徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡14 世間から身を引く理由について

 1. 実を言うとわれわれはみな、自分の肉体に対して生まれついての愛着を持ち、その世話を任せられています。僕は、肉体は決して甘やかされてはならないと言ってる訳ではありません。しかし、われわれは肉体の奴隷になってはなりません*1。肉体の欲求のために過度に恐れを抱いたり、肉体に従って全てを判断するような人は、肉体を主人とする多くの主人に仕えることになるでしょう。2. われわれは肉体のために生きるべきである、というように行動するのではなく、生きるためには肉体が必要である、というようにすべきです*2。われわれは肉体に対して過度の愛着を抱くと、恐怖で落ち着かなくなり、心配事が重荷になり、軽蔑に晒されることになります。自分の体を過度に可愛がるものは、美徳をあまりに安っぽいものと思っています。われわれは細心の注意を払って肉体を大切にしなければなりません。しかし同時に、理性や尊厳や信念のために捧げ、炎に晒す覚悟もできていなければなりません。

 3. とはいえ、恐怖の対象を全て追い払うにはどうすればよいかを絶えず考えることによって、できる限り不快なことや危険を避け、安全な場所に退避しようではありませんか。僕が間違っていなければ、それは三種類あります。貧困への恐れ、病気への恐れ、そして、より強大な者の暴力によってもたらされる苦難への恐れです。4. そして、これらの中で最もわれわれを恐れさせるものは、他国の権力からわれわれにもたらされるものです。それは大きな騒動と混乱を伴うものだからです。僕が先ほど言った自然の災い――貧困と病気——は、目にも耳にも恐怖の衝撃を与えることなく、静かにわれわれを襲います。しかし、最後の種類の災いは、言わば巨大な悪の行進パレードです。そこには剣と炎と鎖に仕える者と、解き放たれ人のはらわたを貪らんとする獣の群れとが参列しています。5. ここで、想像してみて下さい。牢獄を、磔刑台を、拷問器具を、遺体を引く鉤を、体を真っ直ぐに貫き、喉から出てくる杭を。僕が申したものに加えて、互いに反対の方向に向かう戦車によって引き裂かれた人間の手足を、火に燃えやすい材料を塗られたり、それで織られた肌着を、そして残虐性が発明した他の全ての工夫について、考えてみて下さい!6. したがって、われわれの最大の恐怖がそうした運命に対するものだということは、驚くことではありません。それは多くの様相を持っており、そのための道具立てに欠くことはありません。というのも、拷問吏は数多くの種類の拷問器具を並べ立てるものですが――実際その光景は、拷問に耐えうる人すらも屈服させます――われわれの心を支配し強制する作用の中で最も効果的なものは、見せつけられ得るものにあります。当然、他の種類の災いはさほど深刻なものではありません。つまり、空腹、喉の渇き、胃の潰瘍、そして内臓を灼き焦がす熱病などです。これらは体内に隠れていて、脅迫することも警告することもありません。しかし他の種類ものは、大規模の戦争のように、その誇示と装備により、われわれを圧倒するのです。

 7. ですからわれわれは、人の怒りを買うことがないよう注意しましょう。われわれは時には民衆を恐れる必要があります。国内の多くのことが元老院によって決定される時は、元老院内の権力者を恐れる必要があります。また時には、民衆の力によって祭り上げられた、あるいは民衆に対抗して現れた個人を恐れる必要があります。そのような人々全てと友情を保つことは困難です。それらを敵に回さないだけで十分です。したがって、賢者は権力者の怒りを買うことは決してしません。それどころか、船を操縦して嵐から逃れるのと同じように、それをうまく避けるでしょう。8. シチリア島に行った時、君は海峡を渡りました。向こう見ずな舵手は吹きつける南風——シチリア海を荒らし、渦潮を引き起こす風です――を軽視します。この舵手は左手の海岸*3ではなく、カリュブディス*4が海を混乱に陥れる場所のそばの、固い海岸を探しました。しかし、より用心深い舵手は、その場所に詳しい人に、潮流や雲の流れの読み取り方を尋ねます。彼は悪名高い渦巻きから遠く離れた自分の航路を保持します。われわれの賢者も同じようにします。彼は自分に害をなし得る権力者を避け、かつ避けていることを悟られないようにます。というのも、安全において重要なことは、あからさまに安全を求めないことだからです。ある人が避けると、別の人はそれを咎めます。

 9. それゆえ、われわれは周囲を見渡して、大衆から身を守るにはどうすればよいかを考える必要があります。まず第一に、われわれは彼らのような渇望を抱くべきではありません。張り合いは闘争を生むものだからです。また、はかりごとを企てる輩が大きな利益のためにわれわれから奪うことができるものは、何も所有しないようにしましょう。君自身の戦利品は、できるだけ少なくしましょう。血そのもののために同胞に血を流させようとするものはいません―—いたとしても、ごく僅かです。憎しみを発散させるよりも、何らかの利益を目論む殺人者のほうが多いのです。もし君が手ぶらであれば、追い剥ぎは通り過ぎます。物盗りの多い通りでも、貧乏人には平和があります。10. 次にわれわれは、古い教えに従って、特に注意を払って三つのもの―—憎悪、嫉妬、軽蔑を避けねばなりません。そして英知のみが、どのようにしてそれを行うかを示すことができます。適度を見極めるのは難しいものです。われわれは、嫉妬への恐れがわれわれを軽蔑の対象へと導くことがないよう、気をつけなければなりません。われわれが他人を踏みにじらない選択をした時、彼らがわれわれを踏みにじることが出来ると思わせないように。誰かを恐れさせることができるということが、かえって多くの人にとって恐れの原因となりました*5。よってわれわれは、あらゆる場面で身を引くようにしましょう。軽蔑されることも賞賛されることも、同じように有害だからです。

 11. したがって、哲学に難を避けねばなりません。この研究は、善良な人々の目からだけでなく、悪しきところのある人々の目から見ても、ある種の保護の証となります。法廷での演説や、人々の注意を引くための他の手段は敵をも作ります。しかし、哲学には平和があり、自身の務めのみを考えます。哲学は軽蔑され得ず、全ての職業から―—最も低劣な職業からすら―—尊敬を受けています*6。哲学の名が崇拝され、神聖視されることが無くなるほどまでに、悪が力強くなることも、美徳が謀反を引き起こされることも決してないでしょう。

 しかし、哲学自体には、冷静に穏やかに、取り組む必要があります。12. 「それでは」と君は反論します。「マルクス・カトーの哲学は穏やかなものでしたか?カトーは内戦を阻止せんと声を挙げ、狂った二人の支配者(カエサルポンペイウス)の間に分け入りました。ある者はポンペイウスに敵対し、ある者はカエサルに敵対した時、彼はそのどちらにも敵対したのです!」13. しかし、その時代に、賢者が公務に関わるべきだったのかを疑問に思う人もいるかも知れません。そして、次のように言うでしょう。「マルクス・カトーよ、あなたは何を考えているのですか?今は自由が問題ではありません。自由が欠落し、崩壊してから既に長い時が経っています。問題は、カエサルポンペイウスのどちらが支配者になるのかということです。カトーよ、なぜあなたはその争いに関わる必要があるのですか?それはあなたの仕事ではありません。君主は今まさに選ばれています。誰が支配者になるかということに、何の関心があるのですか?善い人が勝つかも知れませんが、勝者は負かした相手より悪しき存在でいないことはできません*7」僕がいま触れたのはカトーの最期の役割についてですが、それ以前の時代ですら、賢者はそのような国家の暴力に介入することは許されていませんでした。カトーはただ声を上げて無力な言葉を発する以外に、何ができたというのでしょう?ある時彼は暴徒に押し出され、唾を吐きかけられ、追放者として中央広場フォルムから強制的に連れ出されました。また別のある時には、元老院の議場から牢獄に連れていかれました。

 14. しかし、賢者が国政に関心を向けるべきかどうかは、またいつか見ていくことにしましょう。今のところは、僕は君に、大きな権力を持つ者の不快を招くことなく、人格を修養し、人々の為の法を策定するために、大衆との交わりを絶ち、自身の内に引きこもるストア派の教えを熟慮するよう願います。賢者は人々の慣習を逆撫でするようなことはせず、奇抜な生き方で大衆の注目を集めることもありません。

 15. 「それではどうでしょう?このように生きる者は、いかなる場合も安全なのですか?」節制に努める人であっても健康を保証することはできないように、そんなことは僕は君に保証できません。とはいえ実際のところは、健康はそうした節度から得られます。船は港で沈むこともありますが、外洋では更にどんなことが起こり得るでしょう?そして、余暇の間でさえ安全でない人は、沢山の仕事に忙殺されている時、どれほど多くの危険に晒されていることでしょう!罪なき人でも死ぬことがあります。誰がそれを否定できますか?しかし有罪者はより確実に死ぬでしょう。鎧を貫く一撃に倒れるのは、戦士の力量不足ではありません。16. つまり、賢者はあらゆることに考えを巡らせて行動しますが、結果については考えません。始まりはわれわれの力に任されており、運命が結果を決めますが、われわれ自身について運命が判決を下すことを、僕は許しはしません。君は言うでしょう。「しかし、運命は何らかの苦痛と困難を与えます」追い剥ぎは人を殺すことはできても、判決を下すことはできません。

 17. さて、今や君はいつもの贈り物のために手を伸ばしているところです。僕が君に与える贈り物は、まさしく黄金です。そして、黄金と言ったからには、それを活用して楽しむことが、どのように君に大きな喜びをもたらすかを話しましょう。「最も富んだ人とは、富を必要としない人だ」君は言う。「誰の言葉か教えて下さい!」さて、僕がどれほど懐が深いかを示すために、他の学派の言葉を賞賛したいと思います。この言葉は、エピクロスか、メトロドロス*8か、あるいは彼らに連なるいずれかの学派のものです。18. しかし、誰がそれを言ったかによって、どんな違いが生じるというのでしょう?彼らの言葉は全ての人のためのものです。富を切望する人はそのために恐怖を抱きます。しかし、不安をもたらす財を楽しめる人はいません。彼は常に、更にもう少し、と望むようになります。彼は富を増やすことに頭を悩ませている間に、どのようにそれを使用するかを忘れてしまいます。彼は自分の勘定を受け取り、中央広場フォルムをすり減らし、元帳をひっくり返します。つまることろ、主人ではなく奴隷になっているのです。お元気で。

 

 

 

英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 14 - Wikisource, the free online library

 

解説

 五段落目のような哲学への賛美は、セネカの著作には頻繁にみられるものだが、そのいずれも優れた文章となっている。「人生の短さについて」の中でも哲学をすることこそ真の意味での時間の有効な使い方とある。以下に長くなるがそのまま引用する。

 

・真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある

 すべての人間の中で閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。彼が生まれる以前に過ぎ去っていったあらゆる年月が、彼の年月に付け加えられるのである。われわれがひどい恩知らずでないというなら、こう考えるべきだーー人々に尊敬される諸学派を作り上げた高名な創設者たちは、われわれのために生まれてくれた。そして、われわれのために、生き方のお手本を用意してくれたのだと。

 他人が苦労してくれたおかげで、われわれはとても素晴らしいものへと導かれていく。それは、〔過去という〕暗闇の中から掘り起こされて、光を当てられるのだ。われわれに閉ざされた時代などない。われわれは、すべての時代に近づくことを許されている。われわれは大きな心で、人間の弱点である視野の狭さを克服しようとするだけでよい。そうすれば、広大な時間が目の前に広がり、われわれはそこを訪ね歩いていくことができるのである。

 われわれには、ソクラテスと共に、議論することが許されている。カルネアデスと共に、懐疑することが許されている。エピクロスと共に、安らぐことが許されている。ストア派の哲人たちと共に、人間のさがに打ち勝つことが許されている。キュニコス派の哲人たちと共に、人間のさがから自由になることが許されている。

 自然は、われわれに、すべての時代と交流することを許してくれる。ならば、われわれは、この短く儚い時間のうつろいから離れよう。そして、全霊をかたむけて、過去という時間に向き合うのだ。過去は無限で永遠であり、われわれよりも優れた人たちと過ごすことのできる時間なのだから。

 

 あの連中を見ろ。彼らは自分のつとめを果たすために、あちこち歩き回っている。自分だけでなく、他人にもわずらわしい思いをさせている。彼らは、狂ったようにつとめを果たそうとすることだろう。毎日あらゆる家の玄関を訪ね歩き、開いている門があれば、決して見逃さないだろう。彼らは遠く離れた家々を訪ね歩き、金めあてのごきげん伺いをすることだろう。だが、この都はあまりに巨大で、さまざまな欲望が渦巻いている。そんな場所で、いったい、彼らがどれだけの人に会えるというのか。

 寝ているために、あるいは自分勝手や礼儀知らずゆえに、彼らを締め出してしまう人たちが、なんと多いことか。

 〔外で待っている〕彼らに長時間苦しい思いをさせたあげく、急ぐふりをして彼らをすり抜けていく人たちが、なんと多いことか。

 手下の者たちであふれる客間を通って外出するのを避けて、人目につかない屋敷の裏口から逃げていく人たちが、なんと多いことかーーまるで、追い出すよりも、だましたほうが人間的だといわんばかりではないか。

 前の晩に飲みすぎて、半分眠った重たい頭で、可哀想な彼らにーーなにしろ彼らは、自分は眠らずに、眠っている他人を待っているのだーーふてぶてしくあくびをしながら、その名を呼んで挨拶してやる人たちが、なんと多いことか。しかも、その名さえ、召使が〔相手に気づかれないように〕ほとんど唇を動かさずに、〔主人の〕耳元で千回はささやかないと分からないときている。

 

 むしろ、次のような人たちこそ、自分の本当のつとめを果たしていると考えるべきだ。すなわち、ゼノン、ピュタゴラスデモクリトス、をはじめとする学問の神官たちや、アリストテレスやテオフラストスを、毎日つき合う親友にしたいと望む人たちである。

 これらの哲人たちは、いつでも時間を空けてくれる。彼らのもとを訪れれば、帰る時にはいっそう幸福になり、自分をいっそう愛するようになっている。彼らのもとを去るときには、手ぶらで帰ることを許してくれない。そして、夜であろうが昼であろうが、すべての人間が、彼らのもとを訪れることができるのである。

 彼らは、決して、あなたに死を強要しない。むしろ、彼らはみな、あなたに死を教えてくれるだろう。彼らは、決して、あなたの人生の年月を無駄に使わせない。むしろ彼らは、自分の年月を、あなたにつなげてくれるだろう。彼らのだれと言葉を交わしても、危険な目にあうことはない。彼らのだれと交際しても、命を狙われることはない。彼らのだれにつき従っても、金を失うことはない。あなたは、彼らのもとから、なんでも望むものを持ち去ることができるだろう。(もっとも、あなたは、あなたが受け入れうる最大の量を、汲み取れないかもしれない。しかし、それは彼らの責任ではない。)

 そんな哲人たちに保護された人には、どれほどの幸福が待ち受けていることだろう。どれほどすばらしい老年が待ち受けていることだろう。その人は持つことになるであろう。どんなに小さなことでも、どんなに大きなことでも、相談に乗ってくれる友を。ばかにせずに真実を教えてくれる友を。見習うべき手本になってくれる友を。

 われわれは、よくこう言うーーわれわれは、だれを自分の親にするか選べなかった。親は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望み通りの親の子として生まれることも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには、〔学派という〕それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選びなさい。あなたは、たんに家の名だけでなく、財産をも受け継ぐことになるだろう。あなたは、その財産を、みみっちくけちけちと守る必要はない。それは、多くの人に分け与えられれば、それだけ増えていくのだから。

 彼らは、あなたに永遠への道を開いてくれることだろう。決して引きずり降ろされることのないあの高みにまで、あなたを引き上げてくれることだろう。これこそ、死すべき生を引き延ばす唯一の方法、いやそれどころか、それを不死なる生に転換する唯一の方法と言えるのだ。

 名誉の称号とか、記念碑のようなものーーすなわち、なんであれ、功名心を満たすために〔元老院で〕決議されて公布されたものとか、労役によって建てられたものーーは、いずれ滅び去る。長い年月がすべてを破壊し、変化させてしまうのだ。これに対して、英知の力で神聖になったものは、傷つけることができない。そのような神聖なものが、ある時代に滅んだり、衰えたりすることはないのだ。次の時代、その次の時代と、時がたてばたつほど、ますます尊敬されることになる。なぜなら、近くにあれば嫉妬心が生まれるが、遠くにあれば素直な気持ちで賞賛できるのだから。

 それゆえ、賢者の人生はとても広大だ。賢者は並みの人間の限界を超えている。賢者だけが、人類のさまざまな制約から解放されている。あらゆる時代が、神のごとき賢者の前にひれ伏すのだ。

 時が過ぎ去った。賢者はそれを記憶の中に包み込む。時が、今ここにある。賢者はそれを使いこなす。時がやってくるだろう。賢者はそれを予測する。賢者は、すべての時をひとつにつなげる。そうやって、自分の人生を長くするのである。

 

               光文社古典新訳文庫「人生の短さについて」14.1~15.5

 

 

 

 

 

 

*1:スピリチュアリズムで言う所の「霊主肉従」の状態が望ましいということ。セネカのこの主張は、この後も頻繁に登場する

*2:仕事にために生きているのではなく、生きるために仕事をしている、という感じか

*3:イタリア側

*4:ギリシャ神話の怪物で、大渦巻を起こすとされ、このメッサナ海峡に住むと後に考えられた

*5:他人を恐怖させるほどの大きな力などがかえって嫉妬や軽蔑の対象となって、逆に自分が恐怖することがないよう、気をつけろということ

*6:「人生の短さについて」14,15章参照。今回は解説にそのまま引用もしてる

*7:善い人が勝っても、すぐに支配者という「悪しき人間」になる、という意味

*8:エピクロスの弟子であり親友。書簡6参照