徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡89 哲学の各部門について

 1. 君が知りたいと望んでることは、英知に向かって急いでいる人にとって有益な事柄です。すなわち哲学を区分し、その巨体を個々の部門に分割することです。個々の部分を学ぶことで、われわれは全体をより容易に理解できるようになりますから。僕はただ、あたかも天空の広大さ全てがわれわれの眼前に収まるかのように、哲学の総体を眺めることを望むばかりです!それはおそらく、天空の光景とよく似たものでしょう。そうすればきっと、全ての人々が哲学への愛に燃え、偉大さとは何かについて無知であるために、われわれが偉大だと信じている全てのものを放棄したことでしょう。しかし、そんなことは起こりそうにありませんから、われわれは天空の秘密を読み解く時と同じように、哲学について考察しましょう。

 2. 確かに賢者の精神は哲学の枠組み全体を包括し、われわれの視力が天空を眺め渡すのと同じくらいの速さで、哲学を概観します。しかし、暗闇を通り抜けなければならず、近くのものさえ正しく眺めることのできないわれわれは、宇宙の全貌を理解することはできないので、それぞれの部分を個別に示される方が、より容易に理解することができます。ですから僕は、君の求めに応じて哲学を部分に分割します、ただし断片ではなく。というのも、哲学は分割すべきですが、(あまりに細かい)断片にすべきではありませんから*1。大きすぎるものと同じように、小さすぎるものも掴むことはできません。3. 人々は民族で区別され、軍も部隊で区別されます。より大きく成長したものは、部分に分割することで、認識することが容易になります。しかし、僕が言ったように、数が多すぎても、破片が小さすぎてもいけません。過度に細かく分類するのは、全く分類しないことと同じ欠陥を持ちます。塵になるほど細かく切り刻むのは、再び混ぜ合わせて一塊にするのと同じです。

 4. したがって、君が賛同して下さるなら、まず第一に英知と哲学を区分しようと思います。英知は人の精神の完全な善です。哲学は英知への愛であり、それを獲得するための努力です。哲学は、英知が既に達成した目標へと向かって奮闘します。これが、哲学がそのように呼ばれるゆえんです。「哲学」はまさにその名称により、自身が愛する対象を表しています*25. 或る人々は哲学を、神的なものと人間的なものについての知識、と定義しました。また或る人々は。「神的なものと人間的なもの、またそれらの原因についての知識」と言いました*3。神的なものと人間的なものの原因は、神的なものの一部なので、この箇所をつけ加えるのは余計なことだと、僕には思われます。哲学は他にも様々な形で定義されています。或る人々はそれを「徳の勉強*4」だと言い、別の或る人々はそれを「精神を矯正する勉強法」だと言い、また別の或る人々はそれを、「正しい理性の探究」と言いました。6. 哲学と英知の間に何らかの違いがあることは、おおむね確かです。探究する側とされる側が同じであるということは、あり得ませんから。貪欲と金銭の間には大きな違いがあり、前者が望む側であり、後者が望まれる側であるのと同じように、哲学と英知の間にも大きな違いがあります。つまり後者は前者の目的であり、報酬です。哲学は道を行き、道の行き先が英知です。7. 英知は、ギリシャ人がσοφίαソフィアと呼ぶものです。この言葉はかつてローマ人にも同じように使われ、今では「哲学フィロソフィー」という言葉の中で用いられています。このことは、昔のローマの国民劇や、ドッセンヌス*5の墓に刻まれた次の碑文によって、君にお示しすることができるでしょう。

旅の方よ、立ち止まってドッセンヌスのソフィアをお読みなさい*6

 8. われわれの学派の或る人々は、たとえ哲学が「徳の勉強」であり、徳は求められる側で、哲学は求める側であったとしても、この二つは切って区分することができないと主張します。なぜなら、哲学は徳なしには存在し得ず、徳なしには哲学は存在し得ないからです。哲学は徳の勉強ですが、徳そのものによる勉強です。しかし、徳も徳自体についての勉強がなければあり得ず、徳の勉強も徳自体がなければあり得ません。なぜならこれは、互いに離れた所にあるものが、一方は撃つ側、他方は撃たれる側と分かれている場合とは異なるからです。また、ある都市へと通じる道のように、徳への道も徳それ自体の外にある、といったものでもありません。人は徳それ自体によって、徳へと導かれるのです。哲学と徳は、互いに密接に結びついています。

 9. 最も偉大な、また最も多数の哲学者たちは、哲学には倫理学、自然学、論理学の三つの部門があると主張しています。一つ目の倫理学は魂を整えます。二つ目の自然学は、自然界を探究します。三つ目の論理学は、言葉の本質とその組み合わせ、そして虚偽が忍び込んで真実を覆い隠すことを防ぐための論証を考察します。しかし、これより少なく哲学を分割する人もいれば、多く分割する人もいます。10. ペリパトス派の或る学者たちは、四つ目の部門として「政治学」を加えました。これはそれ自体で別個の活動を必要とする、独自の題材を扱うものだからです。ギリシャ語で「οἰκονομίαオイコノミケー(家政学)」と呼ばれる、家庭を管理する学問をもう一つの部門として加えた人もいます。さらに、様々な種類の生活様式に、各々の部門を割り当てた人々もいます*7。しかし、これらの下位の区分のどれとして、哲学の「倫理学」の部門に含まれないものはありません*8

 11. エピクロス学派は、哲学には倫理学と自然学という二つの部門があると考え、論理学の分枝は取り去りました。その後、事実それ自体に余儀なくされて、曖昧な概念を区別し、真実の覆いの下に隠れている誤謬を暴露することになったとき、彼ら自身が「法則と基準に関するもの」と呼ぶ、他の学派には単に「論理学」と呼ばれるものを導入しました。もっとも、彼らはこの部門を「自然学」の部門の付属品だと主張します。12. キュレネ学派*9は論理学の部門だけでなく自然学も取り払って、倫理学だけでよしとしました。しかし、この哲学者たちも、自分達が拒否したものを、別の名称をつけて取り入れました。つまり倫理学を五つの部門に分け、第一を割くべきものと求むべきものについて、第二を感情について、第三を行為について、第四を原因について、第五を論証について、としました。13. キオスのアリストーン*10は、自然学と論理学の部分を余分なものだといい、それらは互いに矛盾すらしていると言いました。彼は唯一残った「倫理学」にも制限を加えました。つまり彼は、忠告を含む箇所を除外し、それは教育者の仕事であり哲学者の仕事ではないと言いました。まるで賢者が、人類の教育者以外の何かででもあるかのように*11

 14. したがって、哲学は三つの部門から成り立っているとして、まず倫理学の部門から整理していきましょう。この部門はさらに三つの部分に区分することが認められてきました。第一は、各々のものごとに特質を割り当て、その各々の価値を比較検討する、判断力の部分であり、これらは最も有益なものです。というのも、あらゆるものに適切な価値を与えることほど、大切なことがあるでしょうか。第二は衝動に関する部分で、第三は行為に関する部分です。つまり最初に、物事の価値を個別に判断する部分があり、次に、それらの物事に際して、衝動を制御して秩序を与え、最後に衝動と行為を一致させ、それらの全てにおいて自らと調和させるのです。15. これら三つのうちどれか一つにでも欠陥があると、残りの部分にも混乱をきたします。なぜなら、もし君の衝動が他よりも度を越していたら、あらゆるものを個々に適切な価値で判断することに、何の意味があるでしょう?またもし君が或る行為にあたって、適切な時期や好機を知らず、いつどこで、どのように行えばよいか分からなければ、衝動を抑え、欲望を制御したとしても、何の意味があるでしょうか?ものごとの価値を判断することや長所を理解し、行為すべき適切な時を知っていること。衝動を抑え、突進するのではなく進むこと。これらは別個に必要なことです。したがって、行為が衝動を見捨てることなく*12、また各々の状況において対象の価値からその衝動が生まれ*13、その引き起こす対象に応じて行為が穏やかになったり、激しくなったりする場合のみ*14、生はそれ自らと調和するのです。

 16. 哲学の自然学の部門は、物体的な部分と非物体的な部分の二つに区分されます。この二つはそれぞれの、言わば諸段階に分けられます。物体についてはまず、作る側と作られる側の二つの段階に分けられます。作られる側は元素です。そして、或る学者たちはまさに元素それ自体は単一のものであると言い、或る学者たちは(元素からなる)物質と、(元素を動かす)原因と、元素そのものに区分されると言います*15

 17. 最後に残っているのは、哲学の論理学の部門を区分することです。さて、全ての言論は、連続しているか、問う者と答える者に分かれているかのいずれかです。前者を弁論術と呼び、後者を問答法と呼ぶ決まりがあります。弁論術は言葉と意味と配置を扱います。問答法は二つの部分、つまり言葉とその意味に分けられます。つまり、語られる内容(意味)と、語るために使用する言葉とにです。さらに、この二つを細かく分類すると、果てしなく膨大なものになります。ですから僕は、このあたりで止めておいて、

物語の最高潮を探しましょう*16

というのも、もし僕がどこまでも細分化することに関心を持ったりしたら、僕の手紙は巨大な研究冊子になってしまうでしょうから!18. 優れたるルキリウス君、君がこのようなものを読むことを僕は妨げはしません。もし君がそれら全てを直ちに、実際の行為に結びつけることができるのであればですが。

 君は自らの行為をこそ、制御せねばなりません。君の中の怠慢は奮い正し、弛緩したものを引き締め、強情さを屈服させ、君自身や他人の欲望をできる限り打ち負かさねばなりません。そして、「いつまで同じ話ばかり続けるのか?」と言う人々には、次のように答えねばなりません。19. 「私は君たちにこう問うべきだった。『いつまで同じ過ちばかり犯し続けるのか?』と。」君たちは本当に、悪徳を止めるよりも先に、僕のこの治療を止めることをの望むのですか?しかし僕はこの治療法を、ますます沢山語りますし、君たちが反対するからこそ、話し続けるでしょう。病気で無感覚になっていた身体が触れられて痛みを感じるようになった時、薬は効き始めるのです。僕は人々の意に反してでも、彼らの助けとなる言葉を発しましょう。君たちは時には、お世辞以外の言葉にも耳を傾けねばなりません。また真実を個人で聞くことに堪えられなければ、集団で聞いて下さい。20. 君たちは自分の土地資産の境界を、どこまで広げようというのですか?一国を養った土地も、一人の主人には狭すぎるというのです。君たちは耕地を、どこまで広げようというのですか?農場の領地を属州の範囲内に収めることにすら満足できない君たちは。君たちの私有地には、高名な河川が流れています。強大な諸民族の境界線となる大きな流れが、水源から河口まで、君たちの支配下にあります。次のものどもも、その全ての海域を領地として囲わない限り、君たちには小さすぎるのでしょう。すなわちアドリア海の、イオニア海の、エーゲ海の彼方を越えて、君たちの農場管理人が支配力を持たない限り。名高い英雄たちの故郷である島々が、最も安価な君たちの所有物とならない限り。かつては王国と呼ばれていた土地を「農場」と呼び、君たちは好きなだけそれを広げるとよいでしょう!他の人よりももっと多くが欲しいのであれば、何でも好きなだけ自分のものにするとよいでしょう!

 21. さて今度は、僕が述べた人たちの貪欲と同じくらい、贅沢を広げた君たちに語ります。僕は君たちに次のように言います。「君たちの悪習は、君たちの別荘の棟が建たない湖がなくなるまで続くのか?それとも君たちの屋敷の立ち並ばない川がなくなるまでか?温泉の水脈が湧き出るところはどこであれ、新たに贅沢な宿屋が立てられるだろう。海岸が湾に曲がり込むところ(入り江)にはどこであれ、君たちは直ちに土台を築いて、人工的に作られた土地以外には満足しないので、海を自分の領地に引き入れるのだ。あらゆる場所で君たちの家々の屋根が太陽に照らされて輝き、あるいは陸や海を広く眺め渡す山の頂に建てられ、あるいは平地から山の高さにまで建てられるだろう。君たちは沢山の、また巨大な建造物を作るだろう。しかしそれでも君たちは各々一つの肉体しか持たない、ちっぽけな存在に過ぎない!沢山の寝室を持つことに、何の意味があるだろう?休むのは一つの寝室に過ぎない。君たちがいない場所はどこも、君たちのものではない。」22. 「さて次は君たちに移ろう。君たちは、底なしの飽くことを知らない胃袋を持ち、こちらでは海を、あちらでは陸を探し回り、ある時は釣り針で、ある時は罠で、またある時は多種多様な網を用いて、獲物を捕らえるのに多大な労力を費やす。君たちがそれに飽き飽きしない限り、どんな動物にも平和はない。そして、多くの人達の手によって君たちのために用意され、快楽で疲れ果てた君たちの舌が味わう宴会の御馳走は、どれほど少量であることだろう!危険を冒して捕えられた野獣を、食べ過ぎで胃袋が吐き気を催してる主人が喜んで味わうのは、どれほど少量であることだろう!遠方から輸入されたあれら多くの紫貝のうち、あの飽くことを知らない食道を滑り落ちるのは、どれほど少量であることだろう!哀れな者たちよ、君たちは自分の腹よりも食欲のほうが大きいと、理解できないのだろうか?」

 23. 君は他の人々に、これらのように言って下さい。ただし、言いながら聞くこともできるように、書いても下さい。書きながら、読んで下さい。そして君が、書いたり聞いたり読んだりする全てを行為に結び付け、熱情の狂騒を鎮めることに結び付けて下さい。知識をより多くするためにではなく、知識をより善くするために、学んで下さい。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 89 - Wikisource, the free online library

・解説

 哲学は三つの部門「倫理学」「自然学」「論理学」に分割できるということ。セネカの著作も大きく分けると、「倫理書簡集(倫理学)」「自然研究(自然学)」「倫理論集(倫理・論理学)」になっているところが面白い。「恩恵について」や「怒りについて」は個々の事例についての対処法を述べているので、論理学に分類してよいのではないだろうか。

 

 

 

 

*1:過度に細かくして、無益な問答論法に行き着くようであってはならない、ということ。

*2:「フィロソフィー」は「英知を愛すること」という意味。

*3:キケロー「義務について」2.5

*4:初期ストア学派の「ἄσκησις ἀρετῆςアスケーシス・アレテース(徳の訓練)」のこと。

*5:アテッラ喜劇に登場する道化の決まり役。

*6:「ローマ喜劇断片集」ローマ風喜劇作者不詳断片二

*7:職業の技能や音楽や兵法など。

*8:政治学から後の全ての部門は、全て倫理学に含まれるということ。

*9:ソクラテスの弟子アリスティッポスが創立した、小ソクラテス学派の一つ。人生の目的は快楽にあるとした倫理説で、後にエピクロス派に発展した。

*10:ストア派の哲学者で、ゼノンの弟子。書簡36参照。

*11:セネカに言わせれば、哲学者(賢者)は人類の教育者に他ならない、ということ。

*12:行為⇄衝動

*13:衝動⇄判断

*14:判断⇄行為

*15:恐らくこの「原因」が、非物体的な部分か。

*16:「アエネイアス」1.342