徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡86 スキピオの別荘について

 1. 僕は今まさにスキピオ・アフリカヌスの別荘*1で身を休めています。そして彼の霊と、偉大な勇士の墓であると僕に思われた祭壇に敬意を表した後で、君に手紙を書き送っています。彼の魂はもちろん、元の住処である天上に戻っていると僕は確信しています。その理由は、彼が強大な軍隊を指揮したからではなく―—狂人にして、その狂気をうまく利用しただけのカンビュセスもまた強大な軍隊を持っていました―—、信じがたいほどの、自制心と道義心を示したからです。僕は彼のこの資質は、祖国を護っていた時よりも、祖国を離れた時のほうがより賞賛に値すると考えます。なぜならそこには、スキピオがローマの内に留まるか、ローマが自由の内に留まるかという選択があったからです。2. 「私の望みは」彼は言いました。「法にも慣例にも反しないことだ。法は全てのローマ市民に平等であるべきだ。おお祖国よ、私を失っても、私の功績を最大限に享受するがよい。私はこれまであなたがたの自由の原因であったが、これからはその証人となろう。私があなたがたの利益以上に大きくなったのが本当なら、私は追放を受け入れよう*2!」

 3. 彼を自らの意思による追放へと退かせ、国家の重荷を取り除くに至ったこの偉大な精神を、僕が賞賛せずにおられましょうか?事態は大きくなりすぎて、自由がスキピオを害するか、スキピオが自由を害するかまでに至りました。そのいずれも、天の本意ではありませんでした。そこで彼は法に道を譲ってリテルヌムに退き、ハンニバルの追放と同じように自分の追放をも、国家の利益にしようと考えたのです!

 4. 僕がこの別荘を見たところ、四角の石で建てられており、木立の庭を囲む壁があり、防備のための見張り塔が家の両側に作られていました。貯水槽は建物や植え込みの地下にあり、軍隊が十分に使用できるほどの大きさです。そして小さな浴室は、昔の慣習に従って暗闇に作られていました。われわれの祖先は、暗くなければ熱い風呂に入ってはならないと考えていました。5. ですから僕は、スキピオとわれわれの生活を比べて、とても愉快な気持ちになりました。想像してみて下さい、この小さな片隅で、「カルタゴの脅威」と呼ばれた人物が―—ローマが敵に占領されたのは一度のみであるのは彼のお陰です―—、畑仕事で疲れた身体を洗っていたことを!というのも、昔のローマ人が当たり前にしていたように、彼は勤勉に働いて、自分の手で畑を耕していたのです。この見すぼらしい屋根の下に彼は立ち、この貧弱な床が、彼を支えたのです。

 6. しかし今日では、誰がこんな風に入浴することに耐えられるでしょうか?われわれは、浴室の壁に大きく高価な鏡が輝いてなければ、自分は貧乏で見すぼらしいと思います。またもしアレクサンドリア産の大理石にヌミディア石の装飾板が嵌め込まれていなかったら。またもしその大理石の全ての縁に絵画のような様々な彩色が巧みに施されていなかったなら。またもし丸天上がガラスで覆われていなかったなら。またもしわれわれが汗を絞り出して衰弱した体を沈める浴槽が、かつてはどんな神殿においても稀で貴重であった、タソスの大理石に埋め込まれていなかったなら。またもし水が、銀の蛇口から注ぎ込まれないなら。7. 僕が今話したのは、一般人の入浴施設についてです。解放奴隷の浴室ときたら、何と言ってよいでしょう*3?何と膨大な数の彫像があり、何と膨大な数の柱が、何を支えるためでもなく、装飾と、金の無駄遣いのためだけに建てられていることでしょう!何と大量の水が、段から段へと轟音を立てて流れ落ちていることでしょう!われわれは宝石の上でなければ歩きたくないというほどまでに、贅沢になってしまったのです。

 8. このスキピオの浴室には、窓とまでは言えない、石壁に切り開いた小さな隙間があり、防備を損なうことなく光を取り入れることができます。しかし今日では、たいへん大きな窓から一日中光を取り込めるようになっていない浴室(balea)を、人々は蛾の(blattaria)*4浴室だと言います。またもし入浴すると同時に日に焼けることができないなら。浴槽から広く陸や海を見渡すことができないなら。ですから開設当初は群衆を集め賞賛を集めていたような入浴施設でも、贅沢が何か新しい工夫を思いつくとすぐに見捨てられ、古めかしい時代遅れの建物に数え入れられ、完全に埋もれていくのです。9. しかし、昔は浴場の数も少なく、装飾品などもありませんでした。なぜなら、入場にはたった四分の一アースしかかかりませんでしたし、娯楽のためではなく実用のために作られたものを、どうして飾り立てる必要があったでしょう?当時の浴槽には水が注がれることはなかったし、温泉のように絶えず新しいお湯が湧き出ることもありませんでした。そして重要なのは自分たちの汚れを落とす湯水が、どれほど透き通っているかだ、などと考える人々もありませんでした。10. 神々よ、質素な屋根に覆われたそのような薄暗い風呂に入るのは―—君もよくご存知の偉大な人物、造営官としてのカトーや、ファビウス・マクシムスや、コルネリウス一族の誰かが、自分の手で湯加減を確かめていたことを思いながら―—、何と楽しいことでしょう!というのも、これはかつて、最も高貴な造営官の職務でもありました。民衆が足を運ぶこれらの場所に立ち入り、清潔に保ち、実用と健康に役立つほどよい温度を保つよう指示したのです。それは今では流行りとなっている、まるで大火のような熱さ―—つまり、何らかの犯罪で刑罰の判決を受けた奴隷が、生きたまま入れられる熱風呂のような―—ではありませんでした!今日では、「浴槽が燃える」ことと「浴槽が温かい」ことの間には、何の違いも無くなっているように僕には思われます。

 11. 現在ではどれほど多くの人々がスキピオのことを、浴室に広い窓から日光を取り入れなかったから、強い日光で肌を焼かなかったから、熱湯でのぼせ上がるまで茹だらなかったからという理由で、田舎者だと非難していることでしょう!「哀れな田舎者だ」彼らは言います。「彼は生活のし方を知らなかった!濾した水には浸からず、水はしばしば濁っていて、大雨の後はほとんど泥水だった!」しかしスキピオにとって、そんな風呂に入ることは、何でもないことでした。彼が浴室に行くのは、香油を洗い流すためではなく、汗を洗い流すためです。そして、12. これに対し、ある人々は何と答えると思いますか?「私はスキピオを羨ましいとは思わない。そのような風呂に我慢するとは、まさしく追放者の生活だったのだ!」と言うでしょう。友よ、もし君が賢いのであれば、彼が毎日入浴していた訳ではないのをご存知でしょう。ローマの古い慣習をわれわれに伝えた人によると、ローマ人は腕と足だけを、毎日洗っていました。それは毎日の労働の汚れが集中する部位だったからであり、全身の入浴は、週に一度だけであったと述べられています。ここで、次のように言う人がいるでしょう。「そうだな、全く彼らは不潔な連中だったのだろう!どれだけ臭かったことだろう!」しかし彼らの匂いは、野営の、畑の、勇士のものでした。小奇麗な浴場が考案された今では、人々は昔より遥かに汚くなりました。13. ホラティウス・フラックス*5は、極度の贅沢で悪名高い人物を描写するために、何と言ったでしょう?彼は、「ブッキルスは香料剤*6の匂いがする。」と言いました。もしブッキルスが今ここにいれば、牝山羊の匂いがしたことでしょう。彼は同じ一節でホラティウス・フラックスが対置させたガルゴニウスの代わりを務めるでしょう*7。今日では、香油は一度使うだけでは十分ではなく、体から蒸発するのを防ぐために、二度も三度も塗り直さなければなりません。しかし、人はどうして、そんな香りを自分の体本来のものであるかのように誇るのでしょう?お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 86 - Wikisource, the free online library

・解説

 おそらくセネカも8年間にもわたるコルシカ島への追放を経験していたからこそ、強くスキピオの隠棲に心を打たれたのだろう。1421節はオリーブの移植について述べられているが、特に何かの精神的な教訓の比喩的な表現という訳でもなさそうだったので、省略した。セネカの倫理書簡集の中で唯一、特に意味のない部分と思われた。124通まで訳し終わった後に、気が向けば翻訳して載せておこうと思う。気になる人は英語原文をgoogle翻訳にかけて頂きたい。

 

*1:政争に巻き込まれた晩年の

*2:スキピオは前190年のアンティオコス三世の遠征に向かう間に、大カトー(セネカが頻繁に賞賛する小カトーは曾孫にあたる。このカトーとは別人。)一派の弾劾を受け、リテルヌムへの引退を余儀なくされた。詳しくはwikipediaの「大カトー」の「スキピオ弾劾」を参照。スキピオカルタゴから祖国を護ることによって莫大な利益と自由をローマにもたらしたにも関わらず、潔くローマを去り、セネカはそれをとても賞賛している。

*3:書簡27でも、解放奴隷サビヌスの無益な金の使い方を揶揄している。

*4:蛾は薄暗いところを好むため。

*5:ローマの詩人。

*6:口臭をよくするために飲んだ錠剤のようなもの。

*7:元の文は、「ブッキルスは香料剤の匂いがし、ガルゴニウスは牝山羊の匂いがした。」文脈を読むにどちらも悪臭の男としてフラックスは描写した。