徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡15 筋肉と頭脳について

 1. 古いローマ人の習わしで、今も続いているものがあります。手紙の冒頭に、「ご健勝にてお過ごしのこと慶び申し上げます。当方も元気です」と付け加えるものです。われわれなら、こう言うのがよいでしょう。「哲学に精進のこと慶び申し上げます」これこそが「健勝」の真の意味なのですから。哲学することのない精神は病んでおり、身体は大変力強いかも知れませんが、発狂者や精神異常者の力が強いのと一緒です。2. したがって、君はこの種の健康に第一に気を配り、その他の意味の健康については後回しにして下さい。肉体を健全にするのに必要な労力はわずかで済みます。ルキリウス君、学問をする人が、筋肉を鍛えたり、肩幅を広げたり、肺を強くするために苦心するのはまったく愚かであり、ふさわしいことではありません。もしも大食が功を奏し、強大な筋力を得たとしても、力強さにおいても重量においても、第一級の牛には敵いません。その上、過剰に食べ物を与えられた体は、魂を絞め殺し、その活動を弱めます。したがって、肉体は可能な限り制限し、精神が自由に活動する場所を広げる必要があります。3. 肉体の鍛錬に過度に執着するものには、多くの不都合が生じます。まず第一に、過剰な運動により生命力を浪費し、緊張や、より厳しい学問の研究に耐えられなくなります。第二に、食べ過ぎにより理性の繊細さが失われます。その上、彼らは最も低劣な連中*1を手本にすることになりますーー香油と酒を交互に浴び、たっぷり汗をかいた埋め合わせをせんとして、空腹ゆえよりいっそう深く染み込む大量の酒をあおることに、日々の喜びを覚えるような連中です。飲むことと汗をかくことーーそれはまるで消化不良の患者*2の生活です。

 4. さて、運動には、短時間でできる簡単なものもあります。それはすぐに体を疲れさせるので、時間の節約になりますーー時間はとても大切なものですから。そうした運動とは、走ったり、重いものを動かしたり、飛び跳ねたりーー高く跳ねたり遠くまで跳ねたりーー、あるいは僕が、「神官の踊り*3」と呼ぶ類のもの、あるいは、もっと身近なものでいうと、「洗濯屋の踊り*4」などです。どれでも好きな運動を選んで下さい。いずれも簡単で、実行しやすいものです。5. しかし、どれを選ぶにせよ、速やかに体から心に戻って下さい。精神は適度な修練により養われるもので、昼夜を問わず鍛えられねばなりません。この種の修練は、暑さや寒さ、さらには老齢によっても妨げられることはありません。年齢を重ねるほどに、よりよくなるものを育てましょう。6. もちろん、読書や書きものにいつも従事しろと言ってる訳ではありません。精神には休息が必要ですーーその休息は、少しリラックスする程度のもので、完全に気を緩めるものであってはなりませんが。駕籠かごに乗ることは体を揺り動かしますが、勉強の妨げにはなりません。本を読んだり、口述したり、会話したり、人の話を聞いたりできます。また、歩くことも、これらの妨げにはなりません。

 7. 君は発声についての学問を軽視する必要はありませんが、音階や特定の抑揚に沿って、声を張り上げたり落としたりすることは謹んで下さい。次は歩き方についての学問も教わることになったらどうしますか?食べることに困って新奇な仕事を案出したような人*5に君が相談すると、彼は君の歩幅を調節し、食べる時に一口一口監視し、君が辛抱強く我慢し、信用している限り、どこまでも調子に乗って君に付きまとうことでしょう。君は言います。「では、どうすればいいのですか?私の声は最初から叫ぶように大きくし、肺を最大限膨らませるのがよいのでしょうか?」いいえ、少しずつ大きな声になっていくのが自然です。言い争う人達でも、通常の会話の調子から始まり、最後には大きな声で叫ぶのと同様です。いきなり大声で、「市民の皆さん!お願いします!」と叫び出す演説家などいません。8. したがって、君の精神の衝動が君に促す時はいつでも、その方向に動かされるのに従って、君の声と精神に合わせて、ある時は大きな声で、ある時は穏やかな調子で、声をあげるのがよいでしょう。次に、声を抑えて大地に呼び戻す時には、つぶれないようゆっくり落として下さい。無学な田舎者がするように熱狂から突然落とすのではなく、高い調子と低い調子の間で徐々に減衰するようにすべきです。私たちが声を操るのではなく、声が私たちを操るのでなければなりません。

 9. ほら、これで僕は少なからず君の面倒を軽減しました。そして僕は、もう一つおまけの言葉ーーギリシャ語のーーをお送りしましょう。その優れた言葉とは、次のものです。「愚か者の人生には感謝がなく、恐怖に満ちており、未来のことばかりを気にかけている*6」君は言います。「誰がこの言葉を述べたのでしょう?」僕が前に言ったのと同じ人物*7です。そして、愚か者の人生とはどんな意味だと君は考えますか?ババやイシオ*8の生活ですか?いいえ、われわれ自身のものを意味します。というのも、われわれは盲目的な欲望によって、自身を危険に晒す生活に突き落としているのです。しかし、何事にも満足することを知らないわれわれは、決してとどまることがないでしょう。もし満足できるなら、はるか以前にできているはずです。われわれは、何も欲しないことがどれだけ喜ばしいことか、満足して運命に依存しないことがどれほど素晴らしいことかを知りません。10. ですから、ルキリウス君、君がどれだけ多くの望みを果たしてきたかを、常に思い起こすようにして下さい。君の前に多くの人がいるように見えたら、君の背後にどれほど多くの人がいるかを考えて下さい!神々に感謝し、君のこれまでの人生に感謝すれば、君がどれほど多くの人々を追い越してきたかが分かるでしょう。しかし、他の人々がなんだというのでしょう?君は君自身を追い越してきたのですから。

 11. 限界は定めておいて下さい。たとえ余力があってもそこを越えたいとは思わないような限界を*9、です。そして最後にはこれらの危険な善を全て遠ざけましょう!そうした善は、それらを成し遂げた人よりも、それらを望んでいる人により良く見えるだけです。それらに何か本質的な善があれば、遅かれ早かれ君を満足させたでしょうが、実際は、よりいっそう喉の渇きをひどくするだけのものです。見かけだけの装飾は捨てましょう!未来の不確実な運命に待ち受けるものについて、運命に何かを求めるよりも、むしろ自分自身に、そんなものは望まないよう求めましょう。どうして望む必要があるのでしょう?富を積み重ねたところで、人の運命は脆いものだということを、忘れられるのでしょうか?何のためにわれわれは苦労しているのでしょうか?そら、今日が最期の日です。そうでなくとも、最期の日からそう遠くないのです。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 15 - Wikisource, the free online library

 

・解説

 「哲学することのない精神は病んでいる」これほどの名言を知らない日本人が大半というのはつくづく情けないものだ。日本の哲学の偉い「先生」の何人が、セネカのこの素晴らしい言葉を知っているだろう。哲学に対するセネカの絶対の敬意は、彼を最高の哲学者たらしめている。ところが現代の日本では、哲学は精神の健康どころか病の象徴か何かのように扱われている。たまにその名を聞くと思えばハイデガーとか西田とか、とにかく権威ばかりで中身が意味不明な連中を、何か複雑ですごいことを言ってそうだという理由だけで崇めている。

 また、過度に肉体を鍛えることを戒めているのも素晴らしい。ルドルフ・シュタイナーも「人体と宇宙のリズム」という本の中でスポーツに過度に関心を持つことの弊害を説いている。以下に引用する。

 

 人間は精神世界について考えないことによってのみ精神世界から遠ざかる、と思ってはなりません。スポーツをしすぎることによっても、精神世界から遠ざかるのです。つまり、物質的身体をエーテル体からまったく離れさせることによって、人間は精神世界から遠ざかるのです。これは人間にとって恐ろしいことであり、まったく気がかりなことです。

スポーツに打ち込むと、人間は精神的なものを忘れます。そういう人たちは、死ぬと、すぐに精神世界から戻ってきます。西洋文明全体が精神を受け取らないと、精神世界に戻りたくない人間のみが地上に住むようになるでしょう。そうなると、しだいに地球を崩壊させる人間たちのみが地上に住むようになるでしょう。すでに、そうなりはじめています。人間がもはや、まったくエーテル体へと向かわず、物質的身体のみに向かうと、地上には恐ろしい状態が到来するでしょう。ですから、精神科学によって介入しなければなりません。人間を物質的身体のなかに駆り立てて、まったく地上的にする働きに、別の働きを対峙させることによってのみ、それは達成できます。

いま人間は、最も重要なのは地上的人間になることだ、とかんがえています。このような状況に、みなさんは心が痛むでしょう。

私は去年の夏、イギリスに行ってきました。イギリスを発つとき、イギリス全体が興奮に満ちており、夕刊に載る重要な出来事を待っていました。みんながかたずを飲んで、いまかいまかと、夕刊を待っていました。何を待っていたのでしょう。サッカーの結果です。

私たちは、ノルウェーから下ってきたところでした。私はたちが乗車すると、多くの人々が私たちとともに乗車しました。プラットフォームは満員でした。汽車が動き出すと、「万歳、万歳」という声が響き渡りました。つぎの駅でも、「万歳」の、人々が叫びました。もちろん、私たちに向かって歓声が上げられたのではありません。中欧からやってきたサッカー選手たちが、汽車で帰るところだったのです。

今日、人間は何に興味を抱いているのでしょう。何百万という人々の幸福と苦痛に関わる出来事よりも、物質的身体をエーテル体から引き離すもの、つまりスポーツに今日の人間は関心があり、人間は地上動物になっていくでしょう。

        ルドルフ・シュタイナー「人体と宇宙のリズム」西川隆範訳P71~73

 

 体育会系の人間の凶悪性に満ちた顔つきやその粗暴さ、実際に社会にもたらしている暴力性や残忍性について考えてみればすぐに分かると思う。彼らはまさに「地上動物」と言っていいほど理性とは無縁で、この世を地獄にしていく連中である。

 

 そして、健康のための運動には殆ど労力を要さないとセネカは説く。このあたりは、「itスペシャリストが語る芸術」でも素晴らしく論考されているので、ぜひ参考にされたい。簡単な跳躍や、腕振り運動、歩くことでも十分な運動になる。ところがメディアでもネットでも、運動は何かチームで球遊びをしたり、金を払ってジムに行って何十キロもするダンベルをこの上なく苦しい顔をして持ち上げたり、必死で息を切らしながら何キロも走ることでないと、「体にいい運動」と認めたがらない連中がいる。そんな連中はおよそ自己顕示欲やマウントに捉われている卑劣な連中なのだが、そんな連中のせいで楽な運動の機会も奪われ、不健康になってしまう連中も多い。全てはスポーツを過度に賞賛することでその利権にありつき、下らない承認欲求や金銭欲や性欲を満たそうとするこの上なく醜い連中が原因である。2000年も前からそうした卑劣な連中を断罪するセネカが、最も優れた哲学者でないはずがないだろう。

 

*1:運動の指導者として雇い入れた奴隷教師

*2:ぶどう酒を飲み汗を出して治療していた

*3:軍神マルスに仕えた古代ローマの神官団サリー(Salii)の踊り

*4:洗濯屋は桶に服を入れて、その上を飛んだり跳ねたりして洗った

*5:今でいうマナー講師のようなもの

*6:「過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる人たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちている」人生の短さについて16.1

*7:エピクロス

*8:いずれも愚か者のこと

*9:「とはいえ、われわれをこのような精神の動揺から解放してくれる最も優れた方法は、つねに自分の出世の上限を決めておくことだ。どこでやめるかを運まかせにせず、そのはるか手前で、自分からやめるのだ。もちろん、そのようにしても、精神を駆り立てる欲望は、いくらかは残るだろう。しかし、その欲望は、限度をわきまえている。だから、精神が、不確実な領域に、どこまでも連れていかれてしまう心配はないのだ。」心の安定について10.6