徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡18 祭日と少食について

 1. 十二月になりましたが、街は汗だくです*1。贅沢なお祭り騒ぎの許可が公布されましたから。まるでサトゥルナリア祭が通常の仕事の日とはまったく異なるものであるかのように、人々は大掛かりな準備で沸き返っています*2。しかし実際は、何ら異なるものではありません。「かつて十二月は一月ひとつきであったが、今や一年だ*3」と述べた男の言葉は正しいと、僕は考えます。

 2. もし君がここにいたら、僕は進んで君に相談し、君はどうするべきと考えるかを知りたいーー日常の習慣を(祭りだからといって)変えるべきではないのか、それとも、大衆の生き方に背を向けないためにも、トガを脱ぎ捨て、陽気な服装で、飲み食いしたりするべきか。われわれローマ人は今や、余暇や祭日のために服装を変えていますが、そうした慣習は、かつては国家が乱れ、悲惨な状態にある時にしか見られなかったものです。3. 君に対する僕の理解が正しいものなら、君は審判として、あらゆる点でピレウス*4をかぶった群衆と同じであることも、あらゆる点で彼らと異なっていることも、望まなかったことでしょう。ただし、大衆が快楽に身をやつしている今こそきっと、魂に命じて快楽を控えるべきであるという場合は別です。というのも、魅力的なものを自ら求めたりせず、贅沢への誘いにも惑わされないことは、志操堅固でいられることの、最も確かな証拠だからです。4. 大衆が酔っ払って嘔吐している時に酒を控えしらふを保つのは立派なことです。しかし、自分自身に引きこもらず、それでいて世間の人がするのとは別のやり方で、彼らと同じことをするのは、より偉大な自制心の証です。贅沢をせずとも、祭日を楽しく過ごすことはできるのです。

 5. しかし、僕は君の心の堅固さを試すことを決めましたので、偉大な人々の教えを参考にして、君にも教訓を与えましょう。一定の日数の間、最小の貧窮な食物と、粗末でごわごわの服に甘んじ、その間、自分こう言い聞かせてみて下さい。「これが私が恐れていた状態か?」と。6. 心配の少ない時にこそ、魂は大きな困難に備えて自分自身を強化するべきですし、運命の暴力に抗せるよう、まだ運命が親切なうちに魂は自らを鍛えるべきです。兵士は平穏な時に訓練を行い、敵が見えなくとも土塁を築き、緊急の事態に備えて、報われるかもわからない労苦に身をやつします。危機の時にたじろぐことがないよう、それが来る以前から訓練をしていて下さい。貧乏を真似て毎月ほぼ無一文の状態で過ごした人達は、このようにすることによって、危機が来ても恐れることがなかったのです。

 7. とはいえ、ティモンの食事と貧者の小屋*5、あるいは贅沢な金持ちが退屈な生活を紛らわせるために思いつくあらゆる手段について僕が言っていると考える必要はありません。貧相な寝床や粗末な外套は、実際のものでなければならないし、パンも固くて粗末なものでなければなりません。これらすべてに、三日か四日、場合によってはそれ以上の期間、耐えてみて下さい。それらが単なる趣味ではなく、君自身の試練となるように。そうすれば、ルキリウス君、君はわずかな食物で満足できることに喜び踊り、人の心の平和は、運命に依存しないということを理解するでしょう。運命の女神はたとえ怒っている時でも、われわれに必要なものは十分に与えて下さるからです。

 8. しかし、君は何かとても大したことをしている、などと考える理由はありません。何千もの奴隷や、何千もの貧しい人々が、毎日やっていることをしているだけだからです。しかし君は、次の点で自分自身を誇ることができますーー君は強制されてそれをするのではなく、時おり試行をしてきた時と同じように、これからもずっと、簡単にそれに耐えられるでしょう。(剣闘士のように)訓練用の柱で、戦闘の練習をしましょう。運命の不意打ちを食らうことがないよう、貧困に親しんでおきましょう。貧困が全く重荷ではないことをいったん学んだら、われわれは金持ちであっても、心穏やかでいられるでしょう。

 9. 快楽を教えたエピクロスでさえ、ある程度の期間を定めて、その間はかつかつの食事で飢えをしのいでいました。そうすることで彼は、満ち足りて完璧な幸福から不足するところがあると感じるか、もしそうであるなら不足しているのは何か、それは多大な労力を払って買い求める価値があるのかを、知ろうとしたのです。いずれにせよエピクロスは、カリノスが統治者アルコーンだった時代*6に、弟子のポリュアイノス*7に宛てた有名な手紙のなかで、そのことを述べています。実際彼は、自分は一アース*8も使わずに暮らしているが、まだそれほど進歩していない(弟子の)メトロドロス*9は、一アース必要だと自慢していました。10. そんなわずかな金銭で満足できると思いますか?ええ、そして、喜びすらありますーー次から次へと刺激を必要とする、移ろいやすい束の間の喜びではなく、地に足のついた確実な喜びです。水と大麦粉と、固くなった大麦パンのかけらによる食事はおいしいものではありませんが、こうした食事からも喜びを得られることや、どんな不運でも奪い去れないほどに、自身の必要の程度を引き下げることができることこそが、最高の喜びです。11. 牢獄の食事ですら、もっと豪華なものですし、死刑に処される人ですら、処刑人からこんな粗末な食事を与えれることはありません。こうしたことから、死刑を宣告された人でさえ恐れる必要のない食事を、自らの自由な意志で自分に課すには、なんと偉大な精神が必要なことでしょう!これこそがまさに、運命の矛先の一撃を、未然に防ぐということです。

 12. ですから、親愛なるルキリウス君、これらの人々の習慣に従い、特定の日を設けて、君の仕事から身を引いて、最低限のものでやりくりする生活に親しんでみて下さい。貧乏と協力関係を築いて下さい。

友よ、思い切って富を軽蔑してみよ。

そして君自身を、神々に近しいものに作り上げよ。*10

  13. 神に近しいものになれるのは、富を軽蔑した人だけです。もちろん僕は君に、富の所有を禁じている訳ではありません。しかし、恐れながらそれを所有したりしないようになって欲しいと思っています。これは、金銭があってもなくても幸せに暮らせることを自分自身に納得させ、富はいつでも君のもとを去る可能性があることを理解することによってのみ達成されます。

 14. しかしそろそろ、手紙を閉じ始めなければなりません。「その前にいつもの支払いをして下さい」と君はこぼします。ここにエピクロスの言葉があり、彼が支払いをしてくれます。「制御されない怒りは狂気を生む*11」君は奴隷のみならず敵ももっているので、この言葉が真実であると理解せざるを得ないでしょう。15. 実際この感情は、どんな種類の相手に対しても燃え上がります。それは憎しみからだけでなく愛からも生じ、深刻な問題からも、冗談や娯楽の中からも生じます。そして、きっかけがどれほど重要であるかは、さほど問題ではなく、いかなる種類の魂に浸透するかが問題です。炎も同様に、最初の火種がどれほど大きいかはさほど問題ではなく、どこに落ちるかが問題です。強固な木材は大きな火でもはじき返しますが、反対に、乾燥して燃えやすい木材は、ほんのわずかな火花でも、大火を引き起こします。よってルキリウス君、怒りも同様です。激しい怒りの行きつく先は狂気であり、われわれは怒りを避けるべきです。それは、度の過ぎたことを避けるためだけでなく、健全な精神を保つためでもあります。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 18 - Wikisource, the free online library

・解説

 訳が難しかった。ラテン語まで確認してもなかなかしっくりくる日本語まで落とし込めた感じがしない。本訳に不満のある方は、英語やラテン語の原文を確認されたい。

 セネカはその哲学の中で一貫して中庸を説いている。激しい口調で贅沢や快楽や祭りの日の浮かれた騒ぎを非難するが、それでいて世間に背を向けろと言っている訳ではない。スピリチュアルでいう所の、「俗世にあって俗世に超然とせよ」ということだろう。現代でも極端な節制主義や極端な快楽主義を説く人が多いのに、2000年も前からこれほど深く真実を洞察し、描写していた人がいたということに対し、驚嘆と畏敬の念を禁じ得ない。最期の怒りについての説明は、セネカの「怒りについて」に詳しい。岩波文庫で安価に買えるので、興味のある人は参考にされたい。

 

*1:英語原文にあるyetは「まだ」「未だに」ではなく「なのに」「それにも関わらず」等のニュアンスで訳すのが適切だろう

*2:ローマの祭日の中でもっとも陽気で楽しい、今でいうクリスマスのような祭り。12月17日にあった

*3:一年中お祭り気分だということ

*4:新たに解放された奴隷や、祭日にローマ市民がかぶったフェルトの帽子

*5:前5世紀のアテナイの人。おそらくは富裕の頃のティモンが考案した、何か奇抜な食事会や小屋のことだろう

*6:全290~89年

*7:ランプサコス生まれで数学を学んでいたが、エピクロスの影響で哲学に転向し、幾何学を全て虚偽と信じるようになった。

*8:非常に少額な貨幣の単位

*9:エピクロスの弟子であり親友。書簡6,書簡14参照。

*10:アエネイアス8.364~365

*11:「過度の」「極度の」と訳す人が多いが、本人の責任に帰すためあえて「制御されない」という訳にした。ラテン語の「immodicus」は「節度のない」という意味なので、別にこれで間違いではない。