徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡108 哲学への取り組みについて

 1. 君がお尋ねのことは、それを知ることが単に知ることだけに関係するような問題の一つです*1。それなのに、関係しているがために、君は先を急ぎ、僕が今君のために執筆している、倫理哲学の部門全体をまとめた本を待とうとはしません。僕はその本をすぐにでも君に送りたいと思っていますが、その前に、君のその燃え上がる学習意欲を、それ自体が邪魔に*2ならないようにするために、どのように制御すればよいかを書き記しておきましょう。2. 物事に対してはあちこちから雑多に取り組むべきではありませんし、かといって横着して全体に一気に取り組むべきでもありません。部分から辿って研究していくことで、全体の知識を得ることができます。負担は各自の力量に見合うべきであり、手に余るような重荷に取り組むべきではありません。望めるだけではなく、保持できるだけを汲み取って下さい。そして、正しい心さえもっていれば、君は望むだけを手に入れることができるでしょう。なぜなら、心は受け取るほどに、大きく拡がるものですから。

 3. 次のことを僕は、アッタロス*3が教えてくれたことを覚えています。われわれは彼の学堂を囲い、最初に教室に入り、最後に出て行くことを習慣としていました。彼が散歩をしている時にも、われわれは彼を様々な議論に巻き込みました。彼は生徒たちにとって親しみやすく、また進んで出迎えてもくれましたから。彼はこう言っていました。「教師と生徒は、双方が同じ目標を持つべきだ。つまり、教師は向上させるという、生徒は向上するという目標を。」4. 哲学者のもとで学ぶ人は、日々何らかの善きものを持ち帰るべきです。つまり、より健全な人間として、あるいはより健全になる方法を学んで、家に戻るべきなのです。そして実際、そんな風に戻ることでしょう。なぜなら哲学の力とは、それを学ぶ人だけでなく、それと交流するだけの人にも有益となる点にありますから。太陽の下を歩く人は、それが目的でなくとも日焼けをします。調香師の店を訪れる人は、たとえ短時間そこに滞在しただけでも、その場所の香りを持ち歩きます。そして、哲学者の近くにいる者は、怠けがちな人にすら有益な何らかの助けを、必ず得ることでしょう。もっとも、僕の言葉には注意して下さい。「怠けがちな」人にであって、「反抗的な」人にではありません。

 5. 「それではどうでしょう?」君は言われる。「何年も哲学者の近くにいながら、わずかな知識すら身につけてない連中もいないでしょうか?」もちろんいますとも。確かに彼らは熱心に哲学者のもとに居座ってはいますが、僕は彼らを哲学者の弟子ではなく、「(哲学の教室の)下宿人*4」と呼んでいます。6. 彼らの或る者たちは、学ぶためではなく、聞くために来るのです。ちょうどわれわれが、演説や音楽や演劇によって耳の楽しみを満たすために、劇場に惹きつけられるのと同じように。ごらんのように、聴衆の大半はこの類の人々で、彼らは哲学者の講堂を、暇つぶしの娯楽施設だと思っているのです。彼らはそこで欠点を捨て置くことも、自分たちの人格を改善するための人生の何らかの法則を受け入れることもなく、ただ耳の喜びを最大限味わおうとするのみです。それでいて、彼らの或る者は書き物板まで持参しますが、それで内容を書き留めるのではなく、ただ言葉をそのまま書き記すのみです。彼らはそれを他の人々に伝えるのですが、彼らが聞いても何の役にも立たなかったのと同様、伝えた相手にも何の役にも立ちません。7. 或る者たちは、声調の高まりに興奮して、顔も心も沸き立って話し手の感情にのめり込みます。それはあたかも、笛の音に興奮して、狂喜しながら命令に従う、去勢されたフリギアの神官*5たちのようです。しかし、真剣に聴く者は、空虚な言葉の響きによってではなく、内容の美しさに魅せられて、心を動かされるのです。死をものともしない勇敢な言葉が語られたとき、あるいは運命をものともしない力強い言葉が語られたとき、わわれれは即座に聞いたことを実行しようと、喜びに駆られます。人はそうした言葉に感銘を受け、命じられた通りの人物になろうとします。しかしそれは、印象が心に残っている限りにおいてであり、あるいは立派なことを妨げる大衆が、すぐに彼からこの崇高な衝動を奪い去ろうとしない限りにおいてです。感銘を受けたままの自分の精神を、家まで持ち帰れる人はごくわずかです。8. 聞き手を奮い立たせ、正しいことを希求するようにさせることは、それほど難しいことではありません。なぜなら、自然はわれわれ全てにその基盤を築き、美徳を受け入れる準備をさせてくれたのですから。そしてわれわれは皆、そうした気質と共に生まれついているので、刺激が与えられると、あたかも束縛から解放されたかのように、善き心が活気づきます。われわれがその真実性を高く評価し、満場一致で賛同するような言葉が語られるたびに、劇場内がどれほど沸き立つかを、君もごらんになったことがあるでしょう?

9. 貧乏には多くのものが欠けているが、貪欲には全てが欠けている*6

貪欲な人は誰に対しても善人ではないが、自分自身に対しては極悪人だ*7

このような詩句には、あの最も吝嗇な守銭奴ですら拍手喝采し、己の罪悪が非難されるのを聞いて喜ぶでしょう。ましてや、哲学者がこうした言葉を語り、その有益な教訓を詩句に挿入して、未熟な者の心にもいっそう効果的に浸透するようにすれば、その結果はどれほど大きなものとなることでしょう!10. クレアンテスは次のように言っていました。「われわれの息は、それがらっぱの細長い管の中を通過し、最後に広い出口から飛び出す際にひときわ大きな音を放つ。それと同じように、詩という狭い形に整えられた格言は、その意味をひときわ明瞭にするのだ。」同じ意味の言葉でも、散文で語られると、漫然と受け止められ、われわれに与える印象が僅かですが、そこに韻律が加わって、韻律の規則が崇高な言葉を引き締めると、その時、同じ意味の言葉が、言うなればより引き絞った力で解き放たれます。11. われわれは金銭を軽蔑することについて色々と語り、しばしばたいへん冗長な言葉でこれについて教えます。人の真の富は心の中にあって、金庫にあるのではないとか、自らの貧乏に慣れ、わすかな金銭で自分を満足させる人こそ、真に裕福である、とか、そのように考えるべきだと語るのです。しかし、次のような詩句が語られる時にこそ、われわれの心は一際強く打たれるのです。

欲望が少ない人には、必要も少ない*8

あるいは、

十分なだけを望む人は、望むものを得る。

 12. このような言葉を聴くと、われわれはそれが真理だと認めざるを得なくなります。自分には何も十分ではないと考える人でも、このような言葉を聞くと驚嘆し、賞賛の声を上げ、金銭に対して永遠の憎悪を誓うのです。彼らがこのように心動かされるのを見て取ったならば、彼らに迫り、追撃し、このことについて彼らを非難して下さい。曖昧表現や三段論法やその他の空虚な屁理屈による言葉遊びはやめさせましょう。貪欲を諭し、贅沢を諭して下さい。そして、これが功を奏して聞く人の心に感銘を与えたと思ったら、いっそう激しく攻め立てて下さい。君が聴衆を治療することに熱意を持ち、彼らの助けとなるべく最善を尽くすなら、そこにどれほどの進歩があるかは、信じがたいほどです。なぜなら、若い心とは、立派なことや正しいことを、容易に希求するようになるものですから。そして、もし真理が相応しい代弁者を得たならば、まだ教化の余地のある人々、ほんの少し堕落しただけの人々に、強力に手を差し伸べることができるでしょう。

 13. とにかく僕は、アッタロスが人の罪悪や過ちや人生の悪徳を非難するのを聞いた時、しばしば人類を憐れに思い、そしてアッタロスのことを、人類の域を超えた崇高で偉大な人物であると思いました。彼は自分自身を「王」と呼んでいましたが、彼は王と呼ばれる人々に対する監査役でもあったので、僕には王以上に優れて見えました。14. そして実際、彼が貧乏を支持し始め、われわれの必要を超えたものは何であれ、どれほど無価値で有害な重荷であるかを語り始めると、僕はしばしば彼の講堂を、貧乏な人間として後にしたいという気持ちになりました。彼がわれわれの贅沢を追及する生活を非難し、純潔な肉体と節度ある食事と、不要なだけでなく不正な快楽を排除した精神を賞賛するたび、僕は腹や喉の欲求を取り締まりたいという思いに駆られました。15. そして、ルキリウス君、そんな訳で、いくつかの習慣が今も僕には残っているのです。というのも僕は大きな決意をもって、あらゆることに取り組んだのです。そしてその後、政治家としての公務の生活に入ってからも、これらの中の善い習慣を少しだけ守り続けたのです。僕が牡蠣とキノコを生涯に渡って断ったのはそのためです。というのも、これらは食物ではなく、すでに満腹の胃にさらに詰め込ませんとする嗜好品であり、食道楽や、自分の消化能力の限度を知らない者だけに喜ばれるものだからです。それらは容易に吞み込まれますが、吐き出されるのも容易です!16. 僕が生涯香油を控えているのはそのためです。なぜなら、人の最もよい香りとは、香りがないことですから。僕の胃が葡萄酒を避けるのもそのためです。僕が生涯風呂を避けるのもそのためです*9。なぜなら、汗をかいて体を絞ることは、無益なだけでなく、贅沢なことだと考えますから。その他のいくつかの遠ざけていたことは、元に戻りましたが、禁欲を解いたとはいえ、それらに際して僕が保ってる限度は、禁欲の一歩手前と言っていいほどです。そして恐らくこれは、ずっと難しいことでしょう。というのも、心にとってはあるものを適度に制御して用いるよりも、完全に断ち切ることの方が容易でしょうから。

 17. 僕は老人になってから続けるよりも、どれだけ大きな熱意をもって若い頃に哲学に取り組んだかを君に語り始めたので、ピタゴラスがどれほど熱烈な哲学への意欲を僕に与えたかを話すことを、恥ずかしいとは思いません。ソティオン*10はなぜピタゴラスは動物の肉を控えたのか、そして後にはなぜセクスティウス*11もそうしたのかを僕に話してくれました。両者で理由は異なりましたが、それはいずれも、崇高な動機でした。18. セクスティウスは、人間は血を流さずとも十分に食べ物を得ることができ、快楽のために屠ることが行われて以来、残酷な習慣ができたのだと信じていました。さらに彼は、われわれの贅沢の原因は少なくあるべきだと考えており、多種多様な食べ物は健康を害するものであり、われわれの肉体の自然本性に反したものだと言っていました。19. 一方ピタゴラスは、全ての生き物には血縁関係があり、ある(動物の)肉体から別の肉体へと移る魂同士の間には、交友関係があると主張しました。彼の言うことを信じるなら、いかなる魂も滅びることはないし、ある存在から別の存在へと移る際のほんのわずかな期間を除いて、その働きを止めることも決してありません。われわれはいつか、魂が多くの居住地を彷徨った後、いつ、どれほどの時間間隔を経て、再び人間に戻るのかということを、考えるようになるでしょう。しかしその時、彼*12は人々に親殺しや大罪への恐れを抱かせます。なぜなら、われわれは知らず知らずのうちに親の魂を手にかけ、傷つけているかも知れないのですから。もしわれわれが食べた肉が、血縁者の魂が宿った存在のものであったのなら!20. ソティオンはこの教えに、彼自身の説明を加えて、次のように語っていました。「君は魂が、次から次へと別の肉体を割り当てられること、われわれが死と呼ぶものは単なる住処の移動に過ぎないことを、信じないのかね?君は家畜や野獣や水の中に潜む生き物の中に、かつて人間だった魂が宿っている可能性があることを、信じないのかね?君は、この世には何一つ滅びるものはなく、ただ場所を変えるに過ぎないことを信じないのかね?そして、天体が定められた道を循環するのと同じように、動物にも言うなれば魂の順路と言うべき、進歩の循環があることを。偉大な人々は、こうした思想を信じている。21. したがって、君自身の見解も尊重すべきではあるが、この考え*13に判断を下すことは保留にしておきたまえ*14。もしこの思想が真実なら、肉を断つことは罪を避けることであるし、もし偽りでも、倹約になる。そして、これを信じることが君にどんな害になろう?私は君から、ライオンやハゲタカの食べ物を取り去るだけだ。」

 22. 僕はこの教えに感化されて、動物の肉を控えるようになりました。一年が経った頃には、この習慣は容易になったばかりか、楽しいものとなりました。僕は自分の精神がより活発になるのを感じていました。もっとも本当にそうだったのか、気のせいだったのかを、今あえて君に述べることは致しませんが。なぜこの習慣をやめたのかを、君はお尋ねですか?それは次のの通りです。僕の青年時代はちょうど、ティベリウス帝の治世の初期にあたります*15。当時は、いくつかの外国の宗教儀礼が排斥されており*16、動物の肉を控えることは、いかがわしい迷信の証とされていました。ですから僕は、中傷は恐れないものの哲学は嫌っていた父の要求に従って、食習慣を以前のものに戻しました。そして、父はもっとよい食事をするよう僕を説得するのも、容易なことでした*17

 23. アッタロスは、身体が沈み込まないような*18敷物を賞賛していました。そして僕も、老人になった今でも、その上に寝ても跡がつかないほどの固い敷物を使っています。僕がこうしたことを述べたのは、君に次のことをお示ししたいからです。つまり、未熟な者においても、誰かが彼らを激励したり、彼らの熱意に火をつけたりすれば、最高の理想に向かうための最初の衝動を、いかに大きく駆り立てることができるか、ということです。実際、生き方ではなく議論のし方を教える教師の過ちにより、失敗する者もあります。また、魂ではなく知識を滋養する目的で、教師のもとにやって来る生徒の側の過ちもあります。そのようにして、哲学の研究が、言葉の研究になってしまったのです。

 24. ところで、何に取り組むにせよ、どんな目的を据えるかはとても重要です。文法学者になろうとしてウェルギリウスを研究する人は、

時は急ぎ去り、二度と戻ることはない*19

という素晴らしい詩句を、次のような意味で解釈することはありません。つまり、「われわれは目を覚まさねばならない。急がないと取り残されてしまう。月日は転がり行き、われわれもそれに巻き込まれる。われわれは気付かぬ間に運命に掠め取られる。われわれは将来にあらゆることを計画し、断崖絶壁にあっても呑気に構えている。」このように解釈する代わりに、文法学者はウェルギリウスが時の流れの速さについて語る際に「急ぎ去る*20」という言葉を使っていることに、われわれの注意を向けさせるのです。

哀れな死すべき人間にとって、人生最良の日は、真っ先に急ぎ去る。

そして病と、わびしい老年、労苦がこれに続き、

遂には無惨な死が、冷酷に命を奪い去る*21

 25. 哲学者の精神でこれらの詩句を考察する人は、この言葉を正しい意味合いで解釈し、次のように言います。「ウェルギリウスは『時が行く』ではなく『時が急ぎ去る』と言った。それは、後者の方が素早い動きを意味し、まさしく最良の日々こそ最初に奪われることを示したのだ。であれば、なぜわれわれは、最も素早く動くものに遅れないようにと自分自身を鼓舞することを、躊躇う必要があろう?」善いものは急ぎ去り、代わりにやってくるのは悪いものです。

 26. 壺の上部から最初に流れ出るのは最も純粋な葡萄酒ですが、最も濁った澱の部分は底に沈みます。これと同じように、われわれの人生においても、最良のことは最初に起こります。最良のものを他人に飲み干させて、われわれ自身には澱を残しておくようなことがあってよいでしょうか?先の言葉を、心に深く刻みつけて下さい。あたかも神のお告げのように、それを受け入れて下さい。

哀れな死すべき人間にとって、人生最良の日は、真っ先に急ぎ去る。

 27. なぜ「最良の日」なのでしょうか?それは、先のことは不確かだからです。なぜ「最良の日」なのでしょうか?それは、われわれは若い時は学ぶことが容易で、素直で柔軟な精神を、より崇高な目的に向かわせることができるからです。この時期は労苦にも適しており、勉学に勤しみ、肉体を鍛錬するのに相応しいからです。というのも、後になるほどわれわれは不活発に、無気力になり、死に近づくばかりですから。

 したがってわれわれは、道中で魅了するものを捨て去り、全身全霊で、ただ一つの目的に向かって奮闘努力しましょう。それは、素早く過ぎ去り、留めることができない時の流れの速さを、取り残された後にようやく理解する、といったことにならないようにするためです。訪れる毎日を、いずれも最良の日々として歓待し、自分のものとしましょう。28. 急ぎ去るものを、捕まえねばなりません。さて、僕が引用したこの詩句を、文法学者の目で精査する人は、最初の日々こそ最良であるのは、その後には病が訪れ、まだ若い頃の日々に思いを馳せている者の頭上に、老年が重くのしかかってくるからだ、とは考えません。彼らが語るのは、ウェルギリウスはいつも病と老年を一緒に並べている、といったことです。そしてそれは、当然と思われます。老いとはわれわれが治すことのできない病なのですから。29. 「さらに」彼は何やら言います。「老年につけられた形容詞に注目して欲しい。ウェルギリウスはそれを『わびしい』と言った。」

そして病と、わびしい老年、労苦がこれに続き、

「別の箇所では、こうも言っている。」

青ざめた病魔とわびしい老年が住み着いている*22

 同じ資料から、各人*23が自分の学問領域に合致した内容を拾い集めることは、驚くにはあたりません。なぜなら、同じ牧草地であっても、牛は草を食み、犬は兎を、コウノトリは蜥蜴を狩るからです。30. キケローの著作「国家について*24」を文献学者、文法学者、哲学者が読む時、各人はそれぞれ自分の分野に適った方法で精査します。哲学者はその際、これほど多くの正義に反した議論ができることに驚きます*25。文献学者は同じ書物を取り上げて、本文に次のような注釈を加えます。すなわち、かつてローマには二人の王がいて、一人には父親がおらず、もう一人には母親がいなかった。というのも、セルウィウス*26の母親が誰であったかは分からないし、ヌマの孫であるアンクス*27は、父親の記録が残っていないからだ、と。31. さらに文献学者は、われわれが独裁官ディクタートルと呼び、歴史書においてもその名称で書かれている役人は、昔は人民の長官マギステル・ポプリーと呼ばれてたと注釈します*28。これは、今日でも鳥占官の書物にその名が見られ、独裁官が副官に任命した人物を騎兵の長官マギステル・エクイトゥムと呼んだという事実によって証明されると言います。文献学者はまた、ロムルス*29は日食の最中に死んだことや、民会に提訴する権利は王たちも認めていたことを語ります。これは神官の書物にもそのように記録されているし、フェネステラ*30を含む多くの人々がそう考えてると言うのです。32. この同じ書籍を文法学者が紐解くと、まずキケローがよく用いた「reapse(実際に、本当に)」という言葉を取り上げ、これは「re ipse(それは実際は)*31の意味であり、同様によく用いた「sepse(自分自身)」という言葉も、「se ipse(自分で自分を)」の意味であると注釈します*32。次に文法学者は時代が進むにつれて変化していった言葉の使われ方に目を移します。たとえばキケローは「われわれはまさに彼の妨害により、『calx(石灰)』という言葉から呼び戻されたのだ*33。」と言いました。今日われわれが「creta(白亜)」と呼んでいる競技場の白線を、昔の人は「calx」と呼んだと言うのです。文法学者はさらに、エンニウス*34の詩、特にアフリカヌス*35について書かれた詩を取り上げます。

彼にはいかなる同胞も敵も、

その偉業と労力(opis)に見合うだけの報酬を与えることはできない*36

この詩句から文法学者は、「opis(力)」という言葉には、昔はただの力だけはなく、「opera(労力)」の意味もあったことが推測される、と言うのです。エンニウスが言いたかったのは、敵も味方も誰も、スキピオの労力に相応しい報酬を支払うことをできなかったということだ、からだそうです。33. 次に、文法学者はウェルギリウスの次の詩句の由来を発見したと思って、歓喜します。

彼の頭上には、

巨大な天界の門(porta caeli)が、

雷鳴を轟かせている*37

この詩句をエンニウスはホメロスから借用し、ウェルギリウスはエンニウスから借用したと言うのです。というのも、この同じキケローの本「国家について」の中に、次のエンニウスの二句があります。

もし神々の領域に昇ることを許される者がいるのならば、

ただ私一人にのみ巨大な天界の門が輝かしく開かれる*38

 35. しかし、僕自身がどうでもいい仕事*39にかまけて文献学者や文法学者になり下がることのないように、(僕にも君にも)次のような忠告をしておきます。あらゆる哲学の研究や哲学書の読解は、幸福な人生を送るという目的に結び付けられねばなりません。古臭い言葉や風変りな言葉、あるいはおかしな隠喩表現や言葉遊びを追い回すのではなく、われわれのためになる教訓や、勇敢で高潔で、直ぐにわれわれを行為へと差し向けてくれる言葉を求めねばなりません。われわれは学ぶことで、言葉を行為にするべきです。36. そして僕は、哲学をあたかも売り物か何かのようにして学び、その教えとは全くことなる生き方をしてる連中ほど、人に悪影響を及ぼす者どもはいないと考えます。というのも、彼らは自分たちが非難しているあらゆる悪徳に染まることで、自分自身を哲学の教えが無意味だった実例として触れ回っているからです。37. 船酔いした舵手が嵐の時に何の役にも立たないように、そのような教師は僕に何の役にも立ちません。高波が打ち寄せる時、舵手は舵をしっかり握っていなければなりませんし、海そのものと言うなれば格闘せねばなりませんし、嵐から帆を守らなばなりません。怖がって吐いている舵手が、僕に何の役に立ちましょう?そして人生の嵐は、船を揺り動かす嵐よりも、どれほど激しいことでしょう!話すのではなく、舵を取らねばなりません。

 38. あのような連中が、聴衆の前で語る言葉は全て、他人の受け売りです。それらはプラトンによって、ゼノンによって、クリュシッポスによって、ポセイドーニウスによって、そして数多く存在するわれわれストア派の偉人によって語られてきました。彼らの言葉が、彼ら自身のものであると証明する方法をお教えしましょう。それは、彼らは語ったことを実行してきた、ということにあります。僕が君にお伝えしたかったことは、以上で伝え終わりましたので、今度は君の要望に応じて、君が尋ねていることに対する十分な回答を別の手紙*40に移しましょう。細々とした、注意深く耳を傾けねばならない厄介な問題に、君が疲れたままで取り組まなくでもいいように*41。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 108 - Wikisource, the free online library

・解説

 哲学との正しい向き合い方を説いている。後半の文法学者や文献学者の話は脚注も沢山書かなければいけないのでとても疲れた。若き日の哲学の師とのエピソードなど全体的には美しい書簡なのだが…。

 

 

 

 

 

*1:書簡106.3に登場するような、無益な屁理屈ということ。

*2:真の哲学の勉強の

*3:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9.7,書簡63.5,書簡72.8,書簡81.22参照。

*4:原文は「inquilīnus」で「借家人、住人」の意味。

*5:小アジアの古国で、女神キュレベを信仰した。

*6:プブリリウス・シルス(書簡8.8参照)断片236

*7:プブリリウス・シルス断片234

*8:プブリリウス・シルス断片286。次の句もぷププブリリウスのもの。

*9:あまり熱くない風呂には入っていた。

*10:セネカの幼少時代の師。書簡49.2参照。

*11:前1世紀のローマのストア派の哲学者。セネカの師であるファビアヌスの師。書簡59.7,書簡64.2,書簡98.13参照。

*12:ピタゴラス

*13:ピタゴラスの輪廻転生的な思想

*14:エポケー。

*15:ティベリウスの在位は後14-37年。

*16:後19年、エジプト人ユダヤ人の宗教が迷信として排斥された。

*17:肉断ちはやめたもののいまだ質素な食事をしていた青年時代のセネカを心配して、もっとよい食事をするよう説得してくれた父親に対する、感謝の意か。

*18:柔らかい布団のように、身体が沈み込んだりしない敷物

*19:「農耕詩」3.284

*20:原文のラテン語は「fugit」で、「fugiō(逃げる)」の三人称単数。

*21:「農耕詩」3.66~68。66~67は、セネカの「人生の短さについて」の9.2にも引用されている。

*22:「アエネイアス」6.275。書簡107.3でも引用されている。

*23:哲学者と文法学者

*24:前51年に書かれたキケローの著作「国家について」。プラトンの「国家」に倣って小スキピオを主人公とした対話篇。全体の1/3のみ現存している。

*25:キケロー「国家について」3.8~28参照。

*26:「国家について」2.37参照。セルウィウス・トゥルリウスはローマの第六代目の王。

*27:「国家について」2.33参照。アンクス・マルティウスはローマの第四代目の王。第二代目の王であるヌマ・ポンピリウスの娘の子であるので母親は分かっているが、父親は分からない、という意味。

*28:「国家について」1.63参照。

*29:ローマの建国者にして初代の王と言われる、伝説的な人物。

*30:アウグストゥス時代のローマの歴史家。

*31:re(res)…実際は、ipse…それは〔二人称の指示代名詞「ispe(それ)」の主格〕

*32:キケロー「国家について」1.2,1.34,2.66,3.12,3.18などに、こうした表現が見られる。

*33:「国家について」断片5

*34:クイントゥス・エンニウス。前239~169年の詩人で、「ローマ詩の父」と呼ばれた。

*35:スキピオ・アフリカヌスのこと。

*36:エンニウス諸種断片19-20

*37:「農耕詩」3.260~261

*38:キケロー「国家について」断片4。エンニウス諸種断片23-24

*39:上記のような

*40:次の書簡109のこと。

*41:次の書簡109のテーマも屁理屈が多い。