徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡79 学問研究の発見の報酬について

 1. 君からのお手紙をお待ちしていました。それにより、君のシチリア島の周遊旅行でどんな新しい発見があったのかを知り、とりわけカリュブディス*1に関しての更なる知識が得られることを期待して。スキュッラが岩であり、船乗りには実際はさほど恐れられていないことはよく知っています。しかしカリュブディスに関しては、それが神話で述べられているのと合致するのかどうか、全き見解を得たいと思っています。そして、もし君に調査する機会があったなら(それは実際君が研究するに値しますが)、次のことについて僕に教えて下さい。それはただ一方向からの風によってのみ渦巻きが形成されるのか*2、それとも、あらゆる嵐が均等にその海をかき回すのか?この海峡の渦巻によって海中深くに攫われたものが、タウロメニウム*3近くの浜辺に打ち上げられるというのは真実なのか?2. もし君がこれらに関しての詳細を書き綴ってくれたなら、更に僕は図々しくも別の仕事をお願いしたく思います―—僕の特別の嘆願に応えて、エトナ山*4にも登って下さい。自然研究者たちの中には、この山は衰退し、徐々に沈んでいってる(小さくなっている)と推測する人達もいます。というのも、以前はこの山は、船乗りはより遠くからでも見てとることができたからだそうです。これの原因は、山の高さが低くなっているからではなく、炎が稀薄になり、噴火の勢いも量も減弱し、同じ理由で日中の煙の噴き出しも少なくなったためです。しかし、次の二つのことはいずれも信じられることです。一方では、日々焼かれることで山が消耗して小さくなっているということ。もう一方では、焼かれはしても消耗しないため、山の大きさは変わらないということです。〔後者では〕山は自分自身を焼き尽くしても、それを埋め合わせる物質が湧き出て地下の空間に集まり、山自体ではなく別の何かを糧とし、山は単なる出口となるのです*53. リュキア*6には、住民から「ヘーパイスティオン」と呼ばれている有名な場所があります。そこでは、地面に多くの穴が空いていて、そこに生育する植物に悪影響を及ぼすことのない無害な炎が、一帯を取り巻いています*7。したがって、炎が何かを焦がすことなく、穏やかで小さな力で輝くだけですから、その土地は肥沃で、植物が豊かに生育します。

 4. しかし、これについての議論はさておき、火口からどれくらい離れて雪が存在するかを君が書いて下されば、その問題について検討しましょう。つまり、夏でも溶けることなく、火の近くにあっても安泰なほどの雪のことです。しかし、君がこの仕事を、僕への支払いに充てる必要はありません。というのも、君は誰から依頼されずとも、優れた文章を書きたいという君自身の熱病に負かされていたでしょうから。5. それに、君が詩の中でエトナ山を説明するだけに留まらないように、また全ての詩人にとっての神聖な題材であるこの地に軽く触れるだけに留まらないようにと、僕が君に何を提言できたでしょうか?ウェルギリウスが既に十分にエトナ山を扱ったことは、オヴィディウス*8がこの地を題材にすることの妨げにはなりませんでした。また、このいずれの詩人も、コルネリウス・セベルス*9を怖気づかせることはできませんでした。そのうえ、この題材はこれら全員に、幸福な成果をもたらすのに貢献しました。そして、先駆者というものは、言えること全てを先取りしたのではなく、ただ道を切り開いただけなのだと僕には思われます。

 6. 研究され尽くした題材に取り組むか、単に基礎ができたばかりの題材に取り組むかでは、大きな違いがあります。後者の場合、研究内容は日々増大し、既に発見されたことが、新たな発見の妨げになることはありません。さらに、最後に書き記す人は最も恵まれた状態です。彼は、異なる方法で整理すれば新しい顔を見せてくれる言葉が、すでに手元にあることを見出すのです。そして、それらは公共の財産であるため、使用する時も、あたかも他人のものを盗むかのようになることもありません。7. さて、もしエトナ山が君の食欲をそそらないなら、僕は君を過大評価していたことになります。君は長らく、壮大な文体で、先人に匹敵するものを書きたいと望んでいました。君の謙虚さは君がそれ以上に高望みすることを許さないので、他の人々を大きく引き離すような恐れがある時、君は本来の才能を抑えようとするだろうと思われます。それほど君は、かつての巨匠たちを大きく尊敬しています*108. その点、英知はとりわけ次のような利点があります―—上昇の途中でない限り、誰も他の者に負けることはありません。しかし、頂上に到達すると同等になり、それ以上に上昇する余地はなくなり、競争は終了します。太陽はそれ自身以上に大きくなるでしょうか?月はいつもの軌道を超えて遠くに行くでしょうか?海のかさは、それ以上大きくなりません。自然は同じ性質、同じ限界を保ちます。9. 十分に成長したものは、それ以上に成長することはありません。英知を獲得した人はみな同等となり、同じ高みに立つことになります。彼らはおのおの、独自の優れた性質を持ちます。ある人はより愛想がよく、ある人はより気前がよく、ある人はより機敏に話し、ある人はより雄弁です。しかし、問題とされている性質、つまり幸福を生み出す性質については、これらの人々はみな同等です。10. いつかは君の地のエトナ山が崩壊して海に沈むのか、何マイルも向こうの海からでも見えるこの高い頂きが、絶え間なく続く火炎の力によって失われてしまうのかは、僕には分かりません。しかし僕は、美徳が崩壊や火炎によって下方に引き落とされることがないことは、分かっています。これこそが、下降することのない唯一の偉大さです。美徳は、それ以上に引き上げられることも、引き下げられることもありません。その偉大さは、天空の諸天体のように定まったものです。ですからわれわれは、自分自身をこの高みに近づけるよう努めましょう。

 11. 既に多くの努力が成し遂げられましたが、真実を告白すると、むしろそれほど多くはありません。善というのは、単に最悪よりは(少しは)優れている、という意味ではありませんから。日光を少し見ただけで、自分の視力を誇る者があるでしょうか?霧の中で太陽の輝きを見つけた人は、暗闇を脱したことに満足するかも知れませんが、まだ光の祝福を(十分に)享受したとは言えません。12. われわれの魂は、手探りの状態にある暗闇から解放されて、ただ弱い視力で明るさを少し目にするのではなく、陽の光を完全に享受するまで―—つまり、魂がその発生に際して割り当てられた場所を取り戻すまで―—、喜びを抱くことはありません*11。魂はそれ自身の起源によって、天空へと呼び戻されます。そして魂は、地上の牢獄から解き放たれるより前であっても*12、悪徳を捨て去り、純粋さと軽快さをもって天上の思考に飛び上がれば、その領域に至ることができるでしょう*13

 13. 愛するルキリウス君、たとえ知っている人が殆どいなかったり、全くいなかったりしても、われわれがそうした理想に夢中になって、全力で追い求めていることを、嬉しく思います。名声は美徳の影に過ぎず、美徳の意とは関係なく、美徳の後に従います。しかし、影は時には先行し、時には後を追い、遅れることもあるように、名声も時にはわれわれに先行して自分自身を目立たせたり、時には後ろになり、遅れれば遅れるほど、大きくなることがあります。人々の嫉妬心が退却するのです*1414. 人々はどれほど長い間、デモクリトス*15を狂人だと思っていたことでしょう!ソクラテスに名声は殆ど与えれられませんでした。そしてどれほど長い間、わが国はカトーを知らなかったことでしょう*16!人々は彼を拒絶し、失うまで彼の偉大さを知りませんでした。もしルティリウス*17が不正を甘んじて受け入れなければ、彼の潔白と美徳は注目されることはなかったでしょう。彼は苦しみを得ている時、栄光を得ていたのです。彼は自分の運命に感謝し、両手を広げて追放を歓迎しなかったでしょうか?僕はここで、まさに迫害される運命そのものが名声をもたらした人々について述べました。しかし、死後になって初めて、美徳への献身が名声を博することになった人の、いかに多いことでしょう!そしてその名声によって報われることなく、滅んだ人がどれほどいることでしょう?15. たとえばエピクロスは、〔今では〕知的階層からだけでなく、無学な大衆からもどれほど尊敬されているでしょう?しかし彼は、その近くに隠棲していた*18アテナイの人々には殆ど知られていませんでした。そして、すでに友人のメトロドロス*19よりも何年も長生きした時、彼はある手紙に次の言葉を添えて、メトロドロスとの間にあった友情に、感謝の気持ちを綴りました。「わたしとメトロドロスはとても幸福であったから、この有名なアテナイの地で無名であり、殆ど知られなかったことは、わたし達に何の不都合もなかった。*2016. したがって、彼が存在しなくなるまで、人々が彼を発見しなかったというのは、真実ではないでしょうか?それによって彼の名声は、輝きを増したのではないでしょうか?メトロドロスもまた、彼の或る手紙の中で、エピクロスと自分は世間にはあまり知られていなかったことを認めています。しかし、エピクロスと自分の死後に、自分達の足跡を辿ることを望む人は、誰であれすぐに大きな名声を得られるだろうと述べています。

 17. 美徳は見えなくなることはありません。たとえ視界が遮られても、美徳が失われたことにはなりません。同時代の人々の悪意によって隠されたり抑圧されることがあっても、美徳はいつか日の目を見るでしょう。自分の時代の人々のことだけを考える者は、わずかな人のためだけに生きてるのです。何千もの歳月が、何千もの人々が、君の後には続きます。君はそれらについて考えるべきです。悪意が君の同時代に生きる全ての人々に沈黙を命じることがあっても、偏見や選り好みに捉われずに君を評価してくれる人が、いつか必ず現れるでしょう。名声から得られる美徳の報酬があるとしても、それすらも消え去ることはありません。確かにわれわれ自身には、後世の人々に語られることから受け取るものはないでしょう。しかし、後世の人々はもはや感覚を持たないわれわれのことをも尊敬し、頻繁に訪れてくれるでしょう*2118. 人が美徳に忠実に従い、自分を飾り立てたり誤魔化したりすることなく、予告された後でも準備なしの突然の場合でも、他人から見られた時に、常に同じ自分を保っている限り、美徳は、生前も死後も、人に報酬を欠かすことはありませんでした。虚飾は何の役にも立ちません。簡単に顔に被せることができる化粧に騙される人は殆どいません。真実というものは、いかなる場合においても〔常に〕同じです。われわれを欺こうとするものには、何ら真実はありません。嘘とは薄っぺらいもので、注意して見れば透けているのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 79 - Wikisource, the free online library

・解説

 「倫理書簡集」はセネカの最晩年の作品であり、政界を引退し、財産もネロ帝に返還したセネカは、最早生きている間に哲学者としての名声は望むべくもなかったのだろう。しかし、後世の人々には「セネカの著作の中で最も美しい(モンテーニュ随想録 第二巻 第十章)」と言われ、まさしくセネカの名声を不動のものにした作品だ。哲学の著作を残すことは生前の名声には繋がらないかも知れないが、時を超えて、時代を超えて、永久の名声を残すことができるのであり、それこそが、真の意味で人生を長くすることだと、「人生の短さについて」の中でも述べている。

 

 

 

 

 

*1:イタリア本土とシチリア島の間のメッサーナ海峡にある危険な渦潮。書簡31も参照。向かい側にあるのがスキュッラの岩礁

*2:通常、カリュブディスには南風が勢いを与えるとされた。

*3:シキリアの東海岸近くにあった町。現タオルミナ

*4:シチリア島の火山。高さ3340m。火山についての描写は、書簡51も参照。

*5:恐らく溶岩のこと。溶岩が気息等からエネルギーを得て、山を出口として絶えず湧き出るので、山自体が消耗することはなく、大きさは変わらないという意味。ストア派の自然観では自然現象それ自体が食事を必要とする生き物のように描写されるが、シュタイナーの自然観を学ぶと必ずしもそれは間違っていない。

*6:アナトリア半島の南西部にあった山岳地。

*7:石油の湧き出る泉や河のようなものがあったと想像される。

*8:前43~後17年頃。ウェルギリウスと並ぶローマの詩人。エトナ山の描写は、オヴィディウス「変身物語」15.340~355。ウェルギリウス「アエネイアス」3.571~582

*9:オヴィディウスと同時代のローマの詩人。

*10:セネカからルキリウスへの賛辞。もしルキリウスがエトナ山について書けば、それは先人を大きく追い越すことになるから、ルキリウスの謙虚さはそれを恐れているのだろう?と言っている。

*11:魂が死後に、本来生まれた場所である天に帰った時に、本当の意味で太陽の光を享受する=魂本来の善を取り戻すという、非常にスピリチュアルなストア派の死生観。

*12:生前であっても

*13:生前であっても、哲学を通して天界の高い思索内容に沈潜すれば、地上にいながらして、魂は天上の高みへと至ることができるということ。

*14:時間が経つことで、人々が嫉妬することなく、優れたものを素直に賞賛するようになる、という意味。

*15:デモクリトスは前460~370年頃のギリシャの哲学者。当時唱えた原子論が奇抜であったため、人々に変人と思われた。その狂気を治療するためにヒポクラテスが招かれたという逸話もある。書簡7でもデモクリトスの言葉が取り上げられている。「私にとって一人は大勢と同じで、大勢は一人と同じだ」

*16:書簡71参照

*17:前2世紀のローマの政治家。不正を取り締まったことで恨みを買い、スッラによって追放され、スミルナに引退した。書簡24書簡67参照。

*18:エピクロスは前310年ごろにアテナイで学校を開き、そこで「エピクロスの園」を築き、終生にわたって友人や弟子らと哲学の生活を送った。

*19:エピクロスの弟子であり親友。書簡6,書簡14,書簡18,書簡33,書簡52参照

*20:断片188

*21:「これらの哲人たちは、いつでも時間を空けてくれる。彼らのもとを訪れれば、帰る時にはいっそう幸福になり、自分をいっそう愛するようになっている。彼らのもとを去るときには、手ぶらで帰ることを許してくれない。そして、夜であろうが昼であろうが、すべての人間が、彼らのもとを訪れることができるのである。」人生の短さについて14.5