1. ギリシャ語の「σόφισματα(詭弁)」をラテン語では何と言うのかと、君はお尋ねです。多くの人々がこの言葉の定義をラテン語で決めようとしましたが、定着したものはありません。その概念自体われわれが一般的に受け入れ、用いたものではないのですから、それも当然のことです。この(ギリシャ語の)名称だけでも、抵抗感を抱かれていましたし。とはいえ僕は、キケローが用いた言葉が最適であると思います。彼はそれを、「cavillationes(屁理屈)」と呼びました。2. この詭弁(屁理屈)に身を委ねる者は、沢山の巧妙な仕掛けを編み出しはしますが、実際の生活においては何ら進歩はありません。これのお陰でより勇敢になることも、より節制を持つことも、より精神を崇高にすることもできません。
しかし、自分自身を改善するために哲学を実践した者は、魂が崇高になり、自信に満ち溢れ、打ち負かされるがなく、近寄るほどにより偉大な人物に見えます。3. 同じことは、大きな山の場合でも起こり、遠目にはその高さはそれほどではなくとも、近付くほどにその峯の高さははっきり見てとれます。愛するルキリウス君、このような人物こそ、われわれにとっての真の哲学者であり、それは小手先ではなく、彼の行為によって示されるのです。彼は高みに立ち、賞賛に値し、高潔で、真の意味で偉大です。彼は実際よりも背が高く見られることを望んでつま先立ちで歩き、偽って身長を伸ばそうとする連中のような真似はしません。彼は自分の偉大さに満足しています。4. そしてどうして彼が、運命の手が届かないほどの高さにまで成長したことに、満足しないことがありましょう?つまり彼は人間的な事柄を越えて立ち、どんな状況にあっても、同じ自分自身を保ちます。人生の航海が順風満帆であろうと、混乱と絶望の荒波の中を進もうと。しかし、この不動心は、先に述べた詭弁によっては得られません。頭がそのような詭弁でお遊びをしても、何の益にもなりません。それらは、哲学を高みから低地へ引き降ろすことです。
5. 君がたまにそうした気晴らしをすることまで禁じたりはしません。けれどもそれは、他に何もする気が起きない時にして下さい。しかし、そうした詭弁が持つ最悪の性質の一つは、それ自体が或る種の魅力を自ら生み出し、巧妙さをひけらかすことで精神を引き入れて虜にする、という点です。ところが一方では、重大な事柄がわれわれに注意を呼びかけています。そして、人生を軽蔑するというたった一つの原理を学ぶことには、全人生を費やしてもなお十分ではないのです。「何でしょう?」君は言われる。「あなたは軽蔑ではなく制御と言っていませんでしたか?*1」いいえ、制御することは次点に学ぶべきことです。というのも、先ず人生を軽蔑することを学ばない限り、誰も人生を正しく制御することはできませんから。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 111 - Wikisource, the free online library
・解説
セネカ自身どうも詭弁に熱中するフシがあるので、自戒の意味も込めて書いてもいるのだろう。とりわけ倫理書簡集の後半は読んでいて疲れるこうした屁理屈が多い。書簡102の「(死後の)名声は善かどうか」や書簡106の「美徳は実体性のあるものか」、そして書簡109の「賢者は賢者の役に立つか」など、大事なことも書いてあるのだが、どう見てもセネカの言葉遊びや屁理屈遊びとしか思えないような箇所が目立つ。本111以降の書簡にもまだ幾つかあるのだが、あまりに内容がどうでもいい部分は省略する予定でいる(書簡113の殆ど)。
そして、そうした詭弁ではなく、真に価値のある哲学を学び、人生を軽蔑できるまでになれと言っている。言っているその通りなのだが、悪例だとしても詭弁の叙述があまりにも多い。おそらくセネカの「倫理哲学の書」にもそうした屁理屈があまりに多く、読み手に価値がないと思われて、それでこちらは散逸したのではないだろうか。倫理書簡集の89~124(1~88とは別ルートで後世に伝わった。)には、「倫理哲学の書」の話題がチラホラ見られるが、もしかしたら執筆時期が被っていて、内容も多くが「倫理書簡集」と重複していたのかも知れない。もしそうした屁理屈を複数の著作で書いていたのだとしたら、最晩年のセネカは案外ヒマだったのかも知れない…。
*1:4節の「同じ自分自身を保つ」ことを「制御」として。