徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡92 幸福な生について

 1. 君と僕は、次の点において同意できるでしょう。つまり、外的なものは肉体のために求められること、肉体は魂のために貴ばれること、そして魂の内にはわれわれに仕える或る部分が存在し、それはわれわれが活動したり生命を維持することを可能にし、われわれの指導的原理のために与えられているということです。この指導的原理の中には、非理性的な部分と理性的な部分があります。前者は後者に従属し、後者は他の何にも帰することなく、全てを自らへと帰する唯一のものです。なぜなら、神々の理性もあらゆるものの上位に置かれており、何にも従うことはなく、われわれの持つ理性も神々に由来するものであるため、同じようにするからです。2. 君と僕が以上の点について同意できるなら、当然次の点についても同意できるでしょう。すなわち、幸福な生はこのことにのみ依存している、つまり、われわれが完全な理性を持つことです。なぜなら、完全な理性のみが、魂が打ちひしがれるのを防ぎ、運命に対し立ち向かうからです。どのような状況であっても、人の恒心を保ちます。そしてこれのみが唯一、決して損なわることのない善なのです。僕は言いましょう、幸福な人とは、自分より強い何かはもたない人です。自己自身以外の何ものにも寄り掛かることなく、高位を保ちます。なぜなら、何かの支えを必要とする人は、倒れる可能性がありますから。もしそうでなければ、われわれに属さないものが、大きな影響を及ぼし始めるでしょう。しかし、運命に依存することを望む人がいるでしょうか?あるいは、賢明な人が、自分に属さぬものを誇ることがあるでしょうか?

 3. 幸福な生とは何でしょう?それは心の平安と永続の平静さです。君が偉大な魂を持っていれば、これらは君のものですし、勝ち得た正しい判断力を堅持する不動の精神を持っていれば、これらは君のものです。どうすれば人は、このようにできるでしょう?真理を完全に見極め、あらゆる行いにあたって、秩序、節度、礼儀、そして、穏やで親切で、理性を大切にして決してそれから離れることのない、愛すべきであり同時に驚嘆すべき意志を保つことによってです。つまり、この原則を簡単に説明すると、賢者の魂は神に相応しいものでなければならない、ということです。4. あらゆる立派なものを備えた人が、それ以上に何かを望む必要があるでしょうか?というのも、もし立派でないものが最善の状態に何かを加えることが出来るのならば、幸福な人生は、立派でない人生の範疇にも入ることになりますから。しかし、理性的な魂の善を、非理性的なものに結び付けることほど、恥ずべき愚かなことがあるでしょうか?5. ところが運命の抵抗に遭うと最高善を完全に達成することは不可能であるため、最高善には増大の余地があると主張する哲学者たちもいます。ストア派の偉大な指導者の一人であるアンティパトロス*1ですら、非常に僅かではあるものの、外部からの何らかの影響を受けると認めています。しかし、小さな炎によって明るさを加えなければ日の光に満足できないとすることが、どれほどおかしいかはお分かりでしょう。太陽のこの明るさの中で、小さな火花にどれほどの意味がありましょう?6. もし君が立派なものだけで満足しないのなら、ギリシャ人が「άοχλησιαアオクレーシア*2」と呼ぶ平静さか、あるいは快楽のいずれかを加えることを望むでしょう。しかし前者は、いかなる状況でも得ることができます。なぜなら精神は全宇宙を自由に観想する時は、煩わしさから解放されており、いかなるものも精神が、自然を観察することを妨げはしません。後者の快楽は、家畜の善です。それは理性的なものに非理性的なものを、立派なものに立派でないものを加えているに過ぎません。肉体をまさぐって快感を与えることが、われわれの生を善くするのでしょうか?7. それならば、どうして君は、食道楽を満足させることが、われわれの生を満足させることだと言わずにいれましょう?その上君は、最高善は味や色や音にあるとする者を、英雄どころか、人間にすら数え入れて評価するでしょうか?神々に次いて最も高位にある人々から、彼のような者は立ち去らせましょう。物言わぬ獣つまり、餌を与えられて喜ぶ動物に数え入れましょう!

 8. 魂の非理性的な部分にはさらに二つの部分があります。一方は豪胆で野心に溢れ奔放で、その座を感情の中に占めます。もう一方は卑俗で怠惰で、快楽に身を委ねています。前者は抑制はされないものの、後者よりは勝れており、確実に勇敢であり、人間においてより価値のあることですが、(先に述べた)哲学者たち*3は、これを軽視し、後者の無気力で卑しいものを、幸福な生に不可欠のものと見做してきました。9. 彼らは理性に、この後者に仕えるよう命じました。彼らは最も高貴な生きものの最高善を卑屈で恥ずべきものに帰し、さらにはそれらを、様々なものが歪に混ぜ合わされた、奇怪な化け物に仕立て上げました。それは言うなれば、われがウェルギリウスがスキュッラについて、次のように描写しているように、

上方は人間の顔で、胸は女の美しい胸、

下方は巨大な怪物のそれで、

イルカの尾を持ち、狼のような腹に繋がっている*4

スキュラに繋がっているのは、おぞましく俊敏な野獣の体躯です。しかし、彼らのあの英知は、どんなおぞましい形姿から作り出されたことでしょう*510. 人間の第一の特性は美徳そのものです。それに無用で儚い肉体が結合されており、この肉体は、ポセイドーニウス*6も述べているように、食物を摂取する限りにおいて有用なのです。神聖なものである美徳は(肉体という)不安定なものに終わり、崇高で天上的なものに、怠惰で無気力で動物的なものが結び付けられています。そして、先に述べたもう一つの要素の平静さは*7、それ自体はたしかに魂に何の役にも立ちませんが、魂を妨害からは解放してはくれます。しかし快楽は、まさしく魂を破壊し、その全ての活力を弱めます。これほど不調和なもの同士が混ぜ合わされることがありましょうか*8?最も活力のあるものに最も怠惰なものが、最も厳粛なものに最も軽率なものが、最も神聖なものに淫乱にさえ至る放縦なものが結び付けられるのです。11. 「それでは、」反論する人がいます。「もし健康や平静や苦痛のないことが美徳の妨げとならないならば、あなたはこれらを求めないのか?」もちろん僕は求めますが、それらが善だからという理由ではありません。僕がそれらを求めるのは、それらが自然に適ったものであり、僕自身の善い判断力の行使によって得られるからです。では、その中にどんな善があるのでしょう?それは次の一事、つまりは善き選択です。なぜなら、僕が適切な服を着たり、そうすべくして散歩したり、そうすべくして食事をする時、僕の衣服や散歩や食事が善なのではなく、それらに際して僕が示す、思慮のある選択が善なのです。つまり、僕が行うそれぞれの事柄において、理性と一致する選択をすることです。12. 清潔な服装を選ぶことは、人の努力の対象であるとも、つけ加えさせて下さい。なぜなら、人は自然本性的に、清潔で、手入れされていることを好む動物だからです。ですから、清潔な服装それ自体ではなく、清潔な服装を選択することが善なのです。なぜなら、善は選ばれたものにあるのではなく、選ぶことにあるのです。われわれの行いが立派なのであって、行われる事柄ではありません。13. そして、僕が服装について述べたことが、肉体についても当てはまると考えて下さい。なぜなら自然は肉体を一種の衣服としてわれわれの魂を包み込ませ、肉体を外套としているからです。しかし、衣服の価値を、それが入っている衣装棚によって決める人がいるでしょうか?剣の良し悪しは、鞘によって決まるのではありません。ですから僕は、肉体についても同じように答えます。つまり、もし選択の余地があるのなら、僕は健康で力強いこと選ぶでしょう。しかし、それら自体ではなく、それらに際しての僕の判断が善なのです。

 14. 別の反論があります。「確かに賢者は幸福だ。しかしそうだとしても、人があの最高善に到達するためには、そのための手段を求めることに自然が応じなければ、不可能である。したがって、美徳を持つ人が不幸であることはあり得ないとはいえ、健康や四肢の健在といった自然の恩恵を欠いているとすれば、完全な幸福ではない。」15. しかし、このように言うことで君は、より信じ難いことを認めていることになるのです。つまり、絶え間ない極大の苦痛の真っ只中にいる人は悲惨ではなく、むしろ幸福ですらあるということです。そして君は、より容易なことつまり、彼が完全に幸福であることを否定しているのです。しかし、もし美徳があれば人は不幸になることはないのであれば、完全に幸福になることはより容易であるはずです。というのは、幸福と完全な幸福の差は、不幸と幸福の差よりも小さいものですから。人を災いから救い出し、幸福な人間の中に数え入れさせるほど強力なものが、残されたことを成し遂げて、人を最高の幸福へと至らせることが出来ないなどということがありましょうか?そのような力強さが、頂上へと登る時に失われるでしょうか?16. 人生には有益なものも不利益なものもありますが、そのいずれもわれわれには支配できません。もし或る善き人が、あらゆる類の不利益に苦しめられているにも関わらず、不幸でないとしたら、何らかの利益を欠いていたとしても、どうして彼が完全に幸福でないと言えましょうか?なぜなら、彼は不利益の重圧によって不幸な気持ちへと押し潰されることがないのと同じように、利益の欠如によって完全な幸福から引き降ろされることもないからです。不利益があっても不幸から解放されているのと同じように、利益がなくとも完全に幸福です。もしそうでなく、彼の善が損なわれる可能性がある場合、それは彼から完全に奪われる可能性もあります。

 17. 先に僕は、小さな炎では太陽の光を増すことはできないと述べました。太陽の明るさによって、それ以外の輝く光全てが覆われるからです。「しかし、」と言う人があるでしょう。「太陽の光さえも妨げるものはある。」しかし太陽は、それら妨害の中にあっても損なわれることはなく、たとえ何かが間に入ってわれわれの視界を遮ることがあっても、太陽は自らの仕事を続け、自らの進路を保ちます。雲の間から輝き出す時でも、その輝きは晴れの時に劣らず、遅くなることもありません。というのも、単に光を遮るものがあることと、輝きそれ自体を妨げることの間には、大きな違いがあるからです。18. これと同じように、何らかの妨害が、美徳を損なうことはありません。小さくなることもなく、単に輝きが鈍るだけです。われわれの目には、前よりは見えにくくなり、輝きも減って見えるかも知れません。しかし、美徳それ自体は変化することなく、同じままであり、雲がある時の太陽と同じように、隠れてはいるものの、依然としてその力強さを発揮し続けます。ですから災いも損失も不正な行いも、雲が太陽に対するのと同程度の力しか、美徳に対して持ってはいません。

 19. 肉体的な不利益を被った賢者がいるとしたら、彼は不幸でも幸福でもないと主張する人がいます。しかし、そのように言う人も間違っています。なぜなら、偶然の賜物を美徳と同等だと考えており、立派なものに、立派でないものと同程度の価値しか認めていないからです。しかし、卑俗なものを尊敬に値するもの同じ高位に置くことほど忌まわしく、不条理なことはありません!なぜなら尊敬に値するものとは、正義、誠実さ、忠誠心、勇敢さそして思慮深さだからです。これとは反対の、丈夫な脚や強靭な肩、頑丈な歯や健壮で強固な筋肉といったものは、最も低劣な人々にもしばしば与えれられる、無価値な類のものです。20. さらに、肉体が支障となっている賢者が不幸とも幸福とも見做されず、ある種の中間状態に置かれるとしたら、彼の人生もまた、望ましいものでも望ましくないものでもないでしょう。しかし賢者の人生が望ましくないなどと言うほど、馬鹿げたことがあるでしょうか?そして、或る人生が望ましくなく、また望ましくなくもないと言うほど、信じ難いことがあるでしょうか?さらに、もし身体の欠陥が人を不幸にしないのであれば、それは人が幸福になることを許すでしょう。なぜなら、状態をより悪くする力のないものは、最善の状態を妨げる力もありませんから。

 21. 「しかし、」ある人は言います。「われわれは何か、冷たいものや熱いものを知っており、その中間には生ぬるい温度がある。これと同じように、ある人は幸福で、ある人は不幸だが、別のある人は幸福でも不幸でもない。」僕は、われわれに対して投げかけられたこの喩えについて、検討しようと思います。もし僕が生ぬるいお湯に大量の冷たい水を加えると、それは冷たくなります。そして、より大量の熱湯を加えると、やがては熱くなります。しかし、君たちの言う不幸でも幸福でもない人間の場合、僕がどれだけ煩いを加えたとしても、彼は不幸になることはないでしょう*9。したがって、君たちの比喩は適切ではありません。22. さらに、不幸でも幸福でもない人を、君たちの前に引き連れてきましょう。僕が彼に盲目という災いを加えても、彼は不幸にはなりません。僕が彼を不具にしても、彼は不幸にはなりません。僕が彼に、絶え間なく続く極大の苦痛を与えても、彼は不幸にはなりません。したがって、これらのあらゆる災いによっても人生が不幸になることがない人は、幸福な人生からも引き降ろされることはありません。23. そして、もし君の言うように賢者は幸福な状態から不幸に陥ることができないとするなら、不幸でない状態に陥ることもできないのです*10。というのも、もし人が滑り落ちた場合、どうしてどこか或る地点で止まることができるでしょうか?人が底辺に転がり落ちるのを防ぐ力は、彼を頂上に留めるのです。どうして君は、幸福な人生は破壊し得ると主張するのですか?それは少し砕くことすら出来ません。そして、これらの理由から、美徳はそれ自体で、幸福な生にとって十分なのです。

 24. 「しかし」次のように言う人がいます。「絶え間なく悪しき運命と奮闘せざるを得なかった賢者よりも、苦痛に何ら妨げられることなく長生きした賢者の方がより幸福ではないのか?」では、僕の言うことに答えて下さい。後者の賢者はより善良なのですか?あるいはより立派なのですか?もしそうでないなら、彼はより幸福ではあり得ません。より幸福に生きるためには、より正しく生きなければなりません。正しく生きることが出来ないなら、幸福に生きることもできません。美徳はそれ以上に引き伸ばすことはできません。それゆえ、美徳に依拠する幸福な人生も同様です。なぜなら美徳はたいへん優れた善であるため、短命や苦痛や、あらゆる種類の肉体的な障害といった取るに足らない問題に、影響を受けることはありませんから。快楽にそうした善はなく、美徳はそれに一顧する価値をも見出しません。25. では、美徳において最も重要なことは何でしょう?それは、今日を越えて明日をあてにすることなく、自らの日々(寿命)を数え上げないことです。ほんのわずかな時間でも、美徳は永遠の善を完成させるのです。これらの善は、われわれにとっては信じ難いほどに、人間本性を超越したものに思われます。なぜならわれわれは美徳の偉大さを自分自身の弱さを基準にして測り、さらに自分たちの悪徳に、美徳の名を冠しているからです。そのうえ、耐えがたいほどの苦痛の真っ只中にある人が、「私は幸福だ。」と言ったら、同様に信じ難いことではありませんか?しかしこの言葉は、まさに快楽の工場で発せられたものであり、エピクロスは次のように言っていました。「今日のこの一日も別のあの一日も、人生における最も幸福な一日だ!」しかしある一日は排尿困難による苦しみに苛まれ、別の一日は不治の胃潰瘍による激痛に苦しめられる日でした。26. それでは、美徳が与えるそれらの善は、快楽を愛する人*11の中においてすら見出されるものなのに、美徳を愛するわれわれの目に、信じ難いほど大きなものに映るのはどうしたことでしょう?彼ら*12のような、低劣で恥ずべき精神を持った人々でさえ、極度の苦痛と不運の真っ只中にあっても、賢者は不幸でも幸福でもないと言っています。しかし、これも信じ難い、いえ、他の事柄にも増して信じ難いことです。なぜなら、美徳がその高みから引き降ろされることがあるのなら、どうしてどん底まで落ちないことがあるか、僕には分からないからです。美徳は人を幸福に保つことがないならば、あるいはその役目を追い出されたら、われわれが不幸になることを阻止できないでしょう。美徳はその役割を堅持しさえすれば、追い出されることはありません。美徳は征服するか、征服されるかの、いずれかでなければなりません。

 27. しかし、ある人は言います。「不死なる神々にのみ、美徳も幸福な生も与えられており、われわれに与えれるのは、それら神々の善の言わば影であり外殻に過ぎない。われわれはそれらに近づくことはできても、決して到達することはできない。」しかし理性は、神々にも人間にも等しく備わったものです。神々においてそれらはすでに完全なものですが、われわれはそれを完全にすることができます。28. しかしわれわれの悪徳は、われわれを絶望へと導きます。なぜなら、理性的存在として第二位である人間は、より劣った存在であり、言うなれば指導者として最善のものを堅持するには未だ不安定であり、その判断力は依然として揺らぎがちで、不確かなものです。このような人物は、目や耳の感覚、優れた健康状態、醜くない身体の外観、さらには何ら困難のない、より長い寿命を求めるでしょう。29. それにより彼は後悔することのない人生を送れますが、この不完全な人物の中には、悪を生む出す或る種の力があります。なぜなら、彼の精神は倒錯へと容易に傾くからです。とはいえ、以前に悪徳へと駆り立てられていた精神が取り除かれたと考えると、彼はまだ善良ではないまでも、善良へと向けて形作られていると言えます。しかし、善を生み出す資質を欠いている人は、悪しき人です*13。ですが、

美徳と勇気がその実に宿る者*14

のような人物こそ、神々と同等です。彼は自らの始原を思い出し、そこに戻ろうと努めます。30. 自分がかつていた高みに戻ろうとすることが、間違いであるはずはありません。そして、どうして神々の一部である人間の中に、神的なものがあることを信じてはいけないでしょうか?われわれをその中に含む宇宙は全体で一つであり、それが神でもあります。われわれは神の仲間であり、構成員です。われわれの魂は大いなものであり、悪徳がそれを抑えなければ、神々のもとにまで達します。真っ直ぐに立って天空を見上げるのが、われわれの身体の本性であるのと同じように、魂も、それが望むだけ遠くまで達することができ、やがては神々と同等になることを望むようにと、自然によって作られたのです。そして、もし魂が自らの力を用いて、それに相応しい高い領域へと登る時には、自分自身以外に、何ものの道を通ることはありません。31. 天へと(初めて)向かうのであれば、それは大変な苦労だったことでしょう。しかし、魂はそこに戻るのです。ひとたび道筋を見つけたならば、魂は他のあらゆるものを軽視し、果敢につき進みます。富や金や銀といったものには、それれがもともと埋まっていた暗闇にこそふさわしいと考えて、振り返りません。そうしたものの価値は、無知な人々の目を眩ます輝きによってではなく、かつてわれわれの貪欲が、それらを掘り出したところの泥沼によって(魂に)評価されるのです。

 僕は言いましょう、魂は、富とは人が高く積み上げるような所には存在しないことを、金庫ではなく魂をこそ満たさねばならないことを知っている、と。32. 魂こそが、万物の上に立ち、自然界の所有者として据えられるべきです。それにより魂は、富を東西の果てまでも見出し、神々のように万物を所有することが出来ます*15。それ自身の莫大な富を用いて、世の金持ちと言われる人々を下に眺めるのです。そのような金持ちは誰も、他人の富を羨まないで済むほどまでに、自分の富に満足はしていません。33. 魂が自らをこのような高みに至らせた時、魂は肉体という背負わざるを得ない重荷もまた、愛すべきものではなく、管理すべきものと見做すようになります。自分が支配すべきものに、従属することはありません。肉体の奴隷になっている人は、誰も自由ではありません。実際、肉体への過剰な心配がもたらすその他の種類の主人は差し置いても、肉体それ自体の気まぐれな命令は、享楽的で強情なのです。34. この肉体から魂は、ある時は冷静に飛び出し、ある時は喜びとともに飛び出しますが、ひとたび抜け出た後は、自分が捨て去った肉体がその後どうなるかを問うことはありません。のみならず、われわれが切り落とした髪の毛やひげについて何も気にしないのと同じように、かの神的な魂も、死すべき人間から立ち去ろうとする時に、地上における容器であった肉体がどうなるかは、自分には無関係だと考えます。それが火で焼き尽くされるか、石で閉じ込められるか、大地に埋められるか、野獣に引き裂かれるかは、生まれたばかりの胎児にとっての後産と同じものだと見做します。また、この肉体が鳥に投げ与えられて引き裂かれるか、あるいは

海の犬に餌として投げ込まれ*16

て食い尽くされるかは、もはやその場ににはない魂に、何の関係がありましょう?35. いえ、たとえまだ生者の内にある時でも、魂は死後肉体に起こると思われることを恐れません。なぜなら、そうしたことは脅迫にはなっても、死のその瞬間に至るまでは、魂を恐れさせるのに十分ではありません。魂は言います。「私は処刑人の引っ張り鉤も、見る人々にはおぞましく映る、侮辱のための死体の切断も恐ろしくはない。私は自分の最期の弔いを誰にも執り行って貰おうとは思わないし、自分の遺骸を誰にも委ねることはない。自然は誰でも弔うことを、あらかじめ約束してくれている。残忍が捨て置いた遺体も、時の流れが弔ってくれる。」マエケナス*17は勇ましくも、次のように言っています。

私に墓は必要ない。

自然が弔ってくれるのだから。

見捨てられた遺体を、埋めてくれる。

質実剛健な人物がこのようなことを述べたと、君は思うでしょう。実際彼は高貴で、豪胆な資質を持った人物でしたが、幸運によって怠惰となり、その天分を損なってしまったのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 92 - Wikisource, the free online library

・解説

 「幸福な生について」という同じタイトルの論説が、岩波文庫の「生の短さについて」に収録されている。こちらも非常に優れた内容であり、訳もかなり読みやすくボリュームもそれなりにあって読み応えがあるので、興味のある方は一読されたい。

 本書簡においても、セネカがたびたび主張する、「幸福な人生には美徳だけで十分である」という内容が繰り返し述べられている。ともすると快楽を誰よりも多く追及することが他ならぬ何よりの幸福の証として考えるわれわれ現代人には、何度読んでも深くつき刺さる内容である。

 

 

 

 

*1:前2世紀の古ストア派の哲学者。ポセイドーニウスの師のパナイティオスの師。書簡87参照。

*2:「妨害のないこと」で、エピクロス曰く精神の「安静」「平静」。

*3:最高善には増大の余地があると主張する哲学者たち。

*4:「アエネイアス」3.426~428

*5:快楽というスキュラよりもおぞましい怪物から生み出される英知を説く哲学者を非難している。

*6:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33,書簡78,書簡87,書簡88,書簡90参照。

*7:もし立派なことだけで幸福な生には十分でないなら、快楽か、或いは平静さを付け加えることになる、と述べたところ。

*8:美徳という人間精神の最高の善と、肉体の快楽という卑しいものが、歪な怪物のように混ぜ合わされてよいのだろうか?という意味。

*9:ここでセネカが言いたいのは、幸不幸は質的な問題であり、温度という量的な比喩は当てはまらないということだろう

*10:「不幸でない」=「完全に幸福ではない」つまり、君たちは賢者は幸福から不幸になることはないと言っているのだから、その意見それ自体で、「完全に幸福ではない」」状態などあり得ないと、自分たちで主張してるのと同じだ、繰り返し述べている。

*11:エピクロス

*12:エピクロス

*13:困難に立ち向かって自ら善を生み出すのでない限り、身体的な利益や安寧を求めるような人物は、たとえかつての悪徳が取り除かれていたりしてようと、悪い人物である、といった解釈が適当か。

*14:「アエネイアス」5.363

*15:魂が正しくあれば、その魂は全ての自然界の所有者となり、どんな金銭よりも豊かな富を持つ、ということ。

*16:「アエネイアス」9.485

*17:~前8年。アウグストゥスの親友で、ホラティウスウェルギリウスといった詩人のパトロンを務め、自身も著作活動を行った。書簡19参照。