1. 君がたびたびお手紙をくれることに感謝します。というのも、君は君にできる唯一の方法で、君の本当の姿を僕に明らかにしてくれているのですから。手紙を受け取ると、僕はいつもすぐに君と一緒にいるような気持ちになります。不在の友人を心に思い浮かべることは、たとえそれが、現実のものでなく実体を伴わない慰めによって、記憶を呼び起こし寂しさを軽くするだけのものだとしても、われわれに喜びをもたらします。であれば、手紙によって、不在の友人の実際の足跡、実際の状況を知ることができるのは、どれほど大きな喜びでしょう!実際、面と向かって会う時にわれわれが最も嬉しく思うものを、友人の手によって手紙に添えられた印象が与えてくれるからです―—つまり、まさにこの人だと認識することです。
2. 君は哲学者のセラピオ*1が君の今住んでいるところに上陸した時、その講義を聞いたと手紙に書いてくれました。「彼は常に」君は言います。「すごい勢いで言葉を吐き出しています。言葉を一つ一つ流れ出るようにするのではなく、かき集めてぶちまけます。というのも、そもそも語る言葉があまりに多く、一声だけでそれらを発するには不十分だからです。」僕は哲学者にこうしたことを認めません。話し方は、その人の人生と同じように組み立てるべきです。そして、落ち着きなくまくしたてる性急な人には、整ったところは何もありません。ですからホメロスでも、猛吹雪のように絶え間なく降りしきる性急な話し方は若い英雄に割り当てられ、老英雄からは蜂蜜よりも甘い、穏やかな雄弁が流れ出ます。
3. ですから、次の僕の言葉を心に留めて下さい。性急で多言を要する、かの乱暴な話し方は、重要で真剣な問題について議論したり教えたりする人よりも、むしろ詐欺師にふさわしいものです。しかし僕は、あまりに急いで話すのと同様、言葉を垂れ流すことにも強く反対します。耳を塞いだり、引っ張って伸ばしたりしなくてはいけません*2。実際、言葉に乏しく、内容も薄っぺらい話を、つかえながらされては聴衆もうんざりし、興味をなくすでしょうから。それでも、どちらがより容易に受け入れられるかというと、足早に通り過ぎていく言葉よりかは、長い間人を待たせる言葉です。つまるところ、「与える」とは弟子に教えを伝えることですが、逃げ去るものを「与える」ことはできません。4. さらには、真理について語る際は、飾り気がなく単純でなければなりません。かの通俗的は話し方*3は、真理には何ら関係はありません。その目的は群衆を扇動し、その性急さそのもので無思慮な耳を恍惚とさせることです。それは自らを議論の対象とすることをせず、むしろ議論から遠ざかります*4。しかし、自身を適切に統治することもできない談話が、どうして他者を統治することができるでしょう?われわれの心を癒すために用いられる全ての言葉は、われわれの心に深く染み込むべきだと言うには及ばないのでしょうか?薬は奥深くに留まらないと効きません。
5. その上、かの通俗的な話し方には、多くの無駄が含まれています。そこにあるのは力強さというよりむしろ騒音です。僕の恐怖は鎮められ、怒りはなだめられ、迷妄は振り払われ、贅沢は抑えられ、貪欲は叱責されねばなりません。これらの治療の内、急いで済ますことができるものがあるでしょうか?通りすがりに患者を治療できる医者がいるでしょうか?さらに、かの倒錯した不適切な言葉もまた、有益なものとはなりません。6. しかし、大抵の場合、不可能に思えた仕掛けも一度目にすれば満足するように*5、これらの言葉の訓練をしてきた人たちの話し方ついても、一度耳にすればもう十分です。人々は彼らから何を学びたいと、あるいは真似たいと思うでしょう?彼らの言葉が完全に無秩序の中に陥り、手に負えないものとなった時、彼らは自身の魂についてどう思うでしょうか?7. 坂を駆け降りる時、止まるべき点で止まることはできず、足は体の勢いによって運ばれ、止まろうと思っていた地点を越えて放り出されてしまうように、かの急いた話し方も自分自身を制御することはできず、哲学と見做されることもありません。哲学は言葉を投げ出すのではなく、丁寧に配置し、一歩一歩進んでいくべきだからです。
8. 「それでは」君は言われる。「哲学は時に調子を高めて話すことはありませんか?」もちろんそのようにすべきです。しかし、その崇高さは保たれるべきで、これはかの乱暴で過激な話し方によっては剥ぎ取られてしまいます。哲学は大きな力を持ちますが、それを見事に制御します。その流れは絶え間ないものであっても、激流になることはありません。そして僕は、弁論家にすら、このように呼び戻すことの叶わない、無法に進む早さで話すことを許しはしません。しばしば未熟で経験も浅い判事が、どうやってそれに追いつくことができるでしょうか?弁論家は、たとえ自分の才を誇示したいという欲求や制御の利かない感情に捉われても、口調を早めたり、耳に耐えないほど言葉を積み上げたりするべきではありません。
9. したがって、どのように語るかよりも、どれだけ多くを語るかを考える連中を君が認めないなら、それは正しいことです。そして、必要に応じて、君がプブリウス・ウィキニウス*6のようにどもりながら話すことを選択した場合も。アセニウスはウィキニウスの話し方について尋ねられて答えました。「悠然と!」(一方、ゲミニウス・ヴァリアスは次のように言いました。「どうしてあの男が『雄弁』と呼ばれているのか分からない。彼は三つの言葉すら満足につなぐことができない。」)ですから、どうして君がヴィシニウスのように話すことを選択してはいけないでしょうか?10. とはいえもちろん、愚かな者が―—ウィキニウスに対し、言葉を一語一語引き出し、聞かせるというより書き取らせてるのだと言った人物のように―—君の前を横切るかも知れません。「喋ってみろよ、何か話したいことがあるんだろう?」クイントゥス・ハテリウスはその時代*7に最も名の知れた雄弁家でしたが、賢明な人は彼のような早口は避けることがよい選択だというのが僕の意見です。ハテリウスはためらうことも、立ち止まることも決してありませんでした。彼は一度話し始めると、最後まで止まりませんでした。
11. しかしながら、ある特定の話し方が、多かれ少なかれ国柄に相応しいことはあると思います。ギリシャ語では*8自由奔放な話し方は許されますが、われわれローマ人は、書く時ですら、単語を区切ることが習慣になっています。そして、ローマの雄弁術を有名にしたわれらの同胞キケローもまた、ゆっくり話す人物でした。ローマ人の話し方は、自分自身を吟味し、その重みを測り、重みに値するものを提供するものです。12. ファビアヌス*9は、その人生と英知と、それらほど重要でないとしてもその雄弁において、卓越した人物でしたが、議論においては性急というよりは迅速でした。したがって、これは急いているのではなく簡潔に済ませてると言うことができます。僕は賢者のこうした話し方を認めはしますが、そうするよう求めたりはしません。ただ賢者の話が邪魔されることなく進み、話が吐き出されるのではなく、意識して発せられることを望みます。
13. しかし、僕が君をかの病的な話し方*10から遠ざけたい理由は別にあります。つまり、君があのような話し方をするには、謙虚さを捨て、顔からすべての恥をこすり落とし、自分で自分の話を聞くことを拒絶する必要があるからです。その無思慮な奔流には、君が批判したくなるであろう多くのものが含まれるでしょう。14. そして繰り返しますが、君が恥の心を捨てない限り、そのような話し方はできません。さらには、そのような話し方をするには毎日訓練し、語る内容から言葉そのものに関心を移す必要があります*11。しかし言葉とは、たとえそれが何の訓練もなく流れてくるものであっても、うまく制御しなくてはいけません。慎ましい歩き方が哲学者に相応しいように、仰々しさとは程遠い、穏やかな話し方が哲学者には相応しいものです。したがって、僕の意見の最後の要は次の通りです。僕は君に、穏やかに話すよう命じます。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 40 - Wikisource, the free online library
・解説
早口でまくしたてるような恥知らずな話し方は、哲学者にふさわしくないということ。政治家や学校教師やネットの自称知識人や知的キャラを売りにしてるつまらないタレントが、やたらに早口に沢山のことをまくし立ててる姿は本当に醜い。2000年もまえからこうして警告されているのに、いっこうにそうした悪癖が無くならない現代人は本当に情けない…。