徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡70 死ぬべき時について

 1. 久しぶりに、君が愛するポンペイを見てきました*1。そうして青春時代の思い出へと再び引き戻されました。その地で若い頃にしていたことが今でもできるような、あるいはついさっきまでしていたような、そんな気持ちになりました。2. ルキリウス君、われわれは航海に出ていたかのように、過去の人生を通過してきました。そして、われらがウェルギリウスが詩っているように、

土地と町々が遠ざかる*2

としても、この時の流れが極めて足速な旅路において、われわれはまず最初に少年期を後にし、次に青年期を、次に若年期と初老期の両方に接している時期を、そして次に、最も素晴らしい年代である老年期を後にします。最期に、人類に共通の終着点が見え始めます。3. われわれは愚かにもこの終着点を、危険な岩礁であると考えています。しかし、そこはわれわれがいつかは入らなければならない港であり、入港を拒否することは決してできません。そして、もし若い時にこの港に辿り着いた人でも、速やかな航海をした船乗りと同様、不平を言う権利はありません。君もご存じの通り、ある船乗りは鈍い風に揺られて引き留められ、ゆっくりとしか進ませない静かな凪にうんざりしますが、ある船乗りは、止むことのない強風により、速やかに目的地へと運ばれます。

 4. 同じことがわれわれにも起こると考えることができます。人生は、ある人々を全速力で港に運びました。その港は、たとえ彼らが道中でぐずぐずしても、辿り着かざるを得ない場所です。また人生はある人々を悩まし、苦しめました。君もお分かりのように、そのような人生には、必ずしもしがみつくものではありません。すなわち、ただ生きることが善なのではなく、良く生きることが善なのです。ですから賢者は、生きられる限り生きるのではなく、生きねばならない限り生きるのです。5. 賢者は何処で、誰と、どのように、何を行うべきかに気を配るでしょう。彼は常に、自分の人生の量ではなく質について熟慮します。もし賢者の人生に障害を引き起こし、精神の静穏を乱す多くの出来事が生じたら、彼はすぐに自分の身を解放します。そしてこの権利は、危難が彼を襲う時だけでなく、幸運が彼を欺きそうな時にも彼のものなのです。彼は周囲を注意深く見渡し、そのために自分の人生を終わらせるべきかどうかを判断します。彼は自分の旅立ちが、自然なものかそれとも自らの手によるものか、遅く来るか早く来るかには、何の違いもないと考えています。彼はそれを、あたかも大きな損失のように恐れることはありません。一滴を失う程度では、誰も大したもの失いませんから。6. 早く死ぬか遅く死ぬかが重要なのではなく、善く死ぬか悪く死ぬかが重要なのです。そして、善く死ぬということは、悪く生きる危険から逃れることを意味します*3

 このため僕は、あのロドス島の人物*4の有名な言葉を、最も女々しい言葉と考えます。この人物は檻に投げ入れられ、そこで野獣のように飼われました。そして、ある人が断食によって生を断つよう助言した時、こう答えました。「人は生きている限り、希望を捨てるべきではない。」7. これは正しいかも知れません。しかし生は、どんな大金を払ってでも買うに値する、というものではありません。それがどれほど大きく、実際に(大金に値する)利益があったとしても、僕は恥ずべき告白の代償を支払ってまで、それを得ようとは思いません。運命は生きている人に対してあらゆる権力を持っていると考えるよりも、死ぬことを知っている人に対して何の権力も持たないと考えるべきではありませんか?8. しかし、たとえ死が確実に迫り、拷問が待ち受けてることを知っている人物でも、自分自身の手で懲罰を加えることは控えることがあります。自分自身に手を貸すことはあっても*5。死が恐いからといって死ぬのは愚かなことです*6。死刑執行人が君のところに来るので、待っていて下さい。なぜ君は先走るのですか?他人の職分である残酷な仕事の管理を、どうして君は引き受けるのですか?君は自分の処刑人の職権が羨ましいのですか?あるいはただ、彼の仕事を楽にしてやりたいのですか?9. ソクラテスは断食で命を絶つことができたかも知れません。毒杯ではなく飢餓によって、死ぬことができたかも知れません。しかしそのようにはせず彼は、死を待つために三十日間牢獄で過ごしました。それは、「何か〔自分を助けてくれること〕が起こるかも知れない」とか「時間があればあるほど、希望の余地は大きい」とかいう考えのためではなく、自分が法に従っていることを示し、彼の最期の時間を、友人たちへの教示とするためでした。死を軽蔑しながら毒杯を恐れるほど*7、愚かなことがあるでしょうか?

 10. スクリボニア*8は昔風の厳格な気質の女性で、リボ・ドゥルススの叔母でした。この青年*9は高貴な生まれではありましたが愚か者で、この時代に誰かが、あるいはいつの時代においても彼のような人物が抱くことができたものよりももっと大それた野心を抱きました*10。リボが体調不良により元老院から担ぎ出された時、ごく少数の人の列のみが付き添いましたが、それは彼の親しかった人達は無情にも彼を見捨て、もはや罪人でなく死人と見做していたからです。そして彼は自ら命を絶つべきか、死を待つべきかについて考え始めました。スクリボニアは彼に言いました。「あなたは何が楽しくて、他人の仕事をするのですか?」しかしリボは、彼女の忠告に従いませんでした。彼は自分自身に攻撃の手を加えました。そして結局それは、正しいことでした。ある人が敵の意のままに、あと二、三日で死ぬ運命にある時に生き続けるとすれば、それこそ正に「他人の仕事をする」ことですから。

 11. したがって、われわれの制御を超えた力がわれわれを死の脅威に晒す時、われわれは死を先取りするべきか、それとも待つべきかという問題について、一概に言うことはできません。いずれの方向にも、われわれを引っ張る多くの論拠があるからです。もしある死が拷問を伴うものであり、もう一方の死が簡単で容易なものならば、どうして後者を選ばないでしょう?航海に出ようとする時は船を、住む所を探そうとする時には家を選ぶように、僕は人生から離れようとする時には、死に方を選びます。12. そしてまた、長く引き延ばされた人生が必ずしも良いものではないように、長く引き延ばされた死は必ずしも善いものではありません。死ぬ時ほど、心が満足しなくてはならない時はありません。魂は、行かんとする衝動の赴くままに、立ち去らせて下さい。それが剣を求めようと、首くくりの綱を求めようと、静脈を締めつける何らかの毒物を求めようと、魂を前進させ、その奴隷状態への束縛を断ち切らせて下さい。人は誰でも、自分の生を周りの人々に認められるものにするべきですが、自分の死は、自分のみに認めらるべきです。最も良い死とは、われわれの心に適うものなのです。13. 次のように考える人たちは愚か者です。「ある人は私の行動を、十分に勇敢ではなかったと言い、別のある人は勝手気ままだったと言い、また別のある人は、もっと大きな気高さを示せる死に方があったはずだ、と言うだろう。」君が真に考慮すべきなのは、「私の持つ意図は、こうしたことを言う連中とは何の関係もない!」ということです。君が抱くべきただ一つの意図とは、運命からできる限り早く逃れることです。さもなくば、君の行いについて悪く言う人たちが、後を絶たないでしょう。

 14. 英知を公言しながらも、人は自らの生に自分で攻撃を加えるべきではなく、自分自身を破壊の手段とするのは呪わしいことだ、と主張する人tたちがいるかも知れません。人は自然が定めた終局を待つべきだと、彼らは言うのです。しかし、こんなことを言う人は、自分で自由への道を閉ざしていることに気付いていません。永遠の法が定めた最も素晴らしいことは、われわれは生への入り口を一つだけ許可されたが、出口は多く与えられたことです。15. 拷問の最中に抜け出し、苦痛を振り払うことができる時に、僕は病や人間の残忍さを*11待つべきでしょうか?これが、われわれが人生について不平を言うことができない理由の一つです。生は誰も、本人の意に反して引き留めることはありません。誰も自分のせい以外で不幸になることはないので、人類の立場は恵まれたものです。生きたいと思うなら、生きて下さい。そう思わないなら、君は自分がやって来た元のところへ帰ることができます。16. 君はしばしば、頭痛を和らげるために瀉血をしていました。体重を減らすために、静脈を切断したこともあります。心臓を刺すことができたなら、それほど大きな傷口は必要ありません。小刀一本*12でも、その偉大な自由への道を開いてくれます。ほんの一刺しで、静穏が得られるのです。

 それでは、何がわれわれを怠けさせ、遅らせるのでしょう?われわれは誰も、いつかはこの人生の家を出て行かねばならないことを考えていません。長く借り家に住んだ人が、特定の場所への愛着と習慣のために、たとえひどい扱いを受けることになっても、出て行かないように。17. 君は肉体の拘束から解放されたくはありませんか?そこは離れるべきところだと思って、肉体の中に住んで下さい。君はいつかはこの所有権を失うということを、いつも考えていて下さい。そうすれば、出ていく必然性が生じた時に、より勇敢でいることができるでしょう。しかし、あらゆるものを終わりなく切望する人は、自分の終わりをどのように考えているのでしょうか?18. しかし、われわれにとって終わりについて考えることほど大切なことはありません。他のことに関しての訓練は、余計なものでしょうから。われわれの精神は、貧困に耐える訓練をしてきました。しかし富の方は、未だに持ちこたえています*13。われわれは痛みを軽蔑できるよう備えてきましたが、われわれは幸運にも、未だ健康で元気な肉体を持っており、ついにこの美徳を試すことを余儀なくされることはありませんでした。われわれは、愛する人を失うことを勇敢に耐えることを自分自身に教えてきましたが、幸運は、われわれが愛する全ての人を守ってくれました。われわれの訓練を試す必要がある日が来るのは、この一事においてのみです*14

 19. 人の奴隷的な束縛状態を打ち破る力を持っているのは、偉大な人物だけだと考える必要はありません。このことは、カトー以外には不可能だ、などと信じる必要はありません。カトーは、剣によっては解放することが能わなかった魂を、自らの手で引きずり出しました*15。そして、最も低い地位にある人々であっても、強い衝動に促されて安心*16へと逃れますし、自分に都合よく死ぬことや、死ぬための道具を自分で選ぶことを許されない時には、彼らは手の届く範囲にあるものを何でも掴み取り、本来は無害なものを、物凄い力で自分を殺す武器へと変えました。20. たとえば最近の話で、野獣と闘うための剣闘士の訓練所にいたあるゲルマニア人は、午前の競技のための訓練を受けていた時に、用を足すためにその場を離れました―—監視人の立ち合いなしに彼が秘密裏に行うことを許されていたのは、これだけでした。その間に彼は、先端にスポンジ*17のついた木の棒を掴み、最も汚い用途*18のために用いられるこれを、そのまま喉に詰め込みました。こうして彼は気管を塞ぎ、肉体から息を引き取らせました。これは真に、死を軽蔑することでした!ええ、確かにそれは、全く美しい死に方でも、望ましい死に方でもありませんでした。しかし、無意味に死ぬ*19ことほど愚かなことがあるでしょうか?21. 何と勇敢だったことでしょう!彼が自分の運命を決する権利を与えられたのは、当然のことです!彼に剣を与えれば、どれほど勇敢にそれを用いたことでしょう!どれほどの勇気を持って、深い海や絶壁に身を投げたことでしょう!あらゆる手段を奪われた彼は、それでもなお死とそれをもたらす武器を、自分に与える方法を見付けたのです。ですから、死を伸ばす必要があるかを考えるのは、意志のみに過ぎないことが分かります。この激烈な人物の行いをどう判断するかは、各人の好きにさせましょう―—汚い死は、きれいな隷属よりも望ましいということに、同意して貰えるならの話ですが。

 22. 低い地位にある人達*20の例から始めましたが、これを続けます。なぜなら、最も軽蔑された階級の人でさえも死を軽蔑できると考えるなら、人は自分自身にもっと多くを要求できるでしょうから。カトーの一族やスキピオの一族、その他のわれわれがいつも驚嘆をもってその名を耳にする人々は、われわれが見習える範囲を超えているように思えてしまいます。しかし、僕が今君に話してお示しした美徳は、軍の指導者の間に見られるのと同じように、剣闘士の訓練所でも頻繁に認められます。23. 最近の話ですが、午前の競技のために、他の囚人達と一緒に荷車で送り出されていたある剣闘士が、あたかも深く眠っているかのようにこっくりしていたのですが、自分の首を車輪の輻に突っ込みました。それから彼は車輪の回転で首が折れるまで、自分の体をそこから動かしませんでした。ですから彼は、逃亡を果たしたのです。まさに彼を処罰へと運んでいた荷車によって。

 24. 人が逃げ出して、旅立つことを望む時、彼の道には何の妨害もありません。自然は開かれた*21場所でわれわれを守ってくれているのです。われわれの窮状がそれを許すものである場合、われわれは周囲を見回して容易な出口を見つけることができます。自分を自由にしてくれる手段が沢山あるならば、その中から選んで、自由を得るにあたって最善のやり方について考えることができます。しかし、その手段を見つけることが難しい場合は、最善のものではなくても、次善のものを掴み取って下さい。たとえそれが前例のないものや、新奇のものであっても。勇気を欠くことがなければ、死ぬための知恵を欠くこともありません。25. たとえ最下層の奴隷であっても、苦痛につき動かされて駆り立てられ、最も注意深い監視人をも欺く手段を発見するのをご覧なさい!自己に死を命じるのみならず、その手段を自分で見出す人物は、本当に偉大です。

 ところで、同じく剣闘士の例から、さらにいくつかの例をお示しすると約束しました。26. 二回目*22の模擬海戦の競技の最中に、異国人の一人が、敵に対して用いるために与えられた槍を、自分の喉の奥深くに突き刺しました。「どうして、ああ、どうして」彼は言いました。「俺は長い間、この全ての責め苦と嘲りから、自分を解放しなかったのだろう?どうして俺は武器を持っているのに、死を待っていたのだろう?」この模擬海戦はいっそう胸を打つものでした。それは人々が、死ぬことは殺すことよりも名誉あることだと、彼に教えられたからです。

 27. ではどうでしょう?そのような精神が、蔑まれる野蛮な人物にも備わっているのならば、長年の熟慮と万物の教師である理性によって、そのような事態に立ち向かうために自分自身を訓練してきた人々にも、備わっていないということがあるでしょうか?理性はわれわれに、次のことを教えてくれます。すなわち、運命は様々な形でわれわれに迫ってきますが、その終点は同じであり、避け得ない出来事がどのように始まるかは、問題ではないということを。28. 理性はまた、われわれに死ぬことを教えてくれます。可能なら、われわれの好きなやり方で、不可能なら、自分にできるやり方で。自分に攻撃を加えるために与えられる手段があれば、何であっても掴み取るよう理性は教えます。「強奪して生きる」ことは罪深いことですが、「強奪して死ぬ」ことは最も気高いことです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 70 - Wikisource, the free online library

・解説

 セネカ自身も、ネロ帝に命じられてではあるが、自殺によりその生涯を終えた。セネカは無条件な自殺を推奨してるのではなく、あくまでそうせざるを得なくなったら、勇敢に死を迎えろと言っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

*1:おそらくポンペイはルキリウスの故郷。書簡49も参照。

*2:アエネイアス3.72。この詩は書簡28にも登場。

*3:「よい死にかたを知らぬものはみな、悪い生きかたをするだろう。」心の安定について11.4

*4:ロドス島出身のテレスポロスのこと。僭主リュシマコスは友人であった彼の手足や耳や鼻を削ぎ落とし、狭い檻に入れた。「怒りについて」3巻17.3に詳しい。

*5:「自分自身の手で懲罰を加える」=「自ら命を絶つ」。「自分自身に手を貸す」=「死や拷問の苦痛に対して負けないよう自分を励ます」。

*6:「彼らは、愚かさゆえに、不安定な精神状態に苦しめられているのだが、そのような精神状態ゆえに、自分が恐れているものの中に、飛び込んでいってしまうのだ。つまり、彼らがしばしば死を望むのは、彼らが死を恐れているがゆえなのである。」人生の短さについて16.2

*7:毒杯を恐れて、30日待つことなく自殺することほど

*8:アウグストゥスの若い頃の二人目の妻。

*9:リボ・ドゥルスス

*10:政変を企てたが捕えられて、ティベリウス帝に自殺を命じられた

*11:死をもたらす

*12:手術用のメスのようなもの。セネカもこれで自害した。

*13:富にまだ打ち勝っていない=貧困に耐える訓練が、無駄だったということ

*14:死を覚悟することのみが、意味のある訓練だということ。

*15:書簡13,書簡67参照

*16:

*17:原文は「spongia」で辞書的には「海綿」が最初にくる。

*18:お尻を拭くこと。

*19:闘技場で野獣に殺されて

*20:剣闘士のような

*21:死への道が

*22:正確な年代は不明。だが、そんな頻繁にあった訳ではないらしい。