徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡55 ウァテイアの別荘について

 1. 僕はちょうど駕籠に乗っての外出から帰ったところです。そして、座っていたのではなくまるで歩いて遠出したかのように疲れました。長時間運ばれるというのは辛いものですが、おそらくそれは自然に反することだからです。自然はわれわれに、自分自身で歩くために足を、自分自身で見るために目を与えました。贅沢がわれわれを軟弱にしました。われわれは長い間拒んだことで、自分で出来たことが出来なくなってしまいました。2. とはいえ、僕にとって体をゆり動かすのは必要なことでした。それにより、喉に溜まった痰を振り払ったり、何らかの理由で呼吸が苦しくなっても、僕はそれが自分の体に効くと思って、体を揺らして苦しさを軽減したりできます。ですから僕は、いつもより長く運ぶよう言い張りました。クマエ*1とセルヴィリウス・ウァティア*2の別荘の間で湾曲した、あの美しい浜辺に沿って。そこは片方が海で、片方が湖で仕切られていて、ちょうど隘路のようになっています。最近の嵐のせいで、足元はすっかり固くなってしまっていました。というのも、君もご存じのように、強くて高い波が浜辺に打ちつけると、砂浜を平坦にしますから。もっとも、穏やかな天気が続くと、それまで水分によって固くなっていた砂も、水を失って柔らかくなります。

 3. 僕はいつもの癖で、何か自分のためになるものはないかと、あたりを見渡し始めた時、かつてウァティアが所有していた別荘が目に留まりました。つまりそこは、あの有名な大金持ちの法務官プラエトル経験者が老年を迎えた場所です!彼はその暇な生活によってのみ有名であり、その理由でのみ幸福と思われていました。なぜなら、或る人々がアシニウス・ガッルス*3と親しいという理由で破滅した時、他の人々がセイヤヌス*4への憎しみによって、後には親しみによって破滅した時、——彼を愛することも、怒らせることと同様危険なことでしたから―—人々は次のように叫びました。「おおウァティアよ、あなただけが生きることを知っている!」4. しかし、彼が知っていたのは、生きることではなく、隠れることでした。君の人生が、閑暇であるか怠惰であるかには、大きな違いがあります。ですから僕は、ウァティアが生きている間、彼の別荘を横切る時必ずこう言いました、「ウァティア、ここに眠る!」と。

 しかし、愛するルキリウス君、哲学というのは神聖なもので、崇められるべきものであるだけに、それが偽物であっても喜ばれるのです。ほとんどの大衆は、世間から引退した人のことを、心配事がなく、満ち足りていて、自分自身のために生きることができる、閑暇な状態にあると考えています。しかし、これらは賢者にのみ許されたことです。不安に駆られる者が、自分自身のために生きることを知っているでしょうか?生きるということさえ(それが最も重要なことですが)、知っているでしょうか?5. 仕事や人から逃げてきた人、自分の欲望が招いた不幸のために追放された人、他人が自分より幸福であるのが見ていられなかった人、臆病で怠慢な動物のように、恐怖心から隠れて暮らすようになった人——これらの人々は、自分自身のために生きてるのではなく、食欲と、睡眠欲と、色欲のために生きてるのですが―—彼らはこの世において、最も恥ずべき存在です。誰かのために生きない人が、必ずしも自分のために生きるわけではありません。とはいえ、怠慢も頑固に維持されれば、凝り固まった目的意識が、ある種の権威を持つようになります。

 6. 別荘の詳細について書き記すことはできません。なぜなら僕が知ってるのは家の正面と、通りすがりに外から見える部分だけですから。そこには多大な労力を費やして人の手で作られた、大きな広間ほどもある二つの岩屋*5があります。うち一つは太陽の光が閉ざされていますが、もう一つは太陽が沈むまで光を取り入れます。プラタナスの木立の間を流れる小川もあり、海とアケロン湖の両方から水源を得ています。それは海峡のように木立を分け、魚を養うのにも十分な量の水が絶え間なく流れています。しかし、海が穏やかな時にはこの小川は利用せず、嵐で漁師が休みになった時のみ、この小川に手がつけられます。7. しかし、この別荘の最も好都合な点は、バイアエ*6のすぐ近くであるということです。その歓楽地の全ての不便から免れていて、なおかつその快楽を楽しめます*7。これらの利点は僕も重々承知しており、四季折々に相応しい別荘であることは分かっています。そこは西風に面していますが、バイアエを否定するかのように、そこで遮られるのです。ですから、ウァティアが老いて気力を失った時に、余生を過ごすのに最適な場所としてこの地を選んだのは、愚かな判断ではなかったのです。

 8. しかし、人の静寂さに、場所は大して関係ありません。心こそが、あらゆるものを自らに適ったものにするのです。僕は楽しげな素晴らしい別荘に中にいて、意気消沈した人たちを見てきました。また僕は、孤独のさ中にあっても、弛みなく忙しくしてる人たちを見たこともあります。ですから、カンパニアにいないからといって、自分の居場所がよくないと考える必要はありません。しかし、なぜそこではいけないのですか?こららにも、君の考えることを書き送って下さい。9. その場にいない友人とでも、会話をすることはできます。そして実のところ、君が望むだけ長い時間、話すことができるのです。というのもわれわれは、お互い離れている時ほど、この楽しみを最大限喜ぶことができるのです。友人が実際に近くにいると、われわれは気難しくなってしまいます。そして、いつでも話したり腰かけたりできるので、一度別れると、もうその人のことを忘れてしまいます。10. そして、友人が近くにいる時でも、その不在に健気に耐えなければならない時があります。友人の不在は、誰にでもしばしばあります。まず、夜は離れて過ごしますし、各々違った仕事を持っていますし、それぞれの個人的な勉学や、田舎への遠出などがあります。ですから、海外に留まることからわれわれが受ける被害は、大したものではないことがお分かりになるでしょう。11. 友人は心の中に持つべきです。そのような友人は決していなくなることはありません。会いたいと思う人には、毎日会うことができるのです。

 したがって、君が勉強するのを、食事をするのを、散歩をするのを、僕と共にして欲しいと思っています。われわれの人生を狭い範囲に制限するものがあるとすれば、それはわれわれの考えが制限されているだけです。愛するルキリウス君、僕には君の姿が見えます。今この瞬間にも、君の声が聞こえます。手紙を送る代わりに、ただの覚え書きを書こうか迷っています。それほど君は、僕の近くにいるのです。お元気で。

 

 

・英語原文

https://en.wikisource.org/wiki/Moral_letters_to_Lucilius/Letter_55

・解説

 「離れているほど、友情を強く感じることができる。」のはSNSなどが発達していなう古代ローマにおいてもそうだった。いやむしろ、現代よりもずっと強い友情があっただろう。24時間人と繋がれるようになったことで、人は以前よりも孤独になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ナポリのケープ・ミセヌムから6マイル北にあった町

*2:人物名。詳細は不明

*3:ティベリウス帝に仕えたローマの政治家。帝に憎まれて投獄され、紀元三十三年に獄死した。

*4:ティベリウス帝の親衛隊長官であったが、帝に対する陰謀が発覚し、紀元三十一年に処刑された。

*5:避暑用に作られた洞穴

*6:書簡51参照

*7:おそらくバイアエの喧騒から離れていて、かつすぐに歓楽を楽しめる所の別荘がある、という意味