徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡81 恩恵について

 1. 君は恩知らずな人間に会ったと不平をこぼしています。もしこれが初めてのことなら、〔今までそうした人物に出くわさなかった〕君自身の幸運か、君の慎重さに感謝すべきです。しかしこの場合、慎重さは君を狭量にするだけです。なぜなら、君がもしそのような〔裏切られる〕危険を避けたいと思ったら、恩恵を施さなくなるでしょうから。そして、他人から恩恵が失われるだけでなく、〔与えるという〕恩恵が君自身からも失われます。

 しかし恩恵は、与えられないでいるよりは、返されないほうがむしろよいのです*1。不作の後でも、種は撒かねばなりません。というのも、痩せた土地による不作が続いたことによる損失が、一年の豊作により全て取り戻されるというのは、よくあることだからです。2. 恩を知る人一人を見つけるために、何人もの恩知らずに出会うのは価値のあることです。しばしば騙されずに済むほど確かな手腕をもつ人は誰もいません。しかし、旅人は道に迷うことがあっても、やがては正しい道に至ります。難破を経験しても、船乗りは再び海に挑みます。金貸しは詐欺師に脅かされても、中央広場フォルムから遠ざかることはありません。煩いの種となるようなものを全て捨て置かねばならないとしたら、人生はたちまち、無益な怠惰の中で、鈍重なものになってしまうでしょう。しかし君の場合、(恩知らずに出くわしたという)この状況そのものは、君をより恵み深い人間にするきっかけになるかも知れません。なぜなら、どんな事業も成功が不確実である限り、いつかは成就させるために、何度も挑戦しなければなりませんから。3. ところで、この問題については、僕が書いた「恩恵について」という題名の本で、既に十分に議論しました。

 僕がむしろ精査すべきだ思うのは、まだ十分に明らかにされていないと感じられる問題、つまり、「以前にわれわれを助けてくれた人が、後にわれわれに危害を加えた場合、その人は帳簿を二種類*2用意して、われわれへの恩を帳消しにしてくれるのか。*3」です。お望みであれば、次のような問いを加えてもよいでしょう。「後に受けた害が、以前にうけた恩恵よりも遥かに大きい場合はどうか。」4. もし君が厳格な裁判官の正当で公平な判決を求めるのであれば、彼は各々の行為を別々に精査し、次のようい言います。「たとえ危害の方が恩恵を上回っていたとしても、危害の結果から、恩恵の分は差し引くべきである。」確かに危害は大きいものでしたが、恩恵の行為が先にありました。ですから、時間の前後も考慮する必要があります。5. 或る場合においては非常に明白であるので、次のようなことについて熟慮せねばならないと、君に思い出させる必要はないでしょう。つまり、どれほど進んで恩恵を与えたか、どれほど不本意に危害を加えたか、です。恩恵も危害も、心に基づくものですから。「私は恩恵を与えるつもりはなかったが、世間体や、彼の頑なな要求や、何らかの期待に負けた。」6. あらゆる恩義に対してわれわれが抱く気持ちは、個々の状況において、その恩恵を与える心の在り方に依存します*4。われわれは恩恵の大きさではなく、それを促した善意の質を測るのです。ですから、勘定作業はやめましょう。以前には恩恵があったけれども、後にその恩恵をこえる危害があったとします。善き人は、両方の数え石*5を調節して、自分で自分を騙します。すなわち、恩恵には加えて、危害からは減らすのです。

 しかし、より寛大な裁判官——そして僕もむしろそうありたいのですが―—は、危害は忘れて、恩恵は覚えておくよう命ずるでしょう。7. 「しかし確かに」君は言われる。「各人に当然のものを返すのが、正義の役割です。恩恵には感謝を、危害には報復あるいは、少なくとも敵意を!」僕に言わせると、これは危害を加えた人物と恩恵を与えた人物が別である場合には真実です。なぜなら、もし同じ人物であるなら、加えた危害の効力が、与えた恩恵によって帳消しになるからです。じっさい、たとえ採算が合わなかろうと、許されねばならない人物は、危害を加えたのが恩恵を与えた後であれば、より大きな許しを受けて然るべきです。8. 僕は恩恵と危害に同等の価値は定めません。危害よりも恩恵に、高い価値があると見なしています。恩を被ってる人なら誰でも、感謝の仕方を知っている訳ではありません。無知で野暮な人でも、大衆でも、とりわけ受け取った直後には、恩義を感じているかも知れませんが、その恩義に自分がどれほど大きなことを負っているのかを、理解することはできません。賢者のみが、あらゆる事柄にどれほどの価値を定めればよいかを、正確に理解しています。なぜなら、先に述べた愚か者たちは、たとえ多少の謝意があったとしても、返すべきよりも少ない金額を支払うか、間違った時期や間違った場所で支払うかのいずれかだからです。返すべきものを無駄にして、台無しにしてしまうのです。9. 或る種の主題において用いられる言葉に、驚くほど的確な表現方法があります。これは古来から確立された用語法で、人間の義務の概要を最も効果的に表す行為を示します。君もご存知の通り、われわれは一般に、「この人はあの人から貰った恩を返した」という表現をします。返すというのは、負っているものを自ら進んで受け渡すことを意味します。われわれは。「この人は恩を返済した」とは言いません。なぜなら、「返済」というのは、支払いを要求された人、それを自己の意思に反して払う人、どんな状況でも、第三者を通じてもそれを行わねばならない人に、用いられる言葉ですから。われわれはまた、「恩恵を貯めた」とも「恩恵を払った」とも言いません。金銭の負債にあてはまる用語では、われわれは決して納得しなかったのです。10. 返すというのは、君に何かを与えてくれた人に、何かを報いることです。この言葉は自発的な行為を意味します。そのようなお返しをした人は、自分で自分に令状を課し、執行したことになるのです。

 賢者はあらゆる事柄を自分自身で精査します。どれくらい受け取ったのか、誰から、いつ、どこで、どのように。ですから、われわれ〔ストア派〕は、恩恵に報いる方法を知っているのは、賢者以外にはいないと断言します。さらに、〔正しく〕恩恵を与える方法を知っているのも賢者だけです。つまり賢者は、恩恵を受ける人が喜ぶ以上に、喜んで恩恵を与えるのです。11. さて、このようなわれわれの言葉を、ストア派がよく言うような、ギリシャ人が「パラドックサ」と呼ぶ一般の人には受け入れられない発言だと見做し、次のように言う人たちがいます。「賢者のみが、恩を返す方法を知っているというのか?他の誰も、借金を債権者に返す方法を知らないというのか?物を買う時に、売り手に対価を支払う方法を知らないというのか?」われわれの名誉のためにも、エピクロスも同じ発言をしてると言わせて下さい。少なくともメトロドロス*6は、賢者のみが恩返しのやり方を知っていると言っています。12. また、先に述べた〔ストア派への〕反論者は、われわれの、「賢者のみが愛する方法を知っており、賢者のみが友人たり得る。」という発言にも疑問を呈します。とはいえ、恩を返すことは、愛や友情の一部分です。いえ、それらはより普通の行為であり、真の友情よりも頻繁に起こります。そしてまた、先の反論者は、「賢者以外に誠実は見られない。」というわれわれの言葉に疑問を抱きます―—まるで自分はそうは思ってはいないかのように*7!君は、恩を返す方法を知らない人の中に、誠実さがあると思いますか?13. ですからこうした連中は、あたかもわれわれが不可解なことを言っているかのように、われわれの名誉を非難するのは止めるべきです。彼らは、崇高な事柄の本質は賢者の中にあり、大衆の中には崇高なことの幻影かまがい物しか見いだせないことを理解すべきです。恩の返し方を知るのは、賢者以外にはありません。愚か者であっても、自分の知識と力量に応じて恩を返すことはあります。愚か者に欠けているのは、意志や意欲ではなく知識です。意志は教えられずとも得ることができます。

 14. 賢者はあらゆるものを相互に比較します。なぜなら、全く同じものでも、時、場所、原因に応じて、大きくなったり、小さくなったりするからです。宮殿を作るために費やされた莫大な富でも出来なかったことが、適切な時に与えられた千デーナーリウス銀貨には出来たというようなことは、よくあります。また、君が単に与えたのか、それとも援助したのか、あるいは、君の気前のよさが人を救ったのか、それとも単に豊かにしたかでは、大きな違いがあります。しばしば恩恵は小さくとも、その結果は大きくなり得ます。また、人が欠乏のゆえに〔必要な恩恵を〕受け取ることと、〔見返りを期待した人から不要なものを〕受け取ることの間には、どれほど大きな違いがあると思いますか?

 15. しかし、既に十分に研究した問題に後戻りすることはやめましょう*8。この恩恵と危害の比較において、善き人は確かに最高の公平さをもって判断はしても、恩恵の方により重きをおくでしょう。そちらにより容易に傾くでしょう。16. さらに、この種の問題では、当事者たちの関係性が、しばしば非常に重要です。ある人は言います、「あなたは奴隷に関係することで私に恩恵を与えたが、父親に関係することでは危害をもたらした。」あるいは、「あなたは私の息子を救ったが、私の父親は奪った。」彼〔善き人〕はこれと同じようにその他のあらゆる事も追及するものの、違いが非常に小さい場合は、それを無視します。そして、たとえ違いが大きな場合でも、義務と誠実を損なうことなく譲歩できるのであれば、われわれの思う善き人は、それを許容することでしょう―—つまり、危害の影響が善き人にだけ及ぶのであれば。17. 要約すると、次のようになります。つまり、善き人は収支の計算において寛大なので、容易に自らの損害を大きくできるのです。危害と相殺させるような形で、恩恵に報いることは彼の意に反します。彼は恩恵に対する(誠実な)謝意を感じていたいという気持ちと、恩恵にお返しをしたいという気持ちに傾きます。というのも、恩恵を受け取る方が、それに報いるよりも嬉しいことだと思う人は、間違っているからです。借金をする人よりも返済する人の方が気持ちが楽なのと同じように、最大の恩恵を受け取る人よりも、最大の負債、つまりは受け取った恩恵の重荷を取り除く人の方が、どれほど嬉しいことでしょう。18. というのも、恩知らずはこの点に関しても間違っています。つまり、彼らは借金の債権者には元金と利息の両方を支払いますが、恩恵は無利息で使えるお金だと考えています。ですから、延期によって恩恵への借りは増大し、お返しが遅れれば遅れるほど、支払わなければならない金額は大きくなります。利息なしに恩を返そうとする人は、恩知らずです。したがって、(恩恵)の収入と(お返しという)支出を比べる時には、利息のことも考慮に入れる必要があります。われわれは恩恵に謝意を持って報いるため、できる限りの努力をすべきです。

 19. というのも、感謝というのは、われわれ自身にとって善いものだからです。それは、正義というものが、一般に言われるように、他人に関係するものではないのと同じです*9。感謝の気持ちの大部分は、自分自身に返ってくるのです。他人に助けを与えた人で、自分自身に助けをもたらさなかった人はいません―—僕は、君が助けた人が、君を助けたいと思うようになるとか、君が擁護した人が、君を擁護することになるとか、あるいは、善行の結果が巡り巡って元の行為者に戻ってくるとか、悪行の結果がその行為者に跳ね返り、自分がなし得ることを示した悪事によって自ら苦しめられ、誰からも同情されないとか、そういう意味で言っているのではありません。そうではなく、あらゆる美徳の行為の報酬は、その行為そのものの中にあるのです。なぜなら、それらは見返りを目当てになされるのではなく、徳行の報酬は、それを行ったことにあるからです。20. 僕が感謝するのは、その心遣いに触発された相手が僕にもっと恩恵を与えてくれるようにするためでなく、ただ僕が最も嬉しく美しい行為をしたいがためです。僕が感謝の念を抱くのは、それが自分に得だからではなく、そうすることが嬉しいからです。そして、これが真実であることを君に示すために、次のように言いましょう。僕は、たとえ恩知らずだと思われなければ感謝することができないとしても、たとえ加害に似たような行為でしか恩返しができないとしても、それでも僕は恥辱の真っ只中で、精神をどこまでも平静に保ち、崇高な希求に基づく目的に向かって、奮闘努力するでしょう。僕は思うのですが、自己の良心に従うために、善人の評判を失った人ほど、美徳を高く評価し、美徳に身を捧げた人はいません。21. ですから、君が感謝することは、他人に関しての善というよりは、君自身の善にとって有用なのです。なぜなら、〔君に恩恵を与えた〕他人は日常的によくある経験、つまり自分が与えた贈り物の返礼を受けるだけであるのに対し、君は、魂の全き幸福な状態から生じる素晴らしい経験——すなわち、感謝の気持ちを感じること―—をしているのです。なぜなら、もし悪徳が人を不幸にし、美徳が人を幸福にするなら、そして感謝することは美徳であるなら、君のお返しが単に普通のものだったとしても、君は、測り難いものを得たのです。つまり、感謝の気持ちという、神聖で祝福された魂にのみ与えられるものです。しかし、これと反対の感情は、たちまち最大の不幸に見舞われます。恩知らずは、いつかやがて不幸になる、という意味ではありません。僕は恩知らずに猶予など与えません。彼は直ちに不幸なのです。

 22. ですから、他人のためでなく自分自身のために、われわれは恩知らずに陥ることを避けましょう。われわれが悪事を行う時、他人に流れていくのは、その中の僅かな、最も軽い部分だけです。その最悪の、言うなれば最も濃厚な部分は、その自宅に残り、自らの所有者を苦しめます。僕の師のアッタロス*10は、よく次のように言っていました。「悪意は自分の毒の大部分を、自ら飲み干す。」蛇が他者を害するために持つ毒は、自分自身に害を及ぼすことなく分泌されるので、この例の毒とは異なります。つまり、悪意の毒は、その所有者にとって破滅的なものなのです。23. 恩知らずは自分で自分を苦しめ、痛めつけているのです。彼は自分が受け取った恩恵を憎みます。なぜなら、それに対してお返しをしなければならないからです。そして、その価値を低く見積もろうとしますが、それは実際は、自分の傷を広げ、損失を大きくしているだけなのです。恩恵を忘れて、損失に固執するほど、悲惨な人がいるでしょうか?

 英知はこれとは反対に、あらゆる恩恵を称揚し、自らの意思で自身に推賞し、絶え間なく思い出すことにより、自己の魂を喜ばせます。24. 悪人が恩恵に抱く喜びは一つだけで、それも非常に短いものです。すなわち、恩恵を受け取った瞬間にしかないのです。しかし賢者は、そこから確実で、永続きする喜びを引き出します。なぜなら、賢者は恩恵を受け取ることよりも、受け取ったという事実そのものに喜びを感じるからです。そしてこの喜びは決して消えることはなく、常に賢者と共にあるのです。賢者は自分が受けた悪を軽視します。それも、運命によってでなく、自ら進んで忘れるのです。25. 賢者はどんなことも悪く受け取ることはせず、偶然の出来事の責任を誰かに負わせようなどと考えることもありません。むしろ人の過ちを、偶然に帰するのです。賢者は言葉や表情に過剰反応することもありません。あらゆる災難を寛大な心で解釈して軽くします。もたらされた危害よりも、奉仕を忘れません。賢者はできる限り、以前の相手のより善い行いを記憶に留め、自分に恩恵を与えてくれた人に対する態度を、決して変えることはありません。悪行が善行を大きく上回り、目を閉じてる人にすらその隔たりが明白な時は除きますが、たとえそのような場合であっても、賢者は大きな損害を被った後に、恩恵を受ける前と同じ気持ちを取り戻そうと努めるのです。なぜなら、損害と恩恵が同程度であれば、心には好意がいくらか残っていますから。26. 〔有罪無罪の〕票が同数であれば被告人は無罪になるのと同じように、あらゆる疑わしい事例を温情が寛大に解釈するのと同じように、賢者の心も、他人の善行と悪行が同程度の場合には、確かに恩義を感じることは無くなりますが、恩義を感じていたいと思う気持ちは無くなりません。そして、法律により帳消しにされた後でも*11、借金を返済する人と同じように振る舞います。

 27. しかし、群衆を熱狂に駆り立てるようなものを軽蔑することを学ばない限り、人は正しく感謝することはできません。もし恩を返したいなら、追放されたり、血を流したり、貧困に耐えたり、あるいは―—これは最も頻繁に起こることですが―—自らの潔白そのものが汚され、恥辱に満ちた罵詈雑言に晒されるのを厭わないことが必要です。人が感謝を示すために払う代償は、決して安いものではありません。28. われわれは恩恵を求める時、それほど高価なものはないと考えています。しかし、それを受け取った後、これほど安価なものはないと考えます。何がわれわれに、恩恵の享受を忘れさせるかとお尋ねですか?それは、さらに他のものを得ようというわれわれの度を越した貪欲です。われわれは既に手に入れたものではなく、これから手に入れるものについて考えるのです*12。われわれは、富や名誉や権力、そしてわれわれの俗見では価値があっても、その本当のところを評価すると何の価値もないあらゆるものによって、正道から引き離されます。29. われわれは物事をどのように評価すればよいかを知りません。われわれは物事を、その評判ではなく性質によって考慮せねばなりません。われわれはそれらに驚嘆することに慣れてしまっているだけで、われわれの心を真に魅了するような、偉大なものは何もありません。つまり、それらは望ましいから賞賛されるのではなく、賞賛されるから望ましいのです。そして、個人の過ちが社会の過ちを生み出すと、その社会の過ちが個人の過ちを生み出すのです。

 30. しかし、われわれがそうした(誤った)価値観を信じたのと同じように、人々が言う、感謝の心ほど尊いものはないという真実を信じましょう。この言葉はあらゆる都市、あらゆる民族、または未開な土地の人々さえも、同じように言っています。善人も悪人も、この点に関しては意見が一致します。31. 快楽を賞賛する人もいれば、労苦を望む人もいます。苦痛は悪の中でも最大だと言う人もいれば、苦痛は何ら悪ではないという人もいます。富を最高善に含める人もいれば、富は人類に害を及ぼすために生み出された言う人もおり、運命が何も与える余地を見つけられない人こそ、最も富んだ者だという人もいます。こうした多様な意見の中にあっても、全ての人が、われわれに善く恩恵を与えてくれた人には、恩返しをしないといけないという命題には、意見を一つにして、「賛成」の票を投じるでしょう。この命題については、反抗的な群衆ですら、皆賛同するところでしょう。しかし、われわれは現在のところ、お返しではなく仕返しをし続けています。人が恩知らずになる理由の一つに、十分に恩返しをすることが不可能であると気づくことがあります。32. われわれの狂気はあまりに大きいので、人に大きな恩恵を施すことは時に危険になります。なぜなら、恩返しをできないのは恥ずべきことだと考えて、返済相手を誰も生き残らせないからです*13。「あなたが受け取った恩恵は、あなたが持っておいて下さい。私はそのお返しについて尋ねませんし、要求もしません。恩恵を得たことで、安心して下さい。」恩恵を台無しにしたことに対する恥辱から生じる憎しみほど、ひどいものはありません。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 81 - Wikisource, the free online library

・解説

 道徳論集の「リーベラーリス宛 恩恵について 全7巻」と重複する内容が多いが、この書簡では、キリスト教的な無私の精神がより重視されている。また、利息や借金という表現が頻繁に出てくるあたり、セネカは相当にお金が好きであり、同時にそんな自分を冷静に観察して非難めいた気持ちを沢山もっていたのかも知れない。自嘲的な表現が多いというのかも知れないが、逆に僕はそのあたりが、セネカはとても誠実で人間らしい真の哲学者だと思えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「偉大にして善良な心の特質はと言えば、恩恵の報酬を求めることではなく、たとえ悪人たちを見た後でも、善人を探すことである。騙す悪人がいなかったら、どんな立派な行いが、多くの人々のためになされていたことであろうか。ところが実は、与えても決して報い返される見込みのない恩恵を施すことが、徳というものである。有徳の人は、そのような恩恵を施すと同時にその報酬を得ているのである。しかし、この〔報い返される見込みのない〕ことのために、われわれが自分たちのしたいことから斥けられたり、非常に立派な行為に少しでも嫌気がさしたりしてはならないので、たとえ恩を知る人を発見する望みが私から切り離されたとしても、私としては恩恵を施さないことよりも、むしろ恩恵の報酬を求めないことを望むであろう。恩を施さない者は、恩知らずの者の不正に先行しているに過ぎない。その意味を言おう。恩を返さない者の方が大きな過ちを犯しているが、恩を施さない者は、それよりも先に過ちを犯しているのである。」恩恵について 1巻1.12~13。「一体、何を目的に天体はその役割を果たしているのか。何を目的に太陽は毎日を長めたり縮めたりするのか。これらのことはすべて恩恵である。これらが行われて、われわれに益をもたらすことになるからである。天体の任務は、自然の秩序を運行させることであり、しかも、このような、われわれに有益なことでも謝礼を受けずに行うことである。これらとちょうど同じように、人の任務は、他にもいろいろあるが、とりわけ恩恵を与えることである。それでは何ゆえに人は与えるのか。与え損うことを恐れる、つまり善き行為の機会を失うことを恐れるからである。」恩恵について 4巻12.5。「『相手が忘恩の輩であっても、その損害は私にではなく、当人自身に加えられているのだ。私は恩恵を与えたときすでに、私の恩恵は受けているのである。今後といえども私は与えることにいよいよ消極的になるのではなく、いよいよ注意深くなるであろう。この者で私が失ったのものは、あの者たちから取り戻そう。しかし、この者にさえも私は再び恩恵を与えよう。そして、良き農夫が注意と世話によって土地の不毛に打ち勝つごとくにするであろう。恩恵は私を去るが、あの人は人類を去る。恩恵を与え、かつ失うのは勝れた心の証拠ではない。失い、かつ与えること、これが勝れた心の証拠である。』」恩恵について 7巻32.1。

*2:貸しと借りの

*3:「或る人が私に恩恵を与えたが、その後この同じ人が私に不法を行ったとする。一度の贈物のために、私はあらゆる不法に堪え忍ばねばならぬのか。それともこの人は、続く不法のゆえに、その恩恵を自分自身で帳消しにしたのであるから、私は彼に恩返しをし終っているようなものであろうか。更に、受けた恩恵と受けた侮辱はいずれが大きいかを、君は如何に判断するか。このように困難な諸問題を私が悉く追跡しようと企てるならば、いくら時間があっても足りないであろう。」恩恵について 3巻12.4

*4:「与える気持ちと感謝の気持ちが一つになってこそ恩恵である。だから、恩恵は無頓着に与えられてはならない。実のところ、与える側が知らない間に受けたのであれば、受けた側はもっぱら自分自身に恩義を被ることになるのである。また恩恵は躊躇しながら与えられてもいけない。と言うのは、どんな親切な行いにおいても、与える側の好意が第一に重んじられるのであるから、躊躇しながら行うのであれば、その当人は長時間好意を持たなかったことになるからである。なかんずく、恩恵は相手を軽蔑して与えてはならぬ。すなわち、心の自然の仕組みとして、侮辱は親切よりも深く心底に沈み、しかも後者は急速に消え失せるのに、前者は長い間しつこく記憶に残されるものである。そうであるから、一方で恩義を施しても、他方で相手を侮辱するならば、そのような者は一体何を期待することができようか。もしもこのような者の施す恩恵を許す人があるならば、この人はこの者に対してすでに十分に感謝していることになる。」恩恵について 1巻1.8

*5:「calculus」という、古代ローマで用いられていた計算用の小石で、これを板の上に並べて計算していた。

*6:エピクロスの弟子であり親友。書簡6,書簡14,書簡18,書簡33,書簡52,書簡79参照

*7:「まるで賢者でない自分にも、誠実さは備わってるかのように、〔ストア派の〕『賢者以外に誠実は見られない』という発言に疑念を呈する」といったニュアンスか。

*8:前段落の、恩恵はその与え方のよって大きくも小さくもなるという議題だが、「恩恵について」の2巻,3巻ですでに十分詳しく論じている。

*9:正義とは社会的なものではなく、何よりも自分自身にとって善であるのと同じ、ということ。

*10:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9,書簡63参照。

*11:破産申請のようなもの

*12:「以上のごとき原因のほかに、また幾つかの別の原因もあって、われわれから少なからず重大な任務をむしり取る。それらのうちで第一の、しかも最も強力な原因は、われわれが常に新しい欲望に忙殺されて、現にわれわれが所有しているものではなく、所有せんと求めるものを得ようと努めることである。新しい欲望に執心する者たちにとっては、手もとにあるものはみな、つまらないものになる。」恩恵について 3巻3.1

*13:恩返しをしないで済むように、恩のある相手を殺すということ。