徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡94 忠告の価値について

 1. 哲学には個々人の事例に適切な教訓*1を与える部門があり、それは人間全体に与えられるものではなく、たとえば、夫は妻に対してどう振舞うべきか、父は子供をどう育てるべきか、あるいは主人は奴隷をどう扱うべきかといったことを教えます。僕が思うに、或る人々は、哲学の唯一の重要な部門としてこれのみを受け入れ、他の諸部門を、現実的な必要性からかけ離れたものだとして拒絶します*2。まるで、人生全体についての包括的な知見を得なくとも、人は人生の個々の部分に対して忠告を与えることができるかのように!

 2. しかし、ストア派のアリストーン*3はこれとは反対に、上記の(個別に忠告を与える)部門はあまり重要ではないと考えます。それらは心に染み込まず、中身は老婆心程度の教えであり、最大の利益は哲学の根本的な原則と最高善の定義からのみ得られると考えます*4。人がこの最高善の定義を完全に理解し、徹底的に学んだら、個々の状況で何をなすべきかということを、自分で自分に教えることができるというのです。3. たとえば槍投げを学ぶ者は、一定の目標に狙いを定めることで、槍に方向を与えるべく手を訓練し、指導と練習によってその能力を身に着けたら、その力を自分の望みのあらゆる目標に対して使用できるようになります。個々に散らばった目標*5にではなく、自分が狙った一つの目標のみに、正確に当てることを学んだのですから。人生全体に対して自分を訓練してきた人は、個別の事柄について忠告を受ける必要はありません。そのような人は全ての問題について鍛えられていますから。つまり、彼は妻や子供とどう生きるべきかではなく、どう正しく生きるべきかを知っているのです。彼が学んだ知識の内には、妻や子供と正しく生きる方法も含まれています。

 4. クレアンテス*6は、哲学のこの(個別に教えを与える)部門を、確かに有用ではあるけれども、普遍原理から導き出されない限り、つまり、哲学の根本的な原則とその主要な教義を知らない限り、無力なものであると考えます。それゆえ、この議題は二つの要素があり、二つの別々の問いに分かれます。一つは、それ*7は有益なものか、無益なものかということ。そしてもう一つは、それだけで善き人を生み出せるのか、ということです。要するに、哲学のこの(個別に教えを与える)部門は不要なものなのか、それとも、他の全ての部門を不要なものにするのか、ということです。

 5. この部門を不要なものであると考える人々は、次のように主張します*8。「もしも眼の前にある何かが視界を妨げているなら、それを取り除く必要がある。それが視界を邪魔している限り、次のような教訓を与えても時間の無駄である。『このように歩き、あちらに手を伸ばしなさい。』同様に、何かが人の魂を盲目にし、義務の秩序を明確に見定めることを妨げている場合、『父親としてこのように生活せよ。妻とこのように生活せよ。』と助言することは無意味だ。なぜなら、心が過ちで曇っている間は、教訓は役に立たないからだ。曇りが晴れて初めて、個々の場合における自分の義務が明らかとなるだろう。さもなくば、病人を健康にするのではなく、病人が健康になったら何をすべきかだけを教えることになる。6. 君が貧乏な人に『金持ちを演じる』方法を教えるとしよう。彼は相変わらず貧乏なのに、どうしてそんなことが教えられよう?君は空腹な人物に、満腹な人物はどのようにあるべきかを教えようとしている。しかし、最初にすべきことは、彼の命を枯渇させる空腹を取り除いてやることだ。」

 「同じことが、全ての悪徳についても当てはまると言おう。悪徳それ自体を取り除くべきであり、その悪徳が残っている間は実践できないであろうことは教えるべきではない。われわれを苦しめている誤った考えを取り払わない限り、貪欲な人は金銭をどのように用いるべきかの教えを受け入れることはないし、臆病な人は危険をどのように軽視するべきかの教えを受け入れることはない。7. 君は貪欲な人には、金銭は善でも悪でもないことを理解させるべきだ。金持ちが最も惨めであることを、知らしめてやるべきだ。臆病な人には、苦痛であろうが死であろうが、われわれが一般に正気を失うほどに恐れの対象としているものは、噂で言われてるほど恐ろしいものではないことを、理解させるべきだ。自然は死を、われわれ全員に訪れるものとして定め置いたが、それは一度しか訪れないと考えれば、大きな慰めになる。また苦痛の真っ只中にあっても、魂の毅然とした態度は、治療に劣らぬ力を持つ。というのも、魂は確固たる反骨心によって、耐えねばならない重荷を軽くできるのである。苦痛というものには、次のような最良の特徴があることを思い出して欲しい。すなわち、それは長引くなら大きなものにならず、大きなものになるなら長引きはしない*9。また、宇宙の定められた法則がわれわれに命じることは何であれ、勇敢な心で受け入れるべきだ。」

 8. 「そのような原則によって君が誤った人間に自分自身の状態を認識させ、幸福な人生とは快楽に従うことではなく自然に従うことだと理解させ、また美徳こそ愛し求めるべきただ一つの善であり、悪徳をただ一つの悪であると理解させ、金銭や顕職や健康や力強さや権力といったその他のものは中間的なものであり、善でも悪でもないことを理解させれば、その時彼は、個々の事柄について、『このように歩き、このように食べよ。このような行いが男に、女に、既婚男に、独身男にそれぞれ相応しい。』といったことを述べる忠告者を必要としなくなる。9. じっさい、そのような助言を与えることに腐心しているような連中は、自分ではそれを実践できずにいるのだ。そんなことを教師が児童に教え、祖母が孫に教える。怒ってはいけないと教えるのは、最も怒りっぽい教師である。どこの初等学校に行っても、子供たちの教本には、哲学者たちの教えがご立派に書き綴られている*10。」

 10. 「そして、君が授けるのは、明確な教えか、それとも、不確かな教えか?明確なものであれば、忠告者は必要ないし、不確かなものであれば信用されない。したがって、教えを授けることは不要である。むしろ、次のような方法でこの問題に取り組むといい。もし君が、不確かで疑わしい事柄について誰かに忠告を与えるなら、証明を用いてその教えを補助するべきだ。証明を用いれば、証明のための手段がより効果的に働き*11、十分な結果が得られる。11. 『君は友人と、同胞と、仲間とこのように付き合うとよい』それはなぜか?『そうすることが正義だからだ。』そしてその正義の中に、私は全ての論拠を見出すことができる。それから私が分かることは、公正さはそれ自体が望ましいものであり、われわれは恐怖心によって公正を強いられるのではなく、金銭によってそれに導かれるのでもなく、美徳それ自体以外に、この(公正さという)美徳の中に評価に値するものを見出さなさい、ということである。こうした考えを自分自身に納得させ、かつ十分に吸収した後であれば、既に訓練された者に教えているだけの忠告に、何の有益なところがあるだろうか?知っている者には教訓は不要であり、知らない者には教訓では不足だ。なぜなら、知らない者は教えの内容だけではなく、なぜ教えられるのかも聞かねばならないからだ。12. 繰り返して尋ねるが、そのような教えは善悪について正しい考えを持っている者に役に立つのか、それとも持たない者に役に立つのか?後者はその教えから、何ら利益を得ることはない。なぜなら、与えられる忠告に反抗する事柄に、彼の関心は占められてしまっているのだから。何を求めるべきで、何を避けるべきかを思慮深く判断する前者は、何も教えを受けずとも、自分が何をなすべきかを理解している。したがって、哲学のあの(個々に忠告を与える)部門は捨て去ってよい。」

 13. 「われわれが道を誤る原因は次の二つだ。一つは、魂の中に誤った考えによって邪悪な性質が潜んでいるか、もう一つは、たとえ誤った考えに捉われていなくとも、魂は偽りの虚飾に傾きやすく、誤った方へと引き込む何らかの外見に惑わされて、たちまちに堕落するかである。これゆえに、われわれの為すべきことは病める精神を丁重に治療して過ちから解放するか、あるいは精神がまだ過ちに占領されてはいないもののその傾向があるときは、予めその精神を保護することである。この両方を可能にするのが哲学の基本原理である。それゆえに、あのような個々の忠告を与えることは何の役にも立たない。14. それに、もしわれわれが一人一人に教えを与えるとなると、その仕事は膨大なものになる。なぜなら、ある類の助言は金貸しに、別のものは農夫に、また商人に、王族からの恩恵を求める人に、同輩との友情を求める人に、下位の人どもを愛そうとする人に、それぞれ与えねばならないからである。15. 結婚に関しての場合も、純潔の妻を娶った夫は妻とどう生活すべきか、あるいは以前に結婚歴がある女性の場合はどう生活すべきか、あるいは金持ちの女性の妻の場合は、あるいは持参金のない女性の場合はどう生活すべきかを、教えねばならない。あるいは子供を産めない女性と沢山生む女性、年輩の女性と若い女性、実母と継母の間にも、何らかの差異があるとは思わないのか?われわれはあらゆる種類を包含することはできず、個々の事柄はそれぞれに教えを要求する。しかし哲学の法則は簡潔なもので、あらゆる事柄を網羅する。16. そのうえ、英知の教えは明確で確実なものである。もしある教えが明確なものでないならば、それは英知の外にある。なぜなら、英知は物事の正しい限度*12を知っているからだ。」

 「したがって、われわれはこの忠告を与える部門を捨て去らねばならない。なぜなら、少数の人だけに当てはまる教えを、全ての人に適用するべきではないからだ。しかし、英知は全ての人を包括する。17. 普通の人の狂気と、医者の治療の対象となる狂気の間には何の違いもないように見えるが、後者は病気に害されており、前者は誤った考えに害されている。一方の狂気の原因は疾患に由来するが、もう一方は心の悪しき病に由来する。もし或る人が狂人に対して、どのように話すべきか、どのように歩くべきか、公的な場で私的な場でどのように振舞うべきかといった忠告を与えようとするならば、彼は忠告を受ける当人よりもさらに狂っていると言えるだろう。本当に必要なことは黒胆汁症*13を治療し、狂気の根本的な原因を取り除くことである。そしてこれは、もう一方の場合、つまり魂の狂気に対しても行うべきことである。狂気それ自体を取り払わねばならない。さもないと、与える忠告が霧散してしまうだろう。」

 18. 以上がアリストーンの言ったことですが、彼の意見に対し僕は一つ一つ答えていきましょう。最初に、もし何かが視界を遮り見ることを妨げていたら、それを取り除かねばならないという意見に反論します。そのような人がものを見るために必要なのは教訓ではなく、目を治療し、視覚の妨げとなっている原因を取り除くことであるのは、僕も認めましょう。なぜなら、われわれに視力を与えてくれたのは自然ですが、妨げを取り除くことは、自然本来の正しい機能を取り戻すことですから。とはいえ自然は、個々の場合において何をなすべきかを教えてはくれません。19. また、ある人の白内障が治ったとしても、その人がすぐに他の人々の視力を取り戻せる訳ではありません。しかしわれわれは、悪徳から解放されたら、他の人々も解放することができます。眼が様々な色彩を区別できるようになるためには、励ましや、助言すら必要ではありません。黒と白を区別するのに、誰かの忠告は不要です。しかし一方で、心は人生において何をなすべきかを理解するためには、多くの教訓を必要とします*14。もっとも、視力の治療においても、医者は単に患者を治すだけではなく、健康に良いことについて忠告も与えますが。20. 医者は言います。「弱った視力をすぐに危険な明るい光にさらすことはない。暗闇から初めて、次は薄暗い所、やがては明るい所というように、少しずつ昼の明るさに慣れていくとよい。食後すぐに勉強するのもよくないし、腫れて炎症を起こしている眼に無理を強いるべきではない。顔に吹き付ける風や、強い冷気も避けるとよい。」そしてその他の同様の、薬と同じくらい価値のある忠告を与えます。医者は忠告も、治療の一環にするのです。

 21. 「しかし」反論する人がいます。「過ちは人の倒錯した考え*15から生まれる。教えは倒錯を取り払うものではなく、善悪に対するわれわれの間違った見解を取り払うものでもない。」教えだけでは心の歪んだ信念を覆すのに効果的ではないことは、僕も認めます。しかし、だからと言って、他の手段につけ加えられた場合も教えが役に立たない訳ではありません。第一に、それは記憶を新たにします。第二に、全体として考えると混沌としていた事柄も、個々の場合として適切に分類されることで、より注意深く検討することができます。彼ら反論者の理論に従うなら*16、慰めや励ましですら不要であると言えるかも知れません。しかしそれらは、決して無意味なものではありません。それゆえ、忠告も無意味なものではありません。

 22. 「しかし、愚かなことだ。」彼らは反論します。「実際に健康を回復する必要がある病人に、まるで健康な人に向かってのように、何をするべきかを教えるのは。健康でなければ、教えは何の価値も持たないのだから。」しかし病気に人にも健康な人にも、忠告を受け容れねばならない何か共通の部分がないでしょうか?例えば、やたらと食べ過ぎてはならないとか、過度の疲労は避けるべきだといったことです。貧乏人にも金持ちにも、両方に当てはまる何らかの忠告があります。23. 「貪欲は治療すべきである。そうすれば、」人々*17は言います。「貧乏人にも金持ちにも忠告は不要である。彼らのどちらも、渇望が鎮まっているのだから。」しかし、金銭への渇望から自由になることと、その使い方を知ることは、それぞれ別の話ではないでしょうか?守銭奴は金銭に関してその適切な限度を知りませんが、守銭奴でない(貧乏な)人々も、その使い方を知ってる訳ではありません。再び、彼ら*18は言います。「過ちを取り去れば、教えは不要だ。」これは間違いです。なぜなら、貪欲は弱められ、贅沢は制御され、無謀は抑えられ、怠惰は拍車がかけられたと考えてみてください。それらの悪徳が取り払われた後でも尚われわれは、何を行うべきか、どのように行うべきかを学ばねばなりません。

 24. 「何も」人々*19は言います。「効果はない。より深刻な悪徳には忠告がなされても。」そんなことはありません。医術においても不治の病を克服することはできませんが、それでもある場合には治療に近づくこともあれば、ある場合には症状を緩和させます。普遍的な哲学の力ですら、そのために全力を尽くしたとしても、すでに凝り固まって慢性化した病を、魂から取り除くことはできないでしょう。しかし哲学は、全てを癒せないからといって、治療の助けにならない訳ではありません。人々は言います。25. 「明白なことを教えたところで、何の役に立つのか?」大いに役に立ちます。なぜなら、われわれは明白な事柄を知ってはいても、注意を払わないことがしばしばあるからです。忠告とは教えるだけではありません。注意を向けさせ、目を醒まさせ、記憶を強化し、それを失わないようにします。われわれは目の前にあっても、多くのものを見逃しています。実のところ、忠告は励ましの一種なのです。心は、明白なことにすら気付かないふりをすることがよくあります。ですからわれわれは、全くよく知られたことであっても、再三心に言い聞かせなばなりません。ここで、カルウィスがウアァティーニウスに対して言ったあの演説を思い出す人がいるかも知れません。「贈賄が行われたことを、あなた方は知っているし、あなた方が知っているということも、皆知っている。*2026. 君は*21、友情は最大限の誠意をもって尊重されるべきだと知っていますが、実際にはそうしません。君は、自分の妻に貞淑を求めながら、自分自身は他人の妻を誘惑するのは悪いことだと知っています。自分の妻が間男と関係を持つべきではないのと同様、君も愛人と関係と持つべきではないと知っています。しかし、実際にはそうしません。ですから、これらのことを絶えず思い出させねばなりません。なぜなら、それらは貯蔵しておくのではなく、すぐに使える状態にしておくべきだからです。そして、有益なことは何であれ、頻繁に議論され、頻繁に考察されるべきです。そうすることでわれわれはそれらを知っているだけでなく、いつでも用いられるようになります。そしてこれにより、明白なことがより一層明白になるということも、覚えておいて下さい。

 27. 「しかしもしも、」反論が来ます。「君の教えが不確かなものであれば、君は証明を追加せねばならない。したがって、有益なの教えではなく証明だ。」しかし証明がなくとも、忠告者からもたらされる影響そのものが、有益ではないでしょか?それは、たとえ論拠が述べられなくとも、説得力を持つ法学者の決定のようなものです。その上、与えられる教訓はそれ自体で大きな価値を持つものであり、詩歌の中に織り込まれたり、散文の形式で格言に凝縮されたりすることがあります。大カトーの有名な、次の英知の言葉のように。「買うべきは欲しいものではなく、必要なものである。必要のないものは、一アースでも高い。」あるいは次のような、神託かそれに近い言葉にも見られます。「時間を惜しめ!」「汝自身を知れ!」28. 誰かが君に次の詩句を歌うとき、君はその理由を尋ねるでしょうか*22

災いの癒しはそれを忘れることだ*23

 

運は勇敢な者に味方し、臆病者は自らの弱さに打ち負かされる*24

これらの格言は、特別な弁護人を必要としません。自然がそれ自身の力を適切に発揮しているので、これらの格言はわれわれの感情に直接働きかけ、われわれの助けとなるのです。29. 魂はその内にあらゆる立派なものの種子を宿しており、小さな火花が微かな風の力を借りて自然の大きな炎へと広がるのと同じように、その種子は忠告によって成長へと向かうのです。美徳が呼び起こされるためにも、接触や刺激が必要です。さらに、心には或るものがあり、それはすぐに手に取って使えるものではなくとも、言葉によって容易に機能が働き始めるものがあります。様々な場所に散らばっている事柄は、訓練されていない精神ではそれらを適切に秩序立てることは不可能です。したがって、われわれはそれらをまとめ上げて、結び付けて、それらをより効果的なものにして、精神をいっそう高揚させる必要があります。30. あるいは、もし教えが完全に無意味なのであれば、あらゆる教育法は廃止されて、われわれは(生来の)自然本性のみに満足せねばならないことになります。

 そのような意見*25を支持する人々は、ある人は才気煥発で敏感で、ある人は怠けがちで鈍感で、またある人は他の人よりも賢いということがあることを、知らないのです。才知の能力は教えによって培われ、成長します。それは生来の考え方に新たな観点をもたらし、また堕落した考えを矯正します。31. 「しかしもしも」彼らは反論します。「ある人が正しい基本原理を持っておらず、邪悪な原理に縛り付けられていたら、どのように忠告してその人を助けることができようか?」もちろん、そのような邪悪な原理から解放されることによってです。なぜなら、彼の生来の性質は潰されたのではなく、曇らされ、抑えつけられているだけですから。それでも生来の才気は悪徳をもたらす影響と闘いながら、再び立ち上がろうと努めます。しかし援助を得て、教えの励ましを受けることで、より大きなものへと成長することができます。悪徳が慢性のものとなり、生来の才気を完全に堕落させたり消滅させたりしない限りはですが。なぜならそのような場合には、哲学による忠告が、全力を尽くして努力したとしても、回復させることはできないでしょうから。実際、哲学の原理と教えの間には、前者が全般的なものであり後者が個別なものであるという以外に、何の違いがあるでしょう?いずれも忠告を与えるのですが、前者は全体に、後者は個別に与えるのです。

 32. 次のように言う人々があります。「もしある人が正しく、立派な原理を身に着けているとしたら、その人は忠告を必要としないであろう。」決してそんなことはありません。なぜなら、そのような人は確かに、自分が何をするべきかを知ってはいますが、その内実を十分には理解していないからです。つまりわれわれは、賞賛に値することを行うのを、自分の感情だけではなく、個々の事柄が要求することを見抜く鍛錬が不足していることによっても、妨げられるのです。われわれはしばしば心を善く制御することはあっても、同時にそれは不活発で、義務を遂行する道を見出すには未熟であることがありますが、この道を示すのが、忠告なのです。33. また人々*26は次のようにも言います。「善悪に関する誤った見解を全て取り払い、真実の見解に置き換えるがよい。そうすれば、忠告がなすべきことは何もなくなる。」そうした方法によって魂が秩序立てられることは疑いようがありませんが、それらが唯一の方法という訳ではありません。なぜなら、われわれは証明によって善悪とは何であるかを推察するかも知れませんが、それにも関わらず、教えには相応しい役割があるのです。思慮深さ正義も、義務から成り立っているものですが、義務は教えによって整えられます。34. そのうえ、善悪の判断それ自体も、義務の遂行によって強化されるものであり、教えはわれわれをその遂行へと導くのです。教えと義務は互いに合致するものですから。義務がつき従わなければ、教えも導くことはできません。義務とは自然に従うものなので、教えが先行することは明らかです*27

 35. 「教えとは」人々*28は言います。「無数にあるものだ。」またしても間違っています!なぜなら、重要かつ本質的な事柄に関してであれば、教えは無数にある訳ではありませんから。もちろん、時や所や人によって、多少の違いはあるでしょう。しかし、そのような場合でも、全てに適用される教えを与えることができるのです。36. 「しかし誰も」人々は言います。「教えによって狂気を治すことはできない。したがって、悪徳を治すこともできない。」それらは別々のことです。なぜなら、狂気を取り除かれた人は正気を取り戻しますが、悪徳に基づく考えはたとえそれを取り除いても、ただちに正しい行動に関する見解を得られる訳ではないからです。そしてたとえ得られたとしても、忠告はその人の善悪に対する正しい考えを強固なものにします。そして、狂気には教えは無意味だという意見も間違いです。なぜなら、教えそのものは役に立たずとも、治療の助けにはなるからです。叱責も戒めも、狂人を抑制します。とはいえ僕が言っている狂人は、知性が錯乱してはいるものの、完全に消失してはいない人のことですが。

 37. 「必ずしも」反論があります。「法律はわれわれが行うべきことを行うようにするのではない。そして、法律とは脅しの混ざった教え以外の何であろうか?」そもそも第一に、法律は脅しであるがゆえに説得にはなりませんが、教えは強制するのではなく諭すことによって、人を正しくします。さらに、法律は人を恐れさせて犯罪を抑制しますが、教えは人に義務の遂行を促します。加えて、法律もまた、命令するのではなく指導する場合には、善行のためのよい助けとなります。38. この点に関して、僕は次のように述べたポセイドーニウス*29とは意見を異にします。「わたしはプラトンの『法律』に序文*30が付け加えられるべきだとは思わない。未熟な者でも容易に理解できるよう、法律は簡潔なものであらねばならないからだ。それは言うなれば神からの言葉であり、命令であるので、それについて論議するべきではない。序文のある法律ほど、無益で馬鹿げたものはないとわたしは思う。私になにをして欲しいのか、警告して、命令せよ。わたしは学ぶのではなく、従うのである。」しかし、序文のある法律は有益です。法律に(序文がないという)欠陥があれば、国家の道徳にも欠陥があることはお分かりでしょう。「しかし」彼らは言います。「全ての人に有益なわけではない。」39. それはそうですが、哲学ですら、全ての人に役立つことはありません。しかしだからといって、哲学が魂を訓練することに役に立たないとか、無益であることにはなりません。そして更に言えば、哲学とは人生の法律ではありませんか?法律を無益なものとしてみましょう。しかしだからといって、教えが役に立たない訳ではありません。もしそうなら、慰めも警告も勧告も叱責も賞賛も、役に立たないことになります。というのもこれらは全て、忠告の一種ですから。これらの忠告によってわれわれは、精神の完全な状態へと至るのです。40. 心に立派な影響を及ぼしたり、悪に傾きがちな心の弱さを矯正するためには、善き人々と交わること以上に効果的なことはありません。なぜなら、頻繁に目にし、頻繁に耳にすることは、徐々に心の中に染み込んでいき、教えの効力を発揮しますから。

 実際われわれは、賢者と会うだけでも精神が高められます。そして偉大な人物は、黙っているだけでも大きな助けを与えるのです。41. それらが役立つことを僕はよく知っていますが、どのようにして役立つかを説明するのは容易ではありません。パイドン*31は言いました。「ある種の小さな動物に噛まれても、われわれは何も痛みを感じない。彼らの噛む力は非常に微かで、害を加えられたことも分からない。腫れによって噛まれたことが分かるが、噛み傷も見つからない。」賢者たちと接することで、これと同じことが君にも起こります。いつどのように、賢者たちからの恩恵がもたらされたか君には分からなくとも、恩恵を受け取ったことには気づくでしょう。42. 「それが、何になるというのか?」君は言います。つまり、善い教えも、しばしば君に受け取られて、善い模範と同じくらい、君に有益なものとなるということです。ピタゴラスも、われわれが神殿に入り神々の像を間近に眺め、神の言葉を待っている時には、われわれの魂はすでに変化を体験していると言っています。43. さらには、最も未熟な者であっても、何らかの教えの効力に力強く打たれることを、否定できる人がいるでしょうか?たとえば次のような、簡潔ではあっても、重みのある言葉によって。「過剰になることなかれ。」「貪欲な心はどんな利益にも満足しない。」「自分が他人にしたのと同じことを、他人から自分にされると心得よ。」われわれはこうした言葉を、ある種の衝撃をもって聞きます。誰もこれらの言葉を疑ったり、「なぜ?」と尋ねようなどとは思いません。確かにこれらの言葉は、論拠を述べずとも、真実それだけでわれわれを強く惹きつけるのです。44. 畏敬の念が魂を制御し、悪徳を抑制するのであれば、どうして忠告も同じことができないでしょうか?またもし叱責が恥の気持ちを喚起するのならば、どうして忠告も、たとえそれが単純なものであっても、同じことができないでしょか?そして忠告は、それを与える際の論拠として、教えたことを行うべき動機と、教えを実践し遵守する者にはいかなる実りがもたらされるかをつけ加えて話すことで、よりいっそう効果的に、心の奥深くに染み込みます。命令が有益であるのなら、忠告も有益です。命令に効果があるのなら、忠告にも効果があります。

 45. 美徳には二つの部分があります。真実についての熟慮と行為です。原理は熟慮を与え、忠告は行為を与えます。そして正しい行いは、美徳を実践し、それを明らかに*32します。しかし行為しようとする者に説得が有益であるなら、忠告も有益です。それゆえ、もし正しい行為が美徳に必要であり、そして、正しい行為は忠告が与えるのであれば、忠告もまた必要なものです。46. 魂には次の二つのことが強力な助けとなります。すなわち、真理への信頼と、自信です。そしてこのどちらも、忠告により得られます。なぜなら、忠告により人は真理を信じ、その信頼から魂は大きな霊験を受けて、自信に満ち溢れるのですから。ですから忠告は、無益なものではありません。

 マルクス・アグリッパ*33は偉大な精神の持ち主であり、国内戦争によって名声と権力を高めた人たちの中で唯一、国家の繁栄の助けとなった人物ですが、彼は次の格言に感謝していると、よく言っていました。「調和があれば小さなものでも大きく成長するが、調和を欠いていれば最大のものも滅び去る。」彼はこの格言のお陰で、自分は最も善き兄弟に、最も善き友人になることができたと言っていました。47. そして、もしこうした類の格言が、魂の中に親密に迎え入れられ、まさにそうした魂を形作るのであれば、そうした格言から成り立つ哲学の(忠告を与える)部門が、どうして同程度の力を持たないことがありましょうか?美徳のある部分は学習に依存し、ある部分は実践に依存します。まず教訓から学習し、次に実践によって学んだことを確かなものにする必要があります。もしそうであるなら、英知の原理が有益であるのみならず、忠告による教えもまた、ある種の指導によってわれわれの感情を抑えたり遠ざけたりすることで、有益なものとなるのです。

 48. 人々は言います。「哲学は次の二つ、知識と心の状態に分けられる。何をなすべきで、何を避けるべきかを知識として学んだ者でも、その心が学んだ内容に相応しく形作られない限り、まだ賢者とは言えない。この第三つまり教化の部分は、他の二つ、原理(に対する知識)と心の状態から成り立つ。したがって、美徳を完成させるために必要ななのはこの二つなのであって、教えの*34部分は必要ない。」49. この意見に基づくと、したがって慰めさえ必要ない、ということになります。つまり、これも他の二つから成り立っているものであり、同じように、励ましも説得も、さらには論証ですらそうなります。なぜなら、論証もまたよく整えられた、確固たる心の状態からもたらされるということですから。しかし、たとえこれらのことが心の健全な状態から生じるのだとしても、これらのことからも心の健全な状態は生じるのです。これら*35は心の健全な状態の結果であると同時に、原因でもあるのです。50. さらに、彼らの言うこと*36は、すでに完成された、人間の幸福の最高点に到達した人についてのことです。しかし、そのような(最高の)状態に到達するまでの道のりは長く、それまでの間は、まだ完全には達していなくとも進歩の途上にある者には、道を示して助けを与える必要があります。英知それ自身は、おそらく忠告がなくとも、この道を自分で自分に示すことができるのでしょう。なぜなら英知はそれ自身の魂を、正しい方向以外には導けないという段階にまで達してるのですから。しかし弱さをまだ持つ人々には、「これは避けよ。」あるいは「これを行え。」と言ってくれる誰かが必要です。51. さらに、もし人が最善の行動指針とは何かを自分だけで理解できるようになるのを待っていたら、それまでの間はしばしば道に迷うことになりますし、道を間違えて、自分自身が満足できたであろう地点に到達することが妨げられます*37。それゆえ、魂は自分で自分を導けるようになる以前は、誰かの導きを受けるべきなのです。子供たちは指導に従って、勉強します。彼らの指は、文字の輪郭を辿ることができるよう、誰かの手に包まれて、導かれます。次に、手本を真似て、それに従って字の書き方を身に着けることを教えられます。同じように、心も指導に従って教えを受け入れてるときには、助けを得ているのです。52. こうした事実から、哲学のこの部門が無益ではないことが証明されます。

 次に生じる問題は、哲学のこの(忠告を与える)部門だけで、人を賢者にするには十分か、ということです。この問題については、別の機会に論じることにしましょう*38。しかし今のところは、議論を省略したとしても、世間一般に言われることとは正反対の教えを与えてくれる指導者をわれわれが必要としていることは、明らかではないでしょうか*3953. われわれの耳に入る言葉で、われわれを害さないものは一つもありません。幸福の願いも不幸の願いも、共にわれわれを害します。敵対者による悪意の呪いは、われわれに間違いの恐怖を植え付けます。そして友人らの祈りは、彼らの愛情に基づく願いがわれわれを間違えさせます。なぜなら、彼らの愛情は、われわれが家の中で幸福を見つけることが出来る時でも、不確かで移ろいやすい幸福を、外に求めるよう促すのですから。54. 僕は言います、われわれは真っ直ぐな道を進むことを許されていない、と。われわれの両親やわれわれの奴隷が、間違った道へと引き込むのです。過ちを自分のみで済ませる者はいません。誰もが愚かさを他人へと振り撒き、自分でも再びそれを受け取ります。このため、個人の中に大衆の悪徳が現れます。大衆がそれを、個人に与えたのですから。人は誰しも、他人を堕落させることで、自分自身も堕落します。悪徳を受け取った人は、それを誰かに与えます。こうしたことの結果、巨大な悪の塊が作られます。個人個人の最悪の部分が集まって、一つの巨悪となったのです。

 55. ですからわれわれには、絶えず耳を引っ張り、噂話を追い払い、民衆の熱狂に異を唱える監視人が必要です。というのも、われわれの悪徳が生まれつきわれわれに備わっていると考えるのは、間違いですから。それは外からやって来て、われわれに積み上げられるのです。ですから頻繁に忠告を受けることで、われわれの周囲で鳴り響く戯言を追い払わねばなりません。56. 自然はわれわれを、いかなる悪徳とも結びつけません。自然はわれわれを、健全で自由な存在として生みました。自然は、われわれの内なる貪欲を刺激するようなものを何も、われわれの眼前には置きませんでした。自然はわれわれの足の下に金や銀を置き、われわれを踏みつけ、抑えつける原因となるもの全てを、われわれが足で踏みつけ、抑えつけられるようにしました。自然はわれわれが眼を天空に向け、その輝かしく素晴らしい御業を、畏敬をもって眺めることを望みます。自然はわれわれに、日の出や日の入りを、昼は地上の様子を、夜は宇宙の様子を明らかにする宇宙の素早い回転運動を、そして全宇宙に比べたら緩やかではあっても、軌道の大きさを観察するに、それ自身決して遅くはない速度で進み行く星々の運行を、眺められるようにしました。また自然は、互いに対立する日と月の蝕*40といった現象なども見せてくれます。これらの現象は規則的にあるいは突発的な原因でわれわれの視界に飛び込み、驚嘆に値するものを示します。たとえば、夜の筋状の火や*41や、衝撃や轟音を伴わない広い空の電光や、柱は梁といった様々な形をとる炎の現象などです。57. 自然はこれらすべてを、われわれの頭上を通り過ぎるようにしました。しかし金や銀、そしてそれらのために決して平和をもたらすことのない鉄は*42、あたかもわれわれの手に委ねるのは悪いことであるかのように、隠しておきました。それらを巡る争いのために、それらを明るい地上へと掘り起こしたのはわれわれ自身です。それらを覆っている土壌を引き裂いて、われわれが引き裂かれる原因や道具を生み出したのはわれわれ自身です。われわれは自分たちの災いを運命のせいにしますが、かつては地の底に埋まっていたようなものを最も崇高なものと考えて恥じることもないのは、われわれ自身なのです。58. 君の目を欺くそれらの金属の輝きが、いかに偽りのものかを知りたいとお思いですか?実に長い間、もとにあった泥の中に沈み、それらに押し包まれてきたこれら地下の物体ほど、汚れた、厭わしいものがあるでしょうか?それも当然です。それらは長く暗い坑道を通って運び出されるのですから。鉱石から精製と分離の途中にある金属の姿ほど、醜いものもありません。さらに、地の底の鉱石を扱い、それらの精錬に従事しているあれらの坑夫たちに目を向けてみると、彼らはどれだけ煤まみれになっていることでしょう!59. しかし、それらの金属の労務者よりも、所有者のほうが汚れています。それらは肉体以上に、魂を汚すものですから。

 ですから、われわれが忠告を受けること、正しい心の監督者を持ち、あらゆるどよめきと虚偽の喧騒の中で、ただ一つの声を聞くことは、必要不可欠なのです。それはどのような声でしょう?それはもちろん、野心の騒ぎ立てる声に耳を聾されている君に、次のような健全な言葉をささやいてくれる声です。60. 人々が偉大で幸運だという人を、君が羨む必要はありません。君の精神の平静で正常な状態を、拍手喝采に乱される必要もありません。紫の高官服を着て権威の斧*43の後を行く人を目にしても、君は自分の冷静な心に嫌悪感を抱く必要はないし、君を道から追い出す高官の方が、先払い*44によって道から追い出される君よりも、幸福であると考える必要もありません。もし君が有益で、誰にとっても害にならない権力を行使したいと思うなら、君自身の悪徳を取り除いて下さい。61. 数多くの人物が、都市に火を放ち、何百年も難攻不落であり、何世代にもわたって安全であった要塞を攻略し、包囲している砦と同じ高さの土塁を築き、驚くほどの高さにまで築き上げられた城壁を、破壁鎚や攻城兵器で破壊してきました。また数多くの人物が、前方に縦隊を送り、敵の背後に激しく迫り、滅ぼした諸部族の血に染まりながら大海にまで手を伸ばしました。しかし、それらの人々でさえ、敵を征服する以前に、すでに自分自身の貪欲に征服されているのです。誰も彼らの攻撃に耐えられませんでしたが、その彼らのうち誰も、自分自身の権力への欲望と残虐行為への衝動に耐えられませんでした。彼らは他者を追い立てているように見えて、自分が追い立てられていたのです。62. アレクサンドロス大王は他国を奪いたいという狂った欲望に追い立てられて、未開の国へとつき進みました。この男は信じ難いことに、自分が教育を受けた地であるギリシャを破壊することから始めました。スパルタには隷属を命じ、アテナイには沈黙を命じ、各国の最も大切なものを奪いました。かつて父王のフィリップスが征服したり買収した全ての都市を破壊するだけでは満足でず、様々な国を様々な土地で打ち壊し、世界中に武器を持ち運びました。彼の残虐さは限界を越えても、決して止むことはありませんでした。飢えが必要とするより、はるかに激しく獲物を貪る野獣のように。63. 彼は今や、多くの王国を一つに統合しました。今やギリシャ人もペルシャ人も、同じ主君を恐れるようになりました。今やダレイオスから解放されていた諸民族も、再び軛に繋がれることになりました。それでもなおアレクサンドロスは、かつてヘラクレスやリベルが辿った勝利の道*45を変更するのは恥ずべきことだと考え、大海も太陽も超えて進み、自然そのものへと暴力を加えんとしました。彼は進むことを望んだのではなく、留まることができなかっただけです。彼は真っ逆さまに落ちる重りと同じようなもので、底で横たわるまで、その動きが終わることはありません。

 64. グエナウス・ポンペイウスを対外戦争や内戦に駆り立てたのも、美徳や理性ではなく、偽りの栄光に対する気狂いじみた執着心でした。ある時はヒスパニアでセルトリウス*46を攻め立て、ある時は海賊を縛り付けて海を制圧するために、進軍しました。これらはどれも、彼の権力を拡大するための口実でした。65. 何が彼をアフリカに、北方に、ミトリダテス*47との戦争に、アルメニアに、アジアの全域に引き込んだのでしょうか?もちろんそれは、より他者より抜きん出たいという、彼の底無しの野心でした。彼は自分自身では、自分を偉大だとは思えなかったのです。そして何がガイウス・カエサルを、己自身と国家の破滅へと引き込んだのでしょうか?それは栄光であり野心であり、他者より上に立つことに限度を設けなかったことです。国家は自らの頂点に二人の人物が立つことを許していたのに*48、彼は誰一人、自分に並んで立つものを許しませんでした。66. ガイウス・マリウス*49は一度だけ執政官を務めましたが―—彼が正式にこの職を受けたのは一度だけで、その他は奪ったものでしたから―—、彼がテウトニー族やキンブリー族を倒していた時、あるいはユグルタ*50を追ってアフリカの砂漠を進軍していた時、美徳に促されてこれらの危険に立ち向かったのだと思いますか?マリウスが率いていたのは軍隊でしたが、マリウスを率いていたのは野心でした。

 67. これらのような人物が全世界をかき乱していた時、彼ら自身もかき乱されていたのです。自らが捉えたものと一緒に湧き上がる竜巻のように、最初に彼ら自身の中で渦が育ち、そこから制御不能なより大きな力となってつき進むのです。ですから彼らは多くの他者に破壊をもたらした後に、他者を引き回したその破壊的な力を、彼ら自身が感じることになります。他人を不幸にしたおかげで幸福になれるなどと、決して信じる訳にはいきません。68. われわれの目に押し付けられ耳に流し込まれるこれらの事例*51は、すべてその中身を正しく精査せねばなりません。われわれの心は悪しき噂話で一杯なので、それらを掃き出さねばなりません。それらが占有していた場所に、美徳が入り込まねばなりません。その美徳は、真実に反する虚偽や俗見を根絶やしにし、われわれが絶大な信頼を置いている大衆からわれわれを引き離し、健全な思考を取り戻すことを可能としてくれます。つまりこれこそ英知であり、自然への回帰であり、大衆の誤りによって奪われていた元の健全な状態を取り戻すことです。69. 健全さの大部分は、あの狂気じみた助言者たちから離れ、互いに有害さをもたらす交わりから遠く離れることにあります。

 僕の言うことがどれほど真実か知りたいのならば、人が大勢の人の前で生活するときと、自分一人だけで生活する時の様子が、どれほど異なるかをご覧になって下さい。一人で閑静に生活することは、それだけで正しい生き方を教えてくれる訳ではなく、田舎で生活することは、それだけで質素な生き方を教えてくれる訳ではありませんが、それでも観衆や見物人がいなくなると、見せびらかすことや自己顕示を目当てに肥大する悪癖は消え去ります。70. 誰に見せるでもないのに、紫の高官服を着る人がいるでしょうか?一人で食事をするのに、金の器を使う人がいるでしょうか?田舎の木の陰に横たわりながら、一人で贅沢の絢爛を誰かに見せつける人がいるでしょうか?自分自身に見せるために、あるいは少数の友人や家族に見せるためだけに、自分を飾り立てる者はいません。そうではなく人は、喝采する群衆の数に応じて、自分の悪徳を並べ立てて広げるのです。71. そいうものなのです。われわれのあらゆる狂気の弱点を突くのは、観客や加担者たちです。見せびらかすのをやめさえすれば、貪欲も収まります。野心や贅沢や放蕩は、好き勝手するための舞台を必要とします。舞台から降りることを望めば、これらの病は全て治ることでしょう。

 72. ですから、もしわれわれが都会の喧騒の中で生活しているなら、側に忠告者がいなければなりません。人々が、莫大な収入を持つ人を称賛する時には、忠告者は彼らに反対して、わずかな財産でも十分に豊かな人や、富の活用の仕方で自分を評価する人を、賞賛して欲しいと思います。人々が影響力や権力を持て囃す時には、忠告者は彼らに反対して、学問に専心する閑暇と、外のものを離れて自己自身に専心する魂とを、推賞して欲しいと思います。73. 忠告者が糾弾すべき人々とは、世間一般から見れば幸福でも、人から羨まれるその権力の高みに慄き、狼狽え、自分自身について他人から思われるのとは別様に思っている人たちです。なぜなら、他人には高いように思われても、彼らにとっては絶壁なのですから。ですから彼らはその偉大さゆえの高みから見下ろすたびに恐れ慄き、身震いするのです。というのもそこには様々な種類の墜落があり、頂上が最も滑落の危険が高いことを、彼らは知っているのです。74. そして、彼らは自分たちが熱心にやってきたことを恐れ、他人に彼らを重くのしかからせた幸運が、今度は彼ら自身の上に重くのしかかります。次に彼らは不安のない閑暇と孤独な生活を賛美します。彼らは今の華やかさを憎み、今なおのしかかっている運命から逃れようとします。そしてついには恐れに駆られて哲学を学び、悲惨な運命から、健全な忠告を求めるようになるでしょう。つまり、これら二つのもの、つまり幸運と善い精神は、互いに反対に立っているのです。ですからわれわれは、不幸に中にあってこそ、より賢明になるのです。幸運は正しさを奪います。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 94 - Wikisource, the free online library

・解説

 個別の教えは哲学において、決して無益ではないといこと。具体と抽象の関係のように、互いが互いを補う合うことで、よりいっそう理解が深まる、といった所だと思う。「教え〔具体〕」と対になる「基本原理〔抽象〕」については、書簡95で詳しく述べられる。こちらも長い書簡になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:個別の事柄においてどう振舞うべきかを具体的に教えるもの。書簡94でのメインテーマ。これに対し全体を貫く普遍的な原則の有用性を扱うのが書簡95となる。セネカはそれぞれの書簡で、それぞれ有用であることを述べていく。

*2:「他の諸部門」とは具体的な教えではなく普遍的な心構えを説くもの。例えば「人は美徳だけで幸福には十分だ」といったもの。

*3:キオスのアリストーン。ゼノンの弟子。美徳のみを至上の善と考えた。書簡36,書簡89参照。

*4:すなわち、美徳のみが唯一の善であり、その心構えが説かれれば個別の忠告はおばあちゃんのアドバイス程度の価値しかないというのが、アリストーンの考え。

*5:つまり個別の教えの例え

*6:ゼノンの弟子。ストア派の第二代目学頭。

*7:個別に教えを与えること

*8:ここから6段落(5~17節)、アリストーンの考えが続く。全て「」で括ってある。

*9:「長引く」=「慢性化する」=「小さな苦痛で済む」。「長引かない」=「甚急性である」=「死ぬ」=「もはや苦痛を感じない」ので、どちらにせよ苦痛とは些細なものである、というたびたび登場するセネカの主張。

*10:書簡88の「最も愚劣で恥ずべき連中が教師をしている。」という表現から、「愚かな教師が恥知らずにも偉大な哲学者の言葉が書かれた教科書を使って講釈を垂れている」=「自分では実践できずにいることを教えている」という風に解釈した。ラテン語に自信がある人は、各自で訳してみて欲しい。日本語三訳の訳は以下の通り。
 ・道徳書簡集:偉い学者さんたちの自慢げに言い触らしているご意見の数々が、生徒用の教科書の中に載っている。
 ・倫理書簡集(セネカ哲学全集6巻):哲学者たちが太い眉毛を吊り上げて弁じ立てていることは子供たちの習字のお手本に出ていることが分かるだろう。
 ・ルキリウスへの手紙:哲学者がえらそうにふんぞりかえって訓示をたれている。またかれらの教えが、書法のモデルとして壁にはられていたりする。

*11:つまり証明のための論拠が、証明しようとする内容そのものよりも力を持ち、

*12:つまり明確・確実にするための境界。英訳「define」は日本語だと表現が色々あって難しい。

*13:古代医学の四体液説では、狂気つまり躁鬱症の原因は胆汁の汚れであると考えられていた。シュタイナーの唱える四気質の一つにも胆汁質があるが、おそらく古代のこの身体観が由来で、あらゆる意味で正しい見解だったのだろう。

*14:アリストーンの言う視力についての喩えは心には当てはまらないという、セネカが好む「喩えの飛躍の誤謬の指摘」。

*15:前述の狂気と喩えると分かりやすいか。狂気を取り除くのに必要なのは個別の教えではなく基本原理。

*16:アリストーンらの

*17:アリストーンら

*18:アリストーンら

*19:アリストーンら

*20:カルウィスは前82~47のローマの雄弁家で、カエサルの子分ウァティーニウスの贈賄を糾弾した。前55年、法務官の選挙でカトーは落選し、ウァティーニウスが賄賂によって当選した。ウァティーニウスについてセネカは「賢者の恒心について」17.3「摂理について」3.14でも非難している。

*21:ルキリウスというよりかは、アリストーンらや読者のわれわれに対しての言葉。

*22:つまりアリストーンらの言うような「証明」をいちいち必要とするだろうか?という意味。

*23:前1世紀のローマの国民劇作家プブリウス・シルスの格言250。プブリウスについてはセネカ書簡8でも取りあげ、喜劇作家ではあってもわれわれがその格言から間学ぶべき点は大きいと述べている。

*24:「アエネイアス」10.248

*25:あらゆる教育法を廃止するという

*26:アリストーンら

*27:教えが自然の法則を与えるから。

*28:アリストーンら

*29:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33,書簡78,書簡87,書簡88,書簡90,書簡92参照。

*30:プラトンの『法律』の第四巻末には、法律には序文が必要であると述べられており、法律は強制だが、序文は説得(教え)であると続く。

*31:ソクラテスの弟子の一人。プラトンの「パイドン~魂について~」が有名で、自らも対話篇を書いた。

*32:熟慮に相応しいものに

*33:前62頃~12。ローマの将軍で、アウグストゥスの腹心として、多くの公共事業を指揮するなどして活躍した。セネカが後述する国家の助けとは、おそらくはそれらの公共事業のこと。

*34:教化の

*35:忠告や励ましや説得やよく整えられた論証。

*36:アリストーンらの言う、善い心の状態を備えた者は、忠告を必要としないということ。

*37:「最善の状態」に一人で自然に到達できるだろうなどと呑気に構えていると、適切な忠告を受け取る機会を失って、かえって以前より道に迷うことになるだろう、という意味。

*38:次の書簡95で、基本原理について論じられる。

*39:忠告だけで賢者になれるかは差し置いても、俗見から目を醒まさせてくれるような忠告を与える指導者が、われわれには必要だということ。

*40:日食と月食

*41:オーロラのことか

*42:金や銀を得るために、鉄製の武器で争い合うということ。

*43:束ねた棒の中央に斧を入れて縛ったローマ時代の一種の権威の標章。

*44:リクトルという執政官などの高官の先駆で、前述の「権威の斧」を持って先駆けをした。

*45:ヘラクレスフェニキアの海岸テュロスから大西洋まで。リベルはインドからギリシャまでを通った。

*46:前76年のこと。セルトリウスはローマ共和制末期の将軍で、ヒスパニアの総督の立場を追放されてアフリカに戻ったが、再びヒスパニアに戻った。

*47:黒海南岸ポントゥス国の王ミトリダテス六世はローマと激しく戦い、ポンペイウスに敗れて自殺した。

*48:執政官は二人なので

*49:前157~86のローマの軍人、政治家。

*50:アフリカの王国ヌミディアの王。ローマと戦い、前107年にマリウスに降伏し、前104年にマリウスに処刑された。

*51:マリウスらの