徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡75 魂の病について

 1. 君に対する僕の手紙が、あまり詳細に書かれていないと君はご不満のようです。とはいえ、気取って話すつもりもないのに、事細かに書く人があるでしょうか?僕の手紙は、君と一緒に腰掛けたり、散歩したりしながら話す時のようにしたいのです。つまり自然で、気楽なものです。なぜなら僕の手紙には、堅苦しいものや人為的なものは何もありませんから。2. 出来ることなら、僕は自分の気持ちを、話すというよりお見せしたことでしょう。そして、話している間も、足を踏み鳴らしたり、腕を振り回したり、声を張り上げたりはしなかったでしょう。そうしたことは弁舌家に任せるべきであり、僕は自分の気持ちを飾り立てたり、貶めたりすることなく、君にお伝えできたら満足すべきなのです。3. 君に本当に信じて頂きたいのは次の一事です―—つまり、僕は自分で話したことは全て自分で実感し、さらに実感しているだけでなく、愛してもいるということです。人は愛人に対してと子供たちに対してでは、異なったやり方で口づけをしますが、後者の神聖で慎みのある抱擁においても、十分な愛情が見られます*1

 とはいえ、そのような重要な問題に関しての会話が貧弱で、無味感想なものであってはならないと思っています。なぜなら、哲学でさえ、巧妙さと付き合いを放棄する訳ではありませんから。しかし、ただの言葉に、過度の関心を向けてはなりません。4. 僕の意見の要はこうです。すなわち、われわれは感じることを話し、話していることを感じましょう。言葉と生活を調和させましょう。見ても聞いても同じであるという人は、自分の誓いを果たしています。5. われわれは、その人が〔常に〕同一の人物であるなら、彼がどんな人物か、どれほど偉大であるかを、見て取ることができます。われわれの言葉は喜ばせるものではなく、役に立つものであるべきです。しかし、苦労せずに雄弁を身に着けることができ、あるいは生まれながらその才に恵まれていたり、わずかな労力で獲得できるのであれば、よく雄弁を活用して、最も崇高な用途に供して下さい。しかし、雄弁そのものではなく、内容を示すようにしましょう。雄弁とその他の技術は全て巧妙さと関係するものですが、ここでのわれわれの仕事は、魂に関係するものです。

 6. 病人は雄弁な医者を呼び求めたりはしません。しかし、もし彼を治すことができる医者が、これから行われる治療法についても同様に雄弁に語ることがあれば、患者はそれを大いに受け入れるでしょう。とはいえ、この患者は雄弁な医者に出会ったことを、喜ばしく思う理由はないでしょう。これは、熟練の舵手が美男である、というのと同じだからです。7. 君はどうして僕の耳をくすぐるのですか?君はどうして僕を娯楽に巻き込むのですか?僕には別の仕事があります。僕は焼灼されたり、手術をされたり、食事制限を受けねばなりません。ですから君は、僕を治療するために呼ばれたのです!

 君は慢性の、深刻な、社会全体が罹っている病気の治療を求められています。君には、伝染病が流行った時の医者と同じくらい重要な仕事があります。君は言葉が気になるのですか?事実に対処できたら、その時に喜びを抱きましょう。君は学ぶべき全てを、いつ学ぶのですか?君はいつ、学んだことを逃げ出さないように、心に植え付けることができるのですか?君はいつそれら全てを、実行に移すのですか?というのも、他のことと同じように、これらのことを単に記憶に留めるだけでは不十分で、実践の中で試す必要がありますから。それらを知っているだけの人ではなく、それらを行う人が幸福なのです。8. 君は言われる。「何でしょう?あなたの言う『幸福』な人の下には段階はないのですか*2?英知の下には、急な下り坂があるのみなのですか?」僕はそうは思いません。なぜなら、進歩の途上にある者は確かに未だに愚か者ですが、それでも他の愚か者とは遠く隔たっているからです。進歩の途上にある者同士の間にも、大きな差異があります。ある哲学者らによると、それらの人々は三種類に分けられます*39. 第一の種類は、まだ英知には到達していないまでも、すでにその近くには置かれている人たちです。しかし、それほど遠くないとはいえ、彼らはまだ外側にいます。僕に言わせれば、彼らはすでにあらゆる熱情や悪徳を捨て去り、何を大事にすべきかを学んだ人たちです。しかし、それが確実なものかは、まだ試されていません。彼らはまだ自分たちの善を実行に移してはいませんが、逃れてきた欠点に、再び陥るということはありません。彼らは既に後退することのない地点にまで到達しているのですが、その事実に気付いていません。僕は以前の*4手紙で、「自分が知っている、ということを知らない」人たちについて書いたことを覚えています。彼らは今や、自分たちの善を享受することが許されているのですが、それを確信することができずにいます。10. 僕が今話したこの種類の人々、つまりは進歩の途上にある人々のことを、心の病からは逃れたものの、まだ情欲からは逃れられず、滑り易い所に立っている、と定義する人たちもいます。その理由は、悪を完全に取り除くのでない限り、悪の危険を完全に逃れられない、というものです。しかし、悪に代わって英知を身に着けるのでない限り、完全に善くなることは誰にもできません。

 11. 僕はしばしば、心の病と情欲の違いについて説明してきました。それを今一度君に、思い出させてあげましょう。心の病とは貪欲や野心などの、頑固で慢性的な悪徳です。それらは心をあまりにも強く包み込み、永久の悪となり始めます。簡単に定義しますと、「心の病」とは慢性的な、倒錯した判断力を意味します。控えめに望むべきことを、強く希求するようになります。あるいは、君のお好みで、次のように定義することもできます。あまり望ましくない、あるいは全く望ましくないものを、熱狂的に追い求めること、もしくは、あまり価値のない、あるいは全く価値のないものを、過度に賞賛することです。12. 「情欲」とは精神のよからぬ衝動であり、突然かつ過激なものです。それらはあまりに頻繁にやってくるのに、あまり注意が払われないので、病的な状態を引き起こします。鼻風邪のように、発作がまだ習慣化していない時は、一度の咳を引き起こすだけですが、それが周期的で慢性的なものになると、結核様の症状になります。ですから、最も進歩した人びとは、「心の病」から離れたところにいますが、完璧に近い状態であっても、彼らはまだ「情欲」を感じます。

 13. 第二の種類の人々は、心の最大の悪徳や情欲は捨てたものの、まだそれらに対する確実な抵抗力を身に着けていない人たちです。彼らはまだ以前の状態に戻る可能性があります。14. 第三の種類の人々は、多くの悪徳、特に強い悪徳の手の届かない範囲にありますが、全ての悪徳を逃れた訳ではありません。たとえば、彼らは貪欲は逃れたものの、いまだ怒りを感じます。色欲に悩まされることはないものの、いまだ野心に悩まされます。欲望はなくなったものの、いまだ恐怖はあります。そして、彼らは恐怖があるが故に、或ることには十分耐えうるほど強固でも、或ることには屈服します。彼らは死を軽蔑しても、苦痛には恐怖を抱きます。

 15. このことに関して、もう少しよく考えてみましょう。われわれは第一の種類に数え入れられれば、素晴らしいことです。そして、第二の種類に到達することは、われわれの天賦の才と、粘り強く絶え間ない勉学の努力の恩恵によって可能となります。しかし、第三の種類の人々も、軽蔑する必要はありません。考えてごらんなさい、いかに多くの悪が君の周りにあるかを。見てごらんなさい、いかに実例のない犯罪はないか、いかに日々悪が進行しているか、国家においても家庭においても、いかに多くの罪悪が蔓延しているかを。ですから、われわれが最悪の連中と同類でない限り、相当進歩してると言えることがお分かりになるでしょう。

 16. 「しかし私としては」君は言われる。「それよりもさらに高い位置に数え入れられたいのです!」われわれがそうなれるよう、僕は誓願します、というより、祈り求めます。われわれは既に、悪徳に先回りをされています。そして悪徳の妨害を受けながら、美徳に向かって進んでいます。こんなことを言うのは恥ずべきことですが、われわれが崇高なことに専心するのは、時間に余裕のある時だけです*5。しかし、われわれを妨害する雑務と、強い執念でまとわりついてくる悪徳を断ち切ることができた時、なんと大きな報いを得ることが出来るでしょう!そうなれば、欲望も恐怖もわれわれを敗走させることはできません。17. 恐怖心に妨害されることも、快楽に損なわれることもなく、われわれは死をも神々をも恐れずにいられます。害を与えるものは、害を受けるものと同様に力を持たず、善は害する力を決して持ちません*618. もしわれわれがこの低地の泥沼からあの神聖で崇高な高みへと脱出できたなら、そこには心の平安が待っており、全ての過ちが払われた時には、完全な自由が待っています。この自由とは何かとお尋ねですか?それは人間も神々も恐れないこと、邪悪や放蕩を渇望しないこと、自分自身に対して、最高の権力を持つことです。自分が自分自身の主人となることは、この上ない善なのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 75 - Wikisource, the free online library

・解説

 これまでの書簡と重複する内容も多いが、別の形で読むことで、理解も深まる。

 

 

 

 

*1:弁舌家のような派手さや弁論家のような事細かさはないかも知れない(愛人を愛するように)が、自分の考えを、慎みを持ってしっかり愛した上で話す(子供を愛するように)という意味。

*2:実行に移してるか否か、0か100なのか?という意味。

*3:書簡71参照

*4:書簡71の二段落目参照

*5:書簡53.8~9参照。暇な時だけ哲学をするようではいけないということ。

*6:人間は死によって何も害を受けないので、善の根源である神々が、悪を及ぼすことは決してない。