徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡123 快楽と美徳の争いについて

 1. 僕は夜遅くにアルバ*1にある別荘に到着した時、長旅というよりも旅の不快さのせいで疲れ果てていました。そして用意されていたのは、僕自身だけでした*2。そこで僕は寝台に横たわって疲れを取り除いたのですが、料理人とパン職人〔による食事の準備〕が遅れているのは、僕にとっては善いことでした。というのも、僕はこれに関して、まさに自分自身と次のように語り合っていたのです。つまり、軽い気持ちで受け止めれば、何事も重大にはならないし、自ら怒りを増幅しない限り、腹立たしいものなど何もない、ということです。2. 僕のパン職人はパンがないとのことです。しかし、〔別荘の〕管理人や、執事や、借家人のうちの誰かが、もたらしてくれます。「まずいパンでしょう!」と君は言われる。けれども、しばらく待てば美味しくなります。空腹は、そのようなパンでも柔らかで上等なものにするのです。ですから、空腹になるまで食べてはなりません。つまり美味しいパンを手に入れるか、パンに対する選り好みを控えるまでは、僕は食べるつもりはありません。3. 人は僅かなものに慣れねばなりません。なぜなら、金持ちや快楽の用意ができている人々にさえ、時間的、場所的な様々な制約が生じて、その望みを妨害するでしょうから。望むもの全てを手に入れることは、誰にもできませんが、持たないものを望まないこと、手に入るものを快く受け取ることは〔誰にでも〕できます。自由の大部分は、よく躾けられ、粗末な扱いにも進んで耐える胃袋にあります。

 4. 僕の疲労が、自然と回復してきたことから、僕がどれほど大きな喜びを得たか、君には想像もつかないでしょう。僕には奴隷の按摩も、入浴も、その他のどんな薬も必要ありません。時間という治療薬以外には。というのも、苦労が積み上げた疲労は、休息によって軽くすることができますから。この食事はどんなものであっても、公職就任祝いの晩餐よりも、僕の大きな喜びとなるでしょう。5. 僕は自分の精神を、思いがけず試すことになったのです。そしてこれはより真実を試すことです。というのも、予め心の準備ができた人が自分に忍耐を課すのだとしたら、その人がどれほど真の心の強さを持っているかは、公平に見て明らかではありませんから。最も確実な心の強さの証は、即座に現れるものに示されます。つまり、厄介事に際して公正であるのみならず、寛大であったかどうか。怒りに駆られたり、口論を引き起こしたりしなかったかどうか。得られて当然だったはずのものを望まないことで自分自身の必要を満たし、いつもの習慣に何か不足する点があったとしても、自分自身に何も不足するところはないと考えたかどうかです。6. どれだけ多くのものが不要であるか、それが不足し始めるまでわれわれは気付きません。われわれはそれを、必要だからではなく、持っていたから用いていただけなのです。そして、隣人が手れたという理由だけで、あるいは多くの人が持っているからという理由だけで、われわれはいかに多くのものを手に入れることでしょう!われわれの不幸の原因の一つは、われわれが他人を真似て生きていること、理性に従って生活するのではなく、慣習に流されていることにあります。

 少数の人が行ったのであれば真似することはなかったことでも、多くの人が行い始めると、われわれはそれに従います。あたかも、より頻繁に行われることほど、より立派なことであるかのように!さらに、誤った考えもひとたび世間に広まれば、われわれはそれを正しさの基準とします。7. 今や誰もが、旅行の際にはヌミディア人の騎馬隊に先駆けをさけ、従者の走者の一団に先払いをさせます。道から人々を押し退けたり、高位の人の到来を派手な土煙で証明したりする従者がいないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです!今や誰もが、水晶や蛍石製の、著名な職人によって作られた盃を積んだラバを所有しています。運ばれる際に強く揺れても大丈夫な荷物しか持っていないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです。今や誰もが、日差しも寒さもその肌の柔らかさを痛めることがないよう、顔に軟膏を塗ってから、彼らの子供奴隷を馬に乗せます。健康な顔を見せるために化粧品を必要とする子供奴隷が自分のお供の中に一人もいないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです。

 8. すべてのこうした人々との話は避けるべきです。彼らは人から人へと悪しき習慣を伝え、われわれにそれを植え付けます。われわれは、こうした類の連中において最も悪しき人々は、流言を撒き散らす人々だと考えてきました。しかし、中には悪徳を撒き散らす人々がいます。彼らの話は大変有害です。なぜなら、それらはたとえ最初は受け入れられないものであっても、魂の中に煩いの種を残し、われわれが彼らから離れた後でも、再び芽生えた悪徳の力がわれわれを追い回すのですから。9. 楽隊の演奏会に参加した人の頭の中には、自分が聴いた楽曲の旋律や魅力が残り、それが思考を妨げ、真面目な事柄に集中するのを妨げます。これと同じように、おべっか使いや堕落した事柄の愛好家たちの話は、その話が終わってからも、長い間われわれの心にこびり付きます。耳に残った心地よさを忘れることは容易ではありません。それはわれわれの内に留まり、持続し、時を置いて戻ってきます。したがって、悪しき話については、最初から耳を閉ざさねばなりません。なぜなら、そのような話がひとたび入り口を見つけて、受け入れられ、われわれの心の中に入り込むと、それはいっそう恥を知らないものになるのですから。10. そしてついには、われわれは次のように言い始めます。「美徳や哲学や正義、そんなものは空虚なたわごとに過ぎない。唯一の幸福とは、自分の生活を楽しくすることだ。食べたり、飲んだり、財産を使うことが、唯一の生きることであり、自分が死すべき存在であることを忘れないための唯一の方法だ。日々は過ぎ去り、取り戻すことのできない人生は速やかにわれわれから遠ざかる。どうしてわれわれのようにすることを躊躇うのか?いつでも快楽を受け入れられるとは限らないわれわれの人生において、快楽を味わえる間に、求められる間に、質素倹約を自らに強いることに何の意味があるというのか?それゆえ、死に先回り、死がわれわれから奪い取るものは全て、今の内に使い果たしてしまおう。君は愛人を持っていないし、愛人の嫉妬を掻き立てるお気に入りの少年奴隷も持っていない。毎日人前に出る時は素面だし、あたかも父親にその日の収支報告をするような面持ちで食事をする。しかし、それは生きていることではなく、単に他人の生活に合わせているだけだ。11. そして、自分の相続人の利益に配慮するあまり、自分自身を蔑ろにして、その結果莫大な相続遺産が君の友人を敵に変えるとは、何と愚かなことだろう!というのも、相続するものが大きくなれば、彼はそれだけいっそう君の死を喜ぶことになるのだから!卑屈な精神で他人の生活を非難し、自分自身の生活の敵でありながら、世の中の教育者面をしてるあの不機嫌な連中〔哲学者〕のことは、びた一文ほどにも評価すべきではない。君はよい評判よりもよい生活を求めることを、躊躇うべきではない。」

 12. こうした声は、オデュッセウスがそうしたのと同様に、避けねばなりません。彼はそうした声*3を通り過ぎるまで、自分を帆柱に縛り付けさせました。かの声も、セイレーンの声に劣らず強力です。それは人々を国家から、両親から、友人から、もろもろの美徳から引き離します。それを通り過ぎなければ、恥ずべき惨めな人生に座礁してしまいます。正しい道を通って、「喜ばしい」ことと「立派な」ことが、同じ意味となる境地まで至ることのほうが、どれほどよいことでしょう。13. そこに至るためには、われわれは物事には、われわれを惹きつけるものと遠ざけるものの二種類があることを知らねばなりません。われわれは、富や快楽や美貌や名誉、その他甘言を弄したり、喜びを与えてくれるものに惹きつけられます。そして、労苦や死や苦痛や恥辱、あるいは質素な生活から遠ざかります。ですからわれわれは、後者は恐れないように、前者は欲しないように、自分自身を訓練する必要があるのです。それぞれに反抗するように戦いましょう。誘惑してくるものからは退却して、攻撃してくるものには立ち向かいましょう。

 14. 山を下る時と上る時では、どれほど正反対かをご存知ありませんか?坂を下る人は体を後ろに反らしますが、険しい坂を上る人は前かがみになります。というのも、僕のルキリウス君、下る時に前かがみになることや、上る時に体を後ろに反らすことは、悪徳に従うも同然ですから。快楽の道は下り坂ですが、人は険しく困難な道を上るために、奮闘努力せねばなりません。上る時は体を前のめりにし、下る時は手綱を引きましょう。

 15. 僕が今言ったことは、次のような意味であると思われますか?つまり、われわれの耳に破滅をもたらすのは、快楽を称賛し、苦痛への恐怖という、それ自体恐れをもたらすものを煽り立てる人々だけである、と。僕はまた、ストア派を装ってわれわれを悪徳へと導く連中によっても害されていると考えます。彼らは、賢者あるいは学者のみが、愛することを知っていると自慢気に言います。「その技術を心得ているのは彼らだけだ。賢者はまた、酒にもご馳走にも精通している。われわれが探究すべきはただ次のことのみ、つまり何歳までの若者を〔賢者は〕愛することができるか、である*4!」16. こんなことは全てギリシャ人の慣習に任せましょう。われわれはむしろ、次のような言葉に耳を傾けるべきです。「誰も偶然に、善き人物となることはできない。美徳とは学ばなければならないものだ。快楽とは低劣で下らない、無価値なものであり、物言わぬ動物と共通のものだ。最も小さく、卑小な動物ですら、快楽に向かって飛びつく。名声とは空虚で儚いものであり、空気よりも軽い。貧困は、それに横暴に逆らわない限り、誰にとっても悪ではない。死も悪ではい。なぜそれを尋ねる必要があろう?死は唯一の、人類に平等に与えられた権利だ。迷信は狂人のもつ偽りの考えだ。それは愛すべき人を恐れ、尊重すべき人々を傷つける。というのも、神を否定することと冒瀆することの間に、何の違いがあるだろう*5?」

 17. 君はこのような言葉を学ぶべきです。というより、暗唱できるほどにまでなるべきです。哲学は悪徳に、弁解を許してはなりません。というのも、病人がもし医師から不摂生を許されたら、それはもう助かる見込みが皆無ということです*6。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 123 - Wikisource, the free online library

・解説

 疲れて別荘に到着した際に食事が用意されていなかったことに腹を立てたセネカの、強がりシリーズの書簡の最後の一つである。後に書かれている内容がいいだけに、セネカがどこまで冗談で、どこまで本気で怒っていたのか分からない点が面白い。

 

 

 

 

 

 

 

*1:ローマの南東約20kmにある、アルバーノ湖

*2:別荘に着いた時に疲れ果てて腹ペコだったのに、食事は何も用意されていなかった、という意味。

*3:セイレーンの歌声。書簡31も参照。

*4:食道楽や少年愛の言い訳として哲学を引き合いにしてる悪例

*5:迷信を信じることは、神を冒涜することだということ。ここで明言はしていないが、占いなどに対する批判的な気持ちも込められているのかも知れない。

*6:哲学(医師)が悪徳(不摂生)を弁明するようなことがあれば、その魂はもう救いようがないほど腐ってる、という意味。