1. 私は君に、沢山の古の教えを伝えることができる、
もし君が逃げることなく、そんな些細な教えでも学ぶことを恥じと思わなければ*1。
しかし君は逃げることも、細かな議論に後ずさりすることもありません。というのも、君の優れた精神は、そのような重要な問題を、大雑把にぞんざいに扱うことはあり得ないでしょうから。僕も認めているように、君はあらゆることを進歩に結び付けて考えることをよしとしており、不満を抱くとすれば、緻密なだけで何の益にもならなかった場合だけです。そして今回においても、僕はそうならないように*2努めるつもりです。われわれが問うのは、善は感覚によって把握されるのか、それとも理性によって把握されるのか、ということです。そして当然のことですが、物言わぬ動物や幼児には、後者はありません。
2. 快楽を最高のものとして評価する人々はみな、善を感覚で捉えられるものと考えます。しかし、われわれストア派は、善は理性によって捉えられると考え、心において見出されるものとします。もし感覚が善を判断するのであれば、いかなる快楽もわれわれは拒むことがなかったでしょう。なぜなら、人を惹きつけない快楽はなく、気持ちよくない快楽もありませんから。また反対に、いかなる苦痛もわれわれは進んで受け入れることはなかったでしょう。なぜなら、感覚とぶつからない苦痛はありませんから。3. そのうえ、極端に快楽を愛好したり、極端に苦痛を恐れるような人々も、〔もし感覚が善を把握するのであれば〕非難に値することはなかったでしょう。しかしわれわれは、美食や色欲の奴隷となった人々を非難し、苦痛を恐れて勇敢な行いをすることができない人々を軽蔑せねばなりません。ところが彼らが、ただ感覚のみを善悪の判定者と見做しているのならば、感覚に従うことが、何の罪になりましょう?というのも彼らは、求むべきものと避くべきものの基準を、感覚に委ねたのですから!
4. しかし、このような事柄の判定者が、理性であることは言うまでもありません。理性は、幸福な生活や美徳について、そして立派なことについて判断を下したのと同じように、善と悪についても判断を下したのです。ところが、彼ら〔エピクロス派〕においては、最も低劣な部分が善についての判断を下します。そのため、重く鈍く、人間においては他の動物よりもいっそうのろまな感覚が、善悪の裁定者となるのです。5. もし繊細なものを、目ではなく触覚で区別しようとしたら、どうなるでしょう!われわれが善と悪と区別するためには、目よりも繊細で鋭敏なもの〔理性〕以上のものはありません。したがって、感覚によって最大の善と最大の悪を識別できると思っている人々は、どれほど真実への無知のうちに日々を過ごし、どれほど崇高で神聖な理想を低劣なものに貶めているかがお分かりになるでしょう!6. そのような人々は言います。「あらゆる学問技術やあらゆる芸術は、必ず明白な、感覚で把握できる根源を持つものであり、その根源から始まり、発展するのだ。それと同じように、幸福な人生も、その土台と始まりは明白なものから、つまり感覚で把握できるものから導かれるのだ。幸福な生活は明白な事柄から始まることは、君たち〔ストア派〕も認めているではないか。」7. しかし、われわれ〔ストア派〕は、「幸福な生活」とは自然に即したものだと定義しています。そして、自然に即した生活は明白であり、すぐに理解できます。完全なものを理解することが、容易であるのと同じように。また、自然に即したもののうち、誕生と同時にわれわれに与えられるものは、善ではなく、善の始まりだと僕は考えます。ところが、君たち〔エピクロス派〕は、快楽を最高善として赤ん坊にも備わったものと考えます。その結果、生まれたばかりの赤ん坊が完成した大人の到達点から始まることになるのです。根があるべき場所に、梢の先端が割り当てられます。8. もし誰かが、まだ母親の胎内にいて、性別も判明しておらず、未熟で、まだ姿形も定まっていない子供でも、すでに善の状態にあるなどと言うなら、その人は明らかに間違っています。そして、今しがた生まれたばかりの赤ん坊と、まだ母親の胎内に隠れて重荷となっている赤ん坊とで、どんな違いがあるというのでしょう!彼らは善と悪の理解力に関して同程度であり、幼児がまだ善を知ることがないのは、樹木や、物言わぬ動物がそうではないのと同じです。
しかし、どうして樹木や物言わぬ動物には善がないのでしょう?それは、理性もないからです。同じ理由で、幼児にも善はありません。幼児もまた、理性をもちません。幼児は理性に到達〔するまで成長〕して初めて、善に到達することができます。9. 動物には、理性がない動物、まだ理性がない動物、理性はあるものの、それが不完全なものである動物がいます。しかし、これらの動物のいずれにおいても、善は存在しません。なぜなら、善を一緒に連れてくるのは、〔人間が持つような〕理性だからです。それでは、僕が先に述べた三種類の動物の間には、どんな違いがあるでしょう?理性がない動物には、全く善はありません。まだ理性が備わっていない動物には、その時点では善はありません。理性はあるものの、それが不完全な動物は、善を持つことができるとしても、今は持っていません。10. 僕が言いたいのは次のことです、ルキリウス君、つまり、善はどんな人間においても、どんな年齢においても、偶然に生じることはありません。そして善が幼児から遠く離れたところにあるのは、最後が最初から遠く離れているのと、完全なものが未熟なものから遠く離れているのと同じです。したがって、善は今しがた生まれ、繊細に組みあがり始めたばかりの〔赤ん坊の〕小さな体の中には、存在することができません。どうしてそうでないことがありましょう。種子がまだ、種子に過ぎないのと同じです。11. これが真実であることは、次のような例えから分かります。われわれは、樹木や草花には、ある種の善*3があることを知っています。しかしそれは、今しがた地面から姿を現した最初の新芽のうちにはありません。小麦にもある種の善があります。しかしそれは、膨らんだ茎の中にはまだ存在せず、柔らかい穂が鞘から出てくる時にも存在しません。そうではなく、夏の日差しが終わり、秋の収穫期を迎えて実が十分に熟した時に初めて存在します。通常自然は、それが完全になった時に初めて、自らの善を生じさせます。それと同じように、人間の善は、人間の理性が完全なものとなって初めて、人間に備わるのです。12. では、その善とはどんなものでしょうか?お教えしましょう、それは自由な心であり、正しい心であり、他の全てを自らに従えても、それ自身は何事にも屈従しない心です。この善は幼年期に存在しないのはもちろんのこと、少年期にも望みえず、青年期ですら、望んでも望みえず、長きに渡る奮闘努力の末、老年期にやっとのことでこの善に到達できたとしたら、それはたいへん幸福なことです。そして、これが善であるなら、この善は理性によって獲得されたことになります。
13. 「しかし」反論があります。「君は樹木や草花にも何らかの善があると言ったではないか。であるなら、当然幼児にも何らかの善があることになる。」しかし、真の善は、植物の中にも物言わぬ動物の中にもありません。それらの善は形式上「善」と呼ばれているに過ぎません。「それはどういうものか?」と君たちは問うでしょう。それは各々の自然本性に沿ったものに過ぎません。本当の善は、物言わぬ動物の中には決して見出すことはできません。それはより幸甚な、より誉れ高いものですから。そして理性の存在しないところには、善もまた存在しません。14. われわれの言う自然には、次の四種類があります。植物の、動物の、人間の、神々の自然です。後者の二つは理性を持っているという点で、同じ性質ですが、異なる点として、神々は不死ですが、人間は死すべき存在です。それゆえ、これらの内の一方、つまりは神を完成させるのは自然ですが、他方、つまりは人間を完成させるのは勤勉です。神々と人間以外のものは、各々の自然本性において完全ですが、理性を欠いているため、真の意味での完全ではありません。
つまるところ、〔真の意味で〕完全なものとは、普遍的な意味における〔全宇宙としての〕自然に従っているものに他なりません。普遍的な自然〔宇宙の摂理〕は、理性的なものですから。その他のもの〔植物や動物〕は、それぞれの種類において完全であるだけです。15. 幸福な生活があり得ないものは、幸福な生活を生み出すこともあり得ません。そして幸福な生活とは、善によってのみ作られます。もの言わぬ動物に幸福な生活はなく、また幸福な生活を生み出す手段〔理性〕もありません。それゆえ物言わぬ動物に、善は存在しません。16. 物言わぬ動物は、自分の世界の現在の状況を、感覚によってのみ把握します*4。動物は感覚によって思い起こされる何かに出会った時のみ、過去のことを思い出します。たとえば馬が道を思い出すのは、その道の出発地点に連れて来られた時だけです。しかし馬小屋の中では、たとえ何度歩いたことがあっても、その道を思い出すことはありません。〔過去、現在に続く〕第三の時、すなわち未来に関しては、物言わぬ動物は全く関与しません。
17. それでは、いまだ完全な形で時間を経験したしたことがない自然の存在〔動物〕を、どうして完全だと見做すことができるでしょう?というのも、時間とは、過去、現在、未来という三つの部分から成り立ちます。動物には、自分たちの活動において最も重要な時間のみが、つまり現在のみが与えられています。稀に過去を思い出すことはありますが、それも現在において思い出させるものに出会った時のみです。18. ですから、完全な自然〔宇宙〕の善は、不完全な自然〔動物〕の中に存在することはできません。なぜなら、後者の自然でも善を所有することができるなら、ただの植物でも、善を所有できることになりますから。物言わぬ動物が、自然に即していると思われるような行動において、力強く素早い衝動を持っていることを僕は否定しませんが、そのような衝動は混乱した、無秩序なものです。しかし善は決して混乱することも、秩序を失うこともありません。
19. 「何と!」君たち言います。「物言わぬ動物は混乱して無秩序に動くというのか?」僕が言ったのは、動物の自然本性が秩序を把握しようとしていたならば、動物は混乱した、無秩序な存在だという意味です*5。実際には動物は、〔秩序を把握しようとすることなく〕その自然本性に従って行動しています〔ので、混乱しているようには見えません〕。というのも「混乱している」ものとは、或る時には「混乱していない」ことがあるからです。不安なものとは、安心することがあるもののことです。悪徳を持つのは、美徳を持ちうる人以外にはあり得ません。物言わぬ動物において、その行動はその自然本性に基づいたものです。20. しかし、話が冗長になり過ぎないようにするため、ここで〔一度整理する形で〕言っておきましょう。物言わぬ動物においてもある種の善があり、ある種の美徳があり、ある種の完全さがあります。しかしそれらの善も美徳も完全性も、絶対的なものではありません。なぜなら、絶対的なそれらは、原因、程度、手段といったことを知ることが許された、理性的な存在にのみ与えられるものだからです。ですから、善は理性のない存在には決して備わりません。
21. さて、このような議論がどんな方向に進んで行くのか、君の心にどのように役立つかということをお尋ねですか?お伝えしましょう。それは心を鍛錬し、鋭くし、立派な考えを心に呼び起こし、善を希求することを約束してくれます。そして人々が、悪徳へと急いでいる時には、その足を遅めることにも役立ちます。しかし、僕はまた次のようにも言いましょう。僕は君に備わっている善を君自身にお示しし、君を物言わぬ動物の間から救い出し、神々の近くに置くにあたって、これ以上に効果的な手段*6を知りません。22. どうして君は肉体を強くせんと、鍛錬するのでしょう?自然は家畜や野獣に、そのような力強さをもっと多く授けました。どうして君は容貌を飾り立てるのでしょう?君があらゆる努力をしたところで、美しさにおいては物言わぬ動物に敵いません。どうして君は髪を整えるのに入念な注意を払うのでしょう?それを君がパルティア人風に下ろしても、ゲルマニア人風に束ねても、スキュタイ人風に乱雑に流しても、どんな馬でももっと優雅にたてがみをたなびかせるでしょうし、もっと美しいたてがみが、ライオンの首のまわりに逆立つことでしょう。そして、どれほど速く駆ける訓練をしたところで、ウサギには敵わないでしょう。23. 君はこれら全てにおいて敗北を認め、自分の本性に相応しくないことのための無駄な努力は放棄せねばなりません。そして、君自身の本来のものである、善に立ち返ろうとは思いませんか?
その善とは何でしょう?それは曇りなき清純な心であり、神々にすら立ち並び、死すべき人間を遥かに越え、自己自身以外の何ものをも、自分のものとは考えません。君は理性を持った動物です。それでは、君の中の善とは何でしょう?完全なる理性です。君はその理性を究極の段階にまで、可能な限りの最大ものにまで、発展させることを望みませんか?24. 君が自分自身を幸福だと考えるべき時とは、君のあらゆる喜びが、理性から生じる時ですし、人々が奪ったり、望んだり、大事にしてるものを見た後でも、君が欲しいものなど——何となく欲しいものではなく、単純に欲しいものが——、何もない時です。僕はそれにより君が自分自身を完璧かどうか評価することができる、一つの簡単な原則を君にお教えしましょう。「世の中で幸福だと思われている人々が実際は最も不幸だと理解できた時、君は真の自分自身を見つけられるだろう。」お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 124 - Wikisource, the free online library
・解説
理性を大切にしろ、ということ。最後の書簡だが、若干の論理遊びがここでも見られた…。