」と言われている。僕の会社のパワハラ上司は、パワハラするのを「ケジメ」と大変勇ましく言う人間だった。陰湿な行為を善だと本気で思っているようだった。教師は、クラスのいじめに加担する時必ず、「被害者にも問題がある」という言葉を使う。「僕は怖くない」と格好つけていじめ被害者の家族にいった教師もいたが、彼等が「勇敢」になるのはこんな時だけなのである。

 

 要するに、会社とか学校とかいうのは、そういう場だということだ。スラム街ばりにルール無用で、人間としての尊厳とか道徳とかいうものとはおよそ無縁の嘘吐きと恥知らずの世界であり、徳は徹底的に踏み躙られ、最低の連中が、最高に道徳的な人間として崇められる。

 

 が、古代ローマの哲学者セネカの言葉に、素晴らしいものがある。それは、「悪事を行ったことに対する最も深い罰は、それを行ったことそのものの中にある」というものだ。これはとても深い言葉である。巷のスピリチュアルでよく言われるような、カルマが巡り巡って返ってくるとか、死後に自分が他人にしたことを今度はされる形で全て味わうことになるとか(それはそれで事実なのだが)、そんなみみっちいセコい慰めではない。悪事を行うほど未熟なのが不幸という意味でもない。恐らく、自分のしていることや言っていること、自分の考えを自分で把握できていない人間は不幸だという意味だろうか。たしかに、「ケジメ」とかいう男らしい言葉を使いながら、相手を選んでコソコソと陰湿なパワハラを行ったり、或いは見て見ぬフリをするような人間は、言葉の意味を正しく把握できていないか、自分で自分の言ってることややっていることが分かっていないという意味では、恐ろしく不幸である。それは言葉の意味が分からないのに喋れる赤子と同じである。環境大臣もその類の人間だったのだろう。自分で自分が発してる言葉の意味を理解できていないし、その罪深さや責任の重大さも未だに分からないらしい。

 

 会社や学校には、そんな哀れな人間が溢れていて、彼等から悪影響を受けないのはどれだけ心を鍛えた人間にも至難の業で、伝染病が移るように、心の歪みというのは人から人へと渡り歩いていく。だが、結局人は自分で自分の発言や行いに責任を持つ存在であり、時の幸運によりたまたま出鱈目な言動が許されたとしても、既に理性が破壊されていることそのものはどうしようもないし、それは本人が自分の努力で直していくしかないのである。セネカは言った。知恵というものは、自ずから得られるものではく、努力により勝ち取らねばならないものだと。バカになるのは、自然に誰でもなれるが、理性ある人間となるには、自分で自分を律しないといけない。そのための第一歩はまずは、自分で自分の言葉や行動を把握することである。それには、何が善で何が悪なのかを、見極めないといけない。善と悪を見極める力を、セネカは勇気だと言った。勇気とは、こういうことのために使うのだと、賢者はのべている。

 

「哲学が要求するのはこういうことですーー各人は自己の方式に則って生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、更に、内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです」

 

ーーセネカ「道徳書簡集」第20(教えの実践について)ーー

 

円の価値が下がったのは、単純に日本人が仕事をしなかったから

  円の国際為替レートでの実力が50年前のそれと同じ水準になっているらしい。2010年と比べると、半分ほどになってるそうだ。別に驚くことではない。僕の会社だけ見ていても、おっさんは仕事をせずに若い女子社員の物色ばかりしてるし、珍しく大声を上げることがあるかと思えば、大人しいが真面目に仕事してる社員を恫喝している。社会進出した女性は仕事中にわざわざわ立ち止まって手を止めて悪口陰口噂話をし、デスクでは旦那と子供の愚痴を言いながらお菓子を頬張る。社長や役員には専門知識も経験も信念もロクにないおっさん達が居座り、社会の噂話を逐一チェックして、どの女子社員が誰と付き合ってるとか、あいつが飲み会でやらかしたとか、誰がモテるとか、そんな下らないゴシップを楽しみに毎日出社している様だ。長々と書いたが、要するに誰も仕事をしていないのである。

 

 政府や大企業を見ても、仕事の大事な所は外注で、自分達では難しいことを何もしない。むしろ、パワポ職人こそが日本における最高の地位の証であるとでも言わんばかりの仕事ぶりである。中抜きや中間搾取をすれば当然人材は育たないし、自分自身仕事に関する知識や経験が身に付かなくなる。だから小泉進次郎みたいなお花畑政治家が量産されるし、トンガの噴火で火山灰が懸念される時に都知事ソーラーパネルの設置を義務付けようとする。みんな誰も彼もが社会や職場で自分のブログに書き込むような感覚で、思いついたことを好き放題言って他人を振り回す。振り回すときにどれだけゴネられるかということが、「コミュニケーション能力」の指標である。企業は仕事ができる人間ではなく、コミュニケーション能力が高い人間を欲しがるから、まともな人材が育たない。下請け会社に対していかに効率的にヤクザまがいの恫喝ができるかが、社会人として重要になる。

 

 さて、話を外国人技能実習制度に移す。円の価値がこれだけ下がっているのに、外国人技能実習生に対する虐待や暴力がやむ様子はない。1000歩譲って、日本の国力が他国に比べてずば抜けて高いなら、許されたかも知れないが、もはや新興国くらいの経済的実力で、東南アジアの人達にみっともなくマウントを取るのはどうかと思う。20年後には立場が逆転し、日本からベトナムやタイなどに出稼ぎに行く人が量産されるかも知れない。その時に虐待や暴力に遭っても、日本人は一切文句を言えない。「日本沈没」というクソドラマで、日本人が世界中に移民するというシーンがあったが、外国人技能実習生にこれだけ横柄に振る舞っておきながら、自分達が世界で受け入れられると思うのはどうかしている。移民した先でいじめられるなどの描写があればリアリティがあったのに、何故か暖かく迎えられるという謎脚本だった。

 

 別に、円の価値が下がっても、贅沢をしなければ充分に生きていける。牛を肥え太らせてサシを入れるための濃厚飼料を、高いお金を払って外国から輸入せずとも、赤身の肉で充分にタンパク質は摂れるし、体にもいい。一皿で何千円もする料理の値段を当てるという下品なテレビ番組があるが、何千円もあればたとえコンビニで買っても、腹一杯美味しい食べ物が沢山食べられる。贅沢は自然に背いた。これはセネカの言葉だ。また、勤勉であるならその反動としてのある種の贅沢が許されたかも知らない。が、今の日本人は全く勤勉でないのにあまりに贅沢だ。僕の職場ではよく、仕事もしない低学歴のおばさんが、高級グルメや海外旅行の話をしている。フォアグラがどうとか、ドイツがどうとか楽しそうだ。だが、そういった楽しみというのは、仕事や勉強を一生懸命やったり、他人のために何かを頑張ってやった後に、ほんの少しの自分へのご褒美として許されるようなものだ。金云々は置いておいても。そんなものを、何の苦労もなく求める人間が、そこら中に溢れている。全く仕事をしないのに、自分が聖人のような扱いをされないとヒステリーを起こす教師や上司が溢れている。神に祈ることもないのに、自分が神のように崇められることがないと、赤子のように泣き喚く大人で溢れかえるようになった。

 

 それでも、一度贅沢の味を覚えたら、人はそう簡単に前の状態に戻ることはできない。そうして引き返せないところまでいくのも、そうした傲慢に対する一つの罰として、神は配慮して下さってるのだ。

 

パワハラを見て見ぬフリする管理職の好きな言葉は「ケジメ」

 

 「ケジメ」という言葉が好きな管理職がいた。つい最近、その管理職の人の担当部署でパワハラが起きて、退職者が出た。管理職のそのオッサンは見て見ぬフリを決め込み、加害者は何のお咎めもなし。退職したのはパワハラ被害を受けた側の女性だったが、知識も経験もあり気が利いて優しく、辞めたことが非常に惜しまれる人だった。この管理職からは僕は以前パワハラを受けていたが、その時にやたらと「ケジメ」という言葉を多用している人物だった。パワハラの一環で僕は別の部署に飛ばされたが、100歩譲ってその「ケジメ」なるものが僕に欠けていたから僕がパワハラに遭ったのだろうかと思う日もあったが、その女性が退職したと聞いて、成る程大した「ケジメ」だと思ったものだ。弱い物いじめをする時に勇ましくネチネチ詰めたり、優しく優秀な女性に対するパワハラを見て見ぬフリをすることが「ケジメ」らしい。大変男らしい管理職で、尊敬に値する。

 

 この管理職も無能の例にもれず、パワーポイントを使った資料作成が大好きだった。同じ部署内での打ち合わせのために丹念にパワーポイントの資料を作成し、無駄などうでもいいことを長々とまくし立てる。「ケジメ」のある男らしい態度にふさわしい、毅然としたプレゼンである。

 

 他にもパワーポイント好きのおっさん達は共通して「それらしい」美辞麗句を好んで使いたがる。「コンプライアンス」「迅速に」「徹底して」とか何とか…コロナ対策にも「徹底して」という言葉をやたら使いたがる政治家が沢山いたが、具体的に何をどうしろと言ってる るのかさっぱり分からない。消毒を徹底しろとか、マスクを徹底しろとかなんとかかっこつけて言うが、普通に「何回消毒して下さい」とか「常にマスクをつけて下さい」でいいんじゃないだろうか。「徹底して」とかいう言葉を発することで、何か仕事したようなかっこよくなったような気分になっているのだろうか。当たり前だが、指示に「テッテイシテ」と接頭語をつけたところで会社の売り上げは伸びないし、部下のモチベーションも上がらない。むしろ言わなくてもいいどうでもいいことを言っていることで部下からはウザがられ、信頼を失うだろう。徹底して下らないパワーポイントを使ったプレゼンを行う一貫性のない連中が、他人には「徹底」を要求するのだから片腹痛い。パワハラを見て見ぬフリをするパワハラの加害者が「ケジメ」を語るのと同じくらい滑稽である。バッハ会長がスピーチの中でやたらと「連帯」を強調したのと同じである。冗長でどうでもいい演説をする人間というのは、同じようにどうでもいい言葉を好む。次はなんだろう。「絆」だろうか。「東京アラート」だろうか。「勝負の3週間」だろうか。中身のない言葉でも、言ってる本人達は気分がよくなるものらしい。ごちゃごちゃして見にくいパワーポイントのスライドでも、発言者は嬉しそうに話しているのと同じようなものだ。日本国民や世界の人や五輪の選手をあれだけ侮辱しながら「連帯」を語ったバッハ会長と同じように、あらゆるハラスメント行為を自ら行い他人のそれも見て見ぬフリをした「ケジメ」が大好きな管理職も、自分に酔っているのだろう。他の人だが会社のパワハラ好きの人間は、「結果が全て」と言っていた。何も結果を出してないおっさんだが、他人にパワハラをする時はやたらこうした勇ましい言葉を使いたがる。小泉進次郎レジ袋無能大臣も、「間違いなく社会改革は起きた」という勇ましい言葉を発していた。あんなに頭の悪い人間でも大臣として沢山の給料を貰って好きなように振る舞えるということを証明したという意味では、確かに社会改革は起きたと言えよう。

 

「ケジメ」「絆」「連帯」「社会改革」「東京アラート」「勝負の3週間」

 

 どれも、基本的に僕が使うことはないし、僕が読む本の中にもまず出てこないような言葉である。一昔前のお仕事ドラマとかには出てくるかも知れないが、お仕事ドラマが語彙力の源泉である人間が政治家や上司になるのは、世も末だろう。まあ現実にそうなっているのだから、文句を言っても仕方ないが。これらの「それっぽいが中身のまるでない美辞麗句」を多用したがる人がいたら要注意である。その人は普段頭を何も使ってないし、発言に一切の一貫性がない無責任な人間である。中身のない言葉を使えば、責任を問われずに済むからね。それでいて、何か立派なことを言ったような気分には浸れるから一石二鳥である。上司や先輩を選べるなら、関わる人間は「自分の言葉で話す」人に限る。自分の言葉で話す人は、自分で自分に責任を持っているからそうできるのである。借りてきたような言葉で話す人は、あらゆる責任も借りてきたもののように平気で手放す。話し方に、生き方が現れている。上記のような単語を好んで使う人は、自分の人生を生きていない。死んでいるのと同じである。死んでいるから、死んだ言葉しか話せない。「絆」とか「連帯」とか「ケジメ」なんて言葉は、よほど注意深く用いない限りは死んだ言葉なのである。それを平気で多用できるような人間は、同じく死んだ人間で、欲に抗えないゾンビなのである。

 

 

無能御用達のソフトのパワーポイントと思考の一貫性について

 

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 僕は読書が好きだが、それは本というものは思想や理念や作者の意見や物事についての知識・見解が一冊の本として長い文章ながら体系的にまとまっていて読んでいて気持ちがいいからだ。特に詩的に書かれた思想書や自然科学の本は、美しい文章の繋がりが奏でる旋律に癒され、人生における喜びを感じるのだ。文章は流れるように繋がり、滑らかなストーリーを描く。一つの段落で一つの音楽作品のようであり、絵画のようであり、建築物のようだ。論理的に整った文章というのには、幾何学模様にも似た美しさがある。沢山の本に触れて沢山の語彙力や文章の流れを身につけると、自分のブログにおける表現力も広がったように感じる。だから、長文のブログというのはそれだけで一つの芸術作品であり、自己実現欲を満たしてくれる。思考に一貫性を持たせ、統一した理念が文章全体を貫いていれば、思想もまた引き締まる。文章にはそれだけの力があるし、文字だけで自分を表現するのはパズルみたいで面白い。長文化するほどにそれは増していく。

 

 文章のもつ、それら全てのいいところを台無しにするのが、パワーポイントのスライドである。四角で囲った単語、箇条書きに羅列される言葉、謎の矢印、フローチャート、なんとか図、突然の無意味なアニメーション、統一感のないフォント、などなど…ひたすらごちゃごちゃしていていて見辛く、中身云々以前に書き物としての統一感が全くない。頭の悪い中学生が作ったまとめノートみたいな感じで、作った本人以外は誰も理解できないだろう。発表者が四角で囲った「単語」を発音すれば、聞き手は何か理解した気分になるかもしれない。しかし、単語を四角で囲って発音しても、文章の中にないと、その単語がどういう目的をもってどういうストーリーの中で、どういう意図をもって使われているのか分からない。ただ四角で囲ってスライドの中に配置させて、適当に矢印で他の単語と結びつけたり、箇条書きで羅列させて情報をブツ切りにして発信するだけでは、何の役にも立たない。そこは発表者が言葉で説明しますというなら、その言葉を文章にして事前にWordで作成して配布しておくなりなんなりするべきだ。なんならそのWordだけで充分である。視聴覚室でアニメ映画を観るのをウキウキに楽しみにしている小学生のような気持ちで会社に来てるおっさんのためにわざわざ、パワーポイントでお絵描きして紙芝居をする必要はないのである。小学生ですら、紙芝居は卒業して自分で本を読むことができる。大人になったら紙芝居が恋しくなるのだろうか。アホ面で会議に参加してパワーポイントに散文的に羅列されたごちゃごちゃした「単語」を見てキャッキャとはしゃぐような大人が日本経済の中心にいるのである。その成長力は言わずと知れたところだ。

 

 パワーポイントはWordなどの文章と比べて、表現に「一貫性」がない。あるスライドでは箇条書きにした一文で、あるスライドでは図だけて、あるスライドではやたら長い文章で、あるスライドでは四角とか三角の中に単語を入れて、それを矢印で巧みに組み合わせて…なんてことを一生懸命やっているが、このように一貫性のない表現手法が好んで使用されるのは、話し手も聞き手も思考に一貫性がないからなのである。思考に一貫性がない人は、人間性にも一貫性がない。人間性に一貫性がない人は、責任逃れを平気でする。昨日言ったことを忘れ、意見をころころ変え、掌を返すことを恥だとも思わない。いなむしろ、彼等にしてみれば、その場の思いつきの感想をダラダラとペラペラと話すだけで、一貫性を持って意見を述べることを何か恥ずべきことのように思っているのだろう。そんな人間にとって、パワーポイントのスライドのように、デタラメで散文的な資料が発言の材料だと大変都合がいいのかも知れない。長い文章だと理解するのは疲れるし、読む場合もそこから何かを汲み取って意見を発する場合も一貫性を要求される。それがパワーポイントであったなら、目の前の一枚のスライドの四角で囲った単語をアホ面しながら眺めているだけでも仕事をした気分になれる。その単語に関連して適当に思いついたことを後で発表者にまくしたてれば、自分は本質を見抜く優れた知見を持つ人間だという自己満足に浸ることもできるし、そんなバカな人間を見て積極的に意見を述べていると感心するバカなおっさんも沢山いる。

 

 「パワーポイントでも一貫性のある表現ができる」という人もいるかも知れないが、それならブログもパワーポイントで書けばいい。一部の図を書くのにパワーポイントを使う人はいるかも知れないが、パワーポイントをブログに載せて売れたブロガーがいたら、ツチノコ並みの発見だと思っていい。謝罪の文章が、Wordで作成したものではなくパワーポイントだったらどう思うだろう?研究ノートはパワーポイントにできるか?人の心を打つ文章がパワーポイントで書けるか?伝説になるような演説にスライドがいるか?調べ物をしてるときにこれだと思ってネットでようやく探りあてた資料がPDFではなくパワーポイントで作られていたらどんな気分になる?

 

 つまりパワーポイントは意見に一貫性を持たない無責任な無能に好まれるアホ面量産ツールであり、思考力を低下させ、人を痴呆に近づけ、無責任の増長という形でハラスメントを横行させ、社内の意思決定力を弱める。だいたい、大事な議論が必要なことをパワーポイントのようなぐちゃぐちゃな資料をもとにして会議をするなんてどういうつもりなのだろう。多分、まともに考えるつもりはないだろうし、仕事を他人事だと思っているのだろう。政治家がドヤ顔でパワーポイントで作られた分かりにくい資料でよくプレゼンをしているが、国民の生活など彼等にとっては他人事なので、好んでパワーポイントを用いるのだろう。

 

 パワーポイントは一貫性のない思考と、無責任の象徴であり、これを使い続けるような人間にも会社にも将来性は皆無だと言っていいだろう。儲けるのは使い勝手の悪いソフトをひたすら量産するMicrosoftだけであり、こうした形でも人は搾取されていくのである。

 

 

 

 

 

会議は仕事じゃない

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 個人的には、「打ち合わせ」なるものも仕事ではなく、若い女子社員が参加すればそれはおっさんにとってはただの合コンだ。しかも金を貰って参加できる合コンだ。会議も同じで、みんなモテたいが故に適当な思いつきを垂れ流してるだけで、小学校であった「帰りの会」みたいなものだ。何も解決しない割に、ダラダラと続く。

 

 会議好きは承認欲求が強い。自分に発言のターンが回ってきたと思うと、凝ったパワーポイントの見にくいスライドをドヤ顔で披露して、強い口調で何やら難しそうなことをまくしたてる。パワーポイントの分かりにくい図とかチャートとかを見てて思ったが、これって学校授業のわかりにくい「板書」に似ている。矢印とか四角で囲うとか○とか△とか表とか下線を多用するけど、後でノートを見直しても散文的に用語や図形が散りばめられているだけで、何がなんだかさっぱり分からない。結局自分で、教科書や参考書を見直すハメになる。だから僕は、大学受験では板書のノートが役に立ったことは一度もなかった。全て教科書や参考書を自分なりにまとめたものを勉強には使っていたし、教師の板書というのは頭の悪い人間の適当な思いつきにすぎないので、役に立つ訳がないのだ。

 

 会議の長々とした演説とパワーポイントのスライドも同じで、色々と凝った作りをしてることが多い割に情報がまとまっておらずバラバラで分かりにくく、力を入れる所がおかしい。ワードかエクセルで資料を作って印刷してそれを配布して、配布物を皆に見てもらいながら、声だけで説明をするべきである。実際、ゴチャゴチャして見辛い、何の記憶にも残らないパワーポイントなんて、作るのも見るのも時間の無駄だし、電気代の無駄だし、パソコンの容量の無駄だし、人生の無駄である。学校の先生の板書をノートに書き写してる時間が人生の無駄であるだけでなくそんなことをしてると頭が悪くなるのと同じで、パワーポイントを使ったダラダラした会議は時間の無駄であり会社に甚大な損害をもたらし、もともと低いおっさん達のIQは更に低下し、若手社員のモチベーションの大幅な低下を招く。

 

 にもか関わらず日本の会社の偉い人達は会議が大好きだ。いじめを放置するか加担するような教師が分かりにくい板書やダラダラと思いつきを喋る授業が大好きなのと同じだ。東京オリンピックの開会式でバッハ会長がダラダラと13分も垂れ流しスピーチをしていたのと同じである。彼等は、発言の機会を利用して、自分をチヤホヤして欲しいと思っている。会議の後には、授業の後には、スピーチの後には、可愛い女子社員や女子生徒が「課長!素晴らしい演説でした!是非抱いて下さい!」と言ってくれるのをひたすら待ち望んで妄想し、その妄想から生まれるエネルギーを原動力に、ダラダラと長い会議や演説を続けるのである。単純接触効果を利用したいのか、時間は長ければ長いほどいいと思っているらしい。実際、お笑い芸人気取りのバカな予備校講師がいるように、会議が好きなおっさんは、何の実績がなくとも自分がジョブズキング牧師にも劣らない素晴らしい演説家だと思いこんでいる。自分の言葉を持たず、自分で考えて発言することもなく、ただ思いつきを長時間垂れ流すだけで、である。

 

 この手の輩は建設的な意見やよく考えられた意見を嫌う。何故なら、自分が何も考えていないことが露呈し、自分の立場が危うくなり、承認欲求を満たせる可能性が著しく下がるからだ。だから、建設的な意見に対して、とにかく何が何でもケチをつける。それはデータ的にどうなのかとか、責任はどうなのかとか、研究者でも何でもない癖に、やたらと研究者ぶった発言をして悦に浸る。会社の利益よりも自分の承認欲求を満たすことが最優先なので、それを潰してでも自分が偉そうにすることができるように話を持っていくことを好む。

 

 会社の新製品をどうやって売っていくかということを話し合う場で、新製品が本当にいいものかどうかケチをつけるおっさんがいた。また、製品に関するデータに再現性があるのかどうかと、しつこく聞いてくる。しかし、そんな話し合いは、もっと前に行うべきで、もっと前にはおっさん達はアホ面をしながら会議で寝ているのである。要するに、当事者意識がなく、他人事だということだ。他人事だから、思いつきで好きなようにケチをつけられるし、普段からこまめに確認することもない(報連相をしない)。製品に関する専門知識も経験もないし、資料を渡しても最初の1ページすら読まない。そんなおっさんが、会議にはウキウキと参加して、足りない頭でもなんとかギリギリ理解できるかも知れないパワーポイントの小学生に向けたような単語を四角で囲ったり矢印で結びつけたりしたスライドを見て下らない「感想」を思いつき、それを偉そうに言って下らない手間を押し付けたりひたすら相手を否定することで悦に浸る。発表者が聞きたいのは「意見」であって「感想」ではない。「感想」はブログに書くべきものだ。大人なら公の場では「意見」を述べないといけない。だが、当然だが、仕事嫌いで信念もないおっさんに「意見」なんかあるはずもない。あるのは、頭も実力もないのに過大に膨れ上がった自己顕示欲と承認欲求、そして若い女子社員に対する性欲である。英雄でもなんでもないおっさんが色を好むというのは、なんとも見苦しいものだ。

 

働かない癖に仕事が生きがいの日本人

 

 日本の労働生産性が低い理由は、ダラダラ働いてるか或いは全く働いてない人が多いからだ。経済を支えているのは一部の真面目に働く人達やエッセンシャルワーカーや法外に低い賃金で働く外国人技能実習生達で、多くの企業は働かないおっさんやどうでもいい仕事しかしないぶら下がりワーママやおしゃべりを楽しみに職場に来るババアで溢れていて、彼等働かないで高い給料を貰う人達は、一生懸命働く人達を見下し、侮蔑する。そしてそんな働かない人達ほど、やたらと「仕事が生きがい」とか「仕事を通して人は一人前になる」とか寝言を言う。漫画家とか芸術家ならギリギリわからないでもないが、たかが一般の企業でパワーポイントでお絵描きしたりマニュアルに沿った社内事務をしたり書類にハンコを押したりするような仕事が大半なのに、「生きがい」を語るとは片腹痛い。多分、そんなどうでもいい仕事でも威張り散らしたり他人を見下したりできるような人にとっては、楽に承認欲求を満たせる手段だから「生きがい」になるんだろう。生きがいにしたいなら、学問とか芸術とかそういったことにしたほうがいい。たかが雇われの仕事で生きがいを語るのは、生命というものに対する甚だしい冒涜だ。そもそも、僕からすれば、仕事が生きがいだという奴は、真面目に仕事をしていない証拠だ。仕事は真面目に取り組めば取り組むほど、ただの我慢大会のようなしょうもないものだと分かる。逆に、いい加減で夢見る適当な気持ちで取り組んでいると、何か自分の妄想を満たしてくれるような幻覚にとらわれ、生きがいを感じるようになる。会社がキャバクラのおっさんにとっては、どうでもいい仕事をしてアピールすることが「生きがい」になる。だが、当然だが会社はキャバクラではない。女性への虚栄心のために働くよりもまず、顧客への虚栄心を大切にして欲しいものだ。だが、僕の会社で「仕事熱心」とされる人は、顧客のためにいろいろしたりする人ではなく、無駄に朝早く出社して意味のない仕事をしたり、無駄に残業して残業代を荒稼ぎしてる人達だ。残業時間には駄弁って若い人の悪口を言ってゲラゲラ笑ったり、噂話に花を咲かせているような連中だ。要するに、「仕事が生きがい」と嘯く連中は、そうした性根をしているということだ。一生懸命働く人が軽蔑され辛い思いをするのが日本の職場だ。彼等のような真面目な人達にとって仕事は常に負担であり生きがいには決してならない。ロクに仕事をしないか、どうでもいい仕事をして遊んでるような連中にとってしか、仕事は生き甲斐にならない。仕事が生き甲斐という人が身近にいたら、注意した方がいい。その人は、本当に大切な仕事はせずに、周りに負担の多い仕事を押し付けて、自分は責任の軽いどうでもいい仕事ばかりやるか或いは仕事してるフリをするかで、マトモな人間ではない。「勉強が生き甲斐です」なんていう学生がまともに勉強してると思うだろうか?「勉強しんどい」「マジでだるい」と真面目に勉強してる中高生は必ず言うのである。仕事もそれと同じで、「仕事辛い」「会社に行きたくない」という人こそが、一生懸命真面目に働いてる人達なのである。そんな人達に、今の日本はギリギリ支えられているのだ。