徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡74 世俗的な喜びから逃れるための美徳について

 1. 君の手紙は僕に喜びを与え、怠慢から呼び覚ましてくれました。また、長らくの間、鈍く無気力になっていた僕の記憶力を刺激してくれました。

 親愛なるルキリウス君、幸福な人生に達するための最も良い方法は、立派なものこそが唯一の善だと信ずることであるという君の考えは、もちろん正しいものです。それ以外のものを善だと考える人は、自分自身を運命の力の下に置き、他者の支配下に赴くのです。しかし、あらゆる事に関して善を立派さによって定義する人は、内なる幸福に満たされています。

 2. ある人は自分の子供を亡くして悲しんでおり、別のある人は病気に不安を抱き、またある人は何か恥ずべきことをしたり、自分の評判が傷つけらた時に嘆き苦しみます。ある人は隣人の妻への色情に悩まされ、ある人は自分の妻への色情に悩まされるのがお分かりになるでしょう。選挙に負けたことで失意のどん底にある人や、自ら勝ち取った公職そのものによって苦しめられる人もいるでしょう。3. しかし、数多の死すべき人間の大半を占める不幸な人達とは、いたる所から脅かす死の到来により、絶望へと陥ってる者たちです。死が迫ってこない場所などありませんから。ですから、敵地で偵察をする兵士のように、四方八方を見回し、あらゆる物音に備えねばなりません。この恐怖心を胸から取り除かなければ、人は常に動悸しながら生きることになります。4. 追放されて、財産を剥奪された人々が、すぐに君の心に思い浮かぶでしょう。そして、まさしく富の中にあっても貧しい人々のことも、心に思い浮かぶでしょう(そしてこれは最も深刻な部類の貧困です)。難破に遭った人々や、難破に似た苦しみに遭った人々も思い浮かぶでしょう。というのも、民衆の怒りやおそらくは羨望の念——高い地位にある人達にとって最も致命的な一矢ですが―—が、穏やかな天気が続くと慢心した時によく現れる嵐や、落ちたところの周囲をも震撼させる突然の雷のように、困難もなく安心しきっていた人々を破滅に追いやったからです。ちょうど、雷光〔の落ちた所〕の近くに立っていた人は誰でも、稲妻の直撃を受けた人と同じく失神するように、このような突然の暴力的な災難においては、たとえ災難に圧し潰されるのが一人だけでも、他の人達も恐怖心と、実際に被害に遭った人と同様の悲しみを負うことになる可能性に、圧し潰されるからです。

 5. 人は誰でも、自分でない他者に突然襲いかかった災難によって、心を悩ませます。空の投石器が鳴らす音にも身を震わせる鳥のように、われわれは(実際の)打撃のみならず単なる音にも悩まされます。ですから、そのような愚かな空想に自身を委ねる人は、誰も幸福になることはできません。というのも、静穏さをもたらすものでなければ、幸福をもたらすことはできないからです。不安の中に過ごすことには、悪しき類のものしかありません。6. 運命の力に自分の〔幸福の〕多くを依存させる人は、自分自身に対して巨大な不安の檻を作り、そこから抜け出すことができません。もし人が、安心に至る道を見つけたいのなら、方法は一つしかありません―—外部のものを軽蔑し、立派なものに満足することです。というのも、何か美徳より優れたものがあると考える人や、何か美徳以外の善があると信じる人は、幸運が投げ与えるものをかき集めるために諸手を広げ、その恩恵をやきもきしながら待ちわびているからです。7. さて、運命が祭典を開催し、死すべき人間の群れに、名誉、富、権力を注いでいると想像してみて下さい。これらの贈り物のうち或るものには、それを強奪せんとする者の手によって既に引き裂かれてしまったものもあれば、互いに信用していない同盟関係によって分配されたものもあり、あるいは、すでにそれを得た者に多大な損害が与えらることで、押収されたものもあります。これらの恩恵のうちあるものは、人が気づかないうちに与えられ、またあるものは、あまりに熱心に奪おうとしたため、かえって見失われ、ただ強欲に掴んだという理由で、掴んだその手から叩き落されました。しかし、彼ら全員の中で、幸運にも戦利品を手に入れることができた人でも、勝ち取った喜びが明日までも続く人は一人もいません。

 ですから、最も賢明な人は、施し物*1が運び込まれるとすぐに、競技場から逃げ出すでしょう。彼は、小さな贈り物に、高い代償を支払わねばならないことを知っているのです。立ち去る彼に掴みかかったり、殴りかかったりする人は誰もいません。争いは、贈り物のある所で起こるのです。8. 運命がわれわれに投げ与える贈り物についても同様です。われわれは惨めなことに、興奮し、心をバラバラにして、沢山の手があればよかったのにと考え、こちらを振り返ったかと思うと、今度はあちらを振り返ります。われわれは贈り物が投げ与えられるのが、あまりにも遅いと考えます。それらは単にわれわれの貪欲を刺激するだけです。なぜなら、それらは全ての人が待ち望んでいるのに、僅かな人にしか行き渡らないからです。9. われわれは落ちてくるものを得ようと欲します。何かを掴み取ることができれば、われわれは喜びます。或る者たちは何かを掴めるという空虚な希望に欺かれました。われわれは、自分自身に大きな損失をもたらしたり、われわれを欺いて窮地に追い込むような無価値な略奪物に、高い代償を払います。ですから、このような競争からは身を退き、貪欲な暴徒に道を譲ろうではありませんか。そして彼らに、頭上にぶら下がっている「善いもの」に目を向けさせ、彼ら自身に、もっとそれにぶら下がって貰いましょう。

 10. 幸福になることを決意した人は誰でも、善とは立派なことの中にのみあると信じるべきです。なぜなら、他の何かを善と考える人は、正しい人がたびたび不幸に見舞われるという事実や、われわれに与えられた時間は短く儚い―—宇宙に与えられた永遠に比べればの話ですが―—という事実のために、何よりも、神慮に対して、誤った判断を下しているからです。

 11. われわれが神々の恩恵に感謝を述べないのは、このような不平不満のためです。われわれはその恩恵が常に与えらる訳ではない、量が僅かで、不確かで、移ろい易いと文句を言います。したがって、われわれは生きることも死ぬことも望みません。われわれは生への嫌悪と、死への恐怖に取り憑かれているのです。われわれのいかなる計画も海上で揺れ動き、どれだけ成功しても、われわれは満足することはありません。そして、これら全ての原因は、われわれがあの、計り知れない超え難い善にまだ到達していないためです。その善の中では、われわれの渇望は全て止まねばなりません。なぜなら、最高を超えたものはありませんから。12. なぜ美徳は何も必要としないかをお尋ねですか?それは美徳が、自分自身が持つものに満足し、持たないものを渇望しないからです。美徳の目の前には、満足できるものがふんだんにあります。

 この判断に異議を唱えるなら、義務も誠実も守られません。なぜなら、これらの性質を発揮することを望む人は、世間が悪と呼ぶ多くのことに耐えねばならないからです。われわれは、自分が「善かれ」と思って夢中なっている多くのことを犠牲にしなければなりません。13. 絶えず自分自身を試練に晒す勇気はすでに失われました。大衆がたいへん重要なものとして切望するあらゆるものを、つまらぬものとして軽蔑しない限り明確に現れることはない偉大な魂も、失われました。われわれが労苦を恐れ、誠実よりも大切な何かがあると考え、最善のもの以外に目を向けることによって、親切心も、親切に報いる心も失われました。

 14. しかし、これらの点はさておき、問題は、これらの一般に善と呼ばれているものが善ではないのか、それとも、神はわれわれに与えたものを自分で楽しむことはできないという点で、人間は神より幸福であるのか、ということです*2。というのも、神は色欲を持たず、豪華な宴会を催すこともなく、財産を持たず、堕落的な快楽の力で人間を誘う何ものをも持ちませんから。ですから、神は善を持たないと信じるか、さもなくば、神が持たないというそのこと自体が、それらが善ではないことの証です*315. さらに言うと、一般に善と見做される多くのものは、人間よりも動物によりふんだんに与えられています。動物は人間よりも大きな食欲で食べ物にありつき、性交にふけることで人間のように疲れることもなく、その力強さにおいてもより巨大で、より均一です。従って、動物は人間よりも遥かに幸福であることになります。なぜなら、邪悪になることも、自堕落になることもないからです。快楽を楽しみ、恥や後悔から生まれる恐怖も感じることなく、より頻繁に、より容易にそれらを味わうのです。

 16. こうなってしまいますから、神が人間に負かされるものを、善と呼んでよいかどうかを考えるべきです。魂に最高善を定め置きましょう。最高善がわれわれの最良の部分からもぎ取られて最悪の部分に適用されると、つまり感覚の領域に移行されると、その善は失われます。なぜなら、物言わぬ獣のほうが感覚は活発だからです。われわれの幸福の骨子は、肉体の中に置くべきではありません。真の善とは、理性によって与えられ、強固で永続するものです。それらは衰えることがなく、縮小することも減少することもありません。17. その他のものは世俗的な意味での善であり、真の善と同じ名前で呼ばれてはいるものの、そこに善の本質はありません。したがって、それらは「便利なもの」と呼び、われわれストア派の用語で、「望ましいものプロエーグメナ」と呼びましょう。しかし、それらはわれわれの持ち物ではあっても、われわれの一部ではないことを認識すべきです。そして、所有することがあっても、それらはわれわれの外部のものであることを忘れないように気をつけましょう。たとえ持っていても、それらは従属的で卑しいものだと見做すべきであり、その所有により舞い上がることは、誰にも許されません。というのも、自己の努力によって達成したわけではない何かを誇ることほど、愚かなことがあるでしょうか?18. そうしたもの全てが、われわれに与えられることはあっても、貼り付けてはなりません。さもないと、それらが取り除かれる時に、われわれのいかなる部分も引き裂かれずにはおきません。こうしたものを使用することはあっても、自慢してはなりません。あたかも一時的に貸し出されて、すぐに返還しなければならないもののように、謙虚に使用しましょう。理性の働きなしにそれらを所有する者は、決して長くそれらを保つことはできません。なぜなら、繁栄は理性によって制御されない限り、自分自身を圧迫してしまうからです。最も移ろい易い善に信頼を置く人は、すぐにそれを失い、失わないようにしても、そのための苦痛に悩まされることになります。繁栄をそっと手放すことができたのは、僅かな人だけです。その他の者たちは皆、そのおかげで隆盛を極めたものと一緒に崩壊し、それまで自分たちを高く上げたものに、今度は重くのしかかられます。19. ですから、繁栄はそれ自ら自身の豊かさを転覆させ、破壊するので、思慮分別を用いて、そうしたものの使用に制限や倹約を課す必要があります。際限のないものは、限界を定める理性によって抑制されない限り、決して持ちこたえることはできません。多くの都市の運命が、この真実を証明してくれるでしょう。贅沢の享受により、それらの都市の統治は最盛期には既に衰え、美徳によって勝ち得た全てが、放縦によって滅び去りました。われわれはこのような堕落に対して、自らを鍛えねばなりません。しかし、運命の嵐を抑えつける城壁を築くことはできません。よって、われわれは内面の防壁を強固なものにしましょう。内面が安全であれば、人は攻撃を受けることはあっても、囚われることはありません。

 20. この防御となる武器は何かと、知ることをお望みですか?それは、自分に何が起こっても苛立ちを感じず、害をもたらすかに思えるものそれ自体が、世界を維持するために働いており、宇宙の秩序と役割を実現するための計画の一部であると考えることです*4。神が喜ぶことはなんであれ、われわれ人間も喜ぶようにしましょう。人は自分自身とその所有物に驚嘆するべきですが、その理由はまさに次のことによります。即ち、人は征服され得ないということ、悪をもねじ伏せる力を持っていること、最強の力——理性——によって、偶然や苦痛や不正を、服従させるということです。21. 理性を愛して下さい!理性への愛により、君は最大の困難にも立ち向かえるようになります。野獣はわが子への愛情のために狩人の槍にも立ち向かいますし、その荒々しさと向こう見ずに突進する性質が、飼い馴らされることを妨げます。栄光の希求がしばしば若者の心を駆り立て、剣をも拷問杭をも軽蔑させます。或る人たちは美徳の幻影を一目見ただけで、自らに課した死へと自身を追いやります。理性がこれらの激情よりも更により強固に、より確実になるに従って、それはあらゆる恐怖や危険の真っ只中を、より力強く進むことができるようになるでしょう。

 22. われわれに次のように言う者があります。「立派なもの以外は何も善ではないというなら、君たちは間違っている。その程度の防御では、運命から身を守り、その攻撃を逃れることはできない。というのも、君たちは孝行な子供たちや、よく統治された国や、立派な両親を善だと主張するが、そうした大切なものが危険に晒されるのを見て、君たちは心穏やかではいられない。君たちの平常心は、祖国の包囲、子供たちの死、両親が奴隷にされることによって、かき乱されるだろう。」23. こうした意見に対して、まずわれわれストア派が通常はどのように返答するかを述べましょう*5。次に、どんな返答が付け加えられるべきか僕の考えを述べましょう*6

 善を失うことに付随して何らかの困難な状況が起こるのは、また別の場合の話です*7。たとえば、健康を損なうと、病気へと移行します。目をやられると、視力を失います。脚の筋肉が切断されると、歩く速度が失われるだけでなく、不具が速度にとって代わります。しかし、先ほど言及した善*8に関しては、そのような危険はありません。それはなぜでしょう?たとえ僕が善良な友人を亡くしたとしても、それに代わる不実な友人に苦しめられる訳ではありません*9。また、孝行な息子を埋葬することになっても、それに代わって親不孝がやってくる訳でもありません。24. 次に、これらのことは、僕から友人や子供が奪われることを意味するのではありません。単に、彼らの肉体が奪われただけです。しかし、善は悪に変化することでしか、失われたことにはなりませんが、それを自然の法は許しません。なぜなら、あらゆる美徳とその働きは、損なわれることなく存続するからです*10。さらには、友人が亡くなっても、父親の願いによく応える善良な子供が亡くなっても、それを埋め合わせることができるものがあります。それは何かとお尋ねですか?それは、何よりも彼等を善たらしめたもの、すなわち彼等の美徳です。25. 美徳はわれわれのいかなる部分も、空虚にすることはありません。美徳は魂全体に行き渡り、いかなる喪失感も取り除きます。それ自体で十分なものです。なぜなら、あらゆる善の力と始原は、美徳そのものの中に存在するからです。たとえ水の流れが遮られ、消え去っても、その湧き出る水源が無事であるなら、何の問題がありましょう?ある人の人生が、子供たちが亡くなった場合よりも、子供たちが健在である場合のほうがより正しいものである、などとは言えないでしょう。より秩序があるとも、より賢明だとも、より立派だとも。ですから、*11より良い人生だ、などとは言えないのです。友人が増えたからといって、人はより賢くなる訳ではありませんし、減ったからといって、愚かになる訳でもありません。ですから、幸福になる訳でも、不幸になる訳でもないのです。美徳が損なわれない限り、君は自分が何かを失ったと感じることはないでしょう。君は言われる。26. 「でも、大勢の友人や子供たちと一緒にいるほうが、より幸福ではないでしょうか?」どうしてそうなるのでしょう?最高善は損なわれることも、増大することもありません。運命がどのように振舞ったとしても、最高善は自らの範囲内に留まります。長い老年の運命が訪れようと、老年の手前で人生を終えようと、年数の違いがあったところで、最高善の尺度は不変です。

 27. 大きな円を描くか小さな円を描くかは、その面積に影響するのみで、形には関係ありません。ある円は長い間そのままの状態で残したり、別の円はすぐに小さくしたり描かれた砂*12の中に没し去ることもできるでしょうが、いずれの円も、同じ形状をもっています。真っ直ぐなものは、大きさや数や時間によって判断されるのではありません。短くすることも、長くすることもできません。立派な人生を好きなように縮小して作った一日も、同じように立派な人生です。28. 美徳は時には広く行き渡り、王国を、都市を、地方を統治し、法律を制定し、友情を育み、親族と子らの間に交わされる義務を正しく定めます。また時には、貧困や追放や死別といった、狭い範囲に制限されることがあります。しかし、美徳は高みから個人の領域に降りてきたり、王宮から質素な住まいに降りてきたり、普通の広範な管轄区域から一軒の民家や隅の小さな狭い境界に降りてきても、小さくなることはありません。29. 美徳は、たとえあらゆる方面から閉ざされて、自分自身の内に引き下がっても、変わることなく偉大です。なぜなら、その精神は変わらずに偉大で高潔であり、その賢明さは変わらずに完全で、その正しさは変わらずに堅固なものだからです。ですから美徳は、変わることなく幸福なのです。なぜなら幸福は、ただ一か所、つまり心そのものの中に在り、崇高で、安定して、穏やかなものだからです。そしてこの状態に達するには、神々と人間に関する英知*13がなければ不可能です。

 30. かの意見に対して僕が約束した*14もう一つの答えは、次の推察から導かれます。賢者は子や友人を失っても、悲嘆に暮れることはありません。なぜなら、賢者は自分の死を待つのと同じ気持ちで、彼らの死を耐え忍ぶからです。彼らの死を悲しまないのと同様に、自分の死を恐れません。なぜなら、美徳の根底にある原理は調和ホモロギア*15だからです。あらゆる美徳の働きは美徳それ自らと調和し、一致します。しかし、高みにあるはずの魂が悲痛や喪失の念により落ち込むと、この調和は失われてしまいます。人はいかなる活動においても、悩み、煩い、無気力になるのは、全く恥ずべきことです。なぜなら、立派であるものは憂いや束縛から解放され、恐れを抱くことなく、活動にあたって毅然とした態度を保っているからです。31. 「それでは」君は言われる。「賢者は心の乱れのような感情を経験することはないのですか?顔色が変わることも、顔つきが動かされることも、手足が震えることもないのですか?そして、われわれが意志を用いることなく、無意識に、ある種の自然の衝動の結果として行うこともあります。」そうしたことは真実だと、僕は認めましょう。しかし賢者は変わらず、それらはいずれも悪ではなく、善き精神を損なうほどの重大事でもないと信ずるでしょう。為さねばならないことが何であれ、美徳は勇敢に、迅速にそれを遂行します。32. というのも、為さねばならないことを、怠惰で反抗的な精神で行うこと、あるいは一方に体を向け、全く別の方向に心を向け、全く相反する激情の中で引き裂かれることが、愚か者の証であるのは、誰もが認めるところでしょう。愚か者はまさに、自らが自慢したり賞賛したりするもののために、軽蔑を受けます。そして愚か者は自分が誇る物事さえも、喜んで行うわけではないのです*16。しかし、愚かさが何らかの悪しきことを恐れることになると、まだそれが訪れない内から、あたかも実際に来たかのように、重荷を背負います。何であれ自分が苦しむことになるかも知れないと恐れるものに、不安を抱くことで既に苦しむのです。33. 肉体の場合に、潜在的な病気の兆候が発症に先立って現れるように―—例えば、ある種の微かなだるさ、仕事の疲れによるのではない脱力感、震え、手足に広がる痺れなどがあります―—、弱い精神も、悪しきことに打ち負かされるずっと以前に、それに揺さぶられます。悪しきことを予測することで、それが来る以前に倒されます。

 しかし、未来のことに苦しめられ、実際の苦しみに備えて体力を温存するのではなく、悲惨を招き入れ、自らにもたらすほど狂ったことがあるでしょうか?悲惨が避けられないことであるなら、せめてそれを感じるのは延期しておきましょう。34. 君は、人は誰も未来のことを苦しむべきではないということを、理解しないのですか?今から五十年後に拷問に耐えなければならないと聞いた人が、心を乱すことはありません。その間の年月を飛び越えて、一世代後に訪れる苦難の中に、自分自身を投げ入れでもしない限りは。これと同じように、病気を嬉しがったり、悲痛に耽る口実を欲しがる魂は、記憶の彼方の遠い昔の出来事を嘆き悲しみます。過去も未来も、いずれも現在には存在しません。どちらをも、われわれは感じません。しかし、感じることがないなら、痛みも存在しないのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 74 - Wikisource, the free online library

 

・解説

 世俗的な仕事をして疲れ切った魂に、セネカの言葉は清涼剤のように染みわたる。美徳があれば幸福には十分だとセネカはしつこいくらいに言うが、それはセネカ自身が苦しみの中で自分に言い聞かせていたことなのだろう。ネロからいつか死を命じられることを、セネカはうすうす予感していたのだろう。そして、宮廷での地位を失い、自分の命も危うい中で、それでも美徳があれば、人は完全に幸福であることを、自分自身に言い聞かせ、われわれにも示してくれる。セネカは自身が惨めさや恐怖に苦しんだからこそ、本当の意味でわれわれに寄り添った哲学を語ってくれるのである。

 

 

 

 

 

 

*1:競技場で民衆に配布された金銭や食料。この段落から察するに、配布されたのは僅かな量で、そのために諍いや口論が起きていたと考えられる。

*2:仮に贅沢や色欲や金銭といった「一般には善とされるもの」は善あり、神はそれを楽しむことはできないから、人間は神より幸福だと(愚かな)考えをするなら。簡単に言うと、「贅沢や色欲や金銭は、善でないのか善なのか」ということ。

*3:贅沢や色欲や金銭といった「善」を神が持たない(から人間は神より幸福だ)という愚かな考えを抱くか、神が持たないなら善である訳がないと正しく考えるかのいずれかということ

*4:例えば自然災害等も、地球進化の観点からみると宇宙の計画に適ったものである。

*5:ここから二段落。23~29節。

*6:ここから三段落目以降。30~34

*7:ここから、真の善は失われることなく、困難も生じないという話に続く。

*8:孝行な子供、よく統治された国、立派な両親

*9:良い友人を亡くしても、悪い友人が取って代わって苦しめてくる訳ではないので、病気などの場合とは異なるということ

*10:死という自然法則の下では、美徳は決して損なわれることはない。自然に反して悪になることがない限り、美徳は永続する、という意味。

*11:子供を失わない方が失うよりも

*12:砂の上に図形を描いた

*13:すなわち哲学

*14:23節で

*15:自然に調和して生活するという、ストア派の教え

*16:結局愚か者は、どんなことも怠惰で反抗的な精神で行うということ。自ら自慢の種にする下らないことさえも。