徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡122 悪徳の覆いとしての暗闇について

 1. 昼の時間が減ってきました*1。それはすでにかなり短くなりましたが、それでも日の出と共に起床すれば、十分に時間に余裕はあります。勤勉でより善き人間ほど、朝日を待ち望み、夜明けを歓迎します。しかし恥ずべき人間は、日が高く昇るまで眠りこけ、正午になってからようやく目覚めます。さらにはその時間になっても、まだ夜明け前という人は大勢います。2. 昼と夜の勤めを逆にした人たちもいます。彼らは夜が近づいて初めて、昨日の放蕩で重くなった目を開くのです。こうした連中は、ウェルギリウスのいう、自然がわれわれの住む所と正反対の世界に置いた者たちと同じです。

夜明けの火が、われわれに駿馬の息吹を吹きかける頃、

赤く燃える宵の明星*2が、夕暮れの火を灯す*3

彼らの場合われわれと「正反対」なのは住む場所ではなく、その生き方です。3. われわれの住むこの同じ都市にも、カトーの言葉を借りるなら、「太陽が昇るところも沈むところも見たことがない」正反対の人びとがいるのです。いつ生きるべきかも知らないこの連中が、どう生きるべきかを知っていると思いますか?この連中は死を恐れるのでしょうか?既にその中に埋まって死んでいるも同然なのに。彼らは夜の鳥*4と同じくらい、不吉な存在です。彼らは酒と香料に囲まれて夜の時間を過ごし、いくつもの種類に分かれた料理が出される宴会に、歪んだ不眠の時間の全てを費やすのですが、彼らが催してるのは宴会ではなく、実は彼らの葬儀なのです。もっとも〔本当の〕死者の葬儀は、日中に行われるのですが。

 しかし、誓って申しますが、活動的な人にとっては、どの一日も決して長くはありません。ですから、われわれは人生を長く保ちましょう。人生の勤めと証は活動にありますから。夜は短く切り詰めて、その時間を昼の義務に回しましょう。4. 宴会のために用意される鳥は、運動させないことで容易に太らせるため、暗い所で飼われます。これと同じように、有意義な活動もせずに横たわっている者たちは、怠慢な肉が体じゅうでふくれ上がり、自堕落な生き方を通して肥満が襲いかかります。さらに、暗闇に身を捧げることを誓った連中の肉体は、醜い容貌をしています。彼らの顔色は、病気で衰弱している人よりもいっそう青白く、貧弱であり、まだ生きてはいても、彼らはすでに腐肉です。しかしこれは、彼らにおける最少の不幸だと思います*5。なんと深い暗闇が、彼らの魂を覆っていることでしょう!このような連中は内心において麻痺しており、〔魂の〕視界は闇に閉ざされ、盲人の方がましという有様です。暗闇のために目を持った人がいるでしょうか*6

 5. 君がお尋ねしたいのは、こうした堕落がどのようにして魂に生じるのか、つまりどのようにして、昼をひっくり返して、自分の全人生を夜に明け渡すようになるのか、ということですね?あらゆる悪徳は自然に反逆し、定められた秩序を破棄します。贅沢は常軌を逸することを喜び、正道から離れるのみならず、できる限り遠ざかり、ついには正反対のところにまで行き着きます。6. 空きっ腹で酒を飲み、血管に酒を流し込んで、酩酊状態になってから食事にかかるのは、自然に反した生き方だと君は思いませんか?そして次のことは、若者がよくやる悪徳なのですが、彼らは体を鍛えるためとて、まさに浴場の入口で裸のまま、酒を飲み合います。いえ、酒を飲むというよりは、酒に体を浸し、熱い酒を何杯も呷ることで落ちた汗を、今度はすぐに〔浴場で〕洗い落とすのです!彼らにとって、昼食後や夕食後に酒を飲むのは俗なやり方であり、快楽の嗜みを知らない田舎の主人がすることなのです。そのような生酒が彼らを喜ばせるのは、〔胃の中〕で食べ物を浮かべることもなく、直ぐに筋肉に浸透するからです。彼らは胃が空だからこそ、酩酊が嬉しいのだそうです。

 7. 衣装を女たちが着るものと交換している男も、自然に反した生き方をしていると君は思いませんか?その年頃はとうに過ぎたのに、なおも少年時代の容貌を保とうと努めることは、自然に反した生き方だと君は思いませんか?これ以上に残酷で、悲惨なことがあるでしょうか?時の流れも男性という性も、彼をこのような歪な少年時代から連れ出してくれるはずではなかったのでしょうか?8. 冬に薔薇を求めたり、温水を供給するような人工の設備を使うことで気温を調整して、春の花であるはずの百合を育てたりする人は、自然に反した生き方をしていませんか?高い建物の上部に果樹園を作る人は、自然に反した生き方をしていませんか?その〔果樹園の〕森の梢は家々の屋根や屋上に揺れなびき、その根は、〔地上の〕木の頂上がとうてい届かないほどの高いところから伸びていはいないでしょうか?浴場の基盤を海中に築き、温水が波や嵐のように打ち寄せない限り入浴を楽しむことはできないと考える人は、自然に反した生き方をしていませんか?

 9. 人々があらゆることを自然に反して望むようになると、やがては完全に自然を放棄するようになります。彼らは言います。「昼になった、眠りに就こう!人々が寝静まった、さあ運動しよう、さあ出かけよう、さあ昼食にしよう!ああ、夜明けが近づいてる、夕食の時間だ!普通の人のようなことはすべきではない!通常の、ありきたりの生活をすることは、低俗で恥ずべきことだ。平凡な昼は捨て去ろう。自分らしいやり方で、特別の朝を迎えよう!」10. このような人々は、僕に言わせれば死んでいるのです。彼らはみな、葬式に、それも早すぎる葬式に参列しているのです。松明と蝋燭*7の中で暮らしているのですから。僕は、こうした生き方がかつて同じ時代に沢山存在したことを思い出します。そのような人物の一人であるアシリウス・ブタ*8は、法務官の経験者で、巨額な相続遺産を使い果たした後で、窮乏をティベリウス帝に告白したところ、次のように言われました。「目覚めるのが遅すぎたな!」11. ユリウス・モンタヌス*9は詩をよく詠んでいた人物で、そこそこの詩の実力を持ち、ティベリウス帝からの寵愛と、後の帝からの冷遇でよく知られています。彼はいつも日の出と日の入りを、好んで自分の詩の中に散りばめました。そのため或る人物が、モンタヌスは一日中詩を朗読していると難癖をつけ、誰も彼の朗読会に出席するべきではないと言った時、ピナリウス・ナッタ*10は次のように申しました。「これ以上に気前のよい取り引きがあるだろうか。私は日の出から日の入りまで、彼の朗読を聞くことが出来るのだ*11!」12. モンタヌスが次のような詩句を朗読していた時のことです。

太陽神がその燃え盛る炎で、

朝を明るく輝かせ始める。

悲しげな眼をした燕が、

騒ぎたてる雛たちに餌をやらんとして巣に戻り、

優しいくちばしで食べ物を分け与える。

ここで、ウァルスという、マルクス・ウィキニウス*12の従者であり、その皮肉な機知のために豪華な宴席にも頻繁に招かれていたローマの騎士が、叫びました。「ブタの眠る時間だ!」13. そして、モンタヌスが次のように朗読した時です。

見よ、牛飼いたちは群れを牛舎に戻した。

そして眠気を催した大地に、夜がゆっくりと静寂を与え始める。

この同じウァルスが言いました。「何だって?もう夜になったのか?ブタのところに朝の挨拶をしに行こう!」このように、ブタの倒錯した生き方ほど、悪評高いものはありませんでした。しかし先ほども言ったように、多くの人が当時はこのような生活を送っていたのです。14. そして、或る人々がそのような生き方をする理由は、夜そのものが何か楽しみをもたらしてくれると彼らが考えるからではなく、普通のことはつまらないことであり、罪の意識にとって光は煩わしい敵であり、払うべき金額の多寡に応じてあらゆるものを渇望したり見下したりする人たちにとって、無償で手に入るもの〔昼の光〕は軽蔑に値するからです。そのうえ、贅沢な人間は、自分の一生が人々の噂の的であることを望みます。人々が自分について何も語らなければ、自分の仕事は無駄だったと思うのです。ですから、自分の行動によって悪評を得られないことに、不快感を抱くのです。

 多くの人が財産を食い潰していますし、多くの人が愛人を囲っています。そのような人々の間にあって評判を勝ち取るためには、君は単に贅沢なことを行うのみならず、悪しきことをも行わねばなりません。なぜなら、このような忙しない連中の社会においては、普通一般程度の堕落では、注目を集めることはできないでしょうから。15. 僕は、最も洗練された語り手の一人である、アルビノウェヌス・ペドー*13が、彼の屋敷から見下ろせる位置にあった、セクストゥス・パピニウス*14の邸宅について話すのを、聞いたことがあります。パピニウスは光を嫌う人種の一人でした。「私は夜の九時頃に、鞭の音を聞いた。あれは何かを尋ねると、パピニウスが収支勘定の報告を受けているとのことだ。十二時頃に、激しい叫び声を聞いた。あれは何かを尋ねると、彼が発声練習をしているとのことだ。午前二時頃、車輪の音を聞いて、私はそれについて尋ねた。彼が遠乗りに出かけるとのことだ。16. そして夜が明けると、奴隷や給仕たちが大慌てで駆け回り、料理人たちが大混乱を起こす。私はそれについても尋ねたが、彼が風呂上りに、蜂蜜酒と麦粥を求めたとのことだ。彼の夕食は、」ペドーは続けます。「日没を越えることは決してなかった。なぜなら、彼はたいへん質素に暮らしていたからだ。彼は贅沢をすることはなかった、夜の時間を除いて。だから、パピリウスを貪欲でケチだと言う人達の言葉を信じるなら、彼を『灯の奴隷』と呼ぶのがよいだろう。」

 17. 悪徳を示す例がこれほど多くあるからといって、驚くには及びません。なぜなら、悪徳は様々な種類のものが無限に存在し、その全てを整理することなどできないのですから。正しいことを維持する道は単純ですが、悪しきことを維持する道は複雑であり、逸脱する機会は無数にあるのです。そして同じことが、人の性格についても当てはまります。自然に従う人々の性格は、従順であり、自由であり、互いにわずかな違いしかありません。しかし、僕が先に述べたような連中がもつ性格はひどく歪んでおり、本人を含め、全てが互いに大きく異なっているのです*1518. しかしながら、この病の最も大きな原因は、普通の生活に対する反抗心であると僕には思えます。このような連中が、服装においても、宴会の絢爛さにおいても、馬車の美麗さにおいても自分を他人から区別しよう考えるのですが、それと同じように、彼らは一日の時間の使い方においても、自分を他人から区別しようと考えるのです。彼らにとっては、悪評こそが悪事の報いですので、通常のやり方で悪事を行おうとはしません。悪評を求めるこれらの連中は、言うなれば逆さまに生きているのです。

 19. こういったことから、ルキリウス君、われわれは自然が定めてくれた道を守り、そこから外れないようにしましょう。われわれが自然に従えば、全ては容易であり、妨げとなるものはありません。しかし自然に逆らえば、その人生は流れに逆らって船を漕ぐ者も同然です。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 122 - Wikisource, the free online library

・解説

 朝型をセネカは推奨している。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:冬になって

*2:明けの明星の金星が彼らには宵いの明星になる

*3:ウェルギリウス「農耕詩」1.250~251

*4:フクロウ

*5:魂の不幸に比べて

*6:盲人と違って目があるのに、それが暗闇を見るためにある連中は哀れだとセネカは言っている。

*7:子供の葬儀は、日没後に松明と蝋燭と灯して行われた。つまり彼らの人生が子供のように短く無意味だと言っている。同様の表現として、「だが、いいかね。ほんとうは、こんな人たちの葬式は、たいまつとろうそくを灯しておこなうべきなのだ―—彼らの人生が、とても短かったかのように。」人生の短さについて20.5

*8:ティベリウス帝時代の人物で、セネカのこの書簡以外では知られていない。

*9:ティベリウス帝時代の抒情詩人。

*10:ティベリウス帝に陰謀を企てたセイヤヌスの家来。

*11:どうせ難癖つけている連中は、日中活動なんてしていないだろう、という皮肉か。

*12:書簡40.9に登場する、プブリウス・ウィキニウスの息子。30年の執政官で、46年にメッサリナに毒殺された。

*13:オウィディウスと同時代のローマの詩人

*14:詳細不明

*15:本人自身とすら異なることについては、書簡120.22参照