徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡49 生の短さについて

 1. ルキリウス君、ある風景によって友人のことを思い出すというのは、確かに、怠慢で無精な人間の証でしょう。しかし、かつて訪れて親しんだ土地が、心の中に蓄えられていた思慕の念をかき立てます―—呼び戻すというよりは、記憶を休眠から覚まして。あたかも、亡くなった友人のお気に入りの奴隷や衣服、彼の住まいを見ると、時の経過によって和らげられていた、哀悼者の悲しみが再燃するのと同じように。

 そら、ご覧なさい、カンパニアや、とりわけ、ナポリや君が愛するポンペイを。これらの景色を目にすると、僕は君を思う強く新鮮な気持ちに襲われます。君は僕の目の前に立っていて、僕はまさに君と離れるところです。君が涙をこらえ、感情の高ぶりを抑えきれないでいるのが目に浮かびます。2. 僕はつい最近、君を失ったかのようです。記憶を掘り出しているのに、「つい最近」と言ってはいけないでしょうか?僕が哲学の師ソティオン*1の教室で生徒として座っていたのは、つい最近のことです。法廷で誰かの弁護を始めたのも、訴えを起こそうと思わなくなったのも、起こすことができなくなったのも、つい最近のことです。時の流れの速さは計り知れませんが、過去を振り返る人には、いっそうそれがよく分かります。というのも、現在に集中している時、われわれは時間の流れに気付かないので、それを穏やかなものだと思うからです。3. その訳をお尋ねですか?過去の時間は全て同じところにあります。それらは全てわれわれに同じ面を見せ、一様に横たわっています。全てが同じ深淵に沈んでいきます。そして、全体として短い出来事は、長い期間を含むことはできません。われわれが一生で過ごす時間も、ほんの一瞬です、いえ、一瞬にも満ちません。しかし自然は、それ自体は非常に短いものなのに、一見するとより長い時間に思えるようにわれわれを欺きます。自然はそれを切り取り、一部を幼年期に、一部を少年期に、一部を青年期に、一部を青年から老年へと至る穏やかな坂道に、さらに一部を老年期に割り当てました。短い登り坂に、なんと多くの階段を置いたのでしょう!4. 君の旅路を見送ったのは、つい最近のことです。しかしこの「つい最近」がわれわれの存在の大部分を占めています。そしてそれはとても短いので、すぐに終わりを迎えるものであることを、よく意識しなければなりません。老年に至るまで、僕には時間がそれほど速く進んでいるようには思われませんでしたが、それが今や、信じられないほどの速度です。おそらく、死の境界線が近づいていると感じているためか、あるいは僕が意識して、自分が失ったものを数えあげ始めたからかも知れません。

 5. こうしたことから僕は、この時間の大部分を余計なことに費やす人がいることに腹を立てます。その時間はどれだけ注意深く求められたとしても、必要なことすら十分に果たせないのに。キケローは、もし自分に倍の時間があったとしても、抒情詩人を読むことはないと言いました。そして、弁証論者たちにも同じことが言えます。もっとも、彼らはより情けない意味で愚かです。抒情詩人が軽薄なことは分かり切っていますが、弁証論者は自分たちは真剣な問題に取り組んでいると信じています。6. 僕も、弁証法に目を向ける意味を認めない訳ではありませんが、それはあくまで一瞥に過ぎず、戸口からのいわば挨拶であり、騙されたり、こうしたことの追及の中に、非常に優れた事柄が隠されて含まれてると判断したりしないようにするために過ぎません。

 どうして君は、解決するよりも軽蔑したほうが賢明な問題のために、自らを苦しめ、身をすり減らすのですか?兵士は妨害もなく気楽に行軍している時は、道中でつまらぬものを探し求めることもできますが、敵が背後に接近し、行軍の速度を速めるよう命令が下ると、必要に迫られ、平穏で余裕があった時に拾ったものを全て投げ捨てます。7. 僕には論争の的となるような言葉の曖昧な語尾変化を調べたり、それらに自分の小賢しさを費やしてる暇はありません。

見よ、集いし者どもを、閉ざされた城門を、

そして、戦いに備えて磨きぬかれた武器を。*2

 辺りに鳴り響くこの戦いの喧騒を恐れることなく聞くには、僕には勇敢な精神が必要です。8. 年寄りも女も防壁のために石を積み上げ、城門の内側では武装した若者たちが出撃の合図を待ち、いやむしろ待ちきれずにおり、敵の槍が城門を震わせ、地面そのものが坑道や地下道と一緒に揺れ動いている時に、僕が呑気に腰かけて、次のような下らない問答、「君が失わなかったものは君が持っているものだ。君は角を失わなかった。それゆえ君は角を持っている。」あるいはその他の、全く愚かな例に習って作られた屁理屈を語っていたら、誰もが僕を気が狂ったと思うでしょう。9. そして、僕がそんなことに労力を費やしたら、君の眼には同じように僕が狂って見えたでしょう。僕は今も、包囲されているのですから。しかし前者の場合は、僕を脅かしていたのは外部の危険であり、僕は城壁によって敵から守られていましたが、後者の場合、死をもたらす危機が、今も僕の目の前にあります。僕にはあのような馬鹿げたことをしてる時間はありません。僕の手の中には大切な仕事があるのです。僕は何をすべきでしょう?死は僕に迫り、生は過ぎ去っていきます。こうしたことに立ち向かう手段を教えて下さい。10. 僕が死から逃げるのをやめさせ、生が僕から逃げるのをやめさせてください。困難に立ち向かう勇気を与えて下さい。避けられぬ事態に陥っても、僕が落ち着きを失わないようにして下さい。僕に割り当てられた時間の短さを広げて下さい*3。人生の善は、人生がどれだけ長いかではなく、われわれがそれをどのように使ったかによって決まることを教えて下さい。また、長く生きただけの人の人生は短くなりうる、いやむしろ当然そうであることを*4。僕が横になって眠りにつくとき、「あなたは二度と目覚めないかも知れない!」と言って下さい。そして目覚めたとき。「あなたは二度と眠りにつくことはないかも知れない!」と言って下さい。家を出る時に、「あなたは二度と帰らないかも知れない!」と言って下さい。帰ってきたら、「二度と出かけることはないかも知れない!」と。11. 生と死を隔てるものがごく薄いのは船旅の間*5だけだと君が考えているなら、それは間違いです。どこであっても、その隙間はわずかに過ぎません。死はどこでもその姿を隠していますが、いたるところで身近に存在するのです。

 これらの影に潜む恐怖を取り払って下さい。そうすれば、僕が準備していた事柄を、より容易に君にお伝えすることができます。自然はわれわれが生まれた時、教えを受け入れやすくし、完全ではなくとも、完全なものになることができる理性を与えました。12. 正義について、義務について、節制について、そして二重の意味での―—他人の体〔に対する情欲〕を控え、自分の体を大切にするという意味での―—純潔について、論じて下さい。君が僕を遠回りの道に案内さえしなければ、僕は自分が目指している目的地へと、より容易に辿り着くことができます。つまり、あの悲劇詩人が言うように、

真理の言葉は単純である。*6

 ですからわれわれは、真実の言葉を複雑にすべきではありません。そのような狡猾な小賢しさほど、大きな努力をしている魂にふさわしくないものはないからです。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 49 - Wikisource, the free online library

・解説

 人生は短く、無益な問答や言葉遊びに無駄な時間を費やす人は気が狂っているということ。

 

 

 

*1:アレクサンドリア出身のピュタゴラス学派。セネカの幼少時代の師。

*2:アエネイアス8.385~6

*3:「人生の短さについて」では、過去の哲学者に学ぶことで、彼らの時間を自分の時間につけ加え、人生を長いものにできる、とある

*4:長く生きただけの人の人生が無益で短いのは当然だということ

*5:船板のこと

*6:エウリピデス「ポイニキアの女たち」469