徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡85 いくつかの無益な三段論法について

 1. 僕は君に配慮して、まだ議論が終わっていない面倒な問題のことは、顧みずにおりました。僕は、幸福な人生を完遂するためには美徳それ自体だけで十分な証明になるという、われらが学派の見解の一端を君に与えただけで満足していたのです。しかし君は僕に、われわれの三段論法も、われわれを軽蔑するために他の学派によって考案された三段論法も含めて*1議論するよう僕に求めます。もし僕がこれを行おうとすれば、返事は手紙ではなく、一冊の本になるでしょう。そして、僕はそうした論証を好まないことを、何度でも言いましょう。僕はきりだけで武装して、神々と人間のために引き受けた仕事のために、戦場に下っていくことは恥だと考えます*2。 

 2. 「分別のある人は自制心もある。自制心のある人は心が堅固でもある。心が堅固な人は乱されることもない。心が乱されない人は悲しみも免れている。悲しみを免れている人は幸福でもある。ゆえに、分別のある人は幸福であり、幸福な人生を成し遂げるには分別だけで十分である。」

 3. この論法に対して、或るペリパトス学派たちは、「心が堅固である」とか「心が乱されない」とか「悲しみを免れている」というのは、心が稀には乱されたり、少しだけ乱されたりするという意味であり、全く乱されない人のことでないと説明します。同じように、「悲しみを免れている」人とは、悲しみに耽溺したり、頻繁にその状態に陥ったり、悲しみの程度が過度になることのない人のことです。彼らが言うのは、人間本性が悲しみを完全に免れることはなく、賢者は悲しみに打ちひしがれることはないものの、ある程度の悲しみは感じる、ということです。そして他の事に関しても、彼らの学派のこのような論法で説明できる、と言います。4. 彼らは情念を完全に捨て去ることはなく、ただ程度を弱めるだけです。しかし、もし賢者が最も臆病な人物よりは勇敢であるとか、最も悲嘆に暮れる人物よりは幸福であるとか、最も放蕩な人物よりは節度があるとか、最も低劣な人物よりは優れているとか言うのなら、われわれが賢者に帰する偉大さとは、何とちっぽけなものでしょう!ラダス*3が足の不自由な者や虚弱な者と比べて、自分の走る速さを誇ることがあるでしょうか?

彼女はその葉末のすれすれを駆け、

その穂に触れることも傷つけることもなく、

また渦巻く大海の上を走り、

巨大な海水が彼女を脚を濡らすこともなかった*4

 これはそれ自身の基準で評価される速さであり、最も遅いものと比べて称えられるものではありません。軽い熱の人がいたら、どうでしょう?健康とは、中程度の病気のことではありません。5. 彼ら(ペリパトス学派)はこう言います。「賢者が心を乱されないというのは、種無しザクロと呼ばれるものが、種の硬さの全くないザクロのことではなく、種が柔らかいザクロであるのと同じ意味だ。」この見解は間違っています。なぜなら、僕は善き人の中には少しだけ悪があると言っているのではなく、善く人は全く悪を持たない、と言っているのですから。善き人の中には、たとえどんな小さなものであれ、悪があってはなりません。もし少しでも悪があれば、それは大きくなるにつれて、邪魔をするようになりますから。大きくなった白内障は完全に両目を失明させますが、中程度の白内障でも視界は妨げられます。

 6. 仮に君たち(ペリパトス派)の定義に従い、賢者にいくらかの情念を認めるなら、彼の理性はそれに対抗できず、言わば激流に飲み込まれて急速に運び去れらるでしょう。とりわけ、君たちが賢者に与える打ち勝つべき情念が一つだけでなく、沢山の種類のものである場合は。そのような情念の群れは、たとえそれらが中程度のものであっとしても、たった一つの激しい情念以上の暴力で彼(賢者)に影響を及ぼすことができます。7. 彼は中程度の、金銭への渇望を持ちます。彼にはまだ完全には目覚めていないものの、野心があります。彼はなだめることはできるものの、短気です。彼は大変気まぐれで無鉄砲という訳ではありませんが、行いに一貫性がありません。彼は激情ではないものの、情欲を持っています。ただ一つの極端な悪徳を持っている人のほうが、あらゆる悪徳を少しずつ持っている人よりも、ずっと扱いやすいでしょう。8. さらに、情念の大きさがどれほどかというのは関係ありません。大きかろうと小さかろうと、それは服従を受け入れず、忠告に耳を傾けません。ちょうど、野生動物であれ飼われた動物であれ、自然がその力を与えなかったため、理性に従うことができないのと同じように、情念はどれほど小さなものであっても、服従することも聞く耳を持つこともありません。トラやライオンは決してその野生を捨てません。時には和らぐことがあっても、人が少しでも用心を怠ると、彼らの弱まっていた野生は、激情へと駆り立てられます。悪徳は決して、真に飼い馴らすことはできないのです。9. そして、理性が勝っていれば、情念は起こることすらありませんが、ひとたび理性の意に反して動き始めると、情念はその反抗を保ち続けるでしょう。というのも、情念が沸き上がってから抑えるよりも、その始まりを抑えるほうが容易だからです。ですから、この(ペリパトス派の)中庸の考えは偽りであり、無益なものなのです。それはいうなれば、われわれは「中程度に」狂うべきであるとか、「中程度に」病気になるべきだと言ってるのと同じだと考えねばなりません。10. 美徳のみが節度を持っており、心を乱す悪徳に節度はありません。この悪徳は、制御するよりも締め出す方が容易です。人の心の悪徳が慢性的で頑固になると(われわれはそれを「病気」と呼んでいますが)、貪欲や残忍や放縦と同じように、制御不能になることを疑うことができましょうか?したがって、情念もまた制御不能なものとなります。なぜならわれわれは、情念から悪徳へと移行するのですから。11. そして、もし悲しみや恐怖や欲望や、その他のあらゆる悪しき衝動に何らかの権利を与えると、それらはわれわれの手に負えないものとなります。それはなぜでしょう?簡単な理由で、それらの衝動を引き起こす力が、われわれの外部のものだからです。ですから、それらは扇動するものの大きさに応じて、大きくもなれば小さくもなります。恐怖の原因となるものがより大きなものであるか、あるいはより近くにあった場合、恐怖はさらに大きなものとなります。そして、より大きなものを得ることへの期待に比例して、欲望はさらに大きなものとなります。12. 情念がわれわれの制御下にない時には、その悪影響もわれわれの制御下にはありません。なぜなら、もしひとたび情念の始まりを許すならば、情念はそれを引き起こした原因に応じて増大し、その程度に際限はなくなるでしょうから。さらに、こうした悪徳は、どんなに小さなものであっても、大きなものへと移行します。有害なものは決して、限度内に収まりません。病気はその始まりがどんなに些細なものであっても、たちまち進行するものです。そして、時には病気のほんの少しの増大が、弱った体を大きく損なうことがあります!

 13. しかし、ある事柄の始まりがわれわれの制御外にあるのに、その終わりがわれわれの制御内にあると信じるというのは、何と愚かなことでしょう!その始まりを制止する力がないのに、どうして終わらせる力がありましょう?というのも、侵入してきたものを抑えつけるよりは、始めから締め出しておく方が簡単だからです。14. 或る人たちは別の説を立てて、次のように言います。「自制心と節度を持っている人は、心の態度や習慣においては確かに平静であるが、突然の出来事に関してはそうではない。というのも、彼の心の習慣に関して言う限り、乱されたり、悲しんだり、恐れたりすることはないが、混乱をもたらす多くの無秩序な出来事が、(突然に)彼に襲いかかるからである。」15. つまり彼らが言いたいのは、このようなことです。「誰々はたしかに怒りっぽくはないが、それでも時には怒りに負けてしまう。」それから、「彼はたしかに臆病な者ではないが、それでも時おり恐怖心を抱く。」言い換えれば、恐怖による欠点は免れているものの、恐怖の情念は免れていないということです。しかし、ひとたび恐怖に入り口が与えられると、何度も繰り返されることで悪徳へと移行します。そして、怒りもひとたび心に受け入れられると、かつては怒りを知らなかった心の習慣を、損なうことになるでしょう。16. そのうえ、もし賢者が外部から来るあらゆる原因を軽蔑することなく、いつも何かを恐れているなら、祖国や法や自由のために、槍や炎に勇敢に立ち向かうべき時が来ても、彼はためらいがちに、軟弱な精神で行くことになるでしょう。しかし、そのような心の矛盾は、賢者の性質には似つかわしくないものです。

 17. そして次にわれわれが注意すべきなのは、別々に証明するべき二つの原則を混同してはならない、ということです。なぜなら、立派なもののみが善であるということは、それだけで単独に導かれることですが、幸福な生には美徳のみあれば十分だということもまた、それだけで単独に導かれることだからです。もし立派なもののみが善であるなら、幸福に生きるためには美徳だけで十分であることは誰もが認めることです。しかしこれとは反対に、もし美徳だけが人を幸福にするとしても、立派なもののみが善であることは認められないでしょう*518. クセノクラテスやスペウシッポス*6は、人は美徳だけで幸福になれるが、立派なもののみが唯一の善ではない、と言います。エピクロスもまた、美徳を持つ人は幸福であるが、美徳そのものではなく美徳から生じる快楽が人を幸福にするので、美徳それ自体では幸福な人生に十分ではないと考えます。これは馬鹿げた区別です。なぜなら、この同じ哲学者は、いかなる美徳も快楽のないことはあり得ない、と言っているのですから。したがって、美徳が常に快楽と結びついており、それらは切り離されることがないのであれば、美徳はそれ自体で十分ということになります。というのも、美徳はたとえそれだけの時でも、快楽と共にあり、それ無しでは存在しないというのですから。19. しかし、人は美徳のみで幸福になれるのに、それは完全な幸福ではないというのは、おかしな話です。どうしてそうなるのは僕には分かりません。なぜなら、幸福な人生は、それ自体の内に完全で、越えられることのない善を含んでいるからです。この善さえ持っていれば、人生は完全に幸福と言えるのです。

 さて、もし神々の生にはそれ以上に優れたものが何もなく、さらに幸福な生とは神々のそれのようなものだとすれば、人は、これ以上に高められる余地はありません。20. また、もし幸福な生に何も欠けるところがないとすれば、すべての幸福な生は、完全であることになります。幸福な生であると同時に、最も幸福な生です。幸福な生が最高善であることを、疑うことがあるでしょうか?それゆえ、最高善を持つのであれば、それは最も幸福な生です。最高善に追加の余地がないのと同じように(最高より優れたものがあるのでしょうか?)、幸福な生にも追加の余地はありません。最高善を欠くことがないのですから。そしてもし君が、ある人よりも「より幸福な」人を連れてくるならば、「はるかに幸福な」別の人をも連れてくることになります。そうすると君は、最高善に無数の段階を設けることになってしまいます。しかしながら僕は、最高善とはそれ自身以上のいかなる段階も認めない善であると考えています。21. もし或る人が他の人よりも幸福でない場合、その人は自分の生よりももっと幸福な、他の生を熱心に望むことになります。しかし幸福な人は、他人の生を自分の生以上に好んだりしません。次の二つのことは、いずれも信じがたいことです。つまり、幸福な人には、今よりも望ましい何らかの状態があるということも、幸福な人は、今よりもさらによい状態を望むことはないということも。なぜなら確かに、分別のある人物であればあるほど、最善のものに向かって努力し、あらゆる手段を使ってそれに至ることを望むでしょうから。しかし、さらに何かを望むことができる、というよりはその渇望に縛られている人が、どうして幸福といえるでしょうか?22. この間違いの原因が何かをお教えしましょう。それは、幸福な生とはただ一つのものであることを理解していないことによります。というのも、人の生を最高の地位へと置くのは、その量ではなく、質だからです。したがって、人生が長かろうと短かろうと、広かろうと狭かろうと、多くの場所や多くの方向に分散しようと一カ所に限局しようと、幸福な生は同等に完全なのです。人生を数や尺度や場所で測る者は、その特質を履き違えることになります。それでは、幸福な人生の特質とは何でしょう?それは満ち足りていることです。23. 僕が思うに、満足は、食べたり飲んだりすることの限度です。あの人はより多く食べ、この人はより少なく食べましたが、何の違いがありましょう?両者ともに、満足しています。あるいは、あの人はより多く酒を飲み、この人はより少なく飲みましたが、何の違いがありましょう?両者ともに、もう渇いてはいません。または、あの人は長年生き、この人は短い年数を生きましたが、後者の僅かな時間が前者の長年に劣らず幸福なものであったなら、何の違いがありましょう?君が「より幸福でない」という人は、幸福ではないのです。この言葉は、程度を低くされることはありません。

 24. 「勇敢な人には恐れがない。恐れがない人には悲しみがない。悲しみがない人は幸福である。」これがわれわれの学派の三段論法です。次のような回答でこれに反論しようとする人たちがいます。つまり、われわれストア派は、勇敢な人には恐れがないという、明らかに誤りで議論の余地があることを前提として容認している、というものです。「何と!」彼らは言います。「勇敢な人は自らに襲いくる災いを恐れないのだろうか?それは勇敢な人ではなく、精神異常者か狂人であろう。たしかに、勇敢な人でもほんのわずか恐れを感じることはあり、完全に恐怖の外にあるということはない。」25. さて、このように言う人たちは、悪徳の程度が少なければそれは美徳に等しいという、先の主張*7に、逆戻りすることになるのです。なぜなら、恐れる人は、たとえそれが稀で、程度がわずかであったとしても、悪徳から免れているのではなく、より穏やかに苦しめられているだけだからです。「そうではない」と返答があります。「なぜなら、差し迫る災いを恐れない人は、気が狂ってると私は思うからだ。」差し迫るものが真に災いであるなら、この人の言うことは完全に正しいでしょう。しかし、もしそれらが災いではないことを理解し、真の災いとは卑劣な行いだけであると信じるならば、何の不安もなく危機と向き合い、他の人であれば恐れずにはおられないような事も、軽蔑できるに違いありません。あるいは、災いを恐れないのが愚か者や狂人の証というのなら、人が思慮深くなればなるよど、より大きく恐れなければならなくなるでしょう!26. 「それなら、ストア派の教義では、」彼らは言います。「勇敢な人は自らを危険に晒すというのだな。」決してそうではありません。彼はそれらを避けはしても、恐れはしないでしょう。勇敢な人には用心が相応しく、恐れは相応しくありません。「ではどうか?彼は死も牢獄も、火炙りもその他のあらゆる運命の牢獄も恐れないというのか?」全く恐れません。なぜなら、彼はそれらが災いではなく、災いであるかのように見えるだけだと知っているからです。彼はそれら全てを、人の生における恐怖の幻影だと考えています。27. 彼に描いて見せて下さい、虜囚を、鞭打ちを、鎖を、貧窮を、病や拷問による手足の切断を、その他の思いつくものを何でも。彼はそれら全てを、心の混乱が引き起こす恐怖に数え入れるでしょう。これらのものは、臆病な人のみが恐れるのです。それとも、いつかはわれわれが自分の意志で赴くところのもの*8を、災いとみなしますか?

 28. それでは、災いとは何かとお尋ねですか?それは災いと呼ばれるものに屈することであり、自由という、本来われわれが守り抜くためにあらゆる苦しみを耐えなければならないものを、災いの手に明け渡すことです。われわれを軛にかけるものを軽蔑しない限り、自由は失われてしまいます。勇敢であるとはどういうことかを知っていれば、勇敢な人がどう振舞うべきかについて、疑問を持つことはないでしょう。なぜなら勇敢さとは、無思慮な軽率さでも、危険を好むことでも、恐怖を引き起こす対象に惹かれていくことでもありません。勇気とは、何が悪で何が悪でないかを識別する英知のことです。勇気は自らを保つのに最大限の注意を払い、同じように、災いの外見を装うものを、最大限の辛抱強さで耐え抜きます。29. 「それでは」と疑問を呈す人がいます。「もし勇敢な人の首に剣が振りかざされたり、体のここかしこが絶え間なく突き刺されたり、膝の上に自分の内臓を見たり、より大きな苦痛を感じるようにを間を置いた後に再び拷問を受け、乾いたばかりの傷口から新たに血が流れ出ても、彼は恐怖を感じないというのか?苦痛も感じないというのか?」たしかに彼は、苦痛は感じます。なぜなら、いかなる美徳も、人間の感覚を取り除くことはできませんから。しかし、彼は恐怖は感じません。打ち負かされることなく、彼は自分の困難を高みから見下ろすのです。この状態にあって、どんな精神が彼を励ましてるのかとお尋ねですか?病気の友人を励ます人の精神です。

 30. 「災いであるものは害を及ぼす。害を及ぼすものは人を悪くする。しかし、苦痛も貧困も人を悪くはしない。ゆえに、それらは災いではない。」これに対し、反論者は言います。「あなたの論述は間違っている。なぜというに、人に害を及ぼすものが必ずしも人を悪くする訳ではない。嵐や突風は舵手に害を及ぼすが、だからといって舵手が悪くなることはない。」31. この反論に対して、ストア派のある者たちは次のように答えます。「舵手は嵐や突風のせいで目的を遂行することができず、航路を保つこともできなくなるから、より悪い舵手となる。航海の技術に関しては、彼は悪くはならないが、航海の仕事に関しては、悪い舵手となる。」この(ストア派の)意見に対し、ペリパトス派は次のように反論します。「そうであるならば、貧困や苦痛やその他のあらゆる類のものは、賢者を悪くするだろう。なぜならそれらは賢者の美徳を奪うことはなくても、美徳の仕事は妨げるであろうから。」32. この主張は、舵手と賢者が異なる類の人間でなかったならば*9、正しかったでしょう。賢者の人生の目的は、自分が達成せんとすることを最後まで行うことではなく、あらゆることを正しく行うことです。しかし舵手の目的は、自分が辿り着かんとする港へ船を入れることです。技術は侍女であり、約束を達成しなければなりません。しかし、英知は女主人であり、支配者です。技術は生活に奉仕しますが、英知は生活に命令を下します。

 33. 僕はというと、別な答えを与えるべきだと思います*10。つまり、舵手の技術は嵐によっても悪くならないし、その技術の適用も*11、悪くなることはありません。舵手が君に約束するのは安全な航海ではなく、自己の仕事への専心つまりは、船の操縦に関する知識です。そして、航海が運命の妨害を受ければ受けるほど、彼の知識はより真価を発揮します。「ネプチューン*12よ、あなたは決して、この船の水平を崩して沈めることはできない。」と言える人は、その技術の要件を満たしているのです。嵐は舵手の仕事を妨げることはなく、その結果を妨げるだけです。34. 「それではどうでしょう?」君は言われる。「港に入ることが妨げられたり、彼のあらゆる奮闘が無に帰されたり、海から追い返されたり船が出発できなかったり、船具が壊されたりというあらゆる状況であっても、舵手を害することはないのですか?」いいえ、それらは舵手としての彼ではなく、航海する人としての彼を害するのです。そうでないと、彼を舵手とは呼べません。じっさい、これらのことは舵手の技術を妨げるどころか、むしろはっきりと示すのです。なぜならよく言われるように、穏やかな海では誰もが舵手になれるのですから。これらの困難は航海を妨げはしますが、舵手を妨げているのではなく、船を妨げているのです。35. 舵手には二つの役割があります。一つは航海する人としてのものであり、他の乗客全員と共通する役割です。もう一つは彼に特有のもので、舵手としての役割です。嵐は航海する人としての彼を害することはあっても、舵手としての彼は害しません。36. また次に、舵手の技術は他の人々を益します。医者の技術が患者に関係するものであるように、舵手の技術は乗客に関係するものです。しかし賢者の利益は全ての人に普遍的に共通の利益であり、賢者自身に属すると同時に、賢者が共に生活する人たちにも属します。したがって、乗客のために約束した舵手の仕事が嵐によって妨害されることで、舵手の仕事が害されることはあるかも知れませんが、37. 賢者は貧困や苦痛、その他のあらゆる人生の嵐によっても害されることはありません。なぜなら、賢者の振る舞いは何一つ妨害されることなく、妨害されるのは外部の事柄だけだからです。賢者自身は常に活動ができ*13、運命に行く手を阻まれた時こそまさにそれが最高潮に達するのです。というのも、その時こそ賢者は、英知の仕事に真の意味で従事しているのです。そしてこの英知は、既に僕が述べたように、賢者自身の利益であると同時に、他の人々の利益でもあります。38. さらに、何らかの強制的な困難に追い詰められている時ですら、賢者は他の人々の役に立つことを妨げられません。彼は貧乏であれば、(財力がなく影響力を持てないため)国家をどう扱うべきかを示すことができませんが、貧乏をどう扱うべきかを示すことができます。人生のどんな場面にも、賢者の仕事はあるのです。

 ですから、いかなる運命も、いかなる外的な状況も、賢者の活動を妨げることはできません。なぜなら、賢者はまさに(状況が制限されているために)それ以外にはできないことを行うからです*14。賢者は次のいずれにも備えができています。富であれば、それを制御しますし、災いであれば、それに打ち勝ちます。39. つまり賢者は、自己を徹底的に鍛えているので、順境においても逆境においても自らの美徳を発揮し、美徳が扱う対象ではなく、美徳そのものに目を向けます。ですから貧困も苦痛も、未熟な者たちを迷わたり真っ逆さまに突き落としたりする他のあらゆるものも、賢者の道を妨げることはありません。賢者が災いに抑えつけられると思いますか?彼は災いを利用します。40. フィディアス*15が彫像を作ることを知っていたのは、象牙からだけではありません。彼は青銅の像も作っていました。もし彼が大理石や、あるいはより卑俗な素材を与えられたとしても、その素材からできる限りの最高の彫像を作り上げたことでしょう。ですから賢者は、美徳を発揮するでしょう。それができれば富の中で、できなければ貧乏の中で。それができれば祖国にあって、できなければ追放の地にあって。それができれば指揮官として、できなければ一兵卒として。それができれば健康体で、できなければ病身で。彼はどんな運命からでも、何らかの語り継がれるものを生み出すでしょう。

 41. 野獣の調教師たちは確かな手腕で、近づいた人々を恐れさせる極めて獰猛な動物を飼い、人間の意のままに従わせます。彼らは動物の凶暴性を追い払うだけで満足せず、共同の生活ができるほどまでに飼い馴らします。調教師はライオンの口に手を入れますし、トラは飼い主に口づけをします。小さなエチオピア人は象に、跪いたり綱渡りすることを命じます。同様に、賢者は災いをよく飼い馴らします。苦痛、貧困、恥辱、投獄、追放、これらは一般には恐れられますが、賢者に出くわすと、手なづけられます。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 85 - Wikisource, the free online library

・解説

 セネカがたびたび主張する、「幸福な人生には美徳だけで十分である」を様々な方向から表現している。

 

 

 

 

 

*1:書簡83に登場する類のもの。

*2:書簡82参照。

*3:古代ギリシャの有名な走者

*4:「アエネイアス」7.808~811。「彼女」とはヴォルスキ族の王の娘のことで、快足に育てられた。

*5:「立派なもの⇒善」が成り立てば、「美徳⇒幸福」は成り立つが、「美徳⇒幸福」が成り立っても、「立派なもの⇒善」は成り立たない、という意味。美徳は一般的は意味において必ずしみ苦痛に勇敢に耐えること等を意味しないから。ゆえにそれらは別々に導く必要があるという、段落最初の意見に至る。

*6:どちらも前4世紀の、プラトンアカデメイア学派の代表者。アカデメイア派の学頭は、プラトン(前388-前348)、スペウシッポス(前348-前339)、クセノクラテス(前339-前314)と推移した。

*7:「中程度の」を認めるペリパトス派の主張

*8:即ち死

*9:舵手を賢者を同列に語るのであれば

*10:前段落のストア派の意見をも上回る主張を、セネカはここで述べる。

*11:つまり仕事も

*12:ネプチューンローマ神話の海神で、ギリシャ神話のポセイドンのこと。

*13:もちろん精神的なものを念頭においた意味

*14:賢者は状況が強いることを、自ら進んで引き受けるということ。

*15:前5世紀のギリシャの彫刻家。パルテノン神殿建立の総監督。書簡9も参照。