徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡78 精神の持つ癒しの力について

 1. 君がたびたび鼻風邪の症状に悩まされ、長く慢性的に続く風邪の後にくる熱の断続的な発作に苦しんでいると聞いて、僕も心苦しく思います。特に僕自身もこの種の病気を経験しており*1、初期の段階では軽く見ていましたから。僕はまだ若いうちは、苦痛に耐え、病気に対して堂々と立ち向かうことができました。しかし、やがて僕は病に屈し、鼻をすするしか出来なくなり、極限まで痩せ細ることになりました。2. 僕はしばしば、今すぐに自分の人生を終わらせたいという衝動に駆られました。しかし、心優しい年老いた父のことが頭に浮かび、思い留まりました。つまり、僕にどれほど強く死ぬ力があるかではなく、父が僕の喪失に耐える力がどれほどあるかを考えたのです。そして僕は、自分自身に生きるように命じました。時には生きることそれ自体が、勇敢な行いである場合もありますから。

 3. さて、当時僕の慰めとなったものについてお伝えしますが、まず最初に、まさに薬と同じくらいに、僕の心の平穏に効果的だったものについてお話しましょう。崇高さを伴う慰めは治癒をもたらします。そして、魂に役に立つものは全て、体にも役に立ちます。僕には勉学が救いでした。僕が回復し、活力を取り戻すことができたのは哲学のお陰だと思っています。僕は哲学に、自分の生を負っています。そのただ一つのみが僕の哲学への負債の全てです!4. 僕の友人たちも、僕の健康のために大いに助けてくれました。僕は彼らの励ましの言葉、病床への長時間の付き添い、彼らとの会話に慰められました。優れたるルキリウス君、友人たちの愛情ほど、病人を元気づけ、癒してくれるもの、死の予感と恐怖を、取り除いてくれるものはありません。じっさい、彼らを後に残して、僕だけが死んでいくというのは想像できませんでした。そうです、言うなれば、僕は彼らと共にではなく、彼らを通して(死後も)生き続けるように思われました。僕は自分の魂を捨て去るのではなく、彼らに譲り渡すことを想像しました。

 これらのこと全てが、僕に自分自身を助け、どんな苦痛にも耐える決意を与えてくれました。さもないと、死ぬ気力を失いながら、生きる気力も持たないという、最も惨めな状態でした。5. ですから君は、この手の治療薬に救いを求めるべきです。医師は君に散歩や運動を勧め、不活発な病人が陥りがちな、怠惰に囚われることのないように警告し、大きな声で本を読んで肺を動かし、呼吸の通路を鍛えろと言うでしょう。あるいは、船に乗り、穏やかな動きで内臓を揺さぶることや、適切な食事を摂ること、体力を補うためぶどう酒を飲む時期や、咳がひどく激しいものにならないよう、ぶどう酒を控える時期などを教えるでしょう。しかし僕としては、君に与えたい助言は次のもの―—これは病気のみならず、人生全体への治療薬でもありますが―—すなわち、「死を軽蔑せよ。」です。死の恐怖を脱すれば、この世には悲しいことなど何もありません。6. どんな病気にも、死への恐怖、肉体の苦痛、快楽の断念という、三つの深刻な問題があります。死については既に十分述べたので、ここでは一言だけつけ加えます。死への恐怖は病気に対する恐怖ではなく、自然に対する恐怖です。病気はしばしば死を先延ばしにし、死を思うことが多くの人にとって救いになりました*2。君は病気だから死ぬのではなく、生きているから死ぬのです。君が健康になっても、同じ結末が待っています。君が回復したとき、君が逃れ得たのは死からではなく、不健康からです*3

 7. ここで、病気それ自体の不利益に話を戻しましょう。病気は大きな苦痛を伴うということです。しかし、その苦しみは中断されるので、耐えられるものになります。苦痛は極みに達すると、終わりを迎えるものですから*4。極大の苦痛を長期間耐えられる人など誰もいません。われわれを最も慈悲深く愛してくれる自然は、苦痛には耐えられるように、耐えられなけらば短くて済むように、われわれを造ってくださいました。8. 最も大きな痛みは、肉体の最も細々した部分に生じます。神経や関節、その他の狭い通路は、その圧迫された部位の内部で障害が発生した時に、最もひどく痛みを感じさせます。しかし、これらの部分はすぐに麻痺を起こし、痛みそのものが原因となって痛みの感覚を失います。その理由は、次のいずれか、生命力が自然の流れを阻まれて、異なる方向へ流れた時に、われわれに活力を与え、それ自体を通してわれわれの注意を引く力を失うか、あるいは、肉体の病的な体液が流れ込む場所を失うと、それ自体逆流して、うっ血を引き起こして感覚を奪うことによります。9. ですから、足の痛風でも手の痛風でも、脊椎や神経のあらゆる痛みでも、以前に痛みを与えた部分に(過度の傷害により)鈍化が起こると、休息の期間がもたらされます。こうしたことはいずれも最初の痛みから苦痛が続きますが、その襲撃は時の経過と共に減弱し、麻痺が始まれば、痛みは終わります。歯や、目や、耳の痛みが甚急性であるのは、それらが肉体の狭い部位に生じるからであり、実際、頭そのものの痛みであるかのように激しいものです。しかし、それが通常より更に激烈なものになれば、せん妄や昏睡へと至ります*510. ですからこれが、過度の痛みに対しては救いとなります。痛みが度を越したら、それを感じなくなるのは必然です。しかし、未熟な人たちは肉体の苦痛に耐えられませんが、それは彼らが、自らの心に満足することに慣れていないためです。彼らはまだ、肉体に強く結びついているのです。したがって、高貴な精神と賢明さを持つ人は、魂を肉体から引き離し、より善いところ、より神聖なところ*6に大いに住まわせ、この不平不満だらけの虚弱な部分*7には、必要最低限だけ住まわせます。

 11. 「しかし、難しいことです」このように言う人たちがあるでしょう。「食を節したり、渇きや飢えを感じたりして、慣れ親しんだ快楽から引き離されることは*8。」最初に断念しようと思った時、確かにそれらは難しいことですが、その後は、欲望は弱まります。なぜなら、われわれを貪欲へと導く活力そのものが、疲れ果ててわれわれから消え去るからです。次第に胃は弱り、以前は食べ物への希求だったものが嫌悪となります。まさにわれわれの欲望が死ぬのです。しかし、君が望むことを止めたことが出来なくなるのは、辛いことではありません。12. さらに、あらゆる苦痛は、終わりを迎えるか、少なくとも弱まります。さらにまた、苦痛の再来は予めそれに備えることが出来、その脅威が近くに迫っている時には、何らかの治療法によりそれに対処することが出来ます。どんな種類の痛みにも前兆はあり、少なくとも、習慣的に訪れる痛みは予想が容易です。病気の結末*9を軽蔑できるようになった時、人は病気に伴う苦痛にも耐えられるようになります。13. けれども、自分で自分の問題を余計に深刻にしたり、不平不満を自分に負わせてはなりません。もしも何ら臆見が加えられなければ、苦痛というのは軽いものです。反対に、君が自分自身を励まし、「そうしたことは何でもない、せいぜいが些細な問題だ。強い心を持て。それらはすぐに終わる。」と言えば、苦痛を軽視することで、ほんとうに軽くできるでしょう。全ては臆見が原因で、野心や贅沢や貪欲は、臆見を喚起します。臆見に従うことで、われわれは苦しみます。人は、自分が惨めだと自分で信じる限りにおいて、惨めなのです。14. 僕は、過去の辛い出来事についての次のような不平の言葉は全て廃止にすべきだと、考えます。すなわち、「私ほど不幸な目に遭った人はいない。私はどれほどの苦しみ、どれほどの病苦に耐えてきただろう!誰も私が回復するとは思わなかった。私の家族は何度私について嘆き悲しみ、医者は何度私を見放したことだろう!拷問台に置かれた男たちでさえ、これほどの苦痛に引き裂かれることはなかった!」しかし、たとえこれら全てが本当だったとしても、既に過ぎ去ったことです。過去の苦痛を思い返したり、過去に不幸だったと嘆いて今も不幸になることに、何の意味があるのでしょう?そのうえ、誰もが自分の病気を自分でさらに大きくし、自分を欺きます。また、耐えることが苦しいことは、耐えた後は喜ばしいものになります。病気の終焉を喜ぶのは自然のことです。

 したがって、将来の苦難への恐怖と、過去の苦難の回想という、この二つを完全に排除する必要があります。というのも、後者はすでに僕には関係なく、前者はまだ僕には関係ありませんから。15. しかし、もし苦難の真っ只中に置かれるようなことになったら、このように言って下さい。

きっといつかこの悲しみの記憶が、

喜びすらもたらすだろう*10

そのような人物に、全力で危難と戦わせてみて下さい。一たび屈服すれば、彼は打ち負かされるでしょうが、苦痛に抗って努力をすれば、彼は打ち勝つでしょう。ところが実際は、殆どの人は、自分が持ちこたえるべきものを、自分の頭上に瓦解させて降りかからせるのです。君に向かって迫り、もたれかかり、いまにも崩れ落ちそうになっているものを支える手を放すと、それは君に襲い掛かり、より重く君を抑えつけるようになるでしょう。しかし、自分の持ち場を守り、それらに抵抗しようと決意しさえすれば、押し戻されるでしょう。16. 格闘競技者たちは、顔や体にどれほどの打撃を受けることでしょう!それにも関わらず、彼らは名誉への望みによりあらゆる苦痛を耐え、戦いのゆえにではなく、戦うために受け入れるのです*11。彼らの鍛錬はそれ自体が苦痛です。ですからわれわれも、あらゆる戦いにおいて勝利を掴み取りましょう。その報酬は花冠でも棕櫚の枝でもなく、われわれの名を宣言するために〔聴衆に〕沈黙を命じるらっぱ手でもなく、美徳と、魂の力強さと、一たび運命に勝利することができれば、永遠に保たれる平和です。君は言われる。17. 「私はひどい痛みを感じています。」それではどうでしょう、女々しく振舞えば、君はそれから逃れられると思うのですか?退却している軍にとっては追撃してくる敵がより脅威であるのと同じように、われわれが屈服して背を向けると、あらゆる苦難はさらに激しくわれわれに襲い掛かります。「しかし、その苦難は重いものです。」何でしょう?われわれが力強く生まれたのは、軽い荷物を運ぶためなのですか?君は病気が長引くことを望みますか?それとも短期間のものであることを望みますか?長引くものであればそれは休息を意味し、君に寛げる時間を与え、閑暇という恩恵をもたらします*12。〔長引くような病気は症状も軽いため〕それは起こると同時に静まるようなものです。短期間に急速に進行する病気は、症状が(死ぬことで)消えるか、(自然に治まって)消えるかのいずれかです。ところで、僕が消えるか病気が消えるかに、何の違いがありましょう?どちらにせよ、痛みは終わるというのに。

 18. 心を他の思考内容に逸らし、苦痛から遠ざかる―—そのようなことも役に立ちます。君がかつて行った名誉ある行為や、勇敢な行為について考えてみて下さい。君の人生の善き側面を、思い出してみましょう。また、君がとりわけ感嘆したことに、思いを馳せて下さい。すると、苦痛に打ち勝ったあらゆる人物のことが頭に浮かぶでしょう。静脈瘤を切り取って貰いながらも、なお書物を読み続けた人物のことが。その微笑を絶やさなかったことで拷問吏の怒りを買い、あらゆる残虐な手段を試みさせた人物のことが。微笑によって苦痛が克服できるのなら、理性によって克服できないことがありましょうか?19. 苦痛と聞いて思い浮かぶことを、何でも言ってみて下さい―—鼻風邪、内臓の一部を腫れ上がらせるほどの激しい咳、われわれの生命力を枯渇させるほどの高熱、灼けるような喉の渇き、関節が様々な方向に突き出るほどねじれた手足、さらに、これらよりいっそう恐ろしいもの、つまりは、火炙り、拷問台、真っ赤に熱した金属板、傷そのものがまだ腫れているのに、それを開き、さらに深い傷を負わせる道具などです。それでも、こうした拷問の中にあっても、呻き声一つ上げなかった人物はいました。「まだまだあるぞ!」拷問吏は言いますが、彼は釈放の懇願などしません。「まだまだあるぞ!」再び言いますが、彼には効きません。「まだまだ足りないよ!」と彼は心から、微笑んで言いました。このような例を知って、君は苦痛を笑おうとは思わないのですか?

 20. 「しかし」君は反論します。「私は病気のせいで何もできなくなりました。病気は私を、あらゆる義務から引き離したのです。」不健康によって妨害を受けるのは君の肉体であり、魂ではありません。不健康のために、走る人の足はもつれ、靴屋や大工の仕事は遅れますが、君の魂が常に活発であれば、君は諭し教え、聞いて学び、探究し観想することでしょう。これ以上に何が必要でしょうか?病気にあって自制心を保つことは、何もしないことだと君は考えているのですか?君は、病とは克服できる、あるいは少なくとも、耐えらえるものであると、〔人々に〕示すことができるのです*13。たとえ病床であっても、美徳を示す場所があるということを、僕は君に保証しましょう。21. 魂が力強くあり、恐怖に打ち負かされていないことを証明するのは、剣を持って戦列に加わることだけではありません。人は寝具に身を包んでいても、勇敢さを示すことができるのです。君にもできることがあり、それは、病と勇敢に戦うことです。たとえ何か強制的なものや、心を誘うものがなくても、君が示すものは立派な実例になるのです。ああ、もしわれわれの病気に観客がいたら、どれほどの名声があったことでしょう!君は君自身の観客となり、自分で自分を賞賛して下さい。

 22. そして、快楽というものは二種類あります。確かに病気は肉体の快楽を取り除きますが、完全に消し去りはしません。それどころか、もし真実が考慮されるならば、病気は快楽を大きくするのに有用です。というのは、喉が渇けば渇くほど、水を飲むことは嬉しくなり、空腹であればあるほど、食事の喜びは大きくなります。一定期間の禁欲の後にやってくるものは何であれ、より大きな歓迎を受けます。とはいえ、もう一つの種類の心の快楽は、より高尚で確実なものであり、どんな医者も病人に禁じることができないものです。心の快楽を求め、それが何たるかを熟知している人は誰でも、感覚のあらゆる甘言を軽蔑します。23. 〔このような立派な人物に対して〕「哀れな病人だな!」と言う人々がいます。しかし、どうしてでしょう?彼がぶどう酒を雪で割ったり、大きな杯で混ぜた酒に氷塊を入れて、冷たさを取り戻したりしないからでしょうか?あるいはルクリーヌス湖*14産の開きたての牡蠣が、彼の食卓にないからでしょうか?あるいは、彼の食堂には食材と一緒に調理器具を運び込む、料理人たちの騒々しさが全くないからでしょうか?というのも、贅沢はこのようなことすらも既に考案しているのです―—つまり、料理が生ぬるくなったり、すでに硬くなった上あごに十分な熱さを与え損ねることのないように、食堂に調理場をくっつけるのです。24. 「哀れな病人だな!」——彼*15は食べられるだけを食べます。彼の眼前には、あたかも安物の肉であるかのように食卓から放り出された猪の肉が横たわることもありません。彼の食卓の棚に、鳥が丸ごと出されるのを目にするのは気分が悪いからという理由で、胸肉だけが山積みにされることもありません。しかしどんな問題があるというのでしょう?彼は病人として食事をします。それどころか、時には健康な人として*16

 25. しかし、こうしたことは全てわれわれは容易に耐えることができます―—麦粥、ぬるま湯、その他の、好みのうるさい人間や、贅沢に溺れて肉体よりも魂が病んでいる人間には耐え難いものに―—われわれが死を恐れることをやめさえすれば。そして、一たび善と悪の違いを知ることができれば、われわれはやめます。その時こそ生はわれわれにとって厭うものではなくなり、死は恐れるものではなくなります。26. なぜなら、自己の生を厭う者は、多様で偉大で神聖なもの全てを統御するような人生を、決して送ることはできませんから。怠惰な暇を持つ者だけが、自分の人生を嫌悪するのです。自然界を遍歴する者にとって、真理の探究は決して尽きることはありません。倦怠を与えるものは真理ではないのです。27. そしてその一方で、死が近づいて呼びかけてきたとしても、それが年若くしてのものであっても、最盛期のものであっても、すでに最長の人生が与える全てを味わっているのです。そのような人は、自然界の大部分を既に知っているのです。彼は、立派なものは、それが生きた時間に依存しないことを知っています。しかし、空虚で、そのために際限のないものである快楽によってその長さを測る人には、どんな人生も短く見えてしまうのです。

 28. こうしたことを考えて気持ちを新たにし、手紙の遣り取りには、少し時間を設けましょう*17。やがてわれわれが手を取り合い、再び連帯する時が来るでしょう。この間がいかに短い時間であろうと、それをどう活用するかを知っていれば、長くすることができます。ポセイドーニウス*18も言うように、「学問をする者の一日は、無学な者の一生よりも、長いものとなる。」のです。29. しばらくはこの言葉をしっかり胸に留め、離さないで下さい。逆境に屈せず、順境に騙されず、運命のあらゆる力を眼前に見据え、運命はどんなことでも君になし得ると思って下さい。長い間その到来を覚悟している分だけ、それら(の苦難)は軽いものになります。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 78 - Wikisource, the free online library

・解説

 病気の苦痛に対するセネカの心構え。これももちろん、セネカ自身が自分に強く言い聞かせていたことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:書簡54,書簡75参照

*2:病気になって死を思うことが、かえって死の恐怖を薄れさせる、という意味。

*3:要するに、病気だからといって死への恐怖が増す訳ではない、から三つの問題のうち最初の一つ「死への恐怖」はこれで克服できたでしょう?という意味。

*4:肉体の苦痛があっても、それが極度に大きなものであれば、死により強制的に必ず苦痛から解放される、から苦痛を恐れる必要はない、という意味。

*5:意識を失うのだから、苦痛は感じないでしょう?という意味。

*6:つまり天界や、高邁な思索内容など

*7:つまり肉体

*8:「死への恐怖」「肉体への苦痛」に続く三つ目の問題、「快楽の断念」についてこの段落では論じられる。

*9:つまり死

*10:アエネイアス1.203

*11:受動的にではなく能動的に、痛みに耐えるということ。

*12:じっさいセネカは、長引く病気により頻繁に休みを得、哲学の勉強などを通して充実した時間を過ごした。

*13:だから、忍耐強く自制心を持って病気に耐えることは、何もしないことではなく、非常に立派な行いだ、ということ。

*14:バイアエ近くの湖

*15:心の快楽を知っている人

*16:贅沢の余り病的な食事をする健康な人達よりも、病気であるがゆえ必要な分しか食べない人のほうが、よっぽど健全であるという意味。

*17:ルキリウスの療養のために

*18:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33参照