徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡117 論理の巧妙さ以上に優れた真の倫理について

 1. 君はそのように巧妙な問題を提起することで、大変な厄介事を持ち込み、知らず知らずの内に僕を論争と苦悩に巻き込むのでしょう。というのも、それらを解決するために、僕がストア派の仲間たちと意見を異にすれば、彼らに対して申し訳が立たないし、かといって彼らに同意すれば、僕自身の良心に背くことになるからです。君のご質問は、賢知は善であるが、賢明であることは善ではない、というストア派の考えは、正しいかどうか、というものです*1。ますはストア派の見解をご説明して、それから臆することなく僕自身の意見を述べましょう。

 2. われわれストア派の仲間は、善は作用的であり、作用的なものはすべて物体である、ゆえに善は物体であると考えます*2。善なるものは役に立ちます。しかし役に立つものには何らかの作用がなければなりません。もしそれに作用があるならば、それは物体です。賢知とは善である、と彼らは言います。したがって、当然のことして賢知は物体であると言わねばなりません。3. しかし彼らは、賢明であることをこれと同じようには考えません。なぜならそれは、非物体的な他の何か、つまり賢知の付随的な性質だからです。したがって、それはいかなる意味でも作用しないし、役にも立ちません〔ゆえに、賢明であることは善ではない〕。

 「それではどうだろう?」反論があります。「賢明であることを、善だとは言わないだろうか?」確かに言いますが、それは対象が依存するもの、つまり賢知そのものに起因する限りにおいてそう言われるのです。4. 僕がこの立場を完全に離れて僕自身の考えを述べる前に、この反論者に対して他のストア学徒がどのように答えるかをお話しましょう。彼ら*3は〔先の反論に付け加えて〕言います。「その(あなた方ストア派の)論法に従えば、幸福に生活することすら善ではない。当然のこととして、幸福な生活は善ではあるが、幸福に生活することは善ではない、と答えることになる*4。」5. さらにまた、われわれの学派に対して次のような反論があります。「あなた方(ストア派)は賢明になることを目指している。つまり、賢明であることが望ましいことだ。そして望ましいものは善だ。」そこで、われわれの学派の仲間は言葉を捻じ曲げることを余儀なくされ、「望ましいこと」という言葉に一語を加えて、「望ましいべきこと」と言うことになりました。この一語を付け加えることは、われわれの通常の語法では許されていません*5。しかし、君にご容赦いただいて、〔これらの反論に対するストア派の答えに〕この一語を加えましょう。「善とは望ましいことだ。われわれが善に達した際にわれわれにもたらされるものは、望ましいべきことだ。望ましいべきことは善として望まれるのではなく、善を望んだ後に善の付属品として得られるのである*6。」

 6. 僕自身の見解は、以上のものと同じではありません。そして僕は、われらがストア派の仲間がこのような議論に陥ったのは、彼ら自身がすでに最初の前提に縛られて、そのために自分たちの論法を変更することができなかったからだと考えます。人は通常、多くの人が納得できる意見があれば、これを尊重します。われわれの考えでも、あることが全ての人々の同意を得られるなら、それは真実です。例えばわれわれは、全ての人々の内に神々の概念が生来備わっていること、法律や習慣がどうあれ、いかなる民族も何らかの種の神々を信じないほど未開であることはないこと等から、神々の存在を推測します。またわれわれは魂の不死性について論じる時、地下の死者の霊を恐れたり崇めたりする人々の普遍的な概念に、多くの影響を受けます。僕もこうした普遍的な信念を大いに活用していきたいと思います。すると、賢知が善であるなら、賢明であることも善であることを疑う人など、誰もいないことがお分かりになるでしょう。7. 僕は敗北した剣闘士のように、大衆に懇願*7しようなどとは思っていません。われわれストア派自身の〔論理という〕武器を用いて、正々堂々闘いましょう。

 或るものに何らかの事象が起きる時、その事象は起きるものの外側にあるのでしょうか?それとも内側にあるのでしょうか?もしそれが内側に起きるのでれば、それは或るものと同様に物体です。なぜならどんな物体も接触を受けねば作用を受けないし、接触するならそれは物体だからです。もし外側に起きるのであれば、その事象は或るものに作用を及ぼした後に離れていきます。離れていくものは運動しており、運動するものは物体です。8. おそらく君は僕が「走り」と「走ること」の間に違いはなく、「熱さ」と「熱いこと」の間に違いはなく、「光り」と「光ること」の間に違いはないと言うことを期待しているのでしょう。僕はそれらが別々のものであるとは考えますが、別様のものであるとは考えません。もし健康が〔善悪に無関係な〕中間的なものであるならば、健康であることも中間的なものです。もし正義が善であるならば、正しくあることも善です。もし卑劣さが悪であるならば、卑劣であることも悪です。眼の腫れが悪ならば、眼が腫れていることも悪であるのと同じです。どちらの状態も、もう一方の状態なしには存在し得ないことがお分かりでしょう。賢明である人には賢知があり、賢知がある人は賢明です。ですから真実は、一方の性質を他方も持つことは疑いようのないことであり、それゆえ両者にあるのは同じ善だと言うことができる、ということです。

 9. しかしここで、僕は自ら進んで別の問いを立てましょう。あらゆる事柄が、善か、悪か、あるいは〔善悪に無関係な〕中間的なものに分けられるのであれば、賢明であることは、どれに分類されるでしょうか?〔先に例として挙げたストア派の〕人々は、賢明であることは善ではなく、また明らかに悪でもないので、結果的に「中間的なもの」と言うことになります。しかし、この「中間的な」あるいは「〔善悪に〕無関係な」ものとは、金銭や美貌や高い地位のように、善人にも悪人にも与えられます。ところが賢明であることは、善人にしか与えられません。したがって、賢明であることは、中間的なことではありません。また、悪人の手に陥ることのもないので、悪でもありません。したがって善です。善人にしかもてないものが善です。賢明であることは、善人だけがもっています。ですから、それは善なのです。10. 反論者は言います。「それ〔賢明であること〕は賢知の付随的な性質に過ぎない。」ではお尋ねしましょう。君が付随的な性質と呼ぶこの状態〔賢明であること〕は賢知の原因なのでしょうか?それとも結果なのでしょうか?いずれにせよ、それは物体ということになります。なぜなら、作用を受けるものも作用を与えるものも、ともに物体ですから。そして、もし物体であるなら、それは善です。それが善であることを妨げていた唯一の性質が、非物体性なのですから*8

 11. ペリパトス学派は、賢知と賢明であることの間には、何の違いもないと考えます。なぜなら、両者いずれもが、もう一方の意味を包含しているからです。じっさい、賢知を持つことなしに、誰が賢明であることができるでしょう?あるいは賢明であることなしに、誰が賢知を持つことができるでしょう?12. しかし昔の弁証論者たちは、この両者の概念を区別しました。そしてこの区分は、ストア学派にまで伝わりました。それがどのような手法かを、お話しましょう。畑と、畑を持つことは別のことです。当然ですが畑を持つことは所有者に関することで、畑そのものに関することではないからです。同様に、賢知と賢明であることは別のことです。これら二つが別の概念であることは、君もお認めになるでしょう。それは所有物と所有者であり、賢知は人の所有物であり、賢明である人がその所有者です。さて、賢知とは完成された心、最高度にまで、最善にまで行き着いた心であり、生における技術です。では、賢明であることはどうでしょう?僕はそれを、「完成された心」と呼ぶことはできませんが、「完成された心を持つ」人に当てはまることだと言うことができます。ですから、善き心と、善き心を持つことは別のことです。

 13. 次のように言う人々がいます。「物体には各々、自然の性質があり、われわれは『これは人間だ』とか『これは馬だ』とか呼ぶ。次に、この性質に従って、物体(身体)に対して何らかの命令を下す、心の動きが生じる。この運動は、物体から離れて、ある種の言うなれば独自の性質を持っている。例えば『私はカトーが散歩しているのを見る』場合、これを知らせるのは感覚だが、これを信じるのは心だ。私が見るのは物体であり、それに私は目と心を向ける。もう一度言う、『私はカトーが散歩しているのを見る』。」彼らは続けます。「私が語っているのは物体についてではなく、物体に下された何らかの命令についてであり、それは『発言』『宣言』『表明』と様々な呼び方がある。したがって、われわれが『賢知』と言う時、それは物体について語っているのであり、『賢明である』という時、それは物体に関係するもの*9について語っているのである。だから、その人について語るか、その人に関係するものについて語るかには、大きな違いがあるのである。」

 14. 以上のように、僕はまだ自分の意見を述べていないので、今のところ、〔ペリパトス学派と昔の弁証論者の〕の二つの考え方があります。しかしそれでもなお、賢明であることも善であるという、第三の考え方が認められてはいけないでしょうか*10?先に僕は、「畑」と「畑と持つこと」は別であると言いましたが、それはもちろん、所有されるものと所有するものの性質が異なるからです。土地は所有されるもので、所有するのは人間です。しかし今議論していること、つまり賢知と賢明であることについては、両者は同じ性質を持ちます。15. 加えて畑の場合には、所有されるものと所有する者は別々ですが、賢知の場合には、所有されるものと所有するものは同じ性質をもちます。畑は法律によって所有されますが、賢知は自然本性によって所有されます。畑は譲渡されて、別の誰かの所有物になることがありますが、賢知はその所有者の手から離れることはありません。ですから〔畑という賢知とは〕異なる類のものを、比較対象とする理由はありません。僕が言わんとしているのは、ある別々の事柄が、どちらも善であり得る、ということです。つまり、賢知は善であるが、賢明であることもまた善であることは、君もお認めになるでしょう。賢知と賢知の所有者を善であることを妨げるものは何もありません。同様に、賢知と賢知を所有すること、つまり賢明であることも善であることを、妨げるものは何もありません。16. 僕自身は賢知を得たい、つまり賢明でありたいと思っています。それではどうでしょう?一方のものがそれなしには他方も善ではあり得ないならば、それは善ではないでしょうか?君は賢知が、もしそれを使用する権利なしに与えられるならば、それは歓迎できるものでないことを、お認めになるでしょう!そして、賢知の使用とは何でしょうか?それが賢明であることであり、このことが賢知においては最も大切なことであり、これが果たされなければ、賢知も無用になるのです。拷問が悪であるならば、拷問されることも悪です。そして、もしこの使用〔拷問されること〕を取り除くことができるならば、もちろん拷問も悪ではありません。賢知が「完成された心」であるならば、賢明であることは「完成された心を使用すること」です。使用しなければ善でないものを使用することが、どうして善でないことがありましょうか?17. 僕は君にお尋ねしましょう、賢知は望ましいか、と。そうであることを君はお認めになるでしょう。賢知を使用することは望ましかとお尋ねにすれば、それも君はお認めになるでしょう。なぜなら君は、賢知を使用することなしには、賢知を享受することはできないと言うでしょうから。さて、望ましいことは善です。雄弁であるために言葉を使用し、見るために目を使用するのと同じように、賢明であるためには賢知を使用します。したがって、賢明であることは賢知を使用することであり、賢知を使用することは望ましいことです。ですから、賢明であることは望ましいことであり、望ましいことは善です*11

 18. ああ、僕は長きに渡って自分自身を責めています。僕はまさに自分が非難している連中*12の真似事をして、全く明らかな事柄に対して無意味に多言を費やしているのですから。熱が悪ならば、熱があることも悪であることを、誰が疑うことができるでしょう?また寒さが悪ならば、寒いことも悪であることを?あるいは生が善ならば、生きることも善であることを?こうしたこと*13は全て賢知の周辺にあるのであり、賢知そのものの中にあるのではありません。しかしわれわれは、賢知それ自体の内に留まるべきです。19. 人が様々なところへ歩き回って探究したいと思うような時にも、賢知は雄大で広々とした深奥を持っています。われわれは神々の本性、星々を養う糧、あるいは種々様々な星々の運行について、探究することができます。またわれわれは、地球の現象も星々の現象と関連しているのか、あるいは全ての人々の心と体を動かすものは、星々の運動からもたらされているのか、そしてわれわれが偶然の出来事と呼んでいることすら厳格な法則に支配されており、この宇宙において突然に、何ら予兆もなく生じることは何もないのか、といったことに思いを巡らすことができます。こうした問題は今日では倫理の教えから除外されていますが、心を励まし、それが論じている主題の崇高さにまで、自己を引き上げるのです。しかし、先ほど僕が例に挙げたような問題は*14、君たち*15が思っているように心を磨くのではなく、心を擦り減らし、消耗させ、弱めるのです。20. そして、僕は君たちに問います。われわれは、おそらくは間違った、そして明らかに無益な事柄について議論することで、より偉大で、より優れた主題に対して必要な研究を、台無しにしてしまっているのではないでしょうか?賢知と賢明であることの違いを知ることが、僕に何の役に立ちましょう?前者は善であり、後者は善でない、などということを知って、僕に何の意味がありましょう?次のような祈りを託した、さいころ遊びをするとしましょう。「君は賢知の目に賭け、僕は賢明であることの目に賭けよう!」勝負は引き分けになるでしょう。

 21. それよりもむしろ、どうすればそこ*16に到達できるのかを、僕に示すことにご尽力下さい。何を避けるべきで、何を求めるべきか、どのような勉強により、よろめきがちな僕の精神を強固にすることができるか、どうすれば横殴りに僕を襲い、道から逸らせようとする力を、撃退することができるか、どのような手段によって、僕は自分の全ての悪徳に対処できるのか、どのような手段によって、僕は自らに押し入ってきた悪徳や、僕自らそこに押し入った悪徳を取り除くことができるか、こうしたことを、僕に教えて下さい。あるいは、どうすれば嘆くことなく不幸の重荷に耐え、他人を嘆かせることなく幸福に耐えることができるか、また、どうすれば逃れられない最後の結末を待つことなく、それが自分にとってよいと思われれば、自ら進んで逃れ去ることができるかを、僕に教えて下さい。22. 死を願うことほど、恥ずべきことはないと僕は思います。というのも、生きたいと思いながら*17、どうして死ぬことを願うのでしょう?そして、もし君が生きたいと思わないのであれば、君に生まれつき与えられているもの*18を、どうして神に求めるのでしょう。というのも、君がいつか死ぬということは、たとえ君の意に反しても、決まっていることですが、君が望む時に死ぬことは、君の掌中にあることだからです。前者は避けられませんが、後者は許されています。

 23. 僕は最近、学識ある著名な人物が(彼にはこんな称号が既に恥ですが)書き記した、最も恥ずべき序文を読みました。曰く、「だから私は、できるだけ早く死にたい!」何と愚かなことでしょう!あなたは最初から、自分に与えられているものを願っているのです。「だから私は、できるだけ早く死にたい!」おそらくあなたは、そんな言葉を口にしながら、年老いたのでしょう!少なくとも、妨げなど何もないでしょうに。誰もあなたを引き留めなどはしません。どれでも好きな方法で、出て行って下さい。自然界のものを何でも選び取って、それに脱出手段を提供するよう命じて下さい!それらは自然界を成り立たせている存在、つまりは水や、土や、空気です。これら全ては生の源であると同時に、死への導きにもなります。24. 「だから私は、できるだけ早く死にたい!」では、その「できるだけ早く」とはどういう意味でしょう?どの日をそうだと定めたのでしょう?その日はあなたが願い求めるより、もっと早く訪れるかも知れないのに。こんな言葉は弱い心の証であり、こんな忌まわしい言葉で、人々の同情を引こうとしているのです。死を祈り求める人は、死にたくないのです。神々には命と健康を祈って下さい。もし死ぬことを決意すれば、死の報いとして、もはや祈りは必要なくなりまます。

 25. 愛するルキリウス君、われわれはこうした問題をこそ扱うべきであり、こうした議題により、われわれの心を形作るべきなのです。これこそが賢知であり、これこが賢明であることです。空虚で些末な事柄をいじくり回して、緻密なだけで無益な議論をすることではありません。運命は君に、たいへん多くの問題を提示しており、未だ君はそれを解決できていないのに、いつまで屁理屈遊びを続けているのでしょう?戦闘の合図を聞いたのに、木刀を振る練習をしてるとは、何と愚かなことでしょう!そんなおもちゃの武器は投げ捨てて下さい。戦い抜くには、本物の剣が必要です。どうすれば僕は、悲しみにも恐怖にも魂を乱されずに済むか、どうすれば僕は、この隠れ潜む情欲の重圧を逃れることができるかを、教えて下さい。何とかせねばなりません!26. 「賢知は善であるが、賢明であることは善ではない。」こんな〔馬鹿げた〕ことを話すこと自体でわれわれは賢明でないことを自ら示し、ついにはこうした類の研究全体が、無益な事柄に労力を費やしているという理由で、笑いものにされることでしょう。また、将来の賢知は善であるか、という問題まで、議論の対象となっていることを知ったら、君はどう思うでしょう?というのも、どうか聞いて欲しいのですが、穀物庫が将来の収穫の量を感知しないことや、いかなる少年時代の腕力や体力からも、どんな青年時代になるかを予測できないことに、何の疑いの余地がありましょう?病気の人は病気の間、将来の健康が役立つことはありません。それは競走技や格闘技の選手が、試合の後の何ヶ月もの休息によって元気になるとしても、それが今役立つ訳ではないのと同じです。27. 将来のことは、まだそうなってはいないからという理由で、善ではないことを知らない人がいるでしょうか?善なるものはいかなる場合でも役立つものです。そして現在のものでなければ、何ものも役には立ちません。役に立たないものは善ではありません。役に立つものは、既に〔現在〕あるものです。将来僕が、賢者になるとします。賢者になった時は、その善は僕のものですが、それまでは、善は存在しません。物事はまず〔現在に〕存在しなけらばならず、それから〔善や悪といった〕何らかの性質があるのです。28. 僕はお尋ねします。まだ何でもないものが、どうして既に善いものになり得るのでしょうか?そして、「まだ訪れていないだろうか?」と問えるという事実以上に、あることが未だ存在していないことを証明することがでしょうか?というのも、まだ訪れていないなら、未だ存在していないことは明白です。「春が訪れるだろう」と言うなら、今は冬です。「夏がやって来るだろう」と言うなら、少なくとも今は夏ではありません。或るものが未だ存在していないことの最大の証拠は、それがこれからやって来るということです。29. 僕は将来いつか賢明になりたいと思っていますが、それまでの間、僕は賢明ではありません。もし僕がその善を所有していたら、既に現在この悪から解放されていたでしょうから。僕は将来いつか賢明になりたいと思っていますが、この事実から、僕は未だ賢明ではないことはお分かりでしょう。僕は〔将来の〕善と、〔現在の〕悪を同時に持つことはできません。これら二つは混ざり合うことはなく、一人の人間の中に、善と悪が同時に存在することもありません。

 30. あれらの巧妙な無駄話は全て速やかに通り越して、われわれに真の助けをもたらすものに急ぎ向かいましょう。自分の娘が陣痛に苦しんでいるのを憂いて助産師を探している最中に、立ち止まって法務官の布告版や催し物の日程表を読む者などいないでしょう。燃え盛る自分の家から家族を助けようと駆けつけた時に、ボードゲームの盤面を眺めて、どうすれば囲まれた駒を助けることができるか、などと考える者もいません。31. しかしまあ気の毒なことに、君にはありとあらゆる災難が、至るところから告げられています。家は燃え、子供たちは危険にさらされ、祖国は包囲され、財産は略奪されています。これらに加えて、海難や地震や、その他の恐怖を引き起こす全てが生じます。このような様々な災難に苦しめられている間に、君はただの精神的なお遊びに時間を費やすのですか?君は賢知と賢明であることに、どんな違いがあるかを尋ねるのですか?こんなにも崩れやすいものどもの間にあって、結び目を結んだり解いたりしているのですか?32. こんなことに無駄に費やすために、自然はわれわれに気前よく時間を与えることはありません。また、細心の注意を払っている人からでも、どれだけ多くの時間が失われるかを、心して下さい。ある人は自分の病気のために、ある人は家族の病気のためにそれを奪われ、ある人は家の仕事のために、ある人は公的な仕事のために奪われます。そして睡眠は、生涯を通して、われわれと時間を半分に分け合います。

 これほどに短く早く、われわれを奪い去るこの時間ですが、その大部分を無駄なことに費やすことに、何の意味がありましょう?33. そのうえ、われわれの精神は、本来は治療薬であるはずの哲学を娯楽のために用いて、自らを治すよりも、哲学から歪な喜びを引き出すことに慣れてしまったのです。賢知と賢明であることにどんな違いがあるのか、僕は分かりません。分かっているのは、僕がそんなことを知っているかどうかなど、どうでもいいということです。教えて欲しいのですが、賢知と賢明であることの違いを知った時、僕は賢明でいられるでしょうか?

 それではどうして君は、賢知の働きではなくその言葉の方に、僕の関心を引き入れようとするのでしょう?僕をより勇敢に、平静に、運命に並び立てる、運命に打ち勝てる人間にして下さい。そして実際に、僕は打ち勝つことができるでしょう。学ぶことの全てを、この目的に向けることができたなら。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 117 - Wikisource, the free online library

・解説

 セネカ自身がどうでも問答論法を再現するのは、この書簡117が最後である。2~17節がその殆どどうでもいい屁理屈なので書簡113と同様に屁理屈部分はカットしようかと思ったが、最後なのでせっかくだから頑張って訳した。書簡113に比べたら、まだ読めなくもないので許容の範囲内だ。セネカ自身こうした「娯楽」を悪く言いつつも、さんざん自分も書いているあたり、実は結構楽しんでいたのかも知れない。



 

 

 

 

*1:原文は名詞「sapientia(知恵、英知、賢知)」と動詞「sapio」の不定法(名詞扱い)「sapere(知恵があること、分別があること、賢知があること、賢明であること)」はどちらも善か?と書かれている。英訳では「wise」と「being wise」はどちらも善か?と訳されており、これが一番分かりやすいかも知れない。

*2:書簡106も参照

*3:先のストア派への反論者

*4:賢知が善であり、賢明であることは善ではないという論法に従うと、幸福な生活は善であり、幸福に生活することは善ではない、という結論に至る、と先の反論者は言っている。

*5:原文と少しニュアンスは異なるが、おかしな日本語になるよう意訳した。詳細が気になる人はラテン語原文を参照されたい。

*6:つまり本3節で述べた「付随的な性質」

*7:命乞い

*8:少々分かりにくいが、本3節で、「賢明であること」は「非物体的で付随的な性質」に過ぎないので善ではない、という理屈を論破している。

*9:命令、発言、宣言、表明

*10:つまりこの後に説明される、「賢知と賢明であることは別個のことだが、そのいずれも善である」というペリパトス学派の説明とも、昔の弁証論者の説明とも異なる第三の考え。

*11:それゆえ、賢明であることは善である。

*12:無益な問答論法に夢中になっている連中

*13:屁理屈

*14:「賢知」と「賢知であること」はどちらも善か?というような問題

*15:先に挙げたストア派や弁証学者たち

*16:「賢知」と「賢明であること」

*17:死にたいというのは、生きてないとできないから、つまり結局は生きたいと思っていることだから。

*18:死ぬ権利