徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡120 さらに美徳について

 1. 君の手紙はいくつかの小さな問題の中を歩き回って、最終的には次の問題についてだけ説明するよう求めました。すなわち、「何が善であり、何が立派なことであるかという理解を、われわれはどのようにして得るのでしょうか?」他の学派*1の見解では、この両者は全く異なるものです。しかし、われわれ〔ストア派〕の学派においては、ただ別様に呼ばれているだけです。2. 僕が言っているのは次のような意味です。つまり、或る人たちは有用なものを善と考え、富や馬や酒や靴にこの名称を授けます。彼らは善をこれほどまでにつまらぬものと見做し、これほどまでに低劣な用途に引き下げるのです。そして彼らは、立派なこととは正しい行為の原則に忠実であることだと考えます。すなわち、年老いた父親を孝行に尽くすこと、貧しい友人を援助すること、遠征において勇敢さを示すこと、賢明で節度ある意見を述べることなどです。3. われわれは、善と立派なことを二つのものだと見做しますが、それらは一つのものから成り立っていると考えます。立派なものだけが、善であることができます。また、立派なものは、必ず善です。この両者の違いについて、これまで僕は何度も言及してきたので*2、ここで改めて説明する必要はないと思います。しかし、次の一つは付け加えておきましょう。われわれは、人が悪用できるものは、何も善だとは考えません。そしてご覧のように、いかに多くの人たちが、富や高位や権力を悪用していることでしょう。

 君が説明を求めている問題に戻りましょう。「何が善であり、何が立派なことであるかという理解を、われわれはどのようにして得るのでしょうか?」4. 自然はわれわれに、これを直接教えることはできませんでした。われわれに知識の種子は与えましたが、知識それ自体は与えませんでした*3。ある人たちは、この〔善や立派なことについての〕知識に、偶然出会ったのだと言います。しかし、美徳の観念が偶然誰かの頭に浮かぶなどと、信じる訳にはいきません。われわれはそれは、観察に基づく推論や、しばしば生じた出来事の相互比較の結果得られたと見做します。われわれの学派は、類推アナロギアによって立派なものや善についての理解が得られたと考えます。この「類推」という言葉は、すでにラテン語の文法学者たちから市民権を認められているので、非難すべきだとは僕は思いません。むしろその市民権を強く主張して然るべきです。ですから僕はこの言葉を、単に承認されたものとしてではなく、慣用のものとして用いることにします。

 では、この「類推」についてご説明しましょう。5. われわれは肉体における健康とは何かを知っています。このことから、何か精神における健康もあると考えます。またわれわれは、肉体における強さを知っていることから、何か精神における強さもあると考えます。親切な行い、道徳的な行い、勇敢な行いに、しばしばわれわれは驚嘆します。ここからわれわれは、それらを完全なものとして賞賛し始めました。しかしそれらの下には、際立った行為の見てくれや輝きに隠された多くの悪徳があったのですが、これらに対しわれわれは目をつぶってきました。自然はわれわれに、賞賛に値するものは過大に賞賛するよう命じたので、誰もが事実以上に、立派な行いを賞賛しました*4。このようにしてわれわれは、或る偉大な善についての観念を獲得したのです。6. ファブリキウス*5はピュロス王の黄金を退けました。王の富を軽蔑できることは、王権よりも偉大だと彼は考えたのです。ファブリキウスはまた、ピュロス王の侍医が主君に毒を盛ることを約束した時、王に対し謀殺に注意するよう警告しました。同じ一人の人物の魂が、黄金で征服されることも、毒で征服することも拒否したのです。そこでわれわれは、王の約束にも王に背く約束にも動じることなく、崇高な精神を堅持した英雄を賞賛するのです。これ以上に困難なことがありましょうか?彼は戦時にあっても正々堂々を貫き、敵に対してさえ何か許されざる悪行*6があると考え、彼を崇高たらしめたその極度の貧困の中にあって、富も毒も、同じように退けたのです。彼は言いました。「生きるがよい、ピュロスよ。私のお陰で。そしてファブリキウスを買収できなかったことをこれまでのように悲しむのではなく、喜ぶがよい*7!」

 7. ホラティウス・コレクス*8は単身であの橋のへの隘路を塞ぎ、敵の進路を遮断するために、自分の退路は断つよう後方の〔橋の向こうの〕味方に命じました。そこから彼は、巨大な橋が崩れ、轟音を立てて水中に落ちるのを聞き届けるまで、長時間にわたって敵の猛攻を凌いだのです。彼は背後を振り返り、自らの危機によって祖国が危機を免れたことを確認してから、次のように叫びました。「わたしを追撃したいなら、来るがよい!」そう言って彼は真っ逆様に河に飛び込み、その急流の中にあって、無傷で出てくることと同じくらい、武装したまま出てくることに注意を払いました。彼はまるで橋を渡ってきたかのように、勝利の栄光の武具もそのままに、無事に戻ったのです。

 8. これらの行いや、これらと同様の行いが、われわれに美徳の観念を示してくれます。ここで僕は、君を驚かせるであろうことを付け加えておきましょう。それは、邪悪なものがしばしば立派なものの外見を呈し、最善のものの輝きが、その正反対のものから発せられることがあるということです*9。なぜなら、君もご存知の通り、美徳に隣接して悪徳があり、堕落したものや恥ずべきものにすら、正しいものに似たところがあるからです。それゆえ浪費家が偽って、気前のよい人のふりをするのですが、人が与えることを知っていることと、蓄えることを知らないことの間には、大きな違いがあります。申しますが、ルキリウス君、与えるのではなく放り投げる人が、沢山いるのです。そして僕は、自分のお金に節度が持てない人を、気前がよい人とは呼びません。無関心は気安さに似ていますし、無謀は勇敢に似ています。9. このような類似性があるがゆえに、われわれは注意深く観察して、外見上は似通っているものの実際には大きく異なるものを区別する必要がでてきます。そして、偉大な功績の結果として名声を得た人物を観察する時、われわれは、何か或る行為を高貴な精神と崇高な動機で行ったものの、それがたった一度に過ぎなかったことをも見出します。われわれは、戦争においては勇敢でも、内政においては臆病であり、貧乏に対しては屈強でも、悪評に対しては卑屈な人物を目にします。われわれは彼の行為を賞賛しても、その人物は軽蔑します。10. しかしわれわれは、ある別の人物をも目にします。友人に対して親切であり、敵に対しても穏健で、公的な義務も私的な義務も誠実に勤勉に遂行し、耐えねばならない時には忍耐力を、何かを為さねばならないときには賢慮を失わない人物を。われわれは彼が、与えるべき時には惜しみなく与え、苦労すべき時には粘り強く働き、肉体の疲労を精神の力で軽くするのを目にします。その上、彼は常に同じ人物であり、すべての行動に一貫性を持っています。健全な判断力のみならず、習慣によってもそう行うのです。彼は正しく行動できるのみならず、正しく行動せずにはいられないのです。われわれはこうした人物の中に、完全な美徳の概念を見出すのです。

 11. われわれはこの完璧な美徳を、いくつかの部分に分けました。欲望は抑えられ、恐怖は鎮められ、適切な行いが計らわれ、負債は返還されねばなりませんでした。こうしてわれわれは、節制、勇気、賢慮、正義を包括し、その各々に相応しい権能を割り当てたのです。それではわれわれは、どのように美徳についての観念を得たのでしょうか?それは、先の人物の持つような秩序、礼節、恒心、全ての行動における完全な調和、他の全てに優れた偉大な魂により、われわれに示されました。ここから、完全に自らの制御下で流れる、あの幸福な人生についての観念に導かれたのです。12. それではどうすれば、こうした観念を目にできるのでしょう?お教えしましょう。完璧へと到達した人物は、決して自分の運命を呪ったり、偶然の不幸を悲嘆に暮れて受け取ることはありませんでした。彼は自分をこの宇宙の市民であり兵士であると信じて、自らの労苦を、自らに課せられた命令のごとく受け取りました。何が起ころうとも、彼はそれを悪いことだとか、自らに押し寄せる災難だとか思って拒絶することなどせず、自分の義務だと思って受け取りました。「それが何であろうと、」彼は言います。「私の運命だ。苦しく辛いことだが、それゆえ一層、私は真摯に取り組もう。」

 13. ですから彼が偉大な人物として示されるのも当然のことです。不運にあっても決して嘆くことなく、自分の運命にも不平を述べなかったのですから。彼は多くの人々に自らその模範を示した観念を与え、暗闇の中の光のように輝くことで、あらゆる人々の心を自らに向けたのです。というのも彼は優しく穏やかで、神々にも人間にも、等しく公正な態度を取っていましたから。14. 彼は完全な魂を持ち、その魂はそれ以上には神々しか存在しないほどの最高位にまで達していました。この神々の一部が、死すべき人間の心の中にも流れ込んでいます。しかしこの心は、自らの死すべき定めについて思い巡らし、人間は自らの人生を完成させるために生まれてきたこと、またこの肉体は永遠の住居ではなく、短期間滞在するだけの、言うなれば借り家であり、その主にとって厄介者になったと思った時には、立ち去らねばならない場所であることを知ることではじめて、最も神々に近しいものになるのです。15. 僕は申しましょう。愛するルキリウス君、魂がより高い世界から〔地上に〕やって来たことの最大の証は、自らの現在の状況*10を窮屈で低劣だと見做し、そこから出て行くことを恐れていないことです。なぜなら、自分かどこから来たかを覚えている者は、〔死後〕どこへ行くのかを知っているのですから。実際われわれは、いかに多くの不愉快に苛まれ、われわれ〔の魂〕はどれほど、この肉体と調和していないことでしょう?16. われわれはある時は頭痛を訴え、ある時は消化不良を訴え、またある時は心臓や喉の痛みを訴えます。ある時は神経が、ある時は両足がわれわれを苦しめ、今では下痢が、あるいは鼻風邪*11が苦しめています。また、われわれはある時は多血症に、ある時は貧血症になります。ここかしこでわれわれは苦しめられ、〔肉体から〕立ち去ることを命じられます。これはまさに、他人の家に居座っている人に起こることです。

 17. しかし、これほどまでに脆弱な肉体を与えられていながらなおわれわれは、永遠を夢想し、人間の寿命の限界まで希望を延ばして、どれほどの金銭にも、どれほどの権力にも満足することはありません。これほど恥知らずな、愚かしいことがあるでしょうか?われわれは人間は、いつかは死なねばならない、いえむしろ、毎日死につつある身でありながら、何ごとにも満足しないのです。われわれは日々最期へと近づいており、時の経過と共に、自分が身を投げねばならない断崖に押しやられているのに。18. ご覧になるとよいでしょう、われわれの精神がいかに盲目であるかを。僕が将来のこととして話していること〔死〕は、今この瞬間にも起こっており、しかもその大部分は既に起こった後なのです。なぜならわれわれの過去は、既に死に組み入れられているのですから。しかしわれわれの過ちは、最期の日だけを恐れることです。過ぎ去る一日一日が、その最後の日と同じくらい重要なものであるのに。われわれを力尽きさせるのは、最期の一歩ではありません。その一歩は力が尽きたことの知らせに過ぎません。最期の時が死を知らせますが、全ての時が、死に近づいているのです。死はわれわれを摘み取るのであって、掴み取るのではありません。

 ですから、偉大な魂は自らの善き性質を熟知して、自らに割り当てられた職務にあたって、誠実に勤勉に振る舞うことはもちろん、〔肉体のような〕周辺にあるものを何一つ自らの所有物を見做すことなく、あたかも先を急ぐ旅人のように、借り物として使用するのです。19. このような力強い人物を目にした時われわれは、類まれな精神の観念を、思い浮かべないでしょうか?とりわけその真の偉大さが、僕が述べたように、一貫性によって示された時には。真実のものは永続きしますが、偽りのものはそうではありません。ある人たちは交互に、ウァティーニウス*12のようになったり、カトーのようになったりします。彼らにとっては、ある時はクリウス*13も十分に厳格ではなく、ファブリキウスも十分に貧乏ではなく、トゥベロ*14も十分に倹約で、安物に満足してはいないのです。その一方で彼らは、ある時は富においてリキヌス*15に、宴会においてアピキウスに、放蕩においてマエケナス*16に張り合うのです。20. 悪しき精神の最大の証は不安定なことであり、美徳の模倣と悪徳への愛着の間を、絶え間なく往復していることです。

彼が手元に置いている奴隷は、ある時は二百人で、ある時は十人だった。

ある時彼は王族や金もちと張り合って、豪勢なことを言ったが、ある時は次のように言った、

「私には三脚の食卓と、清潔な貝殻の塩入れと、寒さを防ぐための、粗末な衣服だけがあればよい。」

この倹約な男に、何千万もの金を与えてみるとよい。

五日も経てば、彼は一文無しになるだろう*17

 21. 僕が述べたあのような人々は、まさしくこのホラティウス・フラックスが描く人物像のような連中です。彼らは決して同じであることはなく、自分自身とすら似ていません。人はそれほどまでに、正反対に彷徨い歩くのです。多くの人、と僕は言ったでしょうか?殆ど全ての人がそうです。誰もがその計画や誓願を、毎日毎日変えているのです。ある時は妻を、ある時は愛人を持つことを望みます。ある時は王権をふるうことを望み、ある時はこれ以上熱心な奴隷はいないくらいに働きます。ある時は人に疎まれるまで自分を誇示し、またある時は、本当に畏まっている人よりもさらに、いっそう卑屈に身を縮めます。またある時は金をばら撒き、ある時は強奪します。22. このようにして、愚かな精神が明示されます。つまり、ある時はこの姿で人前に現れ、ある時はあの姿で人前に現れます。そして、これは最も恥ずべき性質だと僕は思うのですが、自分自身とすら、同一ではないのです。知っておいて欲しいのですが、一人の人物だけの役割を演じるのは、偉大なことなのです。しかし賢者以外は誰も、同じ一人の役を演じません。われわれは頻繁に、別の役へと鞍替えします。われわれは時には真面目な倹約家を演じ、時には怠惰な浪費家を演じます。わわわれは絶え間なく自分の性格を変え、捨て去った性格とは正反対の性格を演じます。ですから君が自身に強いるべきことは、人生の最後の瞬間まで、君が最初に決意した性格を演じ通すことです。君が目指すべきは、その役を賞賛して貰うことですが、それが出来なくとも、せめてその役を認知してもらうことです。実際君が昨日見た人物のことを、次のように言うのも無理からぬことなのです。「この人は誰でしょう?」それほど大きく、われわれは変わっているのです!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 120 - Wikisource, the free online library

・解説

 善や美徳に対してのセネカの敬虔さがうかがえる書簡。後半の「人物の一貫性」についてはわれわれも耳が痛い。セネカ自身の独白でもあるし、本当に人間の本質をよく捉えている。

 

 

 

 

 

*1:ペリパトス派やアカデメイア

*2:書簡118.9以下参照

*3:書簡90.1~3も参照

*4:「事実以上に」という叙述は、あくまで善の「事実」ではなく「観念」を強調したかったからこそなのかも知れないが、一方で人間の本質を表しているようで面白い。言うなれば、「善そのもの」ではなく「善についてのイデア」を類推を通して培っていく中で、今日の人間の善や悪についての観念が獲得された、という意味だろう。

*5:前4~3世紀のローマの軍人ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス。ギリシャのエペイロスイの王ピュロスとの戦争において、ピュロスからの買収を拒絶した。監察官時代には元老院の贅沢を咎め、自身も贅沢を拒絶し、極貧に生きて死んだ。書簡98.13参照。

*6:毒殺

*7:自分は黄金にも毒にも買収されなかったからこそ王の命は助かった。だから自分を買収できなかったことを喜ぶとよい、という意味だろう。

*8:ローマの伝説的な英雄で、エトルリアの王ポルセンナ(書簡24.5,書簡66.51参照)がローマに攻め寄せた時に、ティベリス河にかかる橋の前で単身敵を食い止め、橋が落とされた後でティベリス河に飛び込み、泳いでローマに生還した。

*9:本当は最善のものではないのに。

*10:肉体の内にあること

*11:セネカの持病。書簡78参照。

*12:書簡98.13参照

*13:前3世紀のローマの軍人で、厳格な人物として知られた。

*14:書簡95.72参照

*15:書簡119.9参照。

*16:書簡19.9,書簡101.10,書簡114.4参照。

*17:ホラティウス「風刺詩」1.3.11~17