徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡24 死を軽蔑することについて

 1. 君は手紙で、怒りに満ちた相手側が君を脅かしている裁判の結果が心配だとおっしゃいます。そして君は、僕からの助言で、より楽観的な結末を思い描き、希望へと導かれ安心することができることを期待しています。実際、起きたらすぐにでもそれに耐えねばならないような問題を想起したり、困難を予測して、未来への恐れから現在を台無しにする必要があるでしょうか?将来いつか不幸になるかも知れないという理由で、今から不幸になるのは全く愚かなことです。しかし、僕は別の方法で君を安心させてあげましょう。2. 君があらゆる心配から逃れたいなら、君が恐れているどんなことも、必ず起こるものだと考えて下さい。問題が何であれ、君の心の中でそれを評価し、恐怖のほどを見定めて下さい。そうすれば、君が恐れているものは取るに足らないものか、あるいはすぐに過ぎ去るものであることが分かるでしょう。3. そして、君を勇気づける実例を集めるのに、長い時間は要しません。あらゆる時代がそれらを生み出してきたのですから。ローマや諸外国のあらゆる時代の歴史に思いを馳せてみて下さい。そうすれば君は、立派な功績や多大な奮闘を示した、多くの偉人の例を見出すことができるでしょう。

 もし君がこの裁判に負けたところで、追放されたり、牢獄送りにされるよりも深刻なことが起こるでしょうか?焼かれたり殺されたりするよりも、恐ろしい運命があるでしょうか*1?そのような刑罰を一つ一つ挙げて、それらを軽蔑した人物に言及して下さい。そうした人物は探し求めるまでもなく、ただ選択するだけです。4. ルティリウス*2は有罪の判決を甘んじて受け入れましたが、彼にとって問題だったのは、その判決が不当なものである、ということのみでした。メテルス*3は勇敢に追放に耐えましたが、ルティリウスには喜びすらありました。前者は祖国の求めに応じてローマに帰還しましたが、後者はスッラの召喚を拒否しました―—当時スッラに「いいえ」と言える人は誰もいなかったのに!ソクラテスは牢獄で弟子たちと語り合ってる時、彼に逃亡の機会を作ってくれる者*4もいましたが、それを拒否しました。彼は人間を、死と牢獄という二つの最も悲惨な恐怖から解放するため、そこに留まったのです*55. ムキウス*6は自らの手を炎の中に差し入れました。火炙りにされることは苦痛です。しかしその痛みを自らに与えるのはどれほどより大きな苦しみでしょう!彼には学識がある訳でもなく、死と苦痛に向き合うためのどんな知恵の言葉も知りませんでしたが、暗殺に失敗した自らを罰するための、戦士としての勇敢さのみを持ち合わせていたのです。彼は動じず、自分の右手が敵の火鉢の中で少しずつ焼け落ちていくのを眺め、敵が火を取り除くまで、骨がむき出しになるほどに爛れた手を引っ込めませんでした。彼はその陣営でもっと成功と呼べる何かを遂げられたかも知れませんが*7、これ以上の勇敢さを示すことはなかったでしょう。勇気ある者が危険を冒すことは、残忍な者が危険を課すことよりも、どれほど激烈なことでしょう。ポルセンナが自分を殺そうとしたムキウスを赦すことのほうが、暗殺に失敗したムキウスが己自身を赦すことよりも容易だったのです!

 6. 「ああ」君は言われる。「どの学派でも、そうした話は幾度となく語られてきました。まもなく、『死を軽蔑することについて』という話題に行きつき、あなたはカトーについての話をなさるのでしょう」しかし、どうして僕がカトーについて、彼が名誉ある夜に、枕元に剣を置いて、どんな風にプラトンの本*8を読んでいたかについて、話さないでいることがあるでしょうか?彼は最後の瞬間のために、次の二つのものを必要としました。一つは死への意志、もう一つは死ぬための手段です。そして、彼は自分のすべきこと*9を整理し、——彼自身に関してはどうあっても破滅と死があるのみでしたが―—自分を殺す力のある者も、(捕虜として)その命を救える者もいないと考えました。7. 最期の日まで一度も血によって汚されることのなかった剣を抜き、叫びました。「運命よ、お前は何一つ、私の努力を妨げることは出来なかった。私はこれまで、自分の自由ではなく、祖国の自由のために戦ってきた。私がこれまで自由のために奮闘してきたのは、自分が自由になるためではなく、自由な人達と共に生きるためだ。しかし今や、人類の置かれた状況は絶望的だ。カトーを安全な所へと退かせたまえ。」8. そう言ってから、自分の体に死へと至る傷を負わせました。医師たちが傷口を縫い合わせた後、カトーは血も体力も失っていましたが、勇気は失っていませんでした。今やカエサルのみならず自分自身にも怒りを覚えた彼は、剣を持たない手を傷口に押し当て、外部のあらゆる権力に抵抗してきたその高貴な魂を、解放するのではなく、追い出しました。

 9. 僕が今こうした実例を並べ立てているのは、僕の才知をひけらかすためではなく、最も恐ろしいと君が考えていることに立ち向かえるよう、君を励ますためです。そして、魂が息を引き取る瞬間を毅然として軽蔑した人達だけでなく、他の点では臆病であっても、この点に関しては最も勇敢な人物にも匹敵する気概を見せた人たちを示すことで、僕はさらに容易に君を励ますことができます。たとえば、グナエウス・ポンペイウス*10の義父であるスキピオ*11を例に挙げてみましょう。彼は向かい風によってアフリカの海岸に押し戻され、自分の船が敵勢力の支配下に置かれるのを目の当たりにすると、剣を自らの体に突き刺しました。そして、司令官はどこかと尋ねられて、「司令官は健在だ」と答えました。10. この言葉により彼は祖先に恥じぬほどの高みに引き上げられ、運命がアフリカでスキピオに与えた栄光*12の永続性は失われませんでした。カルタゴを征服することは偉大な功績でしたが、死を征服することはより偉大な功績です。「司令官は健在だ!」これ以外の方法で、将軍は―—特にカトーの側の将軍は―—死ぬべきだったでしょうか?11. 僕は歴史についてあれこれ君に言及したり、時代を超えて、死を軽蔑してきた人たちの例を集めるつもりはありません。そんな人たちは沢山いるのですから。柔弱と過ぎた贅沢が不満を呼び起こすわれわれの時代のことを考えてみて下さい。そんな時代ですら、あらゆる階級、あらゆる境遇、あらゆる年齢の人々が、死をもって不幸と決別しました。

 僕を信じて下さい、ルキリウス君。死は恐れるに足らないものであり、その恩恵により、何も恐れる必要がなくなるのです。12. ですから、敵が君を脅していても、恐れずに聞き流して下さい。君の良心は君に自信を与えるでしょうけれど、多くのことは君の事情とは関係のないところに重点が置かているので、最も公正な結果を望むと同時に、最も不公正な結果にも備える必要があります。ただし、何よりもまず、君の混乱の元となっているものを全て取り除き、その根底に何があるかを見定めることを忘れないで下さい。そうすれば、それらの中には恐怖そのもの以外、何も恐ろしいものは含まれていないことが分かります。13. 子供に起こることは、子供よりほんの少し大きいだけの、われわれ自身にも起こります。彼らが毎日一緒に過ごし、一緒に遊ぶ親しい人が仮面を付けて現れると、子供はびっくりして怯えます。われわれは人間からだけでなく、事物からも仮面を剥ぎ取り、それぞれの対象の本来の姿を取り戻させねばなりません。

 14. 「なぜお前*13は私の目の前に剣、炎、そしてお前の周りで怒り狂う処刑人を掲げるのか。お前がその背後に隠れ、愚か者を恐怖させるものを全てを取り払え!ああ!お前はただの死に過ぎない!つい先日、私の奴隷や女中が軽蔑した死だ!なぜお前は再び鞭や拷問台を私の前に並べて見せるのか?なぜこれらの拷問器具は、体の各部分のために一つずつ用意され、人間の体をバラバラに引き裂くための、その他のあらゆる器具も用意されているのか?そのような、われわれを恐怖で震え上がらせるものは取り去るがよい!そして拷問台で引き裂かれているものが上げる呻き声を、うめき声を、苦い悲鳴を黙らせるがよい!まとこに、お前はただの苦痛であり、痛風に苦しむあそこの哀れな人に軽蔑され、美食の最中にある消化不良の患者に耐え忍ばれ、若い女がお産の時に勇敢に耐え抜くものだ!私がお前に耐えられるなら、お前は大したものではないし、耐えられなくても、お前は長続きしない!*14

 15. 君がよく耳にし、また口にもしていたこれらの言葉について、深く考えてみて下さい。さらに、君が耳にし、口にした言葉の真実を、結果でもって証明して下さい。というのは、われわれの学派に対してしばしば非常に不名誉な告発がなされるからです。すなわち、われわれは哲学の行為でなく、言葉を扱っているというものです。

 君は今になってようやく、死が、追放が、悲痛が君のすぐ近くに差し迫っていることを知ったのですか?これらの危機は生まれついてのものです。われわれは、起こり得ることは全て起こるものだと考えましょう。16. 僕の忠告を君が本当に実行してきたということを、僕は知っているので、今や、これらの些細な不安に君の魂を溺れさせることのないようにして下さい。もしそうなると、魂は鈍いものになり、立ち上がるべき時がきても活力は殆ど残っていません。君の個人的な事情から人間一般の事情に心を移して下さい。われわれのちっぽけな肉体は死すべき儚いもので、それに苦痛を与える源は、不正や強大な権力からだけではないと、自分に言い聞かせて下さい。私たちの喜びそのものが苦痛になります―—宴会は消化不良をもたらし、大酒は筋肉の麻痺や中風をもたらし、色欲の習慣は足や手、そして全身のあらゆる関節に悪影響を与えます。

 17. 僕は貧乏になるかも知れません。そしたら僕は、大勢の内の一人になるでしょう。僕は追放されるかも知れません。そしたら僕は、自分が送り込まれた土地を生まれた土地と考えるでしょう。僕は鎖に繋がれるかも知れません。だから何なのでしょう?僕は今、束縛から解放されているとでもいうのですか?自然が僕を拘束している、この肉体という重荷を見て下さい!「私は死ぬ」と君は言いますが、正しくは、「私は病気の恐れがなくなり、投獄される恐れがなくなり、死への恐れがなくなる」です。18. 僕はこれらの議題に関してエピクロスが語ったこと*15を見直し、下界の恐怖は無意味なものであると言うほど愚かではありません。イクシオンは*16は車輪に縛り付けられて回っておらず、シシュフォス*17は丘の上で岩を背負っておらず、内臓が毎日貪り食われては元に戻る*18こともない、などとは言いません。誰もケルベロスや暗闇や、骸骨をまとった幽霊の姿を恐れるほど幼稚な者はいません。死はわれわれを滅ぼすか、裸にするかのどちらかです。もし裸にされたなら、重荷が取り除かれて、より善い部分が残ります。もし滅ぼすというなら、何も残りません。善いことも悪いことも、同じように取り去られます*19

 19. ここで、君の言葉を引用させて下さい。君がそれを書いたのは、他の人のためだけでなく、君自身のためでもあったことをまず思い出して下さい。あることを言って、それとは別のことを示すのは卑怯なことです。しかし、あることを書いて、それとは別のことを示すのは、どれほど卑怯なことでしょう!ある日君が、われわれにはよく知られたことについて語ってくれたのを覚えています―—われわれは突如として死に至るのではなく、少しずつ死に向かって進んでおり、毎日死んでいる、と。20. われわれの命は、毎日少しずつ奪われていきます。われわれが成長している時でさえ、生命は衰退していきます。われわれは幼年時代を失い、次に少年時代を失い、次に青年時代を失います。昨日に至るまでの、全ての過去の時間は失われたものです。われわれが過ごす今日この日ですら、われわれは死と共有しているのです。水時計を空にするのは最後の一滴ではなく、それまでに流れた全てです。同じように、われわれが存在をやめる最後の時間は、それ自体が死をもたらすのではありません―—それは死の過程を完結させるだけです。われわれはその瞬間に死に至りますが、それまでの道程に長い時間を費やしてきました。21. こうした状況を、君はいつもの君の文体で説明しました。(君はいつも的を得ていますが、真実を適切な言葉で表現する時ほど鋭いことはありません。)

死は一度だけやってくるのではない。

われわれを連れ去る死は、全ての死の最後のものに過ぎない。

 僕の手紙よりも、君自身の言葉を読んでいただきたいと思います。そうすれば、われわれが恐れているこの死が最後のものであり、唯一の死ではないことが分かるでしょう。

 22. 君が何を探しているか僕には分かります。君は僕がこの手紙に入れた、偉大な人の勇気ある言葉、つまりは有益な教訓を求めています。そして、まさに議論の題材になっている内容を扱っているものをお送りします。エピクロスは、死を恐れる者と同様に、死を切望する者を非難します。「馬鹿げたことだ」彼は言います。「死に向かわねばならぬことを君が人生の方針にしている時に、人生に嫌気がさしたからといって、死に急ぐのは」23. また、別の言葉で、次のように言っています。「死への恐怖によって平穏な生活が奪われている時に、死を願うほど愚かなことがあるだろうか」そしてさらに、次の同じ種類の言葉を加えてもよいでしょう。「人間というものはまったく思慮がなく、いや、狂っているため、死を恐れて自ら死に飛び込むのだ*20

 24. こうした考えのどれについて熟慮しても、生と死の、いずれにも耐えうる心を強化することができます。というのも、われわれは両方の側面から警告を受け、強化される必要があるからです―—生に過度に執着しても、過度に憎んでもいけません。理性がわれわれにそれを終わらせるように勧める時でさえ、熟考することなく、焦って衝動に促されてはいけません。25. 勇敢で賢い人は、人生からいきなり退却するのでなく、ふさわしい態度で出ていきます。そして何よりも、多くの者を沈めてきた弱さ―—つまり死への欲望——を避けるべきです。というのも、ルキリウス君、心には他のことに対しても熟慮しない性向があるのと同じように、死に対しても熟慮しない性向があるからです。この性向はしばしば最も高貴で勇ましい人物に見られ、卑劣で臆病な人物にも見られます。前者は死を軽蔑し、後者はそれを疎ましいものと感じます。

 26. ある人は同じことをしたり見たりすることに飽き飽きして、人生への嫌悪ではなく倦怠を抱きます。ある種の哲学*21に押し込まれて、われわれはそうした状況に陥り、こう言います。「いつまで同じことを我慢しなければならないのか?起きては寝て、腹が減っては満たされて、震えては汗をかいての繰り返しだ。全てのことに終わりがない。あらゆる物事が輪の形で繋がっている。それらは逃げたり、追われたりする。夜は昼に続き、昼は夜に続く。夏は秋に終わり、秋の後には冬が到来し、冬は春に屈する。このように、全ての自然は過ぎ去り、また戻ってくる。何も新しいことはしないし、何も新しいものもない。遅かれ早かれ、こうした事実そのものにもうんざりする時がくるだろう」生きることは苦痛ではないが、余計なことだと考える人は沢山います。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 24 - Wikisource, the free online library

・解説

 裁判の結果に怯えるルキリウスに対し、セネカは死も苦痛も大したものではないと説く、ある意味で乱暴だが、非常に説得力のあるアドバイスである。未来への恐れは、要するに死を過度に恐怖することから生じる。スピリチュアルの世界観に詳しい方には既に馴染み深いだろうが、死を過度に恐れることは、物的な意味でも霊的な意味でも、多くの弊害を引き起こす。その代表が、セネカの言う、「未来を恐れるあまり、現在を台無しにする」というものだ。恐怖心は魂を強張らせ、正常な判断をできなくする。このことをセネカは、2000年も前からよく知っていたのだ。

 一方でセネカは、死を恐れる必要がないからといって、安易な逃避的な自殺は厳しく戒めているところが素晴らしい。死を望むのは死を強く恐怖しているからだという一見パラドックス的な説明も、よくよく考えると非常に核心を衝いているのだ。セネカは自殺を禁じていないが、それが許さるのは崇高な動機がある時のみだと言っている。このあたりも、現代のスピリチュアリズムの教えと、恐ろしいほど一致している。書簡の後半にはこうした箇所が非常に多いので、そうした部分に言及することを楽しみに、いい感じで訳を進めていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

*1:追放も牢獄送りも、焼かれることも殺されることも大したことではない(から心配するな)という意味。セネカ哲学においてこの思想は頻繁に現れる

*2:前2世紀のローマの政治家。不正を取り締まったことで恨みを買い、スッラによって追放され、スミルナに引退した。「ルティーリウスは不幸か?彼を罰した者たちが、あらゆる時代に対して弁明を行うことになるからか。自身から追放が取り除かれるより、祖国から自身が取り除かれることに平然と耐えたからか」神慮について

*3:前2世紀のローマの将軍・政治家。政争によりアジアに追放された。

*4:クリトン

*5:「たとえ大衆が、その力でもって、監禁とか、財産没収とか、死刑とか、そんなものをちらつかせて、子供たちをお化けで脅かすように僕たちに迫ってきても、僕は退かないつもりだ。」クリトン

*6:ローマの伝説的英雄。エトルリア王ポルセンナの暗殺に失敗して捕えられたとき、平然と右手を炎に突っ込んで焼いた。

*7:暗殺を成功させることもできたかも知れないが、

*8:プラトンの「パイドン-魂について-」を読んで魂の不死を再確認した後、カトーは自害した。

*9:カトーは自害したが、仲間が逃げるための手配を用意していた。

*10:カエサルに敗れてエジプトに逃れた

*11:メテッルス・スキピオ。カトーが味方をしたポンペイウス派の司令官で、ポンペイウスが暗殺された後、アフリカで大敗して自殺。

*12:スキピオ=アフリカヌスがハンニバルを打ち破ったザマの戦い

*13:苦痛や死

*14:耐えられるほどの苦痛なら、大したことはないし、耐えられないほどの苦痛なら、すぐに死に至るので長続きはしない、という意味。この表現もセネカは好んで多用する

*15:死後は無であるという教義

*16:イクシオンはギリシャ神話の登場人物。神罰を受けて、火焔車に縛りつけられて永遠に回転するという「イクシーオーンの車輪」で知られる。

*17:ギリシャ神話の登場人物で、コリントスの創設者。神罰により、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

*18:プロメテウスの肝臓のこと

*19:「裸にする」は死後も魂が存在し、死後は善い部分=魂だけが残る、という意味。「滅ぼす」は死後は無であり、そうなると快も苦痛も存在しない、という意味。倫理書簡集の後半やセネカの他の著作を読めば分かるが、セネカはどちらかというと前者の「死後は魂が肉体から解放される」というスピリチュアル寄りの死生観を持っており、これが彼の哲学に一際優れた深みを与えている。

*20:「あなたは、こう思うかも知れない―—彼らは、ときどき、もう死んでしまいたいと思うことがある。この事実は、彼らの人生が長いことを証明する証拠になるではないかと。だが、そうではない。彼らは、愚かさゆえに、不安定な精神状態に苦しめられているのだが、そのような精神状態ゆえに、自分が恐れているものの中に、飛び込んていってしまうのだ。つまり、彼らがしばしば死を望むのは、彼らが死を恐れているがゆえなのである」人生の短さについて16.2

*21:普段セネカの言う哲学ではなく、無益な問答論法を説くものの一種だろう