徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡11 内気さや赤面について

 1. 君の友人と話す機会があり、とても優れた人物と見受けられました。彼と話してすぐに、彼がどのような精神と思想を持っているか、そして彼がどれほど進歩を遂げているかを示してくれました。彼は僕が抱く期待に、必ず応えてさらに進歩するでしょう。というもの、彼は前もって考えていたことではなく、突然の不意打ちのような問いにも答えてくれたからです。彼は落ち着いて話そうとしてくれましたが、若者には好ましい特徴でもある、内気さはほとんど追い払うことができませんでした。彼の顔にみるみる広がる赤面は、心の奥底からのものでした。そして、彼が人格を修養し、全ての欠点を取り除き賢者になった後でも、赤面する癖はきっと残ったままでしょう。体の生来の弱点は、どんな知恵をもってしても取り除けないからです。先天的に染みついたものは、鍛錬によって弱めることはできても、完全に克服することはできません。2. 普段は落ち着いた人であっても、公衆の面前で話す時、あたかも激しい運動の後か、とても暑いとこにいるかのように、しばしば大汗をかきます。立ち上がって話す時に、膝が震えてしまうような人もいます。歯の根が合わず、舌はもつれ、唇が震えるような人もいます。鍛錬や経験で、この習性を無くすことはできません。自然は自らの力を発揮し、最も強い者にもそうした弱さを通して、その存在を知らしめます。3. 僕はこの赤面の癖が、とても高潔な人物の顔にも、突然広がるものであることを知っています。確かにそれは、血気盛んで顔に出やすい若者にはより一般的なものですが、その影響は熟年者にも老人にもおよびます。一方、ある人々は羞恥の念を全てかなぐり捨てながら顔を真っ赤にした時、最も危険な人物となります。4. 顔に血がのぼった時、スッラ*1は最も狂暴になりました。ポンペイウスもすぐ顔に出る人でした。彼は大勢の人の前、とりわけ公共の集会の場などでは、いつも赤面していました。ファビアヌス*2については、元老院に証人として現れた時に、驚くほど赤面していたことを僕は覚えています。5. こうした癖は精神の弱さによるものではなく、状況の目新しさのせいです。そうしたことに不慣れな人は必ずしも困惑してる訳ではありませんが、体の自然の反応には従わざるを得ません。落ち着いた血を持っている人がいるように、すぐに顔を駆け巡る、迅速で激しい血を持っている人もいます。

 6. すでに言ったように、こうした癖は、知恵によって取り除くことはできません。もし知恵が私達のあらゆる弱点を除去できるなら、知恵は全宇宙をその支配下に置くことができたでしょう。私たちの誕生や肉体に割り当てられた条件は何であれ、一生付きまとうものです。たとえ私たちがどれほど懸命に、どれほど長く、それを克服しようと努力したとしても。私たちはそうした素養を呼び起こすことができない以上に、自分に禁ずることもままなりません。7. 恐怖や不安を表現したり、悲嘆を描き出して様々な感情を模倣する劇場の役者は、頭を傾かせ、声の調子を落とし、目線を地面に固定させることで、内気さを表現します。しかし彼らは、思いのままに赤面することはできません。赤面は防ぐことも、獲得することもできないのです。知恵は私たちに、そうしたことへの治療や救済を約束しません。それが出入りすることを指図することはできません。それ自体が法だからです。

 8. さて、僕の手紙も結びの言葉を必要としています。この有用で健全な言葉を聞いて、胸に留めておいて下さい。「優れた人物を敬愛し、彼の姿を常に思い浮かべ、あたかも彼が見ているかのように生き、全て彼がみているかのように行動せよ」9. ルキリウス君、これはエピクロスの助言です。まったくふさわしい守護者と監督者を教えてくれています。私たちは悪事を犯しそうになっても、近くに見ている人がいれば殆どの罪は生じません。魂というものは誰か尊敬できる存在を必要とします。その威厳により、内面の神聖を、よりいっそう汚れなきものにしてくれるような人物を。一緒にいる時だけでなく、その人のことを考えてる時でさえ、他者をより良くする人は、何と誉れ高いことでしょう!また、尊敬する人物を持ち、その人を想い出すことで落ち着き、自分を律することができるような人も同様に幸福です!そのように誰かを尊敬できる人物は、やがて同じように人々から尊敬を受けるでしょう。10. 僕が推薦する人物はカトーです。カトーが厳しすぎる見本だというのなら、より穏やかな魂の、ラエリウスもいいでしょう。その人の生き方が、話し方が、そして魂を表明する顔つきが、君を納得させる人物を選んで下さい。彼を君の守護者または支援者として、常に心に思い描いて下さい。私たちには誰か、人格を律してくれるような存在が必要です。まっすぐな人物を知らなければ、われわれの歪んだ心は曲がったままです。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 11 - Wikisource, the free online library

 

・解説

 唐突に赤面の話になって戸惑う人もいるかも知れないが、要するにストア派のいうところの「自分の権能の及ばない範囲」のことである。肉体の生理的な反応や生まれついての習性は、理性によってどうこうなることでない。そうしたことにクヨクヨするなということなのだろう(もしかしたら、セネカ自身がすごくあがり症だったのかも知れないと個人的には思っている)。手紙の末のエピクロスの教えは、われわれには耳が痛い話である。昔の日本には天知る地知る我知るという言葉もあったし、お天道様が見ているという概念があった。ところが現代人は、犯罪でないなら、バレさえしなければ何をやってもいい、むしろそうしたことを上手くできるのが人間として何か優れたことの証であるかのように考える歪んだ人が随分増えてしまった。無宗教を教養の証と考え、尊敬をよりも侮蔑が幅を利かせるようになった*3。だが、やはりそんな生き方は褒められたものでもないし、息苦しいだろう。セネカでもシュタイナーでも、或いはホワイトイーグルやシルバーバーチでも、誰か尊敬できる人物がいると、きっと幸福な生き方ができるだろう。

 

 

 

 

*1:前1世紀のローマの独裁官で、恐怖政治を強いた。市民に市民を殺させる「処罰リスト」を作成。

*2:セネカの師

*3:「われわれの文明生活は尊敬したり、献身的に崇拝したりするよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちである。しかしどんな裁きも魂の中の高次の認識力を失わせる。」ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」