1. 僕はもう君のことを心配することはありません。「どの神を、」君はお尋ねになる。「あなたは私の保証人と定めたのですか?」お伝えしましょう。誰も欺くことのない神。正しく善良なものを愛する神です。君のより善き部分は安泰です。運命が君に、害を加えることはあるかも知れませんが、肝心なのは、君が君自身に害を加える恐れはないということです。君が始めた通りに、進み続けて下さい。そうした生き方に落ち着ついて下さい。穏やかに、かつ、だらけることなく。2. 僕はだらけるよりは、悪いほうがいいと思います。「悪い」という言葉は一般に言われるように、「困難で」「粗悪で」「労苦に満ちた」人生を生きるという意味に解釈して下さい。われわれは或る人々の人生が周囲に羨まれ、賞賛を受けているときに、「あの人は穏やかに暮らしている」と言います。しかしこれは、「彼は柔弱だ」という意味です*1。つまり、魂は徐々に女々しくされて、その耽っている安寧と怠慢に相応しく弱められるのです。ではどうでしょう?男子たるもの、弱くなるよりは、悪くなるほうがましではないでしょうか?それでいて、この伊達男たちは、(死んでいるも同然の)自らの人生と同じ状態を恐れます*2。しかし、無為の生活と自然の死では大きな違いがあります!3. 「しかし」君は言われる。「あのような用務の妨害の渦中に巻き込まれるよりは、無為の中に横たわる方がまだよくはないですか?」多忙も無為も、どちらも好ましいものではありません。香料まみれの寝台に横たわる者は、処刑人の鉤に引きずられている者*3と同じで、死んでいるようなものです。
勉学のない閑暇は死であり、生きた人間の墓場も同然です。4. 次に、隠居することの何が役に立つのでしょう?あたかもわれわれの不安の真の原因が、海を越えて追いかけてくることはないかのように!どこか、死の恐怖が入り込んでこない隠れ場所があるのでしょうか?苦痛や恐怖に脅かされないほどまでに堅固にされた、隔離された平和な生があるのでしょうか?君がどこに隠れようと、人の世の災いが君の周囲を騒がせます。沢山の外部のものが、われわれを取り囲み、われわれを欺き、われわれの重荷となります。その中には、たとえ孤独の中にあっても、われわれを悩ませ、葛藤させるものが沢山あります。
5. ですから、哲学という鉄壁を周囲に築いて下さい。それはたとえ運命が多くの兵器をもって攻撃してきても、破られることはありません。魂は、外的なものを捨て去れば、難攻不落の高みに立ちます。自身の城砦の内にあって自由であり、どんな武器が投げられても、届くことはありません。われわれが考えるほど、運命は腕を長く伸ばしません。運命が捕えるのは、自分にしがみつくものだけです。6. ですから運命からは、できるだけ距離をおきましょう。このことは、われわれ自身と自然界に関する知識*4を通じてのみ可能です。魂が知るべきことは、自分が(死後)どこへ行くのか、(生前は)どこから来たのか、自身にとって何が善で何が悪なのか、何を求めるべきで、何を避けるべきなのか、望ましいものと望ましくないものを見分け、それにより欲望の狂気を鎮め、恐怖の暴走を抑えるような理性とは何か、ということです。
7. ある人たちは、自分たちはそうした災いを、哲学の助けなしに撃退したと豪語します。しかし、何らかの思いがけない試練に晒されると、遅まきながら自分たちの間違いを白状せざるを得なくなります。拷問吏が手を差し出せと命令し、死が近づくと、彼等の口から豪胆な言葉は消え失せます!君はそうした連中に、次のように言うことができます。「近くにない悪に挑むのは、お前にとって容易なことであった。しかし、お前が耐えられると宣言した苦痛がやって来る!お前がそれに対し多くの勇敢な言葉を吐いていた、死がやって来る!鞭が鳴り、剣は煌めく。
アエネイアスよ、今こそお前には勇敢さが、
強き心が必要だ!*5」
8. しかし、こうした心の強さは、言葉ではなく精神を鍛え、死を迎える準備を整え、絶え間なく熟考することでしか得られません。死を受け入れるために君は、空虚な屁理屈で死は悪ではないと君に信じさせようとする連中から、どんな鼓舞も声援も期待してはなりません。というのも、優れたるルキリウス君、僕はギリシャ人の愚かさを嘲笑ってはいるものの、僕も驚くほどに、未だに自分自身からその愚かさを振り払えずにいます。9. われらが師ゼノンも、次のような三段論法を用いています。「いかなる悪も栄誉あるものではない。しかし、死は栄誉あるものである。しかるに、死は悪ではない。」これで解決しました!僕は恐怖から解放されました。これ以後僕は躊躇することなく、断頭台にむき出しの首を差し出すでしょう。しかし、死にゆく人を笑わせるのではなく、もっと威厳あることを言おうとは思いませんか?じっさい、ルキリウス君、このような三段論法を立てることで死の恐怖を和らげられると考えた人の方が愚かなのか、それとも、これに反論することがあたかも重要なことに関係があると考えた人の方が愚かなのか、僕には容易には分かりません!10. というのも、反論者自身も、われわれが死を「無関係のもの」——これはギリシャ人が「ἀδιάφορα*6」と呼ぶものの一つです―—と見做すという命題に沿って、別の三段論法を立てているからです。「何も」彼(反論者)は言います。「栄誉あるものではない。善悪に無関係のものは。しかし、死は栄誉あるものだ。しかるに、死は善悪に無関係のものではない。」君は、この三段論法に潜む誤謬がお分かりでしょう。じっさい、単なる死は栄誉あるものではありません。しかし、勇敢な死は栄誉あるものです。そして君が、「善悪に無関係なものは何も栄誉あるものではない。」と言うなら、僕はそれをある程度は認めますが、「善悪に無関係なものの周辺にしか、栄誉あるものは何もない*7。」と解釈します。僕が「無関係なもの」——つまり、善でも悪でもないもの―—と見做すのは、病気や、苦痛や、貧困や、追放や、死です。11. これらはいずれも、それ自体は栄誉あるものではありませんが、それらから離れては何も栄誉あるものにはなりません。なぜなら、われわれが賞賛するのは貧困ではなく、貧困で対して卑屈になったり服従したりしない人だからです。またわれわれが賞賛するのは追放ではなく、他人を追放したかのような精神をもって追放される人物です*8。われわれが賞賛するのは苦痛ではなく、苦痛に何一つ強いられない人物です。われわれが賞賛するのは死ではなく、死に魂を乱される前に、自らの魂を奪った人物です。12. これらは全てそれ自体では、立派なことでも栄誉あることでもありません。しかし、美徳が近づき触れたものは何であれ、美徳の手によって立派な、栄誉あるものとなります。それらは単に中間的なものであり、重要な問題は、邪悪がそれらを捉えるのか、美徳がそれらを捉えるのか、ということだけです。たとえば、カトーの場合には栄誉あるものであった死が、ブルートゥス*9の場合にはたちまち卑屈で恥ずべきものになります。つまり、このブルートゥスは死刑の身にあったのですが、自らの処刑の延期を求め、用を足すために少しその場を離れた後、執行のために呼び戻され、首を差し出すよう命じられた時、このように叫びました。「生かしてくれれば、首は差し出します!」もう引き返せない状況で逃げようとするとは、何と狂っているのでしょう!「生かしてくれれば、首は差し出します!」彼はこうもつけ加えるところでした。「アントニウスの下であっても!」この男はまさに、生に委ねられるに相応しい男です*10!
13. しかし、僕が述べたように、死それ自体は善でも悪でもありません。カトーは死を最も栄誉あるものとして扱い、ブルートゥスは最も醜悪なものとして扱いました。あらゆるものは、美徳が加わることによって、それまで持たなかった栄光を帯びます。日当たりが良くても、夜は真っ暗になる部屋についても同じことが言えます。昼はそこに光を満たし、夜はそこから光を奪います。14. ですからわれれれが、善悪に関係ないつまり「中間的」と呼ぶものも同様です。つまり、富、権力、美貌、名声、帝位や、それらと対極にある、死、追放、病気、苦痛及びその他のあらゆる、われわれに多かれ少なかれの恐怖を抱かせ動揺させる災いといったものです。これらに対し善や悪といった名称を与えるのは、美徳ないしは邪悪です。物体は、それ自体の性質においては熱くも冷たくもありません。炉にくべれば加熱され、水に落とされれば冷却されます。死は、栄誉あるものと関わることで、栄誉あるものとなります。これがすなわち美徳であり、最も困難な事柄をも軽蔑する魂です。
15. さらに、われわれが「中間的」と呼ぶこれらのもののうちでも、大きな差異があります。たとえば死は、髪の本数が偶数か奇数かといった問題のような意味での、中間的なものではありません。死は実際には悪ではないものの、悪の様相を持つものの一つです。われわれには自己愛や、生命の維持と自己保存欲、そして消えて無くなることに対する忌避感が植え付けられています。なぜなら、死はわれわれから多くの善いものを奪い、慣れ親しんだ多くの諸事物からわれわれを引き離すように見えるからです。そして、われわれに死を嫌悪させる要因はもう一つあります。それは、われわれは現在の状況は把握していますが、自分自身が移行する未来の世界*11については無知であり、未知の事柄に怖気づくことです。さらに、死が導く影の世界に対する恐怖は、自然なものでもあります。16. ですから、たとえ死が善悪に無関係のものであっても、だからといって簡単に軽蔑できる訳ではありません。魂は長い訓練によって鍛えられ、死の様相とその到来に耐えることを学ばねばなりません。
死は通常よりももっと軽蔑されねばなりません*12。なぜならわれわれは、死に関してあまりに多くの(下らない)話を信じているからです。多くの人々が死の悪評を高めるべく、その才知を競わせてきました。彼らは、地下界の牢獄や、永遠の夜に閉ざされた世界を想像しました。そこでは、
血塗られた洞穴で、巨大な地獄の番犬が、
半ば食いかけの骨の上にその体躯を横たえ、
不断の咆哮をもって、
肉体を失った霊たちを脅かす*13。
たとえ君が、これらの内容はおとぎ話に過ぎず、死人が恐れるものなど何もないと確信していたとしても、別の恐怖が君に忍び寄ります。なぜなら、地獄に行くのではないかと恐れるのと同じくらい、どこへも行かないのではないかと恐れるのですから*14。
17. 長年われわれが信じ込まされてきたこうした臆見に対して、次のように考えることは可能でしょうか?すなわち、勇敢に死を耐えることが、どうして栄誉あること見做され、人間の精神における最も偉大な業績の一つとして数え入れられないことがあろうか?というのも、もし死が悪であると信じるなら、心は決して美徳に達することはありませんから。しかし、死を善悪に無関係なものと考えれば、心は美徳へと高まるでしょう。人々が悪だと信じているものに向かって偉大な精神で近づくことは、元来自然本性に基づくものではないので、〔未熟な人は〕のろのろと、躊躇いながら進んでいくでしょう。しかし栄誉あるものは、不本意や抵抗の中からは生まれません。美徳が強制されて何かをすることはありません。18. さらに、人の行為は、行為者がそれに専心し、全身全霊で取り組み、心のいかなる部分もそれに抵抗を抱かないのでなければ、栄誉あるものとはなり得ません。しかし、人は悪に近づく時、より大きな悪への恐怖と善への希望によって―—この善は一つの悪*15に耐えてでも達成する価値のあるものですが―—、その心は正反対の二方向へ引き裂かれます。一方には、目的の遂行を命ずる心があり、もう一方には、自分自身を拘束し、不安をもたらし危険へと導くものから逃亡させる心があります。したがって、相反する方向に引き裂かれます。もしこうなれば、行為から栄誉は消え去ります。なぜなら、美徳は心が自分自身と調和している時のみ、その計画を達成できるからです。その行う所に、恐怖の要素は全くありません。
悪に屈せず、勇敢に、
運命が導くところへ、どこまでも進みなさい*16。
19. 君はあれらのものを本当に「悪」だと信じているなら、「勇敢に進む」ことはできません。そうした考えを心から完全に排除せねばなりません。そうでないと、君の疑念は不安定なまま居座り、行為への衝動を妨げることになりますから。君は兵士のように、突撃を(不本意に)強制されるような状況に追い込まれるでしょう。
われわれの学派は確かに、ゼノンの三段論法*17は正しく、僕の述べた別の三段論法*18は欺瞞的な間違いだと考えるでしょう。しかし僕としてはそうした問題を、弁証法における規則の問題や、全く古臭い些末な技巧の問題に帰したくはありません。僕は、質問を投げかけられた人がそれに騙されたように感じ、無理やりに認めさせられ、考えていることと実際に言うことが食い違ってしまうような類のこと*19は、全て排除すべきだと考えます。真理に関することでは、われわれはもっと率直にならねばなりません。そして、恐怖に対しては、われわれはもっと勇敢にならねばなりません。20. 弁証学者が些末なことを混ぜ込むあのような問題それ自体を僕は、理性をもって解決し、よく検討したいと思っています。人を欺くためではなく、説得するために。
妻や子のために死ぬ覚悟ができている軍隊を率いて戦いに赴く将軍は、どのように彼らの戦意を鼓舞するでしょう?ファビウス一族*20を例にとりましょう。彼らは国家全体に関わる戦争を、ただ一家に引き受けました。まさにあのテルモピュライの隘路に布陣した、スパルタ人のことも取り上げましょう*21!彼等には勝利の望みも、帰還の望みもありませんでした。彼等の立つ地が、彼等の墓となるのです。21. どのような言葉で、彼等を励ましたらよいでしょう?隘路を体そのもので防ぎ、種族全体の滅亡を一身に引き受け、戦場から退却するのではなく、生から退却するために。君は、「いかなる悪も栄誉あるものではない。しかし、死は栄誉あるものである。しかるに、死は悪ではない。」と言うのでしょうか?何と効果的な演説でしょう!このような言葉を聞いた後に、敵の槍に身を晒し、立ったまま死ぬことを躊躇う者があるでしょうか?しかしレオニダスについては、彼は何と勇敢に部下を励ましたことでしょう!彼は言いました。「戦友諸君、朝食を摂ろう。夕食はあの世でするつもりで!」食べ物が口の中に留まることも、喉につかえることも、手からこぼれ落ちることもありませんでした。彼らは朝食の招待にも夕食の招待にも、喜んで応じました!22. あの名高いローマの将軍*22のことも思い出して下さい。彼の軍は或る地の攻撃のために送られたのですが、敵の大軍の中を進む必要が生じた時、彼は自分の部下達に、次のような言葉で語りかけました。「戦友諸君、われわれ今あちら側へ行かねばならぬが、戻らなければならぬ、ということはない*23!」
さて君は、美徳がいかに率直で、かつ断固たるものであるかが分かったでしょう。しかし、かの欺瞞的な論理で、一体誰をより勇敢に、より高潔にすることができるでしょう?そうした屁理屈はむしろ精神を破壊するものです。精神は偉大な仕事が計画されてる最中に、些末で小難しい問題への対処を強いられたり、それに捉われたりするべきではないのです。23. かの(テルモピュライの)三百人だけでなく、人類全てが、死の恐怖から解放されねばなりません。しかし、死は悪ではないということを、どのようにして全ての人々に示せばよいでしょうか?どのようにして、幼少期からわれわれに染みついている、過去の俗見を克服したらよいでしょうか?人の無力さに、どのような助けを見出せばよいでしょう?人の熱意を焚きつけ、危険の真っ只中に突撃させる言葉は何でしょうか?どんな説得力のある演説で、この普遍的な恐怖の感情を反対のものへと転じ、どんな才知の力で、君に反論する人間一般には当然の確信*24を、反対のものへと転じることができるでしょう?君は僕のために、言葉遊びを仕掛けるでしょうか?あるいは些末な三段論法でも作り出すでしょうか?大きな怪物を退治するには、大きな武器が必要です。24. あのアフリカの大蛇のことを考えてみて下さい。ローマ軍にとっては戦争よりも恐ろしい存在で、矢や投石器による攻撃でも無駄でした。その巨大な体躯と、大きさに伴う頑丈さにより、槍やその他の、人の手によって投げられた全ての武器を跳ね返したので、「ピューティウス*25」でも傷つけることはできませんでした。挽き臼ほどもある岩石により、やっとのことで押し潰しました。それなのに君は、死に対しても、そのようなちっぽけな武器*26を投げつけるのでしょうか?錐で迫り来るライオンを防ぐのでしょうか?君の議論は確かに鋭いものですが、麦の芒ほど鋭いものはありません。そしてある種の議論は、まさにその鋭さ自身のために、無益で、役立たずのものになります。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 82 - Wikisource, the free online library
・解説
セネカはたびたび無益な問答論法を非難しているが(書簡45や書簡48)、われわれ現代人も議論にすらなってない無益な言葉の応酬や、センスが皆無の言葉遊びや、全く状況に一致しない「用語」の垂れ流しに夢中になっているのを見るに、セネカの非難も、これだけやっても決して充分ではなかったのだろう。
*1:ラテン語の「mollis」の意味は、辞書では「1:柔らかい」「2:柔軟な、しなやかな」「3:弱々しい」「4:通行しやすい、なだらかな」「5:耐えられる、ゆるやかな」「6:(天候が)穏やかな」「7:快い」「8:(動き・状態が)静かな、穏やかな」「9:優しい、柔和な」「10:影響されやすい、感じやすい」「11:軟弱な、女々しい、臆病な」「12:(動物が)おとなしい」である。
*2:すなわち、死を恐れるということ。死んでいるのと同様な生き方をしながら死を恐れる態度については、書簡77も参照。
*3:戦いに敗れて死んだ剣闘士は、このように運ばれた。
*4:すなわち哲学
*5:アエネイアス6.261
*6:善にも悪にも関係ないもの。
*7:結局は、善悪に無関係なことを扱わない限り、栄誉あるものは何もない、ということ。
*9:前83~43年。カエサルの暗殺に加わったローマの政治家、軍人。ムティナでアントニウスにほって包囲攻撃を受け、自軍に見捨てられ、アントニウスによって処刑された。
*10:もちろん皮肉で、「生の手に引き渡される」「生の餌食になる」「終身刑になる」など色々な訳があるが、あえて直訳してみた。
*11:死後世界のこと
*12:おとぎ話や空想で馬鹿げたことを語るのではなく、真の意味で軽蔑せよ、と言っている。
*13:[「アエネイアス」8.296~297と、5.401を組み合わせたもの。
*14:仮に死後の世界が存在しないとしたら、地獄に行く恐怖はなくなっても、死後に無になることに対する恐怖がやってくるということ。
*15:危険や苦痛といった
*16:「アエネイアス」6.95~96
*17:「いかなる悪も栄誉あるものではない。しかし、死は栄誉あるものである。しかるに、死は悪ではない。」
*18:「善悪に無関係なものの周辺にしか、栄誉あるものは何もない」
*19:書簡45,書簡48に出てくるような屁理屈による問答論法
*20:古代ローマの名家。遠征の地でただ一人の若者を残して滅んだ。
*21:前480年、テルモピュライの戦い。レオニダス王は300人のスパルタ兵を率いて、ここでペルシャ軍を迎え打って全滅した。
*22:カルプルニウス。第一次ポエニ戦役でのシチリア島でのこと。
*23:生きて帰る必要はない。進軍あるのみ、ということ。
*24:死への恐怖
*25:巨大な攻城兵器。デルフォイで大蛇ピュートーンを倒したアポローン神の異名。
*26:無益な問答論法