徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡20 教えとその実践について

 1. 君が健全に過ごし、自分をいつかは自分自身の指導者になるに値すると見做しているなら、僕は嬉しく思います。というのも、君が打ちのめされている、抜け出すことの叶わない洪水から君を引きあげることができたなら、それは僕の功績になりますから。しかし、ルキリウス君、僕は君に次のことをお願いします。英知を魂に染み込ませ、単なる弁論や文章ではなく、心の力強さと欲望の低減によって、君の進歩を確かめて下さい。君の行いによって、君の言葉を証明して下さい。

 2. 演説の練習をして群衆の賛同を得ようとする人々や、多種多様なあるいは流暢な論法で若者や暇人の耳を魅了する人々とは、目的は全く異なります。哲学が教えるのは、話すことではなく行うことです。哲学が全ての人に求めるのは、自分自身の規律に従って生きること、自分の生き方が自分の言葉と一致していること、さらには、自分の内面の生活が同じ性向を保ち、自身の全ての活動と調和していることです。僕はこれこそが、最も重要な義務であり、英知の最高の証であるといいます。言葉と行為は一致していなければならず、人はあらゆる状況下で自分自身と同一であり、常にそのようにあるべきです。

 「しかし」君は言われる。「誰がそんな規律を守れるのですか?」ごく少数ですが、そんな人物もいます。それは確かに難しいことで、哲学者といえども、常に同じ歩調で歩み続けられる訳ではありません。しかし彼は常に同じ道程をたどります。3. なので、自分自身を観察してみて下さいーー着る服と住む家に不調和はないか、自分を甘やかしてる一方、家族はぞんざいに扱っていないか、質素な夕食ではあっても、家は贅沢なものを建てていないか、を。君はしっかりと、それに沿って生きるべき一つの規律を抱き留め、この規律に従って、自分の人生全体を調整しなければなりません。ある人は家の中では控えめですが、外では横柄な態度をとります。こうした不一致は誤りであり、まだ調和を保つことができず心が揺れ動いていることの証です。4. さらには、こうした不安定さと、行動と意思の不一致は、どこから生じるものかをお教えしましょう。それは、誰も自分の望むものを、思い定めないからです。たとえ定めたとしても、それに留まることなく、次のものに飛び移っていきます。常に気が変わるだけでなく、かつて放棄して否定したものに、再び戻ってきたりもします*15. したがって、古における知恵の定義はさておき、人間の生活様式全般も含めると、次のように言うのがよいでしょう。「知恵とは何か?常に同じものを望み、同じものを望まないことだ*2」望むものは正しいものであるはずだ、という但し書きを加えてもかまいません。それが正しいものでない限り、誰も常に同じもので満足できませんから。

 6. これゆえ、人は実際に望んでいる瞬間を除いて、自分が何を望んでいるかを知りません。誰も、何を望んで何を望まないかを、しっかりと思い定めたりしないのです。判断は日ごとに異なり、反対のものにもなり、それにより人々の一生は、ある種の娯楽に費やされることになります。したがって、君が始めたように続けて下さい。そうすれば、おそらく君は、完全へと導かれるか、まだ完全ではないと君だけが理解できる地点へと導かれるでしょう。

 7. 「しかし」君は言われる。「私の収入がなければ、私の家族はどうなるのでしょう?」君の支えがなくなっても、君の家族はやっていけます。あるいは、君からの恩恵があっては知ることができなかったものを、貧乏の恩恵によって学ぶでしょう。貧乏は真の、信頼できる友をもたらします。友人その人を探し求めるのではなく、その人に付属するものを探し求めるような人を、追い払うことでしょう。しかし、君を愛してくれている人を教えてくれるというただ一つの理由だけでも、貧しさを愛すべきだということは、真実ではありませんか?ああ、いつになれば、君に阿ってお世辞を言うような者がいなくなるのでしょう!8. したがって、君の考えること、努力、願望を、君が自分自身と、そこから湧き出る善きものに満足できることに向けて下さい!そして、それ以外の願いは全て、神々に委ねて下さい!そうすれば、どれほど大きな幸福が君に近づくでしょう。それより下はないくらいの、粗末な状態に自分を置いてみて下さい。そして、君が速やかにそのようにできるように、この手紙に添える贈り物はそれについて言及したものにします。すぐに君に授けましょう。

 9. 君は冷ややかな目で見るかもしれませんが、僕はまたしてもエピクロスの言葉を借り、支払いにあてましょう。「僕を信じてほしいのだが、君が簡素な寝台で寝て粗末な服を着れば、君の言葉はより確かなものになる。そうすれば、君は単に語るだけでなく、それらの言葉の真実を実証できるだろう」少なくとも僕は、われらが友デメトリウス*3が、体を覆うものもなく、さらには横たわる敷物もなしに安らぐのを見た後には、全く異なった心境で彼の言葉に耳を傾けるようになりました。彼は真理を教えるだけでなく、身をもってその証人となったのです。10. 「しかし、富が自分の懐にある時、それを軽蔑できる人はあるのですか?」もちろんです。そのような人物は偉大な精神を持ち、自分の周りに積み上げられた富をみて、それらがなぜ自分のもとにやって来たかを長時間不思議に思ってからあざ笑い、それらが自分のものであると言われても実感を持ちません。富と親密になって堕落しないことは立派ですし、富に囲まれても貧乏である人は本当に偉大です。11. 「ええ、しかし、私は知りたいものです」君は言われる。「あなたの言うような人物が突如として貧困に陥った場合、どのようにそれに耐えることができるのですか」エピクロスよ、僕も、あなたの語る貧しい人が、もし突如として富の中に放りこまれたらどうなるかを知りたい。したがって、いずれの場合でも、評価されるべきは精神であり、君のいう人物が貧乏でも喜びを感じられるか、僕のいう人物が富を軽蔑できるかを、精査する必要があります。そうしないと、このような人達が自ら進んでではなく必要に駆られて、これらの試練に耐えているに過ぎないことが明らかにされ、粗末な寝台もボロボロの服も、善き精神の証となることはないでしょう。

 12. しかし、その方が優れているからという理由でそうした貧しい生活に身を投じるのではなく、容易に耐えられるからという理由でそうしたことを実践するのは、偉大な精神の証です。実際耐えるのは容易なことです、ルキリウス君。しかし、長年の訓練の後では、それらはさらに楽しいものになります。そうした生活は心配事とは無縁ですし、これなくして、何事も楽しいものにはなりません。13. したがって、僕が手紙に書く通り、偉大な人物たちがしばしば行っていたように、幾日かの間、貧困を想定して、現実の貧困に耐える訓練をすることは、不可欠であると僕は考えます。われわれは贅沢に浸り、あらゆる義務を困難で面倒なものと見做してきたので、なおさらこうしたことを行う理由があります。むしろ、魂をその眠りから目覚めさせ、激励し、自然が定めたわれわれに必要なものは、ごく僅かであることを思い出させて下さい。生まれた時から金持ちの人はいません。全ての人間は、最初の光を見た時、乳とボロ切れで満足するよう命じられます。これが始まりなのに、今や王国でも私たちには小さすぎるというのでしょうか!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 20 - Wikisource, the free online library

・解説

 「言葉と行為に一致がない」というのは耳に痛い人が多いだろう。僕もそうだ。シュタイナーも、次のように述べている。

体の在り方、魂の欲求や情熱、霊の理念や思考が相互に完全に一致しなければならない。体は高貴で純粋なものとなり、その諸器官は魂と霊の役に立つためにのみ機能し、魂も高貴で純粋な思考に矛盾する欲望や情熱に駆り立てられてはならない。

      ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」

 言葉や思考と行いを一致させるということは、簡単に言うと嘘をつかないことだが、これは本当に難しい。人間は息をするように嘘をつくし、現実と異なることも平気で口にするし、嘘が平気になるあまり、自分の嘘を現実と思い込むようにまでなる人もいる。しかしシュタイナーもセネカも言ってるように、そうした不調和は全て悪しき精神の表れであり、魂の進歩を阻害する。世間や学校や社会や会社というのは自分達に都合のいい嘘を平気で刷り込んでくるが、そうした連中に毒されないためにも、セネカやシュタイナーの本をしっかり読んでいきたいものだ。

 

*1:「そんな心を持つ人々は、自分のやりたいだけのことを、じっさいにやったり、追い求めたりすることができない。彼らは、すべてを願望することしかできないのだ。彼らは、いつでも、ふらふらとして、気まぐれなのだが、それも当然のことだ。彼らは、宙に浮いた存在なのだから。」心の安定について2.7

*2:もとは友情に対する英知の定義を、セネカはここで自己の規律に適用。「同じものを望むとともに同じものを望まないこと、これが実に固い友情である」前1世紀のローマの歴史家サルスティウスの「カティリナ戦記」20.4

*3:キュニコス派ギリシャの哲学者で、セネカの友人。キュニコス派は、一切の所有物を持たない簡素な生活を理想とした。