1. われわれは、多くの仕事が自由な学問研究を妨げると信じ込ませようとする連中に騙されています。彼らは自分の仕事を偽り、それを増やし、自分で自分を忙しくしています。僕はといえば、ルキリウス君、時間は自由に扱っています。本当に、自由なのです。僕はどこにいても、自分自身の主人です。なぜなら、僕は雑事に身を委ねるのではなく、自分を貸し出すだけであり、時間を浪費するための言い訳も探しませんから。僕はどこにあろうとも思索を続け、心の中で健全なことを思いめぐらします。2. 友人と共にある時でも、僕は自分自身との善き交わりから離れませんし、偶然の機会や公的な立場によって会った人たちに、引き留められることもありません。僕は最高の人々*1との交わりに時間を費やします。彼らがどこの国の、いつの時代の人物であろうと、僕は彼らに思いを馳せます。3. たとえば、デメトリウス*2という最高の人物を僕は自分の友とし、紫の高官服の連中を後に、着の身着のままの彼と語り合い、彼を褒めたたえます。どうして彼を賞賛せずにいられましょう?僕は彼が、何一つ欠いていないことに気付きました。あらゆるものを軽蔑することは誰でもできますが、あらゆるものを所有することは誰にもできません。富への一番の近道は、富を軽蔑することです。しかし、われらが友人デメトリウスは、あらゆるものを軽蔑することを知って生きているのはなく、あらゆるものを他人の所有に委ねたかのように生きているのです*3。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 62 - Wikisource, the free online library
・解説
自分自身や優れた哲人(故人か否かを問わず)と善き交わりを持つ人は、無駄に忙しいフリをすることはなく、人生(=時間)を有益に使うということ。そして、そのような人物であれば、(デメトリウスのように)全ての所有者となりながら、全てを他人の所有に委ねているかのように生きることができると言っている。つまり、自分と善き交わりを持って自分を信頼していれば、他人(=運命)を恐れる必要がなくなるということだろう。