徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡集を全訳中)

セネカ 倫理書簡95 基本原理の有用性について

 1. 君は一つ前の手紙(書簡94)で僕が、別の機会に論じると言った内容を先送りすることなく説明するよう求めています。つまり、ギリシャ人が「勧告的」と呼びわれわれローマ人が「教訓的」と呼ぶ哲学のこの部門が、われわれに完全な英知を与えるのに十分か、ということです。僕がその説明を断っても、君が好意的に受け止めてくれることは分かっています。しかし、それゆえいっそう僕は君の要求に喜んで応じ、次の格言の通りにしましょう、「(手に入った後で)求めなければよかったと思うようなものを、今後はもう求めるな*1。」2. というのもわれわれは熱心に求めたものであっても、積極的に与えられるとなるとしばしば拒否するものですから。それは気まぐれや、軽率さゆえのものかも知れませんが、いずれにせよわれわれは、気前の良さによってそれを罰せねばなりません*2。われわれが欲しがっていると人から見られることを望んでいても、実は欲しがっていないものは沢山あります。語り手は時おり、非常に細かく書き込まれて枚数もびっしり詰まった膨大な研究書を演壇に持ち込み、その大部分を読み終わってから、「お望みなら、このあたりでやめましょうか。」と言います。すると、語り手が一刻も早く黙ることを望んでいる聴衆の口から、「続けて下さい!続けて下さい!」と叫び声が上がります。われわれはしばしば、あることを求めながら別のことを望み、神にすら真実を告げません。けれども、神はそんな願いは聞き入れないか、われわれを哀れみになるだけです。3. しかし、僕は哀れむことなく報復し、膨大な手紙を君に押し付けましょう。もし君の方で嫌々ながらそれを読むなら、「この重荷は私が自分で招いたものだ。」と言うと良いでしょう。君自身を、熱心に口説いてやっと娶った妻の尻に敷かれている男や、多大な汗を流して手に入れた富に悩まされている男や、あらゆる手段や苦労を費やして手に入れた名誉に苦しめられている男や、その他のあらゆる、自分自身に責のある不幸に苦しめられている人々と同類だと考えて下さい。

 4. しかし、そろそろ前置きはやめて、問題となっていることを検討していきましょう。人々は言います。「幸福な生は正しい行為から成り立つ。教訓は人を正しい行為に導く。ゆえに幸福な生には教訓だけで十分である。」しかし、教訓は必ずしもわれわれを正しい行為に導く訳ではありません。それは、意志に受容性がある場合に限ります。そして魂が誤った見解に捉えられている場合には、教えは時として無益に用いられます。5. さらに、人は自分が正しい行いをしていても、それが正しい行いだと知らないことがあります。なぜなら、人は誰しも、あらかじめ教えを受けて、理性を十分に身につけない限り、何をいつ、どの程度、誰と、どのように、なぜ行うべきかを理解することはできませんから。それらの訓練がなければ、人は立派なことを達成するために、誠心誠意努力することはできません。絶え間なく、喜んで努力することも叶わず、いつまでも後ろを振り返ったり、躓いたりすることになるでしょう。

 6. 人々はまた次のように言います。「もし立派な行いが教訓によってもたらされるなら、幸福な生には教訓のみで十分である。この一つ目が真実であるのなら、二つ目も真実なのだ。」これらの意見に対しわれわれは、立派な行いは教訓によってももたらされるが、教訓だけによってもたらされるのではない、と答えましょう。7. 「それでは」と反論がなされます。「もし他の諸技術は教えに満足するのであれば、英知(哲学)もそれに満足するだろう。なぜなら、英知それ自体が生の技術なのだから。船の舵手にしても、舵を操り、帆を張り、順風や逆風をうまく利用し、不安定な風を扱うといったことをしっかり教えられることで作られる。他の職人もまた、教えによって訓練を受ける。それゆえ、われわれの生の技術者の場合でも、教訓は同様の成果をもたらす。」8. さて、それらの諸技術は全て生に関係したものですが、生全体に関係している訳ではありません。したがって、希望や貪欲や恐怖といった多くの外部のものに、それらの諸技術は妨害されたりかき乱されたりします。しかし、生の技術を教えると公言する哲学は、いかなる状況においてもその権能の行使を禁じられることはありません。それは乱すものを振り払い、妨害するものを貫きます。哲学と他の諸技術では、条件がどれほど異なるか知ることをお望みですか?後者の場合、故意に間違い犯した方が不意に犯すよりも許されるものですが、前者*3の場合、最悪の過ちは故意に罪を犯すことです。9. 僕が言いたいのは次のようなことです。文法学者が赤面するのは、わざと文法を間違えた時ではなく、意図せず間違えて使った時です。また医師は患者の容体が悪いのを知っていながら隠す時よりも、知らないでいる方が医術においてより大きな過ちを犯していることになります。しかし、生の技術においては、意図的に過ちを犯すことのほうが、より恥ずべきことなのです。

 さらには、多くの諸技術、その中でもとりわけ自由な技術には、それぞれに独自の基本原理があり、単に教えのみがあるのではありません。たとえば、医術がそうです。ヒポクラテス学派やアスクレピアデス学派やテミソン学派といった、様々に異なる学派があります。10. そして、どんな技術でも理論をもつものは、独自の根本原理なしには存在し得ません。ギリシャ人はそれらをドグマ(教義)と呼びますが、われわれローマ人は「原理」とか「教理」とか「公理」という言葉で呼んでよいでしょう。それらは幾何学天文学の中に見られます。そして哲学も、理論的であると共に実践的です*4。それは熟考すると同時に行動します。じっさい、哲学が世俗的な生活における援助しか君に与えないと考えているなら*5、それは間違いです。哲学の想いはそれより遥かに崇高です。哲学は言います。「私は全宇宙を精査するが、死すべき人間と共にあるのは、君たちに有益または不利益な助言を与えるだけで満足するためではない。」11. 遥か上方から、偉大なものがわれわれを招いています。ルクレ―ティウスが言うように、

私は君のために、君の眼前に広がる天空と神々の道理を明らかにしよう。

そこから万物が生成し、創造され、育まれるところの原子を。

そして、自然がそれらを終わらせる時、どこへ追いやるのかを。*6

ですから哲学は、理論的であるために、基本原理を持たねばなりません。12. なぜでしょう?それは、あらゆる義務を果たすことが可能な人とは、あらゆる状況においてそれらを正しく遂行することを可能とする理性に自身を委ねた人をおいて他にないからです。個々の状況だけではなく、あらゆる状況のための教訓を受けた人でなければ、それらの義務を全うすることはできません。教訓が全体ではなく部分にしか適用できない場合、それ自体は弱いもの、言うなれば根無し草になります。原理こそが、安心と平静の中でわれわれを高め、保護し、人間生活全体と宇宙全体をその完全性の中に包括するのです。哲学の(普遍的な)原理と(個別の)教訓の違いは、原子と物質の違いと同じです*7。後者は前者に依存しますが、前者は後者と万物の、両方の原因となります。

 13. 人々は言います。「古の英知は、何を行うべきで、何を避けるべきかを教えるだけだった。それでいて、昔の人々は、今よりも遥かに優れた人々だった。学識豊富な人々が現れてから、賢者は現れなくなった。というのも、あの率直で簡潔な美徳が、複雑で狡猾な知識に変わってしまったのだ。今やわれわれは生きる方法ではなく議論する方法を教わっている。*814. たしかに彼らが言うように、古の英知は、とりわけその初期段階においては素朴なものでした。しかし他の諸技術と同様に、進歩するにつれて、理論体系も発展したのです。じっさい、かつては綿密に考案された治療はまだ必要ありませんでした。邪悪はまだそれほど高いところにはなく、広く拡散されることもありませんでした。単純な悪徳には、単純な治療で対処することができました。しかし、今やわれわれは、より強力な悪徳に攻撃されているため、より細心の注意を払って防壁を築く必要があります*915. 医術もかつては、出血を止めたり傷を治したりといった、僅かばかりの簡単な知識で成り立っていました。それから徐々に、現在のように複雑で多岐に渡るものになりました。昔は医術の出番が少なかったことは、不思議ではありません!人々の体はいまだ健全で力強く、食べ物も簡素なもので、料理の技術や贅沢に損なわれてはいませんでした。ところが食欲を鎮めるためではなく煽るために食べ物が求められ始め、暴食を駆り立てる無数の調味料が考案されてからは、かつて空腹の者たちに栄養を与えていたものが、今や満腹の者たちの重荷となっているのです。16. それ以来顔は青ざめ、酒浸りになった筋肉は震え、空腹のためではなく消化不良のために醜く痩せこけるのです。それ以来よろよろと歩き、まるで酔っ払っているかのように千鳥足になるのです。それ以来水腫れが全身の皮膚に広がり、腹も限度以上に詰め込むという悪習のために膨れ上がります。それ以来、黄疸、顔色の悪化、肉体の内側からの腐敗*10、指の関節の硬化による拘縮、筋肉の麻痺による感覚の喪失、そして心臓が絶え間なく拍動する動悸*11が生じます。17. 眩暈については言うまでもないでしょう。あるいは眼や耳の痛み、炎症を起こした脳の疼きや痛み、そしてあらゆる消化器系の内側に生じる潰瘍についても同様です。この他にも、数多の種類の熱病があり、それらの或るものは甚急性に害をもたらし、或るものは少しずつ害をもたらし、また或るものは悪寒と激しい痛みを伴ってわれわれに迫ります。18. 贅沢な生活の罰としてもたらされるその他の無数の種類の病気について、どうして僕がこれ以上言及する必要がありましょう?

 昔の人々は、これらのような病気とは無縁でした。彼らはまだ放縦によって肉体を弱めてはおらず、自制心を持ち、満たすのは自らが必要とするものに限られていましたから。彼らは仕事や、真の労働によって体を鍛え、走ったり狩りをしたり、大地を耕すことによって疲労しました。彼らは空腹の者のみに喜ばれる食べ物で歓待を受けました。ですから、今日のような大げさな医療装置や、たいへん多くの種類の器具や薬箱は必要ありませんでした。単純な事柄から、単純な健康がありました。複雑な食べ物から、複雑な病気が生じたのです。19. 贅沢が海と陸を荒らし回って、ただ一つの喉を通過させるために、いかに多くの種類の食べ物を混ぜ合わせるかをご覧なさい。数多の種類の異なる料理は、当然のこととして反発し合い、調和せず、消化が困難になり、互いに押し合いへし合うのです。そして、これらの不調和な食事によって引き起こされる病気が多種多様になるのも、不思議なことではありません。これほど多くの不自然な組み合わせがごった混ぜになることで、溢れ出てしまうのです。それゆえ、生活の方法と同じくらい、病気になる方法は沢山あるのです。20. 医術の偉大な創始者であり、最も優れた医師でもある人物*12は、女性は髪の毛が抜けることはないし、足の痛みに苦しむこともないと言いました。ところが今日では、女性も髪の毛に逃げ去られたり、痛風に苦しんでします。これは女性の体質が変わったのではなく、それが打ち負かされたことを意味します。女性は男性の享楽に対等になったことで、男性特有の肉体の災いにも対等になったのです。21. 女性も男性と同じように夜更かしをし、同じように大酒をあおり、格闘技でも生酒の飲み比べでも男性と張り合います。また同じように膨れ上がった胃から吐き戻して、飲んだ酒も全てそのまま排出します。熱を帯びた胃袋を鎮めるために雪を齧ることについても、男性に引けを取りません。そして、女性たちは愛を受けとめる側に生まれついたにも関わらず、情欲において男性を上回ることすらあります。神々も女神も、この女どもを滅ぼさんことを!彼女らは最も倒錯した類の淫乱を考案して、男性がするように男と交わります*13。それゆえ、最も偉大で最も熟練の医師の言葉を、われわれが咎めるのも無理もないことなのです。あれほど多くの女性が痛風となり、禿頭となっているのですから!それらの悪徳により、女性はその性別に由来する恩恵を享受する資格を失いました。女性としての性質を捨ててしまったので、男性の病苦を宣告されたのです。

 22. 昔の医師は、滋養物を頻繁に与えたり、ブドウ酒で弱った脈拍を支えることは知りませんでした。彼らは瀉血をすることも、慢性の病気を緩和するために蒸し風呂で汗をかかせることも知りませんでした。足首や腕を縛ることで、内側に逃げ込んで隠れていた病気の力を外側に引き出す*14ことも知りませんでした。病苦の種類が少なかったために、様々な種類の治療法を探し求める必要はありませんでした。23. ところが今日では、不健康の災いは、どれほど遠くにまで及んでいることでしょうか!これらの災いは、われわれが適切で正常な範囲を超えて切望した快楽に対して支払っている利息です。料理人の数を数えれば、病気が数えきれないほどあることを不思議に思う必要はありません!あらゆる学問研究は取り止められ、自由な学問が教えられる場所には、人は寄り付かず、がらんとしています。修辞学者や哲学者の教室には誰もいません。しかし食堂には、何と大きな人だかりがあることでしょう!何と多くの若者たちが、食い道楽たちのかまどを取り囲んでいることでしょう!24. 宴会の後に、あの(飽食とは)別の恥ずべき行為に耐えねばならない可哀想な少年たちの一群については、言及しないでおきましょう。あの幼い男娼たちのことも、言及しないでおきましょう。つまり、出身地と肌の色で分類され、同じように滑らかな肌をし、同じ長さの薄髭を持ち、同じ髪型をしており、縮れ毛の子が真っ直ぐな髪の子に混ざらないようにされている、あの子供たちのことです。また、パン焼き係の一群や、合図があれば素早く料理を配膳する給仕係たちについても、言及しないでおきましょう。ああ神よ!たった一人の胃袋を満足させるために、どれだけ多くの人々が忙しくしていることでしょう!25. 何でしょう?君は美食家の毒であるあれらのキノコは、たとえ即時に影響はなかったとしても*15、ひそかに体を蝕むとは考えないのですか?何でしょう?夏の雪は、肝臓を硬化させるとは考えないのですか?何でしょう?汚泥の中で肥えた牡蠣の不活発な肉は、泥の重さを持ち込むとは君は考えないのですか?何でしょう?君はあの「特産品の魚醤*16」、つまり雑魚の高価な抽出物であるその毒液は、腐った塩辛さで胃を焼き焦がすとは考えないのですか?何でしょう?君は台所の炎から殆ど直接口に運び込まれる化膿した料理*17が、内臓に何ら害を及ぼすことなく消化されると考えるのですか?そして、彼らのげっぷはどれほど不快で不健康なものであり、昨晩の二日酔いの息を吐く時には、彼ら自身どれほどうんざりしていることでしょう!間違いなく彼らの食べたものは、消化されることなく腐敗しているのです。

 26. 僕はかつて噂話で、美食家たちが好むありとあらゆる食べ物を盛り込んだ悪名高い料理について聞いたことがあります。それにより料理屋は、自分たちの破産を早めることになりました。二種類のムール貝と、食べられる部分以外の殻が取り除かれた牡蠣が並べられ、ところどころにはウニも添えられました。全体には骨を取り除いて切り分けられたボラが敷き詰められていました。27. 今日では人々は、一品一品食べることは恥と考えます。沢山の味が、一つに混ぜ合わさっていなければなりません。腹の中でするべき仕事を、食卓の上でするのです。そのうち僕は、咀嚼された食べ物を供されるのかも知れません!今ですら骨や皮を取り除くことで、料理人が歯の役目を果たすのですから、われわれは殆ど何もすることがありません!

 人々は言います。「高級な料理を一皿一皿食べるのは面倒だ。全てを一度に提供して、混ぜ合わせて一つの味にして貰おう。どうして私が一品ずつ手を伸ばす必要があるのか?一度に多くの品々を食卓に出したまえ。多くの種類の珍味を混ぜ合わせて一つにするがよい。28. これらを自慢や虚栄心のためだと言う者たちは知るがよい。これらは見せびらかしのためではなく、われわれの食事においての義務に対する誠意に他ならないのだ!普段は別々に提供される料理を、同じソースに浸して一度に頂こう。牡蠣もウニも貝類もボラも一緒に同じ皿に調理して、何の違いもないように混ぜ合わせて一つにしよう。」どんな吐瀉物も、これほどごちゃ混ぜであることはないでしょう。29. そして、食べ物が複雑になったことで、その結果として生じる病気も複雑で、原因不明で、多種多様なものとなりました。医術も様々な治療法や診断法をもって、それらに対処することを余儀なくされました。

 さて、同じことが哲学にも当てはまると申しましょう。人々の罪悪は小さく、その治療もわずかな労力で済んだため、哲学もかつては単純なものでした。しかし、今日のような数多の人倫の倒錯に対しては、あらゆる治療法が試みられねばなりません。そしていつかは、この悪疫が克服されんことを!30. われわれは個人としてだけでなく、人民全体として狂っています。われわれは暗殺や、個人としての殺人事件を禁じていますが、一民族の虐殺という大々的に誇示される犯罪についてはどうでしょう?われわれは貪欲においても残忍においても、限度を知りません。そして、これらの犯罪が個人によって密やかに行われる場合は、その弊害は小さく、さほど驚くものでもありません。しかし、残虐行為は元老院や人民議会の決定に従って遂行され、個人には禁じられたことが、公には命じられます。31. 密かに行えば死刑となるような行為でも、軍服を着た将軍が行えば、それだけでわれわれは賞賛します。人間は元来、最も温和な性質を持つ種族であるのに、他人の血を喜び、戦争を行い、子供らにも戦争の遂行を受け継がせて、恥じることがありません。物言わぬ動物や野獣の間にさえ、平和があるというのに。32. このように度を超して拡大した狂気に対抗するために、哲学はより大きな努力を必要とするようになり、この抵抗するものの力に比例する形で、自らの力も増大させていきました。

 かつては、酒浸りになっていたり、贅沢な食事を求めたりする者を諫めるのは簡単なことでした。ほんの少し道を逸れただけの精神をもとの素朴な状態に戻すのに、大きな労力は必要ありませんでした。33. ところが今や、

素早い手が、熟練の技術が必要だ*18

人々は、あらゆるところから快楽を求めます。いかなる悪徳も、自らの限度内に留まることはありません。贅沢は貪欲へと速やかに移行します。われわれは立派なものを、忘却の彼方に去らせます。代価が魅力的なものであれば、恥も外聞もありません。人間にとって尊重すべきものである人間は、今や戯れや娯楽のために殺されます。そして、かつては傷を負わせたり耐えたりする訓練を人に課すことは許されなかったのに、今では剝き出しの身で防具一つなく、(群衆の前に)引き出されます*19。人が死体になるのを眺めることが、満足のいく見世物なのです。

 34. このように道徳が混乱した中では、何か通常よりも強力な、慢性化した悪徳を振り払えるものが必要になります。つまり、誤った考えに由来する凝り固まった信条を根絶するために、基本原理によって行動を規制する必要があるのです。この原理に戒め、慰め、励まし*20を加えることで、大きな効力を持つようになります。原理は単独では効果を発揮しません。35. もしわれわれが人々を引き締め、襲いかかる悪徳から切り離すことを望むなら、何が善で何が悪であるかを学ばせねばなりません。美徳以外のあらゆるものは(状況に応じて)その名称を変え、ある時は悪に、ある時は善になるということを、理解させねばなりません。兵役の第一の義務は、忠誠の誓い、国旗への愛着、脱走の忌避であり、それらの誓約を行った者には、その他の義務がより容易に託されます。これと同じことが、君が幸福な生活に導きたいと思ってる人々にも当てはまります。最初の基礎が築かれ、それから美徳が組み込まれねばなりません。美徳に対しては、ある種の盲目的とも言える崇拝を彼らに抱かせて下さい。美徳と共に生活することを望ませ、美徳なしに生きることを拒否させましょう。

 36. 「しかし、どうだろう?」人々は言います。「或る人たちは、難しい訓練を受けずとも優れた人物になったのではないだろうか?(基本原理というほど)洗練されてはいない、素朴な教えに従うだけで、進歩を遂げたのではないだろうか?」その通りです。しかし彼らの気質は生来のものであり、言うなれば(進歩への)通りすがりに、救いを取り込んだのです。というのも、不死なる神々はあらゆる美徳を完全に備えた状態で生まれるために、美徳を学ぶ必要がなく、その本性の内に善の性質を含んでいるのと同じように、或る人々も、優れた性質を備えて生まれ、通常は教えられて学ぶような事柄に、長期に渡る訓練を受けずとも到達し、立派な事柄を見聞きするやいなや、それを自らのものにするのです。このように、すぐさま美徳を獲得するか、あるいは自らの内部から美徳を生み出す精神を持つ者が存在します。しかし、悪習に染まり切っている愚鈍で怠惰な連中からは、魂の錆が絶えず擦り落とされねばなりません。37. そして、前者のように善の傾向をもつ人々をより素早く高みに引き上げ、後者のように弱い心をもつ人々を助け悪しき見解から解放することが、哲学の原理を彼らに伝授することで可能となります。この哲学の原理がいかに重要なものであるかは、次の説明で理解できるでしょう。われわれの内に入り込んでいる或るものが、ある時はわれわれを怠慢にし、ある時はわれわれを性急にします。前者の怠慢を叱咤することも、後者の性急を抑制することも、その内なる原因を取り除かない限り不可能です。すなわち、誤った価値観と誤った恐怖です。われわれがそのような(心的な)原因に捉われている間に、「君は父親に、子供に、友人に、客人に、このように振舞わねばならない。」と言われて、そうしようと努めても、貪欲がそれを妨げるでしょう*21。祖国のために戦わねばならないと分かっていても、恐怖がそれを引き留めるでしょう。友人のために最後の一滴まで汗を流さねばならないと分かっていても、贅沢がそれを禁じるでしょう。愛人を持つことは、妻に対する最も悪しき類の侮辱であると分かっていても、情欲によって反対方向に駆り立てられるでしょう。38. したがって、(個別の)教えの妨げとなる可能性のあるものを取り除かない限り、教えを授けても役には立ちません。近くに武器を置いた状態で敵と相対しても、武器を使えるように手が自由でないと(武器が)何の役にも立たないのと同じです。われわれの伝授する教えに取り組むためには、まず何よりも魂が自由でなければなりません。39. ある人が、自分のすべき通りに行動しているとします。その人は、そのように行動すべき理由が分からないため、継続的に、一貫性を持って行うことができません。彼の行動は、習慣や偶然の結果として、正しいものになるかも知れません。しかし、彼の手中には、自分の行為を規制するための基準や、自分の行為が正しいかどうか信頼するための基準がありません。単なる偶然で善き人となっても、そのような人格が永久に保持されることは約束されません。40. さらに言うと、教えは人が何を行うべきかは教えてくてますが、どう正しくそれを行うべきかは教えてくれません。しかし、もし教えがこれらも共に授けないのならば、教えは人を美徳に導くこともできません。忠告を与えられれば、人はなすべきことを行うだろう、ということは僕も認めます。しかし、それだけでは十分ではありません。なぜなら、褒むべきは行為そのものにあるのではなく、行為のなされ方にあるからです。41. 騎士階級の財産*22を食いつくす贅沢な宴会ほど、恥ずべきものがあるでしょうか?あるいは、食道楽たちの言い方に習って、そうした贅沢は、自分と自分の「守護霊」をもてなすことだと言い張るなら、これほど監察官の懲戒の印*23に値することがあるでしょうか?さらには、公職の就任祝いの宴会ともなると、最も倹約な人でも百万セステルティウスを費やすことは珍しくありません!食欲のみのために費やされたら恥ずべきとされる金額も、公的な目的(宴会)のためであれば非難されることはないのです!それは贅沢ではなく、慣例に基づく支出だそうです。

 42. 一匹の巨大なボラが、ティベリウス帝に献上されました。重さは四ポンド半もあったそうです(重さについて言及することで、美食家たちの食欲をあおらずにいられましょうか)。ティベリウスはそれを魚市場に持っていって売るように命じ、次のように言いました。「もしこのボラをアピキウスかプブリウス・オクタウィウス*24が買わなかったら、全くの驚きだ。」そして予想は大きく超える形で的中しました。両者が入札を行い、オクタウィウスが勝ち、皇帝が売りに出し、アピキウスですら買うのを諦めた魚を五千セステルティウスもの大金で競り落としたので、食道楽仲間たちの間で大きな評判になりました。これほどの大金を支払うことはオクタウィウスにとっては恥ずべきことでしたが、ティベリウスに献上するために買った者にとっては恥ではありませんでした。とはいえ僕は、後者のことも非難したく思います。そのような贈り者を、皇帝に相応しいものとして賛嘆したのですから。

 43. 病気の友人に寄り添う人がいれば、われわれは彼の内面を賞賛します。しかし、もし遺産相続を目的に寄り添う人を見れば、われわれは彼を死肉を待つ禿鷹と見做します。同じ行為でも、恥ずべき行いにもなれば、立派な行いにもなります。なぜ行うか、どのように行うかによって、すべて異なるものとなります。さて、もしわれわれが立派な事柄に忠誠を捧げ、立派さとそれから生じる結果のみが人間における唯一の善であると判断するならば、われわれの行為は、全て立派なものとなるでしょう。そうでないなら、一時的な善に過ぎません。44. ですから僕は、人間生活全体に適用可能な確固たる信念が、深く植え付けられるべきだと考えます。これこそ僕が「原理」と呼んでいるものです。この信念がどうあるかによって、われわれの行動や考えは決まります。われわれの行動や考えがどうあるかによって、われわれの人生も決まります。個々の事柄について忠告を与えるだけでは、人生全体を秩序立てようとする人には十分ではありません。45. マルクス・ブルートゥス*25は、「義務について」と題する彼の本の中で、親や子供や兄弟に、多くの教えを与えています。しかし、自らの行動の基準となる何らかの原理を持たない限り、誰もそれらの義務を正しく果たすことはできません。船乗りが特定の星に導かれて航路を進むように、われわれは最高善という目標を、自らの前に据えねばなりません。それは、われわれが奮闘努力するための、われわれのあらゆる言葉や行為の規範となるものです。46. 目標を持たない人生は不安定です。そして、目標を立てるためには、原理が必要です。頼りなく不安定に揺れ動く心で行動したり、怖気づいて後退したりすること以上に恥ずべきことはないと、君もお認めになるでしょう。精神を妨害し、滞らせ、全力を尽くして努力することを邪魔するものを取り除かない限り、そうしたこと*26はあらゆる場合にわれわれに起こります。

 47. 神々をどう敬うべきかについては、一般に教訓が与えられています。安息日にランプに点火することは禁じましょう。なぜなら、神々に光は必要ではなく、人間も煤を喜ばないからです。朝の挨拶回りや、神殿の門前に座り込むことは禁じましょう。なぜなら、死すべき人間の野心はそのような儀式に惹かれますが、神を真に敬うとは、神を知ることだからです。ユピテルに亜麻布や肌かき器*27を献上したり、ユーノーに鏡を差し出すことも禁じましょう。神は奉仕者を必要としません。それも当然のことです。神ご自身が、人類への奉仕者であって、いたる所で、すべての人を助けて下さるのですから。48. 人は、神に供犠を捧げる際にどのような形式を守るべきか、疑わしい迷信からどこまで身を退けるべきかを聞いても、神の本質についての正しい考えを抱くまでは、決して十分な進歩を遂げることはできませんーー神はあらゆるものを所有し、あらゆるものを、無償で授けてくれる存在だという考えを。49. そして、神々が恩恵を授ける理由は何でしょうか?それが神々の自然本性だからです。神々は害を加えることを望まない、と考える人があれば、それは間違いです。神々は害を加えることは出来ないのです。神々は危害を受けることもなく、与えることもありません。危害を受け得ることと与え得ることは、同じ範疇に属するからです。全てが輝かしく、全てが美しいものである自然は、危害から救った者たちに、危害を加えることなどありませんでした。

 50. 神々を敬う第一歩は、神々を信じることです。次に、神々の尊厳を認め、それなしには尊厳もあり得ない神々の善性を認めることです。さらに、神々は全宇宙の指導者であり、その権能で万物を支配し、時として個々人の事情を顧みないことはあっても、全人類の守護者として活動されていることを理解することです。神々は悪を与えることも持つこともありませんが、或る人々を戒めたり、抑留したり、懲罰したり、時には表面的には善に見えるものを与えて罰することがあります。君は神々の温情を勝ち得たいとは思いませんか?であれば、善き人物となって下さい。神々を真似る者は誰でも、神々を十分に敬っていることになります。51. さて、次に問題となるのは、人とどう関わっていくべきか、ということです。その際われわれは、何を目標とすべきでしょう?どんな教訓を与えたらよいでしょう?人間の血を流してはならない、と命じるべきでしょうか?助けるべき相手を傷つけないだけなら、何と些細なことでしょう!実に、人が人に親切にすることは*28、賞賛に値します!難破した船乗りに救いの手を差し伸べたり、迷っている人に道を教えたり、飢えている人に食べ物を分け与えることは、個々に教えるべきことでしょうか?そうでなく、僕が人々のために、人間全般についての義務の基準、言うなれば行動指針を示すことができたら、最初に一度に、求むべきことと避くべきあらゆることを教えることができるでしょう。52. 君が見ているもの、すなわち神々と人間を織り成す全ては一つであり、われわれは言わば一つの偉大な身体の一部分なのです。自然はわれわれを、自らと似た存在として、同じ始源、同じ終焉を持つ者として創造しました。自然はわれわれ人間が互いに愛情を抱き、親しみを抱きやすい存在にしました。自然は平等と正義も定めました。自然の定めたところでは、傷つけられるよりも傷つけることの方が遥かに不幸です。自然の命じるところ、われわれは助けが必要な者には手を差し伸べねばなりません。53. 次の神聖な詩句を心に留め、よく口ずさむべきです、

私は人間だ。

そして、或る人の運命に、私が部外者であることは決してない*29

われわれは互いに共同しましょう。われわれは生まれも共同なのですから。われわれの結びつきは、石の弓門のようなものです。弓門は石が互いに支え合わなければ崩壊してしまいますが、まさにそうであるが故に、保たれているのです。

 54. 神々と人間について考えた後は、事柄をどのように扱うべきかを考えましょう。貧乏と富裕、名声と恥辱、祖国と追放といったあらゆる事柄について、われわれがどのような意見を持つべきかを考えることから始めなければ、われわれが教訓を口にすることは無駄になります。われわれは噂を追い払い、事柄それ自体の価値を見定め、それらが何と呼ばれているかではなく、何であるかを精査しましょう。

 55. さて次に、美徳に関する考察に移りましょう。ある人は、われわれは思慮分別を高く評価するべきだ、勇気を大切にするべきだ、他の全ての気質に増して、正義に最も忠実に従うべきだ、といったことを忠告します。しかし、美徳とは何であるか、それは単一のものかそれとも複合的なものか、それは部分として別々なのかそれとも関連し合っているのか、ある美徳を持つ人は、別の美徳も持っているのか、それらの美徳は異なるものなのか、といったことをわれわれが知らなければ、先の忠告は何の役にも立ちません。56. 大工は建築の技術について、その起源や本質について知る必要はありません。それは無言劇役者が、その踊りについて、そうしたことを知る必要がないのと同じです。これらの技術はそれ自体の役割を知っていれば十分です。なぜなら、人生全体に関わる技術ではありませんから。しかし美徳は、それ自体以外についての知識*30も必要とします。もしわれわれが美徳について学ぶのであれば、美徳に関わる全てを学ばねばなりません。57. 意思が正しいものでなければ、行為は正しいものとはなりません。意思は行為の起源だからです。また、心の持ち方が正しいものでなければ、意思は正しいものとはなりません。心の持ち方は意思の起源だからです。さらに、そのように最も優れた、正しい心を持つには、あらかじめ人生全体についての法則を学び、あらゆる事柄を適切に判断する方法について熟慮し、物事を真理の基準に照らし合わせることが必要です。心の安定は、確固たる不変の判断基準を擁した人々にのみ、享受されるものです。そうでない人々は、自らの判断において栄枯盛衰を繰り返し、同じ物事を求めたり避けたりと、常に揺れ動くのです。58. そして、彼らのこの動揺の原因は何でしょうか?彼らは最も不確かな判断基準、すなわち噂を信頼しているために、彼らには何一つ明らかにはならないのです。君がもし常に同じ望みを持ちたいと思うなら、真実を望まねばなりません。しかし、原理がなければ、真実に到達することはできません。なぜなら、原理は人生全体を包括するからです。善と悪、立派なことと恥ずべきこと、正義と不正、誠実と不誠実、美徳をその実践、有利なものとその所有、名声と尊敬、健康、力強さ、美貌、感覚の鋭敏さーーこれら全ての資質は、それを適切に評価してくれる存在を熱望します。人はこれらの各々が、どのように評価されるのかを知らねばなりません。59. というのも、人はしばしば欺かれ、或るものの価値を本来より高く判断してしまうことがあるからです。じっさい、われわれはあまりにひどく欺かれているので、財産や影響力や権力といった、本来はびた一文の価値もないようなものに、何よりも大きな価値があると考えるくらいです。

 あれらの資質*31を照らし合わせて評価するための基準を吟味しなければ、このことは決して理解できません。木の葉は自らの力だけでは生い茂ることはできず、樹液を供給してくれる枝にしがみ着くことが必要です。それと同じように、君が与える教訓も、単独で与えられたら(枝についていない葉のように)枯れてしまいます。それらは哲学の原理(という幹)に、根ざしたものでなければなりません。60. さらに言うと、原理を排除しようとする人々は、原理に反対するための論理まさにそれ自体によって、原理の正当性を証明していることを理解していません。というのも、彼らは何と言っているでしょう?彼らは、人生の諸問題の解決には(個別の)教えがあれば十分であり、英知の教義(つまり原理)は不要だと言うのです。ところが、彼らのまさにこの主張が、原理となっているのです。それはあたかも僕が今、教えは不要であり、破棄せねばならないとか、原理を活用すべきであり、われわれの研究はこの原理のみを目的とするべきだとか言うようなものです。教えを受けるべきではないと言いながら僕は、教えを授けていることになります*3261. 哲学には教えを必要とする事柄がありますし、証明を、それも膨大な証明を必要とする事柄があります。というのも、それらは複雑な事柄であり、最大限の注意と、最大の弁証法的技術を駆使しても、論証することは容易ではないからです。そして、論証が必要であるなら、原理も必要です。なぜなら、原理は推論によって真実を導き出すからです。明確な事柄もあれば、曖昧な事柄もあります。感覚や記憶で把握できる事柄は明確ですが、それらの範囲外の事柄は曖昧です。

 しかし理性は、明確な事柄だけでは満足しません。理性のより優れた崇高な機能は、隠された事柄を扱うことです。隠された事柄は証明を要しますが、証明は原理なしには成り立ちません。それゆえ、原理は不可欠です。62. 一般に(人々に)合意を得られるもの、そして(真実に)完全な合意を得られるものは、或る事柄に対しての確実な信念です。ところが、もしこの信念を欠いて、或る事柄がわれわれの心中で不安定に漂っているような場合には、原理が必要です。なぜなら、原理はわれわれの心に揺るぎない決心の基準をもらたしてくれるからです。63. さらに、われわれが或る人に、友人を自分と同じように大切にしたり、敵が友人になりうることを考えたり、友人への愛情は増やして、敵への憎しみは減らすよう忠告する場合には、次のような言葉をつけ加えます。「そうすることは正しく、立派なことだ。」さて、われわれの言う原理においては、正しや立派さは、理性によって認められます。ですから、理性が必要です。理性なしには原理も存在できません。64. しかし*33われわれは、(教えと原理という)この二つを結び付けましょう。なぜなら、根がなければ枝葉は役に立たず、根それ自体もそれらが生み出した枝葉によって強くなるからです。手がいかに有用であるかは、誰にでも理解できます。明らかにそれらは、われわれの助けになります。しかし心臓は、隠れたものではあっても、手の成長、力、運動の源です。そして同じことが、教えについても言えます。教えは明確なものですが、英知の原理は隠れています。そして、或る神的儀式のより神聖な部分について知っているのは秘儀参入者だけであるように*34、哲学においても隠された真理は、その参入者であり神聖な儀式に加わることを認められた者のみに開示されます。しかし教えや、その他の同列のものは、未熟な者にも容易に与えられます。

 65. ポセイドーニウス*35は、教化(僕がこの言葉を使うことを妨げるものは何もありません)だけではなく、説得や慰めや、励ましすら必要であると考えています。彼はこれらの他に、原因の探究も加えています(しかし、どうして僕はこれを原因学アエティオロギアと呼んでいけないのか分かりません。ラテン語の守護者である文法学者たちは、当然のようにこの言葉を使っているのに)。ポセイドーニウスは、各々の美徳について描写することも、役立つと言っています。彼はこれを品性学と呼び、ある人々は特徴付けと呼んでいます。それは、個々の美徳や悪徳の性状や特色を叙述するものであり、それにより互いに類似したもの同士を区別することができます。66. これらは教えと同じ力を持ちます。というのも、教える人は「節度があることを望むなら、これを行え。」と言い、描写をする人は、「あれを行い、これを慎む人は、節度がある人だ。」と言うからです。この二つの違いは何かとお尋ねになるなら、前者は美徳の教えを与え、後者は美徳の具体例を与えている、と答えましょう。そのような具体例の描写、あるいは徴税人たちの用語を用いるなら人物描写*36には、有用な点があると僕は認めます。展示して示すことで、奨励することが容易になるからです。そうすれば、(具体的に例示された立派なことを)真似る人物が現れるでしょう。67. たとえば、よい血統の馬であることを認識するために、購入時に騙されたり、駄馬を買うことで無駄な労力を費やしたりせずに済むための証拠が与えれるとしたら、有益だとは思いませんか?しかし、秀でた魂の証拠、つまり他者から(真似ることで)自分の為に活用できる証拠を知ることは、どれほど有益なことでしょう!

68. 高貴な血統を持つ仔馬は牧草地ですくすく育ち、

元気な足取りで進み、確かな足どりで地を踏む。

まずは危険な道を進み、次に危険な川を渡る。

軋む音を恐れることもなく、見知らぬ橋にも身を委ねる。

首は高くもたげられ、たてがみは毅然として、腹は引き締まり、背は隆々とし、

その胸中は勇敢さと筋肉で満ちている。

どこかで武器のぶつかり合う音が響くと、

彼はその場に留まらず、耳を立てて武者震いし、

鼻腔に収めていた火炎を吐き出す*37

 69. ウェルギリウスの描写は馬についてのものですが、これは完全に勇敢な男性の人物描写に一致します。いずれにせよ僕は、勇敢な人物の比喩として、これ以上の描写をすることはできません。もし僕がカトーを、つまり内戦の騒乱のさ中にあって恐れることなく、既にアルプスに近付いた軍隊*38を真っ先に迎撃し、内戦へと正面から突っ込んでいったカトーを描写するとしたら、これ以上のものを僕はカトーに与えることはできません。70. じっさいカトー以上に、「元気な足取りで」進めるものなどいないでしょう。カエサルポンペイウスに同時に対抗して立ち上がり、ある者はカエサルの党派を支持し、ある者はポンペイウスの党派を支持していた時に、両派に宣戦布告し、共和制を支持するもう一つの党派があることを、人々に示した彼以上に。じっさいカトーを、「軋む音を恐れることもなく」と言うだけでは不十分です。彼が恐怖しないのは当然のことです!彼は目も前に差し迫った轟音をも恐れることはありませんでした。十個軍団とガリアの援軍、そして様々な国籍から成る兵力を前に、彼は自由に満ち満ちた言葉を語り、共和制を激励し、自由のために闘うことを諦めることなく、あらゆる危険に立ち向かえ、隷属状態に陥ることよりも、虜囚の中で死ぬほうが名誉だと語りました。71. 彼の活力と気概は、どれほどであったことでしょう!世の中が混乱に陥ってる中で、彼は何と偉大な自信を示したことでしょう!彼は、自分だけはその(自由という)立場が揺らぐことはないと知っていました。ですから人々は、カトーが自由であったかどうかではなく、死んで尚、カトーが自由であり得るのかどうかを尋ねるのです。ここで彼の、死と剣に対する軽蔑が描写されます*39。国家全体が破滅の状態にあっても怯むことがなかったこの英雄の不動心を称えて、こう言えるのは何と喜ばしいことでしょう。

その胸中は勇敢さと筋肉で満ちている。

 72. 善き人の性質とは一般的にどんなものであるかを語ったり、その姿や特徴を描写するだけでなく、どのような善き人がかつて存在したかを、秩序立てて語ることも有益です。わわれれはそれと同時に自由が最期を迎えた、カトーの最も勇敢な最後の傷を思い描くことができます。あるいは賢者ラエリウスとその友人スキピオの協調を。あるいは大カトーの国内外における立派な行いを。あるいはトゥベロ*40の、公的な宴会で使用した木製の長椅子、絨毯の代わりの山羊皮、そしてまさにユッピテルの神殿の前に並べられた宴会のための土器を!これは(ユッピテルの神殿があった)カピトリウムの丘に、貧乏を奉献する以外の何であったでしょう?僕はトゥベロの功績を他に知りませんが、これらのことだけでも、カトーに肩を並べるのに十分ではありませんか?それは宴会ではなく譴責会でした。73. なんとも嘆かわしいことに、栄誉を熱望する人々が、何が栄誉であるのか、あるいは栄誉はどのような方法で求められるべきかを、理解していないのです!その日、ローマの民衆は多くの調度品を目にしましたが、驚嘆をもって眺めたのはただ一人の土器でした。その他のすべての金や銀は砕かれ、幾度となく溶かされました。しかしトゥベロの土器だけは、永久に残り続けるでしょう。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 95 - Wikisource, the free online library

・解説

 書簡94とは対照的に、基本原理の有益性を説いている。その中で書簡94において、セネカが頻繁に反論していたアリストーンの意見を擁護するような考えも散見されるが、最終的にセネカは、「教えも原理もどちらも必要である」というセネカらしい中庸の考え方を説いている。

 

 

 

 

 

 

*1:「ローマ喜劇断片集」の作者不詳断片87。ここではセネカは、ルキリウスに対し、要求したからには膨大な説明をしてやるぞというちょっとした冗談を言っていて、君が求めたから、こんなに沢山説明してるのだ。だからもう求めるな、という格言の通りだねと言っている。

*2:気まぐれで求めたのかも知れないが、罰として沢山説明してやるという意味。

*3:生の諸技術つまり英知・哲学

*4:原文および英訳では、「しかし哲学は」と書いてあるが、それだと意味が通らなくなるので、「そして哲学」と変えて訳した。とはいえ原文のラテン語「autem」は「さて、ところで」とも訳せるので、「but」「しかし」が必ずしも原文に忠実な訳というわけではない。

*5:行動のみを与えると考えているなら

*6:ルクレ―ティウス「事物の本性について」51~60。岩波文庫の「物の本質について」の訳は次の通り。「即ち、君のために天体に関し、また神々に関する最高の理論を、わたくしは始めようとし、万物を形成する原子を説きあかそうとしているのだから。この原子でもって、自然は万物を作り、増加させ、成育させるのだということをーーまた死亡したものは、同じく自然が、これを再びこの原子に還元分解してしまうのだ、ということを説きあかそうとしているのだから。」

*7:かなり意訳したが、意味は通ってると思う。気になる人はラテン語原文を参照されたい。

*8:この意見は要するに、「昔は率直な教えで十分であったので、現代の『哲学の原理』はややこしいし不要なのではないか?」というもの。これに対しセネカは昔と比べて今のあらゆる悪徳は複雑化して救いがたいものとなっており、だからこそそれれらを包括的に叩く哲学の原理が必要なのだと説く。書簡94の内容と合わせて考えるとややこしいので、書簡95はこの書簡内だけの繋がりを考えて読むことをオススメする。

*9:つまり強力な哲学の原理が必要ということ。以下にセネカは複雑化した悪徳の具体例を長々と説明していく。「より複雑化した悪徳」への対処法は、「個別の教え」が有効なのではないか?と読む人もいるだろうが、何度も書くが書簡94の内容とは別個に解釈する方がいい。ここではあくまでセネカは、「複雑化した悪徳」とそれにより強力に対処するための「哲学の基本原理」を説くことに注力している。セネカの中では「基本原理」は必ずしも単純なものではないのかも知れない。確かに「個別の教え」と対極のものであっても、別に「複雑な理論体系」であっていけない訳ではない。どうもしっくりこない点もあるが…。

*10:いわゆる壊死

*11:いわゆる不整脈

*12:ヒポクラテス

*13:女の側から襲いかかるといった感じか。

*14:鬱血させることで汚れた血を引き留めるイメージか。

*15:クラウディウス帝は毒キノコによって暗殺されたとされている。つまり、たとえ暗殺に使われるような即効性の毒はなかったとしても、という意味。

*16:当時の最高級品の魚醤(ガルム)は、サワラの卵から作られた。

*17:熱を加えているので膿のように見える、という意味か?

*18:「アエネイアス」8.442

*19:書簡7参照

*20:つまり書簡94の「忠告」

*21:つまり、原理が正しく魂に浸透していない限り、個別の忠告は意味を為さないということ。書簡94でセネカが反対していたアリストーンの意見を、ここでは擁護している。

*22:騎士階級に属するには、最低40万セステルティウスの資産が必要であった。

*23:監察官は元老院議員や騎士の財産を監査し、名簿から削除する際には不名誉の印をつけた。

*24:両者とのティベリウス帝の時代の美食科家。アピキウスについては、「母ヘルウィアへの慰め」にも詳しい。

*25:前44年にカエサルを暗殺したブルートゥス。前85~42。

*26:心がグラついたり尻込みしたりすること。

*27:入浴の際の汚れを落とすための器具で、重要な装飾品でもあった。

*28:相手を選ばずに

*29:ローマの喜劇詩人プブリウス・テレンティウス・アーフェルの作品「己れを責める者」77

*30:起源や本質といった

*31:善と悪、立派なことと恥ずべきこと~

*32:つまりセネカが言いたいのは、教えも原理もどちらも必要だと言うこと。そのことをちょっとした論理遊びによって説明している。つまり、教えのみで十分だとする「原理」や、原理のみで十分だとする「教え」は、いずれもそれ自体で矛盾しているということ。

*33:証明や理性によって原理の利点のみが目立つが、

*34:エレシウスの秘儀のように

*35:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33,書簡78,書簡87,書簡88,書簡90,書簡92,書簡94参照。

*36:各人の財産の特徴を記録簿に登記した

*37:ウェルギリウス「農耕詩」3.75~81。3.83~85。

*38:ルビコン河を渡ってローマに近付いてきたカエサルの軍隊。前49年のこと。

*39:彼は剣と死を軽蔑したので、死んで尚自由だ、という答えになる。

*40:前2世紀のローマの統領。貧乏な生活で有名。