徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡106 美徳の実体性について

 1. お手紙への返事が遅れたのは、僕が何かに忙殺されていたからではありません。そうした言い訳には耳を貸さないで下さい。僕には時間がありますし、その気になれば誰でも時間を作れます。用事に追われる人などいません。自分から用事に巻き込まれて、忙しいのが幸福の証であると思い込んでるだけです。それでは、なぜ僕はすぐに返事を書かなかったのでしょうか?君がお尋ねの問題は、僕が執筆中の本の内容と関りのあることでした。2. つまり、君もご存知の通り、僕は倫理哲学の全体を包括し、それに関わりのある全ての問題を解決しようと思っているところです*1。ですから僕は、この問題について論ずるのにふさわしい時期になるまで君に待ってもらうか、それとも順番を飛ばして僕の判断を下すか迷ったのです。しかし、これほど遠くから来た君(の手紙)を待たせない方が、親切だと考えました。3. そこで僕は、この問題を関連する諸問題から抜き出して、また類似の質問についても君からそれがなくとも、僕の方から答えることにしました。

 君がお尋ねの問題とは何でしょう?それを知ることは、有意義であるというよりはむしろ楽しいものです。つまり、君の言うように、善は実体あるものかどうか、という問題です。4. 善は作用を及ぼします。なぜなら善は役に立つのですから。そして作用を及ぼすものは実体のあるものです。善は心を刺激し、形作り、実体性に不可欠なものを要素を取り入れます。実体あるものの善には実体性があります。ですから、心の善にも実体性があります。心もまた実体あるものですから。5. したがって、人間の善は実体性のあるものでなければなりません。人間そのものが実体的ですから。人間を維持し、健康を保ったり回復したりするものに実体がないと言ったら、僕は(先に述べたことに対して)嘘をつくことになります。したがって、人間の善は実体です。怒りや愛着、悲しみといった感情が実体的であることを君は疑わないでしょう(君がお尋ねになっていない質問も議論に加えることを許して欲しいのですが)。これらがわれわれの顔つきを変え、眉をひそませ、頬を緩め、赤面させ、血の気を失わせることを疑ったりしない限りは。それではどうでしょう?このように明らかに実体的なもの*2を引き起こす原因が、実体的なものでないなら何だと言うのでしょう?6. そして、もし感情が実体的なものであるならば、精神の病も同様です。貪欲さ、残忍性、その他のわれわれの精神の中で硬化し、不治の状態へと陥った様々な悪徳も。ですから、憎悪や嫉妬、傲慢といったもろもろの悪意も同様です。7. そしてこれは、善についても同様です。それは第一に、悪と対関係にあるものであり、第二に、善もまた精神に作用を引き起こすものだからです。勇敢さがどれほどの活力を両目に与えるかを、ご存知ありませんか?賢慮がどれほどの注意力を、敬虔さがどれほどの節度と平静さを、喜びがどれほどの朗らかさを、厳格さがどれほどの真剣さを、寛容さがどれほどの穏やかさをもたらすのかを。したがってこれらは全て実体的です。それらは或るものの色調や形状を変化させ、(実体あるものという)自らの範疇において、自らの権能を発揮するのですから。

 され、僕が言及したあらゆる美徳は善であり、それらの結果も同様に善です。8. 触れることができるものは全て実体あるものだということを、君は疑うでしょうか?

実体がなければ、触れることも触れられることも出来ない*3

とルクレ―ティウスが言う通りです。さらに、僕が述べたようなことはいずれも、触れることなしには実体に変化を及ぼし得ないでしょう。それゆえに、それら(善や感情)は実体あるものです。9. さらにまた、動かしたり、強いたり、妨げたり、支配したりする力のあるものは全て実体あるものです。ではどうでしょう!恐怖はわれわれを妨げないでしょうか?大胆さはわれわれを前に動かさないでしょうか?勇敢さはわれわれを鼓舞し、つき動かさないでしょうか?節制はわれわれを制御し、支配しないでしょうか?喜びはわれわれの気分を高揚させないでしょうか?悲しみはわれわれを落胆させないでしょうか?10. つまるところ、われわれが行う全ては悪意か美徳の命令に従ってなされます。実体あるものを制御したり、それに何らかの強制力を及ぼすことができるのは実体あるものだけです。実体あるものの善は実体あるものです。人間の善はその肉体の善と関連したものです。したがって、それは実体的なものです。

 11. さて、僕は君の要望に懇切丁寧に答えたので、次は君が何と言うか、僕に予測させて下さい。「私たちがしているのはボードゲーム*4です!」われわれはこのような余計なことを探究することで精神を擦り減らします。これらはわれわれを小賢しくはしても、善くすることはできません。12. 知恵とはもっと単純なものです。余計なことに労力を費やして哲学そのものを無下にするよりも、精神を向上させるために哲学を用いるほうが遥かに有益であるのは明らかです。われわれは他のあらゆることと同様に、哲学においても、過剰であることに(自ら勝手に)苦しめられるのです。そのように、われわれは人生のためにではなく、学校のために学んでいます。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 106 - Wikisource, the free online library

・解説

 「実体に影響を与えるものが与えるものは実体だけである。ゆえに、人間(という実体)に影響を与えることができるもの(善や感情)は物体である。」という言葉遊び。セネカ自信もふざけて書いているところがあるし、最後の2節では明確に非難もしている。が、前置きがあまりに長い。

他の訳では「実体」は「物体」あるいは「身体」と訳しているが、それだとあまりにおふざけが過ぎる感じがしたので、少しでも何かすごいことを言ってる風を醸し出すためにあえて「実体」と訳した。「実在」とはニュアンスが異なることろがポイントなのだが、割とどうでもいい。この問題も突き詰めれば霊と物質の関係にまで行き着くのだが、それは哲学の範疇を超えているし、セネカも霊について暗に言及はしつつも、前提として明確に論述している所は殆どないし、それは後世のわれわれの仕事だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:散逸したセネカの著作「倫理哲学の書」のこと。

*2:様々な表情

*3:ルクレ―ティウス「事物の本性について」1.304

*4:チェスのようなボードゲーム古代ローマにもあった。意味のある議論ではなく、言葉遊びでゲームのようなものをしているだけだ、という意味。