徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡109 賢者と賢者の交友について

 1. 賢者は賢者の役に立つのかどうかを知りたいと君はお望みです。というのも、われわれ(ストア派)は、賢者はあらゆる善を多分に備えており、完全の域に達していると主張するので、最高善を有する人に、誰がどのように役立つことができるのか、という疑問が生じるからです。

 善き人同士は互いに役立ちます。なぜなら、お互いがお互いに美徳を実践し、英知を各自に相応しい状態に保持しているからです。彼らは相互比較し合ったり、共に研究し合ったりする相手を必要としています。2. 熟練の格闘競技選手は互いに組み合って鍛錬をしますし、音楽家は同等の技量を持つ者に刺激を受けます。賢者もまた、美徳の鍛錬を続ける必要があります。そして、自分で自分を行動へと刺激するのと同じように、他の賢者から刺激を受けるのです。3. 賢者はどのように、他の賢者の役に立つのでしょうか?相手に衝動を促し、立派な行動の機会を示すことによってです。さらに自分自身の考えを述べ、自分が発見したことを教えるでしょう。というのも、たとえ賢者であっても、新たに発見すべきものや、それに向かって新たな探究をすべきものが常に残っているからです。

 4. 悪人は悪人を害します。相手の怒りを煽ったり、悲嘆に同調したり、快楽を称賛したりすることで、互いに互いを貶めます。悪人は彼らがその欠点を完全に混ぜ合わせ、言うなれば彼らの邪悪が互いに一つに連帯する時、最悪の存在となります。ですから、これとは反対に、善人は他の善人の役に立つでしょう。「どのように?」君はお尋ねになる。5. 善人は互いに相手に楽しみ与え、自信を強めます。そして互いに静寂さを示しあうことで、両者の喜びはいっそう高まるでしょう。さらに、彼らは何らかの事柄についての知識を互いに伝え合います。賢者といえども全知全能ではありませんから。そして、たとえ全てを知っていたとしても、誰かが近道を考案して、指摘してあげることができます。そうすることで、賢者の仕事全体がより容易に進み広がることでしょう。6. 賢者が賢者の役に立つのは、もちろん当人の力によってですが、それだけでなく、助けられる側の力にもよります。もちろん後者も自分の力だけで自分の役割を果たすことができます。とはいえ、よく走る人でも、応援によって励まされるものです。

 「しかし実際は、賢者が賢者の役に立っているのではなく、(助けられる側の)賢者が自分で自分の役に立っているのだ。当然のことだが、助けられる側自身の力を取り去ってみるがいい。もう一人は何もできないだろう。」7. その理屈なら、蜂蜜には甘味がないと言うことができます*1。なぜなら、蜂蜜を食べるのはその人自身であり、その人自身にこうした食べ物を味わい、好むか嫌うかを判断するのに適した舌や味覚が備わっているからです。また、病気の影響で、蜂蜜を苦いと感じる人もいます。ですから、一方が役に立ち、もう一方が適切に助けを受けるためには、いずれもが健全*2でなければなりません。8. 人々はまた言います。「熱が最高温度に達したものにさらに熱を加えるのは無意味なことだ。よって最高善に達した者に何らかの手助けは不要だ。完璧に農具を備えた農家が、隣人にさらなる道具を請うだろうか?十分な武装をして戦場に向かう兵士が、それ以上に何か武器を必要とするだろうか?賢者もそれと同じである。人生のために十分に備えており、十分に武装しているのだから。」9. これに対する僕の答えは次の通りです。すなわち、熱が最高温度に達したものでも、その最高温度を維持するためには、加熱し続けなければなりません。そして、熱はそれ自身で自己を維持するという反論があるなら、僕は、今比較しているものの間には大きな違いがあると言います。というのも、熱は一つ(の現象)ですが、役に立つということには多くの種類があります。そして、熱は熱を加えられることによって自己を保つのでないとしても*3、賢者は、自身の善を分かち合える同等の仲間との交友無しには、自己の精神状態を保つことはできません。10. さらに、あらゆる美徳*4の間には、相互に親近関係があります。ですから、賢者は彼らのうちの或る人の美徳を愛し、今度は自分が愛されることで互いの役に立つのです。類似のものが喜びを与え合うのです。とりわけそれが立派なものであり、互いにそれを認め合うことができる場合に。11. そして、賢者の心を正しく動かすことができるのは、賢者をおいて他にありません。人間を理性的に動かすことが、人間でなければできないように。したがって、理性を動かすためには理性が必要であるように、完全な理性を動かすためには完全な理性が必要です。

 12. ある人々*5は、金銭や影響力や安全やその他の、人生に不可欠で大切な援助すなわち「中間的なもの*6」をわれわれに与えてくれる人ですら、役に立つと言います。この意見に従うなら、最も愚かな者であっても賢者の役に立つと言えるでしょう。しかし、役に立つということは自然に従って(相手の)心を動かすことであり、それは自分自身の美徳と同時に、動かされる相手の美徳によって可能となります。そして、これは助ける側にも必ず役立ちます。なぜなら、他人の美徳を鍛えることは、必然的に自分自身の美徳を鍛えることに繋がるからです。13. しかし、たとえ最高善や、最高善を生み出すものを除外しても、賢者はやはり互いに役立つことができます。なぜなら、賢者が賢者と出会うことそれ自体が、望ましいことだからです。というのも、自然本性にとって善いものは全ての善き人にとって善いものであり、善き人は自分自身に親しむをことを喜ぶのと同様、他の善き人に親しむことを喜ぶからです。

 14. 僕の意見を示すために、この問題点から別のものに移る必要があります。というのも問われるべきは、賢者は自分一人で物事を熟慮するのか、それとも他者に助言を求めるのか、ということだからです。賢者は公務や家庭の問題、言うなれば死すべき人間に定められた問題に臨む時、そのようにせざるを得なくなります。そうした問題について、賢者は外からの助言を求めます。ちょうど医師や、舵手や、弁護人や調停人が、他者の助言を求めるのと同様に。したがって賢者も時には賢者の役に立ちます。助言し合うことによって。しかし賢者は、重要で神聖と呼ばれる問題についても、共に立派な事柄について話し合ったり、自身の考えや発見を教え合ったりすることで、互いに役立つことでしょう。15. さらに、友人たちに愛情を示し、彼らの進歩をあたかも自分のことのように喜ぶのは、自然に従ったことです。なぜなら、もしわれわれがそのようにしなかったら、認識を鍛えることによって強化するわれわれの美徳すらも、われわれの内の留まらなかったでしょうから*7。ところで、美徳はわれわれに、現在をよく整え、将来のことを考え、熟慮して心を備えるよう忠告します。そして、友人と共に熟慮する者は、より容易に頭を働かせて問題に対処することができます。

 ですから、賢者は完成された人か、完全に近いところまで進歩した人を求めるでしょう。そのうえ、この完成された賢者は、われわれが普通一般の思慮分別をもって助けるならば、われわれを大いに助けてくれるでしょう。16. 人は一般に、他者のことについてのほうがより分別を持てるものです。自己愛により盲目になり、危機に際して恐怖により有益な事柄に対する明瞭な視野を失った人には、そうした分別が欠けてしまいます。人は平静で恐怖心から解き放たれている時、より賢くなるのです。そして、たとえ賢者であっても、自分自身のことよりも他人のことの方がより問題を明晰に把握できるということがあります。さらには、賢者は仲間の賢者と共に、「同じものを望み、同じものを望まない*8」という最も好ましく、褒むべき格言の真実性を確かめるでしょう。彼らが「同じ頸木で」重荷を引く時、崇高な成果が現れるでしょう。

 17. このように僕は、君がお尋ねのことについて答えしましたが、以上の内容は、僕が「倫理哲学の書」で扱っている一連の問題に属することでもあります。そして、僕がいつも言っているように、このような問題はわれわれにとって頭の体操以外の何の意味もないということを忘れないで下さい。というのも、僕は繰り返し、次の考えに立ち戻るのです。つまり、このようなことが、僕に何の益がありましょう?今すぐ僕をより勇敢に、より公正に、より節度ある人間にして下さい!僕はまだ、自分で自分を鍛えることはできません。というのも、僕は未だ医者を必要としているからです。18. どうして君は僕に、無駄な知識を求めるのですか?君は僕に、素晴らしいことを言ってくれました。僕を試し、僕を見張って下さい!君は僕に言いました。たとえ刀剣が僕の周りで閃いていたとしても、たとえ刃の先端が喉元にあったとしても、僕が恐れるべきものは何もないと。君は僕に言いました。たとえ僕の周りで火が燃え盛っていても、あるいは突然の暴風が僕の船を襲って海中へ連れ去っても、僕は平静であるべきだと。僕が快楽や栄光を軽蔑できるような、そのような治療法を僕に授けて下さい。その後で、複雑な問題を解明し、疑わしい点を明確にし、曖昧な事柄を見抜く方法を教えて下さい。しかし今は、僕が知るべきことだけを教えて下さい!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 109 - Wikisource, the free online library

・解説

 賢者と賢者の友情にある美しさを説く。この書簡でもセネカ自身も批判しながらも割とどうでもいい屁理屈に拘っているが、そうした書簡の中では比較的読みやすく、中身を有意義な方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「助ける側の賢者」=「蜂蜜」。「助けられる側の賢者」=「味わう人」とすると、蜂蜜が甘いのは食べる側の性質であって、食べられる蜂蜜自体は甘くない、ということになる。そのような理屈は成り立たないから、賢者が賢者の役に立たないのは誤りだ、という意味。

*2:ここでいう「健全」は「善き人であること」の意味。甘い蜂蜜が、健康な人によってのみ甘いと感じられるように、善き人は、善き人によってのみ役に立つということ。

*3:仮に熱が自分で自分を維持するとしても

*4:正義、勇敢、節制、寛容、賢慮etc…

*5:おそらくペリパトス学派

*6:善悪に関係のないもの。ἀδιάφορα(アディアポラ)。書簡82.10参照。

*7:役立つことによって自分自身の役にも立つことがなくなるので。

*8:書簡20.5参照