徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡71 最高善について

  1. 君は僕と広大な海を隔てて離れていることも忘れて、僕に特別な問いを立て続けています。しかし、助言の価値の大半はそれが与えられた時期に左右されるため、ある問題に関しての僕の意見が君に届く頃には、反対の意見のほうが優れている、という結果に必然的になるはずです。助言とは状況に応じたものですし、われわれの状況はそのまま続くというよりは、振り回されるものですから。したがって、助言は早いうちに為される必要があります。そして、これでも遅すぎるくらいです。よく言われるように、「(問題が)手中にある内に」為されねばなりません。そして、その手段をどうやって見出せばよいかを、君にお示ししたいと思います。

 2. 何を避けるべきか、何を求めるべきかを知りたい時には、最高善との関係、人生全体の目的との関係をよく考えて下さい。われわれが行うことは何であっても、それらと調和する必要があるからです。誰も自分の人生の主目的をあらかじめ自己の前に設定しない限り、細部を秩序あるものにすることはできません。画家は全ての色を準備したとしても、あらかじめ何を描きたいかを決めていなければ、肖像画を描くことはできません。われわれが過ちを犯す理由は、誰もが人生の一部を考慮するだけで、一人も全体のことは考慮しないからです。3. 射手は自分が何を射ようとしてるかを知らなければなりません。その次に狙いを定め、弓を巧みに操る必要が生じます。われわれの計画は、目的がないから失敗します。自分がどこの港に行けばよいかを知らない者には、どんな風も順風とはなりません。われわれは偶然に生きているので、われわれの人生に偶然が大きな影響力を持つのは必然です。4. しかし、自分が或ることを知っている、ということを知らない人たちがいます。われわれがしばしば、自分の側にいる人を探し回るのと同じように、われわれは最高善の目標が近くにあることを忘れがちです。

 この最高善について推察するのに、多くの言葉や回りくどい議論は必要ありません。それは言うなれば指一本で指し示されるべきであり、多くの部分に分散されるべきではありません。というのも、最高善とは立派なものだと言うことができる時、それを小さな断片に分割することに何の意味があるでしょうか?さらに(これについて君はいっそう驚かれるかも知れませんが)、立派であるものだけが、唯一の善です。他の種類の善は全て、偽造品や劣化品です。5. 君がひとたびこのことを自分自身に納得させ、美徳を深く愛するようになれば(ただ愛するだけでは不十分ですから)、美徳に触れられたものは全て、たとえそれが他人からどのように見られようとも、君にとって祝福と栄誉に満ちたものになるでしょう。拷問にしても、君が苦痛を受け横たわっているだけであるなら、拷問を加える者よりも心が穏やかでいられますし、病にしても、君が運命を呪うことなく、病苦に屈することがなければ―—つまり、他人が災いだと見做すこれら全てのことを克服するのに成功すれば―—、それらは御し難いものではなくなり、善の結果をもたらすでしょう。

 立派なもの以外は何も善ではないことを、今一度明確にしておきましょう。そして、ひとたび美徳がそれを立派なものとすれば、あらゆる苦難は「善」という正当な称号を得るでしょう。6. 多くの人々は、われわれストア派は人間の常識を超えたことを要求すると考えています。そして彼らがそう思うのはもっともです。彼らは肉体についてしか考えていませんから。しかし、彼らを魂に立ち返らせましょう。そうすれば、神の基準で人間を測るようになるでしょう。自分自身を奮い立たせて下さい、最も優れたるルキリウス君。そして哲学者たちのかの言葉遊びは全て止めにしましょう。彼らは最も輝かしい主題を音節の問題に貶め、細々しいことを教えることで魂を低劣なものにし、疲弊させます。そして君は、その教えにより、哲学を偉大なものではなく難解なものと思わせることに全力を尽くした連中ではなく、かの教訓を発見した(哲学の先達の)人々のようになって下さい。

 7. 哲学の全てを〔無益な問答論法から〕行動規範へと呼び戻し、最高の英知とは善と悪を区別することにあると主張したソクラテスは、次のように述べています。「もし私の言葉に重みを感じたのなら、君が幸福になるために、これらの行動規範に従いたまえ。そして一部の連中には、君を愚かだとでも思わせておけばよい。君に侮辱と不正を与えたがる連中のことは放っておくがよい。美徳さえ君に宿っていたら、君は何も苦しむことはないのだから。もし君が幸福になりたいのなら、もし君が誠実な善良な人でありたいのなら、君を軽蔑する人にはさせておきたまえ。」すべての善が同等であると考えることができなければ、誰もこのようなことを達成することはできません。なぜなら、立派さを伴わない善は存在しないし、立派さはあらゆる場合に同等ですから。君は言われるでしょう。8. 「では何でしょう?カトーの法務官プラエトルへの当選・執政官コンスルへの落選には*1、何の違いもないと言うのですか?あるいはファルサスの戦場*2でカトーが勝つか負けるかは?そして、彼の党派*3は敗北してもカトー自身は打ち負かされなかった時、彼のこの善は、*4勝利して祖国に戻って和平を調停すことができた場合に得られたものと同じものなのでしょうか?」もちろん同等だったでしょう。なぜなら、悪運が克服されるのも幸運が制御されるのも、同じ美徳によるものですから。しかし美徳は、増やすことも減らすこともできません。美徳の身長は均一です。9. 「しかし」君は反論されるでしょう。「グエナウス・ポンペイウスは彼の軍隊を失うでしょう。あの国家の最も高貴な模範である貴族たち、ポンペイウス党の最前線にいる人たち、武器を持った元老院議員*5は、ただ一度の交戦で敗走するでしょう。あの偉大な寡頭政治の崩壊は世界中に散らばるでしょう。その一部はエジプトで、一部はアフリカで、一部はヒスパニアで打ち倒されるでしょう*6!そして、この哀れな国家には、一度だけ敗北することすら許されないでしょう!」10. ええ、これら全ては起こり得ることです。ユバ王*7が自国のあらゆる土地に精通していることは、彼には何の役にも立たないし、王のために戦う国民の確固たる勇気も、何の役にも立たないでしょう。ウティカで戦った人たちでさえ*8、苦境に打ちひしがれて、忠誠心が揺らぐかも知れません。そして、かつてはスキピオの名を持つ人々に与えられた幸運も、アフリカでスキピオを見捨てるでしょう*9。しかし、ずっと以前から、「カトーには何の損害も与えることはできない」ことは決まっていたのです。

 11. 「それにも関わらず、カトーは敗北したではありませんか!」ええ、そして君はこれも、カトーの「落選」に含めてもいいかも知れません。カトーは、執政官職を妨害したものに耐えたのと同じ高潔な精神で、勝利を妨害したものにも耐えたことでしょう。落選した日、彼は遊戯に耽っていましたし、死のうとした夜、読書に耽っていました*10。彼は執政官職を失うことも生命を失うことも同じ観点から捉えていました。彼は何が起ころうとも、それに耐えるべきだと自分に言い聞かせていました。12. どうして彼が、勇敢にかつ冷静に、権力の変転に耐え忍ばないことがありましょうか?変化の危機を伴わないものが何かあるでしょうか?大地も大空も、そしてわれわれの宇宙を織り成す全ても、神の手によって制御されてはいても、変化するものです。宇宙の秩序は、いつも同じまま維持される訳ではありません。やがてはその進路から外れることになるでしょう*1113. あらゆるものは定められた期間に従って活動します。全ては誕生し、成長し、そして消滅する運命にあります。君が天球にその動きを仰ぎ見る星々も、われわれが固着し、その上で暮らす一見盤石なものに見えるこの地球も、焼き尽くされ、存在しないものとなります。老いることがないものは、何もありません。自然は同じ目標に向かってこれら全てのものを送り出すのですが、その間隔に不均等があるだけです。存在する全てのものは存在しなくなりますが、完全に消滅するのではなく、分解されるのです。14. われわれは、この分解の過程を死滅と考えます。それはわれわれが、近視眼的にものを見ているからです。われわれの怠慢な精神は肉体に忠実であり、その骨子を透徹して背後にあるものを見ようとはしません。そうでなかったら*12、精神は自身の終末とその所有物の終末を、もっと勇敢に耐え忍ぶでしょう―—もし精神が、われわれの宇宙全体と同じように、生と死は交互に移り変わり、組み立てられたものは全て分解され、分解されたものは全て再び組み立てられ、万物を支配する神の永遠の御業は、この働きを統御することを望みさえするならば。

 15. したがって、賢者は自分の過去の人生を振り返った時、マルクス・カトーが言うようなことを述べるでしょう。「人類は皆、今存在する者もこれから存在する者も含めて、死を宣告されている。いつかの時代に世界を支配してきた全ての都市も、強大な他国の美麗な装飾となった全ての都市も*13、人々はいつかそれらがどうなったかを尋ねるが、その顛末は様々な種類の破壊による消滅だろう。ある都市は戦争によって破滅し、またある都市は無活動や怠慢に終わるある種の平穏や、あるいは強大な王国をも破壊しうる悪徳、すなわち贅沢によって破滅するだろう。これら全ての肥沃な平原*14は、突然の海の氾濫により沈んで見えなくなるか、あるいは土地が下層に陥没する時に滑り落ちて、突然大きな口を開けた裂け目に引きずり込まれるだろう。では、もし私が全体の破滅にほんの僅かな時間先んじたからといって、どうして怒ったり、悲しみを感じたりする必要があるだろう?」16. 偉大な魂をもって神の御心に従い、宇宙の法則が定めたことは何であれ、厭うことなくそれに耐え忍びましょう。なぜなら、死後の魂はより良い生活に送り出され、より大きな輝きと静けさの中で神と共に過ごす運命にあるか、そうでなければ、少なくとも自身には何ら害を被ることなく、再び自然と混ざり合うことで、元の宇宙に戻るかのどちらかだからです*15

 したがって、カトーの名誉ある死は、彼の名誉ある生に劣らない善でした。美徳は引き延ばされはしませんから。ソクラテスは真理と美徳は同じであると言っていました。真理が大きくならないのと同じように、美徳も大きくなりません。なぜなら、それらは自身に相応しい比率を持ち、完全だからです。17. ですから、意図的に選び取るものと、状況によって強いられるものの善が同等に等しいということを、不思議に思う必要はありません*16。なぜなら、もし君がそれらは同等ではないという意見をひとたび採用し、たとえばより勇敢に拷問に耐えることを劣った善と見做すなら、君はそれを悪しきものの中に含めることになりますから。ソクラテスは牢獄で不幸であったと、カトーは最初の傷を負った時以上に勇気を持って再び自身に傷を負わせた*17時に不幸であったと、レグルス*18は敵に対してさえも約束を守って罰を受けた時に最も不幸であったと、言うことになるでしょう。しかし、世の中の最も女々しい人々においてさえ、あえてそのような主張*19をする人は誰もいません。というのも、たとえそのような人たちでも、レグルスが幸福であることは否定できても、惨めであると主張することはできないからです。18. 初期のアカデメイア派の人々*20は、そのような拷問の中でも人間が幸福であることは確かに認めていますが、それが完全で、満ち足りた幸福であるとは認めていません。この見解について、われわれ(ストア派)は全く同意できません。なぜなら、人は幸福でなければ、最高善を達成したことにはならないからです。そして、もし人の中に美徳がありさえし、逆境が美徳を弱めることなく、たとえ肉体が傷ついても美徳が無傷で保たれるのであれば、最高善はそれ以上の程度は必要としません。そのままの状態で続くのです。なぜなら、美徳とは高潔な精神を持った崇高なものであり、その障害となるものによっていっそう奮い立つものであると僕は考えますから。19. この精神は、生まれつき高貴さを兼ね備えた若者が、或る崇高な存在の美しさに深く心を打たれ、偶然の産物を軽蔑するようになった時に、しばしば抱くものです。そうした精神はきっと、英知によりわれわれの中に注ぎ込まれ、伝えられていくでしょう。英知は、善なるものはただ一つ、崇高なものに他ならないことを、確信させてくれるでしょう。直線の指標となる大工の定規は曲げることはできないのと同じように、善なるものは縮めたり伸ばしたりすることはできません。定規を曲げると、直線は意味を為さなくなります。20. したがって、美徳についても同じように考えると、次の通りです。すなわち、美徳もまた真っ直ぐなものであり、曲げることは許されません。すでに硬直していてそれ以上に、固くすることができるものがあるでしょうか?それが美徳であり、美徳はあらゆるものに対して判断を下しますが、美徳について判断を下すものは何もありません。そして、もしこの美徳という定規がこれ以上に真っ直ぐにすることができないのであれば、美徳に沿って為されたことが、ある場合にはより真っ直ぐであり、別の場合はあまり真っ直ぐでない、などとすることはできないのです。なぜなら、それらは必然的に美徳に対応するものになり、同等なものとなるからです。

 21. 「何ですか?それでは」君は言われる。「宴会で横たわることと、拷問を受けることは、同等の善だと言うのですか?」君にとってこれは驚くことでしょうか?次のことには、よりいっそう驚かれるかも知れません―—もし前者が恥ずべき精神で行われ、後者が立派な精神で行われたのであれば、宴会で横になることは悪であり、拷問台に横たわることは善であることを。それらの行いが善か悪かを決めるのは出来事ではなく、美徳なのです。美徳が自らを示したあらゆる行いは、同等の基準と価値をもちます。22. 今この瞬間、すべての人の魂を自分の〔矮小な〕心を基準に測る男が、僕の顔に向かって拳を振るっています。それは僕が、崇高な判決を下す人と、崇高な判決を受ける人*21に関する善が、同等であると主張するためです。あるいは、勝利を祝う者の善と、勝者の凱旋車の前に引きずり出されても、精神は敗北しなかった者の善が、同等であると主張するためです。もっとも、そのような批判をする人*22は、自分たちにできないことは、何事も行うことが不可能だと考えているのです。彼らは自分たちの弱さに照らし合わせて、美徳について判断しているのです。23. 焼かれたり、傷を負ったり、殺されたり、牢獄に投げ入れられたりすることが、或る人には有益であり、時に喜ばせさえすることを、どうして驚く必要があるでしょう?贅沢な人間にとって質素な生活は懲罰であり、怠惰な人間にとって労働は刑罰であり、気取った人物は勤勉を惨めに思い、無精な人間にとって学問は拷問です。われわれは同様に、皆が苦手とする事柄に関して、辛くて耐えられないものだと考えています。多くの人にとって、ワインを控えたり、明け方早くに寝台から引きずり出されることが、どれほど大きな苦痛かも忘れて*23。これらのこと*24は本質的に困難なものではありません。われわれ自身が、柔弱に弛んでしまっているのです。24. われわれは偉大な事柄に関しては、偉大な精神をもって判断を下さなければなりません。そうでないと、実際にはわれわれの欠陥であることが、事柄の欠陥であるように見えてしまいます。たとえば、完全に真っ直ぐであるものが水に沈むと、見ている人の目には、曲がったり折れたりしているように映ってしまいます。何を見るかだけでなく、どのように見るかが重要です。われわれの魂は視覚が鈍すぎて、真理を認識することができません。25. しかし、汚れのない、頑強な精神の若者を僕に与えて下さい。彼は言うでしょう、逆境の全ての重みに屈することなく両肩で支え、運命よりも上に立つ者は、よりいっそう幸福である、と。静かな時に動揺しないことは、驚くことではありません。他の人全員が沈んでいる時にある人が高められ、他の人全員がひれ伏している時にある人が立ち続けていることに、驚きを抱いて下さい。

 26. 拷問やその他の、われわれが苦難と呼ぶものに、どんな悪の要素があるのでしょう?僕としては、精神が弛んだり、折れたり、崩れたりすることの中に悪があると考えます。しかし、このようなことは賢者には決して起こりません。彼はどんな重みがのしかかっても真っ直ぐに立っています。何ものも彼を抑えつけることはできません。耐えねばならない何ごとも、賢者を煩わせることはありません。なぜなら、賢者は誰にでも降りかかる可能性のあるものに襲われたからといって、不平を言うことはないからです。賢者は自分自身の強さを知っています。彼は自分が、重荷を負うために生まれてきたことを知っています。27. 僕は賢者を、人間の範疇から外すつもりはありませんし、全く感覚を持たない岩であるかのように、賢者の苦痛を感じる心を否定することもありません。僕は賢者が、二つの部分から構成されることを覚えています。一つは非理性的な部分であり、これは損なわれたり、焼かれたり、傷つけられたりします。もう一つは理性的な部分で、これは自らの意思を断固として守り、勇敢で、打ち倒されることがないものです。この後者には、人間の最高善が座しています。これが完全なものとなる前は、精神は不安定に揺れ動きます。完全なものとなった時のみ、それは確固とした、不動のものになります。28. したがって、人が道を歩み始めたばかりの時、あるいは高みに向かって美徳を培っている最中である時、あるいは完全な善に近づいてはいるものの、まだ最後の仕上げが残っている時、人はしばしば後退することがありますし、精神の奮闘努力がいくらか緩むことがあります。というのは、そのような人はまだ不確実な地点を通過しておらず、滑りやすいところに今も立っているからです。しかし、その美徳を完成させた幸福な人物は、自分の勇気が最も厳しい試練に晒された時、他の全ての人が恐れることを、もしそれが気高い義務を遂行するのに必要な代償ならば、耐えるだけでなく喜んで迎え入れ、人々が自分のことを、「何と幸福な人物か!」というよりも、「何と立派な人物か!」というのを好む時、自分自身を最も愛するのです。

 29. そして今、僕は君が待ち望んだ地点に到達しました。われわれ人間の美徳は、自然を超えたところにあると考えてはいけません。賢者も慄き震え、痛みも感じ、青ざめもするでしょう*25。これら全ては肉体の感覚だからです。それでは、本当の苦しみとは、真の災いとはどこにあるのでしょう?疑いようもなく、それらの試練に引きずり回され、屈従の自白を強いられ、現状を後悔するならば、われわれの精神の内にあるのです。30. 確かに賢者は、その美徳によって偶然を克服します。しかし英知を公言する人でも多くは時として、最も些細な脅威に怯えることがあります。そして今の時点で、賢者と学習の途中にある者に同じ要求をすることは間違っています。僕は今でも、自分がいいと思うことを自分自身に実行するよう勧めています。しかし、僕は未だに、その勧めに従うことができていません。そして、もし従う段階になったとしても、僕はそれらの教えを実践するための十分な準備も訓練もできていないので、あらゆる危機に対して、迅速に対応することはできません。31. ちょうど羊毛が、ある色は一度で吸収しても、他の色は何度も浸して染み込ませないと吸収しないのと同じように、他学派の教えは、一度受け入れられるとすぐに人々の精神に適用されますが、僕の話しているこの教えは、それが精神の深いところまで達し、長い間浸透し、単に色付けされるだけでなく魂に徹底的に染み込まない限り、何一つ約束を果たすことはありません。32. この問題は、次の僅かな言葉で手短に伝えることができます。「美徳は唯一の善である。何であれ美徳を伴わない善はない。そして美徳そのものはわれわれのより崇高な部分、すなわち理性的な部分にある。」そして、この美徳は何へとなるのでしょうか?真の、そして揺るぎない判断力にです。なぜなら、この判断力から精神のあらゆる衝動が生じ、その衝動を駆り立てるあらゆる種類の原因が、明白なものとなるからです。33. 美徳によって彩られたあらゆるものを善と、また同等の善と判断することは、この判断力に適うことでしょう。

 肉体の善は、確かに肉体にとっては良いものかも知れませんが、それらは絶対的な善ではありません。じっさいそこには何らかの価値があるかも知れませんが、それらは互いに異なるため、真に善いものは何もありません。あるものは小さくなり、あるものは大きくなります。34. そしてわれわれは、まさに英知の信奉者たちの間にさえも、大きな違いがあることを認めざるを得ません。ある人物は既に大きな進歩を遂げているため、勇敢に両目を上げて運命を見つめますが、完全にではありません。運命の圧倒的な輝きに気圧され、すぐに目が下がってしまうからです。別の人は、運命と視線を合わせることができるほどまでに進歩を遂げました―—つまり、既に頂点に達して、完全な自信を身につけない限り、できないことを。35. 完全性を欠いているものは必然的に不安定であり、ある時は進歩したり、ある時は滑り落ちたり倒れたりします。そして、奮闘して前に進み続けない限り、必ず退歩するでしょう。というのも、もし人が熱心で誠実な努力を少しでも怠ったら、逆戻りすることは必然ですから。中断した地点から進歩を再開することは誰にもできません。36. したがってわれわれは、弛むことなく粘り強く奮闘を続けましょう。われわれが後にした道よりも、遥かに多くの道が残っています。しかし、進歩の大部分は、進歩を望むことの中にあるのです。

 僕はこの義務が何たるかを、完全に承知しています。それは僕の望むものであり、その望みは心からのものです。君もまた奮い立ち、悠久の美を目指して大きな熱意を持って急いでいるのが見てとれます。そうです、われわれは急がねばなりません。そのような方法によってのみ、人生はわれわれにとって恩恵になるのです。そうしないと、そこには遅れが生じますし、じっさいわれわれが良からぬことで忙しくしている間に生じる遅れは、恥ずべきものです。われわれが心すべきことは、すべての時間はわれわれのものである、ということです。しかしこれは、まず第一に、われわれ自身がわれわれの所有物になり始めない限り、不可能なことです。37. そしてわれわれはいつ、いずれの種類の運命をも軽蔑する権利を持てるのでしょう?いつになれば、あらゆる欲情を抑えて、自分自身の制御下に置き、「私は打ち勝った!」という言葉を発する権利を持てるのでしょう?誰に打ち勝つかをお尋ねですか?それはペルシャ人でも、遠く離れたメディア人*26でも、ダバエ人*27の彼方にある好戦的な部族でもなく、貪欲、野心、そして世界のあらゆる征服者たちをも打ち負かした、死への恐怖にです。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 71 - Wikisource, the free online library

・解説

 前半はカトーやソクラテスを始めとする、高潔な人物たちの美徳の例が挙げられ、後半では書簡66の内容とも被る、美徳の重要性について語っている。幸福や善には美徳が不可欠であることを、セネカはしつこいくらいに語り、この書簡でも何度そうした教えを染み込ませても十分ではないと言っているが、セネカが自分自身に言い聞かせていたことでもあるのだろう。偉そうな宗教や哲学の「先生」たちとは異なり、セネカは人間の弱さも自分の弱さもよく理解していた。幸福には美徳一つあれば十分であり、拷問があろうと病気があろうと、美徳があれば何も問題はないという教えは、頭で理解するだけなら簡単だが、骨身に染みて実感するに至るには、全人生を賭けても、並大抵に成し得ることではないだろう。しかしこれは、地上に生まれた人間の霊があたえられた、神からの一つの大切な課題なのだと思う。たとえ完璧に至ることができなくても、何度もその教えを「染み込ませ」て生きようとすることには、大きな意義があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:カトーは前54年に法務官に選出されたが、前51年に執政官に立候補して落選した。ちなみに、この後者の選挙には不正と賄賂が大量に横行していたという。

*2:ギリシャ北東部地方テッサリアの町。前48年にカエサルポンペイウスを破った。詳細はwikipediaファルサスの戦い」参照。カトーはポンペイウスの味方。

*3:共和制を支持しカエサルに立ち向かう

*4:もしもカトーが

*5:おそらくポンペイウス自身のこと。ポンペイウスについての言及は書簡4,書簡11,書簡14,書簡51参照。

*6:ポンペイウス軍は前48年のファルサスの戦いで敗北した後、前47年にエジプトのアレクサンドリアで、前46年にアフリカで(タプススの戦い)、前45年にヒスパニアで(ムンダの戦い)それぞれ敗れている。

*7:北アフリカヌミディアの王で、ポンペイウスに味方し、カエサルがアフリカに来た時、ポンペイウス軍の将軍メテッルス・スキピオを助けたが、タプススの戦いでの敗戦の後ザマに逃れて自殺。

*8:タプススの戦いでの後、アフリカ北岸のウティカの守備につくカトーにカエサルは降伏を迫ったが、カトーはこれを拒否し、自害。前46年。

*9:前々注のメテッルス・スキピオ。カトーと共にウティカで戦ったが破れた。書簡24参照。「司令官は健在だ!」と言いながら自らに剣を突き刺して死んだ。

*10:プラトンの「パイドン-魂について-」を読んでから自害した。書簡24参照。

*11:宇宙は生成と消滅を繰り返すという、ストア派の宇宙観。書簡9も参照。

*12:精神が肉体を超えたものに目を向けたら

*13:ローマに支配されたギリシャのような

*14:繁栄した都市

*15:シュタイナー哲学に照らし合わせれば、この意見はどちらも正しい。死後自由になった霊にはより偉大な生活が待っているし、人間の死後意識は宇宙全体に拡張する。

*16:書簡66参照。前者は富は繁栄など自ら求めるもので、後者は拷問や病苦に勇敢に耐えるといった、状況に強いられるもの

*17:書簡24,書簡70参照

*18:書簡67参照

*19:彼らが不幸だという

*20:クセノクラテスやスペウシッポス(プラトンの甥)など。

*21:好んで選び取る善と、状況に強いられる善

*22:それらの善は同等でないと批判し、セネカに拳を振るって殴りかかるような人

*23:苦痛に対してあまりに貧弱であることへの皮肉

*24:火炙りや投獄など

*25:書簡11参照

*26:アジアの古王国

*27:遊牧民のスキタイ族