徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡99 肉親を失った人への慰めについて

 1. 僕はマルッスス*1が幼い息子を亡くし、女性のように嘆き悲しんでいると聞いて彼に書き送った手紙の写しを君に送ります。その手紙では僕は通常の慰め方には従いませんでした。というのも、僕は彼が優しく扱われるべきではなく、彼に必要なのは慰めよりも叱責であると考えたからです。人は打ちのめされ耐え難い悲痛を抱いている時、少しの間は悲しみに暮れることは許されます。思う存分に悲しみ、最初の痛みを和らげるべきです。しかしいつまでも悲しみに耽るような人はすぐにでも叱責されるべきであり、涙の中にもある種の愚かしさがあることを学ばねばなりません。

 

〔以下、マルッルス宛の手紙が最後まで続く。〕

 

 2. 「君は慰めを待っているのですか?代わりに非難を与えましょう!君は息子の死を女性のように悲しんでいますが、失ったのが親しい友人だったら、どうしていたでしょう?君が失ったのは、将来も定かではない小さな息子であり、小さな時間です。3. われわれは悲嘆の口実を探し求めます。そして、あたかも運命はわれわれに不平を述べるための正当な理由を与えてくれなかったかのように、われわれは運命に対してさえ、不正にも不平を述べます*2!しかし誓って言いますが、僕は君が実際の悲運に立ち向かうのに十分な精神を持っていると思っています。ましてや、人々がただ習慣として嘆くような災いの影については、言うまでもありません。もし君が失ったのが友人であったなら(そしてこれは何より大きな悲運ですが)、君は友を失ったことを悲しむよりも、友を得ていたことを喜ぶよう、努めねばならなかったでしょう。」

 4. 「しかし大多数の人々は、どれほど沢山の恩恵を得ていたか、どれほど大きな喜びがあったかを数え上げようとはしません。君の今の悲しみには、その他の多くの悪徳の中でも、際立って悪い点があります。つまりそれは無益なだけでなく、恩知らずでもあるということです。君がそのような友を持っていたことは、無意味なことだったのでしょうか*3?長年に渡る、それほどの親密な付き合いの中で、それほどの深い共同作業の中で、何も成し遂げられなかったのでしょうか?君は友人と一緒に、友情をも葬り去るのでしょうか?そして、もし友人との付き合いが無意味であったなら、なぜ失ったことを嘆くのでしょうか?信じて下さい、われわれが愛した人は、たとえ偶然によって奪い去られても、その大部分はわれわれの中に生き続けるのです。過去はわれわれのものであり、われわれにとってこれ以上に安全なものはありません*45. われわれが過去の恩恵に感謝しないのは、未来への期待のためです*5。どんな未来もわれわれのもとに来ればすぐに過去のものになるのに、あたかもそうではないかのように。人々は現在のみを楽しみ、自分の喜びを狭い範囲に限定させますが、未来と過去はどちらもわれわれの喜びになり得ます。未来は希望によって、過去は思い出によって。このうち未来は運命に依存し生じない可能性がありますが、過去は確実に生じたことです。」

 「ですから、何よりも確かなものを手放すとは、何と狂ったことでしょう?われわれは、過去に飲み干した喜びに、満足すべきです。それを飲み干している間に、魂に穴が空いて、飲んだものを全て振るい落としていなければの話ですが。6. 若い盛りの子供を涙一つ流さずに埋葬した人は大勢います。彼らは葬儀場から元老院、あるいは何らかの公務に戻り、直ちに別の仕事に打ち込んだのです。そしてそれは当然のことでした。なぜなら第一に、悲しみに益がないなら悲しむことは無意味ですし、第二に、全ての人にこれから起こることが、個人に起きたからと言って嘆くのは不当だからです。そのうえ、失う者と失われる者の隔たりが僅かであるのに、喪失を嘆くことは愚かです。それゆえ、われわれは亡くなった人のすぐ後に続くので、精神をもっと平静に保つべきです。」

 7. 「あらゆる物事の中でも最も速い、時の流れに注目してみて下さい。われわれが全速力で駆け抜ける、この道の短さを考えてみて下さい。あの人類の群れは、全員が同じ地点に向かっており、その間隔はたとえ最長のように見える人でも、ほんの一瞬に過ぎません。君が死んだと思っている人も、先にそこに到達しただけです。そして、君自身も同じ旅の途上にあるのに、先行者について嘆き悲しむほど愚かなことがあるでしょうか?8. 起こると分かっている出来事を、人は嘆くでしょうか?あるいは、人が死の運命にあることを考えていないなら、それは自分を欺いているのです。避けられないと覚悟した出来事を人は嘆くでしょうか?或る人の死を嘆く人はみな、その人が人間であったことを嘆いているのです。誰もが同じ条件に縛られています。生まれた人は、死ぬ運命にあります。9. われわれは期間は異なっても、死によって平等になります。われわれの生涯の最初の日と最後の日の間の時間は様々に異なり、一定ではありません。苦労によって測れば少年にとってすら長いですが、速度によって測れば老人にとってすら短いのです。あらゆるものは移ろいやすく、危うく、どんな天気よりも変わりやすいのです。全てのものは運命の命令に従ってあちらに駆り立てられ、こちらに翻弄されます。このような、死すべき人間どもの混乱のさ中にあって、唯一死のみが、誰にとっても確実なものです。それなのに、全ての人は、誰も欺かれることのないこの唯一つのことに不平を言うのです。10. 『しかし、あの子は幼くして亡くなったのだ。』僕はまだ、早くに人生の終わりを迎える方がよいとは言えません。(その前に)老年に至った人について考えてみましょう。彼が子供より優れている点は、何と僅かなことでしょう!広大な時間の深淵と、全宇宙の巨大さついて考えてみましょう。そして、われわれが人間の一生と呼んでいるものと、無限を比べてみましょう。そうすれば、われわれが請い願い、引き延ばそうと思っているものがいかに短いものであるかが分かります。11. その時間のどれほどが涙に費やされ、どれほどが心配に費やされていることでしょう!どれほどが、死が訪れてもいないのに死を求める祈りに、どれほどが病気に、どれほどが恐怖に費やされていることでしょう!どれほど多くが、怠慢や無益な労力に費やされていることでしょう!そして、その時間の半分は、睡眠に費やされるのです。その上さらに、われわれの苦労や悲哀や危険を加えれば、どれほど長い人生であっても、本当に生きていると言えるのはそのほんの一部に過ぎないことが理解できるでしょう。12. しかしながら、誰が君が次のように言うのを認めるでしょうか*6?『早いうちから元来た所に帰ることを許され、人生に疲れ果てる前に旅路を終えた人の方が、いっそう幸せでない。』などと。人生そのものは善でも悪でもありません。それは善と悪が存在する場所に過ぎません。ですから君の子供も、利益よりも損失の方が確実な賭け*7を除いて、何も失ってはいないのです。彼は穏やかで、聡明な人物になったかも知れませんし、君の養育により、より善き人物に形作られたかも知れません。しかし(こう考える方がより合理的ですが)、その他大勢の人たちと、同じような人物になったかも知れません。13. 浪費ゆえに闘技場に追いやられた、最も高貴な家柄の若者たちを見て下さい。恥も外聞も捨てて、互いに情欲を満たしあうあの男たちを見て下さい。彼らは酩酊や、何かしらの破廉恥な行為を欠いて過ごす日は決してないでしょう。ですから、(君の息子にしても)将来の期待よりも不安の方が大きいことが、お分かりになるでしょう。」

 「ですから君は、悲嘆の口実を求めたり、悲憤によって小さな災いを大きなものにするべきではありません。14. 僕は君に、奮闘努力して高みに至れと言っているのではありません。というのも、この問題に対処するには君が持てる全ての美徳を振り絞る必要があると考えるほど、君に対する僕の評価は低いものではないからです。君のそれは悲痛ではありません。単なる刺し傷であり、それを痛みに変えているのは君自身です。」

 「父親よりも乳母によく懐いていた子供の死を、強い心で耐えることができるなら、哲学が君に大いに役立つことは、疑いようがありません!15. そして、どうでしょう?僕は今君に、葬儀の際には表情一つ変えず、心に痛みすら感じないように、魂を強張らせろと言っているのでしょうか?決してそうではありません。それは美徳ではなく、情愛の欠如です。親しかった大切な人たちの埋葬を、生前の当人を見ていた時と同じ表情で眺め、親族との死別の最初の瞬間にも、何ら感情を動かされない、などということは。しかし僕は、その感情を〔積極的に〕表に出すことは禁じると考えて下さい。ある種の感情には、それなりの正当性があります。涙はどれだけ堪えてもこぼれ落ちるものですし、流すことで心を軽くします。16. それでは、われわれはどうするのがよいでしょう?涙がこぼれ落ちるのは許しましょう、しかし、無理にこぼすのはやめましょう。眼を溢れさせる感情に沿って流しましょう、しかし、単なる人真似に強いられてはやめましょう*8。自然な悲しみに何も加えず、他の人の涙を真似てそれを増大させたりもしないでおきましょう。悲痛を見せびらかすためには、悲痛そのものよりも大きなことが必要です。自分一人で悲しむ人は、何と少ないことでしょう!人は他人に聞かれることで、いっそう大きな声で嘆くのです。一人の時は大人しく黙っていても、近くに他人がいるのを見るやいなや、新たな涙の発作が起こります!そのような時、彼らは自分の頭を叩きつけるのですが、そんなことは、誰も止める人がいなければ、もっと容易に行えたはずです。そのような時、彼らは死を願いますし、そのような時、彼らは寝台から転げ落ちます。しかし彼らの悲痛は、見る人がいなくなれば止むのです。17. 他のあらゆる問題と同様に、この問題においても、われわれは次の過ちに捉われています。すなわち、多くの人々がすることを真似ること、そして道義心ではなく習慣に従うことです。われわれは自然から離れ、大衆に身を委ねています。彼らは何事においても決して善き助言者たり得ず、この点についても他のあらゆる点と同様に、最も一貫性のない連中です。彼らは悲しみに勇敢に耐えている人を見ると、不人情で野蛮な人物だと言います。そして倒れ込んで死体にすがり付く人を見ると、女々しく軟弱な人物だと言います。18. であるから、全ては理性に照らし合わされねばなりません。しかし、評判のために悲しみ涙をこぼすことほど、愚かなことはありません。賢者であれば、自らこぼれ落ちることを許す涙もあれば、必要に駆られて流す涙もある*9、と僕は考えますから。」

 「この(賢者の)二種類の涙を説明しましょう。悲しむべき喪失の最初の知らせがわれわれを打ちつけた時、われわれの腕から火葬の場に移される際、最後にその身を抱き締める時、このような時われわれは、自然の必然と生命の力により、涙が絞り出されます。悲しみの衝撃により全身が震え、両目もまた震え、その内側にある涙が押し出され、溢れ出るのです。19. このような涙は、われわれの意思に反して、不可抗力的に零れ落ちます*10。しかし、もう一つ別の涙があり、われわれが失った人たちとの記憶に思いを馳せる時、流すことを許す涙です*11。そして、心地よい声、楽しかった付き合い、かつてのその人の功績などの思い出の中には、ある種の甘美な悲しみがあります。そのような時、われわれの両目は言うなれば嬉しさで緩みます。前者の種類の涙はわれわれが克服すべきものであり、後者の種類の涙は享受することが許されます。」

 20. 「ですから、大勢の人が君の目の前にいようと隣に座っていようと、そのために涙を押し留めたり、無理に流したりする必要はありません。抑えるにせよ溢れさせるにせよ、偽ってそうするより恥ずべきことは決してないからです。涙は自然に流しましょう。しかし、静かで落ち着いた人が流す涙というものもあります。しばしば賢者の尊厳を損なうことなく流れた涙もありました。それは人情も威厳も欠けることがないほど節度のあるものです。僕は言いますが、われわれは自然に従いながらでも尊厳を保つことができます。21. 僕はかつて尊敬に値する幾人かの人々を目にしました。彼らは近親者の葬儀において、喪の儀礼が一通り終わった後でも、その顔つきには哀悼の念がはっきりと表れており、純粋な感情の許す以外の振る舞いは、何一つしませんでした。悲しみ方にも、美しさというものがあり、賢者はそれを遵守すべきです。そして、他のことと同じように、涙にもある種の適度があります。喜びと同様、悲しみを濫用するのは愚か者です。」

 22. 「避けられないことは、平静な心で受け止めねばなりません。どんな信じ難いことが起こったのでしょうか?どんな新奇なことが?今この瞬間にも、どれほど多くの人が葬儀の準備をしていることでしょう!どれほど多くの人が喪服を購入していることでしょう!君の悲しみの後でも、いかに多くの人が悲しんでいることでしょう!亡くなった君の子供についてと同じくらい、人間というものについて考えてみて下さい。人間にとって確かな約束など何もなく、運命は誰しもを必ず老いの限界まで連れて行くとは限らず、適切だと判断した時点で、死へと導くのです。23. けれども君は、その子のことを頻繁に話し、出来る限りその子との思い出を抱き留めて下さい。その思い出は、もし君がつらさを感じることなく思い出せば、それだけしばしば君の元に戻ってくるでしょう。なぜなら誰も、悲しみに暮れている人と喜んで会話をしようとは思いませんし、ましてや悲しみそのものとは、なおさら思いませんから。そして、その子のどんな言葉も、どんなささいな冗談も、君が楽しく聞いていたのであれば、それを繰り返し思い出して下さい。そうすれば、その子は君が父親として抱いていた希望を満たすことが出来るということを、どうか信じて下さい。24. じっさい、亡くなった最愛の人のことを忘れ、彼らの肉体と共にその思い出をも葬り去り、盛大に嘆き悲しんだ後は、ほとんど彼らのことを思い出さないようなことは、不人情な心の証です。それは鳥や獣が子を愛するやり方です。鳥や獣の愛情は激しく、殆ど狂気に近いものですが、子が死ぬと愛情は完全に消え失せます。そのような態度は、分別のある人間には相応しくありません。人はずっと覚えているべきですが、嘆くのはやめるべきです。25. そして僕は、悲しみに似たある種の喜びがあり、このような時にはそれを追い求めるべきだという、メトロドロスの言葉を認めはしません。これはメトロドロスが言ったままに書いています。26. これについて君がどのように感じるかは、疑うまでもないことです。というのも、悲しみの真っ只中にあって、いやむしろ悲しみを手段として、喜びを『追い求め』て、涙を流している最中にさえも喜びを与えてくれるものを探し出すことほど、恥ずべきことがあるでしょうか?メトロドロスらは、われわれストア派をあまりに厳しすぎると非難し、その教えを不人情だと中傷します。われわれが、悲しみを心の中に迎え入れるべきではなく、すぐに追い払うべきだと主張しているからだ、という理由で。しかし、どちらがより不人情でしょうか―—友人を失っても悲しみを感じないことと、悲しみの最中にすら快楽を求めて奔放することと?27. われわれストア派の忠告は立派なものです。感情が適切な涙をこぼさせた後で、言わば溢れ出るのが止んだ後では、魂は悲しみに身を委ねるべきではない、という教えです。しかしメトロドロスよ、その悲しみに喜びが混ぜ合わされるべきだとは、どういう意味でしょう?それは子供を甘い菓子でなだめるような、泣き喚く幼児に乳を与えてあやすようなやり方です!」

 「わが子が火葬に付される時、友人が最後の息を引き取る時、君(メトロドロス)は快楽を止めないどころか、悲しみを快楽でくすぐろうというのでしょうか?魂から悲しみを取り除くことと、悲しみの中にすら快楽を見出すことでは、どちらがより立派でしょうか?『見出す』と僕は言ったでしょうか?いいえ、僕が言ったのは『追い求める』という意味です。悲しみそのものからでも。28. メトロドロスは言います、『悲しみに似たある種の楽しさがある』と。われわれストア派ならそうように言うことは許されますが、君(メトロドロス)らには許されません*12。君たち*13が認める唯一の善は快楽であり、唯一の悪は苦痛です。その善と悪の間には、関連するもの*14があるのでしょうか?あると仮定するなら、それは根絶されるべきでしょうか*15?そして悲しみについても、それがどのような喜びや快楽の原因に取り囲まれているかを、調べようというのでしょうか*1629. 或る薬は体の一部には効果がありますが、他の部分には不相応で、適用できません。また、体のある部分においては負傷者の羞恥心を損なうことなく役立った治療法も、他の部分の傷においては見栄えの悪いものになります。これと同様に、悲しみを快楽によって癒すのは恥ずべきことだとは思いませんか?このような痛みには、もっと根本的な治療法が必要になります。君は次のように忠告されるべきです。すなわち、死んだ者にはどんな不幸も及ぶことはありません。なぜなら、もし及ぶというのであれば、その人はまだ死んでいないからです。30. そして僕は、存在しない者を傷つけるものはなにもないと申します。傷つくことができるのは、その人が生きてるからです。その人を不幸だと考えるのは、その人がもう存在していないからか、それともまだ存在しているからか、どちらでしょう?けれども、もう存在しない人には、どんな不幸も及ぶことはありません。存在しない人には、感覚はありませんから。また、存在している人にしても同様です。なぜならその人は、死がもたらす最大の不利益、即ち存在しなくなることを免れているからです。」

 31. 「子の早すぎる死のために悲しみ、惜しんでいる人には、次ように言いましょう。われわれは皆、若者であれ老人であれ、寿命に関して宇宙の永遠と比較すれば、その生の短さにおいては同等なのです。なぜなら、われわれに訪れる時間は、われわれが『最少』と呼ぶものよりずっと少ないのですから。『最少』とは少しでもあるという意味ですが、われわれが生きる時間は、殆ど皆無に等しいのです。しかし、われわれはなんと愚かにも、その時間を遠くまで広げようとしています。」

 32. 「僕が君にこれらの言葉を書き綴ったのは、君がこんなにも遅ればせな癒しを期待するだろうと思ったからではありません。なぜなら、君が読むであろうようなことは、すでに君自身が自らと語り合ったであろうことは分かっているからです。そうではなく、君が少しの間でも君自身を見失ってしまって立ち遅れたことを叱責しているのです。そして未来に向けて君を励まし、運命に立ち向かうべく君を奮い立たせ、運命のあらゆる一撃を、襲い来るかも知れないのではなく、必ず襲い来るもとだと思って警戒して欲しく思っています。」お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 99 - Wikisource, the free online library

・解説

 度を越して悲しみに暮れることを、セネカはたびたび厳しく諫めている(そしてセネカ自身は友人セレヌスを亡くした時に泣き喚いたことを書簡63で自白している)。一見厳しすぎるようにも見える教えだが、真に人情深い追悼とはこうした態度ではないかと思う。セネカ自身、一人息子を幼くして亡くしている*17。そして、この息子に対しての安っぽい弔辞などを一切書き残さなかったことから、彼が真に息子を哀悼していたのではないかと思う。親しい人の死に際して、相応しく悲しむというのは難しいものだ。しかし、真にその人を大切に思っていたのなら、決して不可能なことではないだろう。

 

 

 

 

*1:後62年の予定執政官ユニウス・マルッスス

*2:運命を非難してまで悲しみに暮れる理由を探すほど、われわれは愚かだとセネカは言っている。

*3:喩え話として「友人の死」を扱っているが、もちろん「子供の死」にも適用される忠告をセネカは以下に述べる。

*4:「人生は、三つの時に分けられる。過去と、現在と、未来だ。これらのうち、われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確かであり、過ごしてきた過去は確かである。過去が確かであるのは、そこには運命の力が及ばず、だれの自由にもできないからだ。」人生の短さについて10.2

*5:「以上のごとき原因のほかに、また幾つかの別の原因もあって、われわれから少なからず重大な任務をむしり取る。それらのうちで第一の、しかも最も強力な原因は、われわれが常に新しい欲望に忙殺されて、現にわれわれが所有しているものではなく、所有せんと求めるものを得ようと努めることである。新しい欲望に執心する者たちにとっては、手もとにあるものはみな、つまらないものになる。」恩恵について 3巻3.1

*6:ここから老年まで生きた人の話から、幼くして死んだ子供の話に戻る。

*7:早くに死んだことで、悪徳へと陥る人生の危険からも逃れることができた。

*8:葬式で他の人が泣いているなら自分も泣こうとする、といったところか。

*9:後述のように、賢者は評判を求めてではなく、それ自体に含まれる苦い喜びのために、自らに強いて涙を流すこともある、ということ

*10:一種類目の涙

*11:二種類目の涙。どちらの涙にせよ賢者は、恥ずべき理由から流したりはしない、ということ。

*12:ストア派の賢者は悲しみの思い出をある種の苦さと共に節度を持って喜ぶが、メトロドロスらのはそうした類ではない、恥ずべき喜びだということ。

*13:メトロドロスを始めとするエピクロス

*14:共通項、ルール。

*15:悲しみに喜びを混ぜることは、苦痛(悪)に快楽(善)を混ぜることで、君たちエピクロス派の教えに反するのではないか?とセネカは非難している。

*16:悲しみにそのような喜びや快楽はないし、見出すべきでもない、とセネカは言いている。

*17:「母ヘルウィアへの慰め」2.5参照