徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡110 真の富と偽の富について

 1. ノメントゥム*1の別荘から君に挨拶を送ると共に、君が善き精神を保つことを願います。つまりは、全ての神々の好意を得て下さい。というのも、神々が祝福と恩恵を授けるのは、自分で自分自身に好意を持つことができる人だからです。或る人々が信じていることは、今のところ置いておきましょう。つまり、われわれには一人一人守護の神が割り当てられているというものです*2。その神は通常言われる神ではなく、より階級の低い神で、オウィディウスが「平民の神々」と呼んでいるものですが*3。しかし、そのような考えを置いておくとしても、そうした信仰に従っていたわれわれの先祖がストア派になったのだということは忘れないで下さい。彼らは全ての個人にそれぞれ、ゲニウスとユーノーを割り当てたのです。2. 神々にはわれわれの一個人のことにまで気を配る暇があるのかどうかについては、後ほど考えることにしましょう。さしあたり知るべきなのは、われわれが(守護の)神に委ねられているにせよ、放任されて運命に委ねられているにせよ、人が他人にかける呪いのうちで、自分で自分に敵意を抱く*4ように祈願することほど重いものはない、ということです。

 しかし君は、処罰に値すると君が考える人に対して、神々の敵意を求める必要はありません。彼らはたとえ神々の好意を得ているように見えても、神々に敵対しているのです。3. 人々がどう言うかではなく、われわれの実際の状況がどうであるかを注意深く考えて、精査して下さい。そうすると、災害はわれわれを害するよりも、われわれのためになることが多いことがお分かりになるでしょう。というのも、災害と呼ばれるものが、幸福の源であり、始まりであったことがどれほど多くあるでしょう!われわれが深い感謝をもって歓迎した事柄が、実は絶壁の頂上へ至る階段を自ら築き上げることであり、あたかもそれまでは転落しても無事な場所にいたと思わせるかのように、既に成功した人々をさらに高く引き上げることであった*5、ということが、どれほど多くあるでしょう!4. しかしこの転落ということも、(死という)終末を考えれば何ら悪いことではありません。自然はいかなる人間も、そこより下に追い落とすことはないのですから。あらゆる限界はすぐ近くにあります。そうです、幸福な者が転落する限界も、不幸な者が解放される限界も、すぐ近くにあるのです。この両方の限界を先延ばしにし、希望と恐怖で無理やり引き延ばしているのはわれわれ自身です。

 しかし、もし君が賢明であるならば、人間の条件*6に従って全てを判断して下さい。喜びと恐れの、いずれも制御して下さい。さらには、何事も長く喜ばないことが、長く恐れないためには重要です。5. しかし、どうして僕はそうした悪を制限しようとするのでしょう?君が何かを恐ろしいものだと考えねばならない理由はありません。われわれを恐れさせ、かき乱すのはみな空虚なものに過ぎません。われわれの誰も、真実をふるいにかけることはせず、恐怖を互いに伝え合います。恐怖の原因にあえて近づくことはせず、自分たちの恐怖にある性質、つまりは背後にある善を理解しようとはしません。これにより、偽りの空虚なもの*7が依然として信頼を得ているのです。それらは、よく反証されてきませんでしたから。6. われわれは、これを詳しく調査すべきだと考えましょう。そうすれば、われわれが恐れているものが、いかに束の間の、いかに不確かな、いかに無害なものであるかが明らかになるでしょう。われわれの精神の混乱は、ルクレ―ティウスが見たものと同じです。

暗闇の中で怯え、震える子供のように、

われわれ大人は白昼の下で恐れを抱く*8

それではどうでしょう?「白昼の下で恐れを抱く」われわれは、どんな子供よりも愚かではないでしょうか?7. しかし、ルクレ―ティウスよ、君は間違えている。われわれは白昼の下で恐れているのではなく、われわれが全てを暗闇に変えてしまったのだ。何がわれわれを害し、何が益するのかを、われわれは見ようとはしません。われわれは生涯を通じてぶつかり回り、そのために立ち止まることも、用心深く歩むこともしません。しかし、暗闇の中で先を急ぐことがいかに狂気であるかはお分かりになるでしょう。ところが実際は、われわれはより遠くから自分を呼び戻すことに腐心します*9。そして、われわれは自分がどこを目的としているかは知らなくても、駆り立てられる方向に急ぎ足で向かうのです。

 8. しかし、われわれが望むなら、光は射し始めるでしょう。とはいえそうした成果は、次のようにすることによってのみもたらされます。すなわち、もしわれわれが、神的な事柄と人間的な事柄に関する知識*10を身につけ、その知識を浴びるだけではなく、自分自身に染み込ませ、それを知っていても、同じことを繰り返し熟考して、何度も自分自身に適用し、何が善であり、何が悪であり、何にこれらの名前が間違ってつけられているかを精査し、立派なことと卑劣なこと、そして神慮について思い巡らすならば。9. さらには、人間の知性の及ぶところは、これらの範囲のみに留まりません。それは宇宙の彼方をも探究することを望みます。つまり宇宙がどこへ向かっており、どこから生まれたのか。そして、全ての自然がそこへと向かい駆ける終末を*11。われわれはこの神聖な観察から魂を引き降ろして、卑俗で低劣な事柄へと引き込みました。それにより、魂は貪欲の奴隷となり、宇宙とその範囲にあるものも、全てを統御する主人*12も捨て置いて、無償で与えられたものには満足できず、地面の下を探し回って、そこから悪徳を掘り出せるもの*13を求めるのです。

 10. われわれ人類の父なる神々は、われわれにとって善いと思われるものを、われわれのすぐ近くに置いて下さりました。われわれに探し求めることなどさせずに、進んで与えて下さいました。しかし、われわれに害になるものは、地中の深くに隠したのです。われわれは自分自身(の行い)について以外、何一つ文句を言うことはできません。なぜなら、われわれはそれを隠していた自然の意図に逆らって、自らの破滅の原因となるものを、明るみに持ち出したのですから。われわれは自らの魂を快楽に引き渡し、快楽に耽ることが全ての悪の根源となりました。われわれは自らを野心や名誉、その他の同様に空虚で無益なものごとに引き渡しました。

 11. それでは、僕は今君に何をするよう勧めましょう?何も新しいことはありません。われわれは新たな悪の治療薬を探している訳ではありませんから。しかし、何よりも大切なのは次のこと、すなわち、何が必要なもので、何が余分なものかを、自分自身で明確に見極めることです。必要なものには、どこででも出会えます。余分なものは常に、多大な努力を払って探し求めねばなりません。12. しかし、君が黄金の寝台や宝石をちりばめた家具を軽蔑する程度であれば、それは大して誇ることではありません。というのも、無益なものを軽蔑することに、どんな美徳があるのでしょう?必要なものを軽蔑できるようになった時こそ、自分自身を賞賛して下さい。王室の装飾なしに暮らしていけることは、大したことではありません。千ポンドの猪やフラミンゴの舌や、その他の丸ごとの動物の料理には飽き飽きして、それぞれの動物から特定の部位だけを選んで食べるという歪んだ贅沢を望まないことは、大したことではありません。僕が君を賞賛するのは、君が粗末なパンでも軽蔑することを学んだ時、草は家畜のためのみならず、人間のためにも育つと*14自分自身に納得させた時、木々の先端からでも食べ物を見つけ出し*15、それで腹を満たせることを知った時です。われわれはあたかも吐き戻すことがないかのように、高価な品々を腹に詰め込みます。しかし、腹を満たすには、それを甘やかす必要はありません。胃袋は受け取ったもの全てを失うのに、そこに詰め込むものに何の意味がありましょう?13. 君を喜ばせるのは、海で陸で獲れた食材が丁寧に盛り付けられた料理です。それらは新鮮なまま出されたらいっそう喜ばしいものですし、長きに渡って餌を与えて強制的に太らせ、その脂身を自分自身で支えることができない程にまで柔らかくなったもの*16もいっそう喜ばれます。このように巧みに工夫された味を、君は好みます。しかし、誓って申しますが、そのように注意深く選ばれ、様々に味付けされたそれらの料理も、ひとたび腹の中に入れば、みな等しく醜いものになります。食の快楽を軽蔑したいですか?その最終結果について考えてみて下さい!14. 僕はアッタロス*17が次のようなことを言って、全ての人々の賞賛を引き起こしたことを覚えています。

 「私は長い間、富に騙されていた。富があちこちで輝くのを見て、私はいつも目を眩ませていた。私はそれらの外見と、内に持つ力は同じだと考えていた。しかし或る時、わたしはとある贅沢な催し物で、都の富の全貌を目にしたのだ。金や銀に施された浮彫り細工や、自国の領土の彼方のみならず、敵国の領土の彼方からも運び込まれた、金や銀よりもさらに高価になるほど手を込んで作られた染め物や敷き物を。そして、こちらには服装や顔立ちが美しい少年奴隷の群れがあり、あちらには女奴隷の群れがある。その他にも、繁栄を極めた強大な帝国がその所有物を総ざらいして持ち寄った、あらゆる品々があった。15. 私は自分自身に言ってやった。これは、それ自体既に搔き立てられている、人間の欲望をさらに煽り立てることに他ならない、と。これら全ての財産の見せびらかしには、何の意味があろう?われわれはここに、貪欲を学ぶために集まってきたのだろうか?私自身については、やって来た時ほどの貪欲は持たずに、そこを去ることができた。それ以来私は富を軽蔑するようになったが、それは富が無益だからではなく、醜悪だったからだ。16. その(催し物の)行列が、どれほどゆっくり、決められていた通りに慎重に進んだところで、いかに短い時間の間に過ぎ去り、終わってしまったかを君は見ただろうか?たった一日すら費やせないこれらの財産のために、われわれは一生を費やすのだろうか?」

 「私は他にも言いたいことがある。私にとって富は、眺めている者と同様、所有している者にも役に立たないと思われたのだ。17. それゆえ、その類の見世物が私の目を眩ませるたび、立派な邸宅や、洗練された奴隷の一団や美しい担ぎ手たちに運ばれる駕籠を見るたび、自分に言ってやるのだ。なぜ驚嘆している?なぜ口を開けてぼうっと眺めている?それらは全て見かけだけのものだ。それらは所有物ではなく、展示物だ。喜んで眺めている間に、通り過ぎて行く。18. それよりもむしろ、真の富に目を向けたまえ。僅かなもので満足することを学び、勇敢で偉大な精神をもって、次の言葉を叫びたまえ。『われわれには水があり、大麦粉もある。まさにユピテルの大神と、幸福を競い合おう。』そしてさらには、水も大麦粉なくとも、この挑戦をしてみようとは思わないだろうか?というのも、幸福な人生を金や銀に拠るのは恥ずべきことだが、水や大麦粉に拠るのも同様に恥ずべきことなのだから。『しかし、』人々は言うだろう。『それらすら無しに、何が出来ると言うのでしょう?』19. 君は窮乏の治療薬は何かと尋ねているのかね?飢えることが、飢えを癒す*18。というのも、他の全てのことと同様、君に隷属を強いるものが大きいか小さいかに、何の違いがあろう?運命が君に与えないものがどれほど僅かであるかに、何の重大事があろう*1920. 水にしろ大麦粉にしろ、他人の支配下に置かれ得るものだ。しかし自由とは、運命の力が僅かしか及ばない者ではなく、全く運命の力が及ばない者の内にあるのだ。これが私の言いたかったことだ。つまり、もしユピテルの大神に挑もうと思うなら、君は何も望んではならない。大神は、何も望まないのだから。」

 以上のようなことを、アッタロスはわれわれに語ってくれました。もし君がこうしたことを繰り返し熟慮するなら、君は幸せに見えることではなく、幸せなことに向かって突き進むでしょう。そして、他人にそう思われるのではなく、自分で自分を幸せだと思うことでしょう。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 110 - Wikisource, the free online library

・解説

 ストア派らしい富の軽蔑の教え。アッタロスの言葉は、もっともだが単に財宝が羨ましくなって、去勢を張って富に価値はないと言っているように見えなくもない。そもそもストア派の開祖のゼノンも、財産を積んでいた船が沈没したことをきっかけにこの思想を始めたし、セネカ自身も大金持ちで、引退の際にネロに命乞いのような形で財産を返納してから、晩年の執筆活動に勤しんでいる。ので、本当は金銭が欲しくて欲しくて仕方ないが、やせ我慢して軽蔑するとか言っているのかも知れない。

 とはいえ、痩せ我慢とは立派なもので、卑屈な精神で、「金のある人は心も豊かだ」とか、「金銭はそれに相応しい人に引き寄せられる」とか、「金持ちは立派だ」とか寝言をのたまう現代人より遥かに立派で、高潔な態度だと思える。そもそもセネカは自分が俗物であることを隠していないし、それを素直に認めた上で自身の考えを述べている。やせ我慢で富を軽蔑する方が、卑屈な態度で富を崇めるよりも、誠実な態度だと個人的には思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:書簡104.1参照

*2:全ての男性には守り神ゲニウス、女性にはユーノーがついているという考え。イメージ的には守護霊・背後霊。書簡12.2,書簡90.28,書簡95.41も参照。

*3:オウィディウス「変身物語」1.595

*4:つまり1節の「自分で自分自身に好意を抱く」の反対。

*5:つまり、既に成功した人は元々断崖に立っているのだが、さらに高みに立ってより危険になることが、あたかも以前は安全であったかのように錯覚させる(そうして際限なく危険になっていく)、ということ。

*6:死すべき人間に定められたこと

*7:金銭や地位など

*8:「事物の本性について」2.55~56

*9:いつでもスタート地点を新たに定めて、つまりは人生を新しく始めて、より遠くのことをあてにして、現在の自分を急き立て、暗闇の中を突進する、という意味、

*10:哲学

*11:宇宙の全ては火によって消滅し、また再び生じるというストア派の宇宙観。

*12:

*13:鉄や貴金属などを掘り出すと同時に、そこから争いや贅沢といった悪徳を掘り出す(取り出す)という意味。

*14:いざとなれば雑草も食べられると

*15:つまりドングリなどの木の実

*16:霜降り肉のようなイメージ。

*17:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9.7,書簡63.5,書簡72.8,書簡81.22,書簡108.3参照。

*18:飢え死にすれば、飢えの苦しみは無くなる、という意味。

*19:食べ物がどれほど少量に制限されたところで、死ねば関係ないので。