徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡68 英知と隠棲について

 1. 僕は君の計画に賛成です。引退して閑暇な生活に身を隠して下さい。しかし同時に、君の引退をも、隠しておきなさい。これを行うにあたり、ストア派の教えにではないとしても、その先例に従うものであることがお分かりになるでしょう。しかし、君は彼らの教えにも従うようになるでしょう。そうすることで、君は自分自身も、ストア派の人々も、満足させることができるでしょう。2. われわれストア派の教えは、いつでも、どこでも、無条件に、公的な生活を勧める訳ではありません。そのうえで、われわれが賢者に、彼に相応しい領域すなわち宇宙を割り当てるのならば、たとえ彼が引退していても、公的な生活から離れることはありません。いえおそらく彼は、その小さな一角のみを放棄し、より偉大で広大な領域へと移ったのです。そして彼は天界に座した時に、自分がかつて座っていた高官椅子や審判の椅子が、いかに低い位置にあったかということを理解するのです。次のことを心に留めておいて下さい。神的な物事と人的な物事が同時に自分の手の届く範囲にある時ほど、賢者が自分の務めに懸命に取り組むことはないということを*1

 3. さて、僕が君に与えようとしていた忠告に話を戻します。君が引退を、人に隠しておくということについてです。「静謐な哲学者」などという称号を、自分につける必要はありません。他の別の称号を、君の目的に沿って与えて下さい。それを体調不良や身体の衰弱、あるいはただの休息とでも呼んで下さい。引退の生活を自慢することは、無意味な虚栄心です。4. 或る動物は、自分の巣穴の周りの足跡を偽装することで、見つからないように隠れます。君も同じようにせねばなりません。そうしないと、君の消息を嗅ぎ回る誰かが、常に存在することでしょう。多くの人は目に見えるものの側は通り過ぎますが、隠れているものや埋まっているものにはじっと目をやります。密閉されたものは、泥棒の心を誘います。開けっ広げのものは、つまらないものに見えます。押し込み強盗は、開け放しの所は通り過ぎます。これが世の流儀であり、全ての無知な人々の流儀です。彼らは隠されたものに押し入ることを望むのです。5. ですから、引退の生活を自慢しないことが最善なのです。しかし、過度に身を隠したり、人々の眼前からあまりに引き下がることも、一種の自慢になります。あの人はタレントゥムに身を隠しました。別のあの人はナポリに引き籠もりました。また別のあの人は何年もの間、自分の家の敷居をまたいでいません。自分の引退を宣言することは、群衆を集めることと同じなのです。6. 君が世間から身を退く時、君がなすべきことは、人々が君について話すようにすることではなく、君が自分自身と話すようにすることなのです。しかし、君は自分と、何を話せばよいでしょう?それは人々が他人について好んでする時のように、自分で自分の悪口を言うことです。そうすれば君は、真実を語ることも、真実に耳を傾けることもできるようになるでしょう。しかし、君が自分の中で最も弱点だと感じるようになった部分について、特に熟慮して下さい。7. 人は誰でも、自分の肉体の欠点についてはよく知っています。そして、ある人は吐くことで胃を楽にし、ある人はよく食べることで胃を支え、ある人は定期的な断食によって、体を空にして浄化します。足に痛風の痛みのある人は、ワインや入浴を控えます。一般に、他のことに関しては無頓着な人物でも、頻繁に襲いかかる病苦を和らげるために、最善を尽くします。われわれの魂にも同じように、特定症状とも言える或るものがあり、これらの部分に治療を施す必要があります。

 8. それでは僕はというと、閑暇にあってどう過ごしているでしょう?僕は自分の潰瘍を治すことを試みています。もし僕が腫れた足や、傷んだ手や、ねじれた脚の萎縮した筋肉を君にお見せしたとしたら、君は僕が一箇所に穏やかに横たわって、病気の部位に治療を施すことを許して下さるでしょう。しかし僕の欠陥はこれらのどれよりも深刻で、その上君にお見せすることができないのです。膿瘍、ないし潰瘍が、僕の胸の奥深くにあるのです。どうか、どうか、僕を褒めないで下さい。こんなことを言わないで下さい。「何と優れた人物なのだ!彼はあらゆるものを軽蔑することを知り、人の生における愚かさを非難し、〔引退することで〕逃げおおせた!」僕が非難するのは、自分自身だけです。9. 君は進歩するために、僕のところ*2へ来たい、などと望む謂れはありません。こちらから何らかの助けが得られると考えているなら、君は間違っています。ここに住んでいるのは医者でなく、患者なのです。むしろ、僕の元を去る時に、このように言って下さい。「私は彼を幸福で、学識のある、耳を立てて話を聞くに値する人物と思っていたが、私は騙されていた。彼は私が切望したものを何一つ見せてくれず、私が再び聞きたいと思えるようなことを、何一つ話してくれなかった!」もし君がそのように感じ、そのように言ってくれたら、僕はいくらか進歩できます。僕は君に引退を羨ましがられるよりも、許して欲しいと思っています*3

 10. そして、君は言われる。「セネカさん、あなたは私に引退を勧めているのですか?あなたは間もなく、エピクロスの格言に頼ることでしょう!」僕は君に引退の生活を勧めますが、それにより君に、より偉大でより美しい活動をして欲しいからに他なりません。君が退いた次のようなものよりも。すなわち、傲慢な権力者たちの戸を叩くこと、子供のいない老人の名簿を作成すること*4、公的生活においてこの上ない権力を行使すること―—そのような力の誇示は君を憎しみに晒し、短命で、真の価値に照らして評価すれば低俗なものです。11. ある人は公的生活における影響力に関して、僕より遥かに強大ですし、ある人は軍人としての報酬と、それにより得られる地位に関して、ある人は子分の多さで、僕を遥かに上回っています。しかし、僕自身が運命に打ち勝つことができるようになるという意味において、僕がこれら全ての人に負かされることには価値があるのです。そして僕は、*5数において運命と張り合おうとは思いません。運命は(そうしたことに関しては)さらに大きな力を持っているのですから。

 12. 君がもっと以前から、こうした意図を遂行することを心に秘めていてくれたらよかったのですが!死を目前にするより前に*6、幸福な人生について議論できていればよかったのですが!しかし、今からでも遅くはありません。なぜなら、われわれは〔老年に至った〕今では、経験に言葉を仰ぐことができます。それは、余計なものや避くべきものが、数多くあることを教えてくれます。われわれはそれを知るために、長いあいだ理性に言葉を仰いでいたはずです。13. 出発が遅くなった人がいつもするようにしましょう。速度を上げて失われた時間の埋め合わせをしましょう。自身に拍車をかけるのです。われわれの人生のこの〔老年の〕段階は、これらの追及には最適です。沸騰し、泡立つような時期は過ぎ去りました。若年期の最初にある、熱しやすく制御の効かない欠点は今や弱まり、それを消し去るには、さらなる労力は殆ど必要ありません。

 14. 「それではいつ」君は言われる。「この世を去る時になるまで学ばないようなことが、どのように、あなたに利益をもたらすのですか?」まさにそのようにして、僕はより善くなるのです。しかし、人生のいかなる時期も、多くの試練と、過去の過ちに対する長く何度も繰り返される後悔を通して自分自身に打ち勝ち、激情をやわらげ、健全な状態へと到達した年代に比して、健全な精神を得るのにより有利であるなどと考える必要はありません。今こそまさに、善を得るのに適した時なのです。老年に至って英知を手にした人は、その積み重ねた年月のお陰で得ることができたのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 68 - Wikisource, the free online library

・解説

 引退生活の心得と、老年について語っている。哲学を学ぶのに、遅すぎることはないのだ(無論早すぎることもない)。

 

 

 

 

 

*1:閑暇の生活は、賢者によって(例えば哲学の勉強や執筆等を通して)適切に送られれば、神的なことに関しても人間的なことに関しても、立派な仕事が遂行されるということ。

*2:引退の生活

*3:手放しで賞賛するのではんく、厳格な判断の下に、評価して欲しいということ

*4:遺産を狙って

*5:権力者の味方や子分の

*6:老年に至るより前に