徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡93 人生の長さと比較した際のその質について

 1. 君が手紙の中で、哲学者メトゥロナックス*1の死を嘆き、彼はもっと長生き出来たとか、長生きすべきであったと言っていますが、人間や物事について語る時の君の公正さが、この一事に対しては他の全ての人と同じように、君に欠いているように見えたのを残念に思いました。というのも、人間に対して公正に接する者は沢山いますが、神々に対して公正に接する者は誰もいません。われわれは日々、運命を非難して次のように言います。「なぜあの人は、人生の半ばで命を奪われたのか?なぜこの人は奪われないのか?なぜこの人は、自分にとっても他人にとっても重荷となる老年を、長く引き延ばしているのか?」

 2. しかし教えて下さい。君が自然に従うのと、自然が君に従うのと、どちらが公正だと考えますか?そして、遅かれ早かれ出て行かねばならない所からどれだけ早く出て行くかに、何の違いがありましょう?われわれは長く生きるためではなく、善く生きるために努力すべきです。なぜなら、長く生きるために必要なのは幸運だけですが、善く生きるためには魂が必要だからです。人生は充足していれば、十分に長いのです。しかし、魂が自身に相応しい善を与えるまで、その充足は得られません。3. ある老人が八十年も怠惰に過ごすことが出来たとして、何の意味がありましょう?このような人は生きているのではなく、ただ長く人生に留まっているだけです。死ぬのが遅かった訳でもありません。長い間彼は死んでいたのですから。彼は八十年も生きたのでしょうか?それは、彼が本当に死んだ日をいつとして数えるかによって決まります!4. ところで、君の友人メトゥロナックスは若さの盛りに亡くなりました。しかし彼は善き市民、善き友人、善き息子としての義務を、全て果たしました。いかなる事柄も、彼は完全に充足させました。彼の寿命は全うされませんでしたが、彼の人生は全うされました。先の人物は八十年生きたのでしょうか?いいえ、彼は八十年存在していただけです*2。もっとも、「樹木が生きた」という意味で「生きた」という言葉を用いるのであれば、話は別ですが。

 愛するルキリウス君、どうかわれわれの人生も、貴重な品々のように、その幅の長さではなく、重みによって評価されますように。人生を長さではなく、成し遂げたことによって測りましょう。運命を軽蔑し、人生におけるあらゆる務めに奉仕し、人生における最高善を獲得したあの人物と、何年もの歳月が通り過ぎただけのこの人物の間に、どんな違いがあるのかお分かりですか?前者は死の後にも生き続けますが、後者は死ぬ前に死んでいるのです。

 5. ですからわれわれは、与えられた時間がどれほど僅かであってもそれを立派に充足させた人を称賛し、幸福な人物の一人に数え入れましょう。そのような人は真の光を見たのですから。彼は群衆の一人ではありません。生きただけでなく、善く生きたのです。彼は時おりは晴天を楽しみ、また時おりは、偉大な太陽の輝きが雲の切れ間から彼を照らしました。なぜ君は、「彼はどれほど長く生きたのか?」と尋ねるのですか?彼は今も生きています!彼は後代までも飛び越えて、人々の記憶に、自らを刻みつけました。

 6. とはいえ僕は、自分にあと幾年か付け加わるとして、それを拒もうとは思いません。しかし、たとえ人生が短くなることがあっても、僕の幸福な人生に必要なものが、何一つ欠けていたとは思わないでしょう。なぜなら僕は、貪欲な希望が最後の日として約束した日に合わせて生きてきたのではなく、毎日をあたかも人生最後の日だと思ってきましたから。どうして僕がいつ生まれたかとか、僕がまだ若者として名簿に登録されているかを尋ねるのですか?僕の人生は、僕自身がもっています。7. 背が低くとも人は完全になれるのと同じように、人生は短いものでも完全になり得るのです。寿命は外的なもの*3の範疇にあります。僕がどれほど長く生きるかは、決めることはできませんが、どんな風に生き続けるかは、決めることができます。君が僕に求めるべきは、次の一事のみです。つまり、まるで暗闇の中にいるかのように不名誉な人生を過ごすことをやめ、人生の傍らを通りすぎるのではなく、真剣に生き抜くことです。

 8. そして、もっとも充足した期間をもつ人生とはどれくらいかとお尋ねですか?英知を身に着けるまでの人生です。英知に到達した人は、最も遠い目標ではなく、最も重要な目標に辿り着いたのです。そのような人は大いに歓喜し、神々にも、自分自身にも感謝を捧げるのがよいでしょう。そして、自分が生きたことに対し、大いに自然に恩義を感じることができます。実際彼には、そのようにする権利があるのです。なぜなら彼は、自分が受け取ったよりも善い生を、自然に返したのですから*4。彼は善き人の性質と偉大さを示すことで、善き人の模範を確立したのです。もう数年が加わっても、それは同等に善いものであったでしょう*5

 9. とは言っても、われわれはいつまで生き続けるのでしょうか?われわれは、宇宙の真理を学ぶ喜びを知りました。われわれは、自然がどのような始原から生ずるか、どのようにして星辰の運行を秩序づけ、どのような変化を起こして一年を呼び戻すのか、どのようにしてこれまでに存在した全てを終わらせ、自身の終わりもそのように定めおいたのか*6を知りました。われわれは星々が自らの推進力によって運行し、地球以外に静止している星はなく*7、他の全ての天体は弛まぬ速度で進み行くことを知っています。われわれは月がいかにして太陽を追い越すか、なぜ遅い月が速い太陽を追い越すことができるのか、いかにして月が太陽から光を受け取ったり失ったりするのか、夜をもたらし、昼を取り戻す諸力は何かを知っています。これら全てを近くで眺めるためには、われわれはそこに行かねばならぬのです*810. 「そうは言っても」かの賢者は言います。「神々への道が私の前に明確に示されてることを信ずるからといって、私はそれらへの希望のためにいっそう勇敢に立ち去るのではない。なぜなら私は既に神々の許しを得て、彼らの一員として参列することを許されいるからだ。神々がかつて私に魂を送ったように、私も神々に魂を送ったのだ。しかし、私はすでに消滅し、死すべき人間が死した後には何も残らないと考えて欲しい。私の勇気は変わらないーーたとえ去った後に、行くべき所がどこにもなかったとしても*9。」

 11. 「しかし」君は言われる。「彼(メトゥロナックス)は自分が生きるであろうと思った多くの年月を生きられませんでした。」行数が少なく小さものであっても、優れていて有益な本があります。そしてタヌシウス*10年代記については、それがどれほど膨大か、人々がそれについて何と言ってるか*11はご存知でしょう。ある人の長いだけの人生にもこれがあてはまります。つまりタヌシウスの年代記と同じです!12. 君は試合の途中で殺された剣闘士の方が、最終日に殺された剣闘士よりも幸福だと考えますか?闘技場で殺されるよりも剥ぎ取り場で殺されるほうがましだと思うほど、愚かしく命に縋るものがあると思いますか?先に死ぬ者の後にも、長い時間があるわけでもありません。死は全ての人に訪れます。殺した者はすぐに、殺された者の後を追います。結局のところ人々が最も心配することは、最も些細なことです。そして、避けられないことをどれだけ長く避けられるかということに、何の意味がありましょう?お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 93 - Wikisource, the free online library

・解説

 長く生きるよりも、善く生きよ。というストア派らしい死生観。

 

 

 

 

 

 

 

*1:書簡76参照

*2:「ある人の髪の毛が白いとか、顔に皺が寄っているからといって、その人が長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。たんに長く存在していただけだ。」人生に短さについて7.10

*3:富や健康など。

*4:「もし自然が、以前われわれに預けたものを返せと言ってきたら、われわれは自然に対して、こう言うだろう。『では、この魂を受け取ってください。あなたが与えてくださったときよりも、よいものになっていますよ。わたしは、ひるみもしませんし、逃げもしません。もう心を決めて、あなたにお渡しする用意ができているのですーーわたしに意識が芽生えるまえに、あなたが与えてくださったこの魂を。さあ、持っていきなさい。』」心の安定について11.3

*5:賢者はたとえ人生が短くても充足させることが出来る師、たとえ長くても同等に善くすることが出来る、ということ。

*6:宇宙は生成と消滅を繰り返すという、セネカが好んでしばしば引用するストア派の宇宙観。

*7:自然研究7.2.3では、セネカは天動説と地動説のどちらが正しいかは分からないと述べている。

*8:すなわち死んで魂的存在となり、宇宙を自由に周遊するようになるということ。

*9:死後に魂が存在しようがしまいが、神々の一員のように生きた自分にとって、勇敢にこの世を去るのに何ら支障はない、という意味。

*10:前1世紀の歴史家

*11:「最低の紙片集」という軽蔑の表現があった。