徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡98 運命の気まぐれについて

 1. 幸運に依存する人が幸福である、などと君は決して信じてはなりません!外から入って来たものを喜ぶ人は壊れやすいものに寄りかかっているのであり、そうした喜びはいつかは出て行きます。しかし、自分自身の内側から生じる喜びは真実な確固たるものであり、日々増大し、最後までわれわれに付き添います。一方の、大衆に賞賛されるような他のあらゆる喜びは、一時の善に過ぎません。君は言われるでしょう。「どうしてでしょう?そうしたもの(一時の善)からでも利益や喜びは得られないでしょうか?」もちろん得られます。しかしそれは、それら(一時の善)がわれわれに依存している場合にであって、われわれがそれらに依存してる場合にではありません。2. 運命の監視下にあるすべてのものは、それを所有する人が自己自身をも所有し、自分の所有物の支配下に置かれていない場合にのみ、利益をもたらす、喜ばしいものとなり得ます。というのも、愛するルキリウス君、善いことや悪いことが運命によって与えられると信じている人たちは、間違っているのです。運命はわれわれに、善いことや悪いことの材料を与えるだけです。つまり、われわれの用い方次第で、善と悪のどちらにでもなりうる物事の元です。魂はどんな運命よりも強力です。魂は自らの意志で物事を善悪どちらにも導き、自らの力により幸福な人生を作ることも、不幸な人生を作ることもできます。

 3. 悪人は全てを悪く捉えます。最善と思われるものに対してもそうです。しかし、公正で健全な人物は運命の間違いを正し、困難や苦しみを耐える術を知っているためそれらを和らげます。同様に感謝と節度を持って幸福を受け取りますが、平静さと勇気をもって、不運には立ち向かいます。人はたとえ賢明であっても、またたとえ全ての物事を均整のとれた判断の下で行い、自分の手に余ることは何もしなかったとしても、不確かなことに確かな態度で対処しない限り、純粋な、何ものにも脅かされない善を得ることはできません。4. 君が他人を観察しようと(他人のことについての方が判断を下しやすいものですが)、偏見に捉われずに君自身を観察しようと、次のことを受け入れ、認めるでしょう。すなわち運命の気まぐれとその結果に対し自分自身に備えをしない限り、またあらゆる災難に際し不平を言うことなく、「神々の定めたことは別だったのだ!」という言葉を何度も繰り返し自分自身に言い聞かせない限り、それらの望ましく喜ばしいもの(一時の善)は、決して有益にはなり得ません。5. いえむしろ、より勇敢な真実の言葉、つまり君の精神をより強く支え得る言葉を用いたいなら、物事が君の考えに反する結果になった時はいつでも、自分自身に次のように言い聞かせるとよいでしょう。「神々はより善いことを定めたのだ!」

 君がこのように心を備えることができたら、君は何事にも脅かされません。そしてこのように心を備えることを可能とするためには、人間の状況には浮き沈みがあることを、それに気付く以前によく考え、子供や妻や財産も、いつまでも持っていられる訳ではないと理解した上で大切にし、たとえそれらを失っても、いっそう惨めになる訳でないと考えることが必要です。6. 将来のことを不安に思い、不幸になる前に不幸になる魂は悲惨です。自分に喜びを与えてくれるものを最後まで持ち続けたいと心配する願望に取り憑かれるのです。そのような魂は、決して心休まることはありません。未来を待ち望むことで、享受できたはずの現在の楽しみを失うのです。そして、失ったことに対する悲しみと、失うことに対する恐れは同じです。

 7. しかし、だからといって僕は君に、先のことに無関心になるよう勧めている訳ではありません。むしろ、何であれ恐怖の対象となるものから、目を逸らさないで下さい。前もって予測できることに関しては、熟慮しておくべきです。害を及ぼす可能性のあるものは、それが起こる前からよく監視し、避けて下さい。このための最大の助けとなるのは、精神の内なる自信と、あらゆることを耐えるという強い決心です。運命を堪える者は、運命を耐えることができます*1。ともかく、凪の海に波は立ちません。そして、恐怖の先取りほど哀れで愚かなことはありません。前もって災難に苦しむとは、なんと狂ったことでしょう!8. 要するに、僕の考えを簡潔に述べて、杞憂に暮れて自分で自分を苦しめているあの連中の様子を描写するなら、彼らは不幸の以前にもそうであったように、不幸の最中にも度を越して苦しむのです。必要以前に苦しむ人は、必要以上に苦しむ人です。そのような人は、苦しみに対する覚悟ができていないという同じ過ちのために、自分の苦しみを正しく量ることができません。そして同じ自制心の欠如という過ちのために、幸福が永遠に続くと考えてそれに執着し、さらには続くだけでなく増大するにも違いないと考えます。彼らは全ての人が投げ上げられる跳ね板*2のことも忘れて、偶然の賜物の永遠の保証が、自分だけには与えられていると見做すのです。

 9. このため僕はメトロドロス*3が、将来の成功が確実な自分の息子を亡くした彼の姉を慰めるために送った手紙の中で言った次の言葉を、素晴らしいものだと考えます。「死すべき定めの人の善は全て、死すべき定めだ。」彼がここで言う善とは、大衆が押し寄せ、群がるような類のものです。真の善は滅びることはありません。それは確実で永続のものであり、英知と美徳から成ります。死すべき運命の者どもに与えられる、唯一の不滅のものです。10. しかし人間はあまりに傲慢であり、自分たちの目標も、毎日にどこに押し立てられているかも忘れているので、いずれ全ては失われるのに、何かを失うことに驚くのです。君に所有権のあるものは君の所有物ですが、君自身のものではありません。なぜなら、そのような薄弱なものには強さも確かさも、永遠のものも何もないからです。財産と同じように、われわれの命も失われるものです。そしてこのことを本当に理解したなら、それ自体が慰めとなります。平静な心で失いましょう。われわれの命も、いずれは失われるのですから。

 11. では、こうした損失に際して、われわれにはどんな手立てが見出されるでしょう?単に次のことだけです、つまり、失ったものを記憶に留めておき、それらが過ぎ去ってしまう時に、それらから得ていた喜びまで失って苦しむことのないようにするのです。持っている・・・・・ことは奪われますが、持っていた・・・・・ことは決して奪われません。何かを失った後で、それを持っていたことに何の恩義も感じない人は、感謝を大きく欠いています。偶然はわれわれから物を奪いますが、それを使用し、喜びを享受したことは残します。しかし、度を越して嘆くのなら、われわれは本当にそれを失ったことになります*412. 次のことを、君自身に言い聞かせて下さい。「たいへん恐ろしく思われるあらゆる出来事でも、乗り越えられないものは何もない。そうした試練は、多くの人たちが克服してきた。ムキウスは火を、レグルスは拷問を、ソクラテスは毒杯を、ルティリウスは追放を、カトーは剣による死を。であるからわれわれも、何かを克服するべきだ。」13. さらに、見せかけの美しさや幸福で大衆を惹きつけるあらゆるものが、多くの人たちによって、たびたび軽蔑されてきました。ファブリキウス*5は将軍時代には富*6を拒絶し、監察官時代には富を非難しました。トゥベロは土器を公共の宴席で使うことで、神々がいまだ使っているもので人は満足するべきであることを示し、貧乏は自分自身にもカピトリウムの神殿にも似つかわしいものだと考えました*7。父の方のセクスティウス*8は顕職の名誉を拒絶しました。生まれながら国政に参加する地位にありましたが、神君ユリウスが幅広の章*9を差し出した時、それを受け取りませんでした。与えられるものは奪われもするということを、彼は知っていたからです。

 ですからわれわれも自らの意志で、勇気あることを実行しましょう。われわれも歴史に刻まれる理想像になりましょう。14. どうして気後れするのでしょう?どうして絶望するのでしょう?かつて出来たことは、今でも出来るはずです。われわれが心を清め、自然に従いさえするならば。というのも、人は自然から離れると欲望と恐怖に捉われ、偶然の奴隷にならざるを得ません。われわれは正道に戻ることができるし、純粋な状態に戻ることができます。ですからそこに立ち戻り、苦痛がどんな形でわれわれの肉体を襲おうと、それに耐えて、運命に次のように言いましょう。「お前の相手は一男子だ。打ち負かしたいなら、他の者を探すがよい!」

 15. これらの言葉や、同様の言葉により、潰瘍の痛みは和らげられます*10。そして僕はその苦痛が鎮まり、治癒するか停止するかして、彼自身と一緒に老いて(弱って)いくことを願います。しかし僕は彼については心配していません*11。われわれにとって問題なのは、卓越した一人の老人が、われわれから奪われるというわれわれ自身の損失のことです。というのも、彼自身は人生に満足し、さらに何かを望むことがあるとすれば、自分のためではなく、彼の助けを必要とする人のためでしょうから。彼は自分の生を、惜しみなく分け与えるでしょう*1216. 他の者であればこうした*13苦しみに*14終止符を打ったかも知れません。しかし、われわれのこの友人は、死に向かって逃げることは、死から逃げることと同じくらい恥ずべきことだと考えます。「しかし」反論があります。「状況が促すなら、彼も旅立たないだろうか?」もちろん旅立つでしょうが、それは彼がもはや誰の助けにもならない場合、彼のすることがただ苦痛に耐えることのみになった場合の話です。17. 愛するルキリウス君、これが、実践に即して哲学を学ぶことであり、真理に即して哲学を鍛えることです。すなわち、死に対して、或いは苦痛に対して、一方は迫り、一方は重くのしかかってくる時に、賢明な人物はどのような勇気をもってそれらに立つ向かうかを見届けることです。行うべきことは、行っている人から学ばねばなりません。18. これまでわれわれは、人は苦痛に耐えうるのか、死の接近は偉大な魂をも屈服させうるのかを議論してきました。しかし、どうしてこれ以上議論する必要がありましょう?ここにある事実に目を向けましょう。われわれの友人は死によって痛みに勇敢になっているのではなく、痛みによって死に勇敢になっているのでもありません*15。むしろ彼は死と苦痛のいずれに対しても自分自身を信頼し、死を望むために苦痛に甘んじるのでもなく、苦痛に倦み疲れて死を喜ぶのでもありません。彼は苦痛にも、死にも耐えているのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 98 - Wikisource, the free online library

・解説

 「幸福な生について」と重複するところが多いが、要するに、偶然のもたらす儚い喜びに執着するなといういつものセネカの教えである。後半に死と苦痛の忍耐に話が移るが、書簡70にもあるように、セネカは怠慢や怯懦からの自死は厳しく戒めている。このあたりは、多くのスピリチュアルな教えに一致する。つまり、死は恐れるべきではないが、苦しみへの恐れから死に逃げることは許されないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:幸運をよく制御する者は、不運にも負けない。

*2:曲芸師のトランポリンのようなもの。ここでは運命のシーソーのこと。

*3:エピクロスの弟子であり親友。書簡6,書簡14,書簡18,書簡33,書簡52,書簡79,書簡81参照

*4:過度に悲しむことは、本当に大切に思ってなかったのだということ。親しい人を亡くして過度に悲しむ人を戒める時に、セネカが頻繁に用いる表現

*5:前4~3世紀のローマの軍人ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス。ギリシャのエペイロスイの王ピュロスとの戦争において、ピュロスからの買収を拒絶した。監察官時代には元老院の贅沢を咎め、自身も贅沢を拒絶し、極貧に生きて死んだ。

*6:賄賂

*7:書簡95参照

*8:前1世紀のローマのストア派の哲学者。セネカの師であるファビアヌスの師。書簡59,書簡64参照。

*9:元老院議員が服の前につけた、幅広の紫縞の印。

*10:テキストの欠陥があるか、他の書簡の部分が間違ってここに持ってこられたと言われている。「彼」は潰瘍に苦しむがそれに耐えている立派な人物で、死に正しく向き合っているという話が続く。

*11:苦痛を克服できる精神の持ち主なので

*12:生き続けることで

*13:潰瘍などの

*14:自死により

*15:死んで苦痛から逃げようとすることも、痛みを感じ続けることで死から逃げようとしている訳でもない、ということ。