徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡119 われわれの最善の供与者としての自然について

 1. 僕が何かを発見した時はいつでも、君が「山分けにしましょう!」と言うまで待ったりはしません。君のために僕は自分からそう言いましょう。僕が発見したものが何かを知りたければ、財布を広げて下さい。丸儲けです。僕が君に教えるのは、どうすれば速やかに金持ちになれるか、ということです。君はどれほど熱心に、これを聞きたいと思っていることでしょう!当然のことです。僕は君を、最大の富者への近道を通って導きましょう。とはいえ君は、金を貸してくれる人が必要だと思うことでしょう。事業*1を行うためには、借金の契約をする必要がありますから。しかし僕は、君が仲介者を通して借り入れすることを望みませんし、金貸し業者が君の審査を行うことも望みません。2. 君にすぐに貸してくれる人として、かのカトーの勧める人物をご紹介しましょう。「君は君自身から借りるがよい!」どんなに小さな額であろうと、不足を自分自身の財源で補うことができるなら、それで十分です。というのも、僕のルキリウス君、君が何も求めないか、何を持っているかというのは、どうでもよいことですから。いずれの場合でも重要なことは同じです、つまり、君が不安を免れていることです。

 そして僕は君に、自然に対して何かを拒否することは勧めません。自然は強情で克服できるものではありませんし、その権利を主張しますから。しかし、自然の欲求を超えるものは何であれ単に「余分な」ものであり、必要不可欠なものではないことを君は知るべきです。3. 僕は空腹になれば、食事をせねばなりません。そのパンが粗末なものか最高級の小麦を使ったものかは、自然は気にしません。自然の望みは、腹が楽しまされることではなく、満たされることです。そして僕の喉が渇いたら、僕が飲む水が近くの貯水池のものであるか、大量の雪で囲って人為的に冷やした水であるかは、自然は気にしません。自然が命ずるのは喉の渇きを潤すことだけです。その盃が黄金であれ、水晶であれ、蛍石であれ、ティーブル*2産であれ、手のひらの窪みであれ、自然にとっては何の違いもありません。4. あらゆる事柄に関してその最後に着目すれば、君は余計なものは捨て去れるでしょう。空腹が僕に訴えかけています。何でも近くにあるものに手を伸ばすとよいでしょう。大きな空腹のお陰で、僕は手に入るものなら何でもご馳走に見えます。飢えた人は、食べものを粗末にしません。

 5. それでは君は、僕を喜ばせたのは何だったのかとお尋ねですか?僕が発見したのは、次の高貴な言葉です。「賢者とは自然の富を最も熱烈に求める者だ。」「何でしょう」君は言われる。「あなたは私に、空の器を下さるというのですか?私はすでに金庫の用意までしていました。私はすでに、*3交易のためにどこの海に乗り出そうとか、どんな事業を請け負おうとか、どんな商品を取り扱おうとかを考えていたのです。富を約束しておいて、貧乏を教えるとは、詐欺ではありませんか。」しかし親愛なるルキリウス君、君は何も不足していない人を、貧乏だと思いますか?「けれどもそれは」君は言われます。「その人自身とその人の忍耐力のお陰であって、運命のお陰ではありません。」それでは君は、このような人物の富は、決して損なわれることがないが故に、この人物は金持ちだ、とは考えないのですか?6. 君は沢山持つのと、十分に持つのと、どちらがよいですか?沢山持つ人は、さらに多くを望みます。これはその人が、まだ十分に持ってないことの証です。しかし、十分に持つ人は、金持ちには決して到達し得ない地点、つまりは欲の終着点に到達しているのです。所有のために追放に処されたりすることなどないという理由で、この人を真の富者だとは思いませんか?あるいは、所有のために息子や妻に毒を盛られることがないという理由で。あるいは、戦時であろうとその富は損なわれないという理由で。あるいは、平和な時には閑暇をもたらすという理由で。あるいは、所有することが危険ではなく、運用することが手間ではないという理由で。

 7. 「しかし、単に寒さや飢えや渇きを免れているというだけでは、持っているものが少なすぎます。」しかし、ユピテルの大神も、それ以上に持っている訳ではありません。十分なだけあれば、決して少なるぎることはありませんし、十分でなければ、決して多すぎることはありません*4アレクサンドロスは、ダレイオスやインドを征服した後でも貧しかったのです。そうではありませんか?彼は全てを自分の所有物にすることを企て、未知の海を探究し、大洋に新たな艦隊を送り、言うなれば世界の閂さえも破壊したのです。しかし自然にとって十分なものが、一人の人間には十分でなかったのです。8. 全てを手に入れた後でも、さらに何かを渇望するような人々がいたのです。彼らの精神はそれほどまでに盲目であり、進んだ後では誰もが始まりの地点を忘れるのです。アレクサンドロスは、少し前までは世界の片隅の名もない荒くれ者の領主に過ぎませんでしたが、世界の果てに到達した後で、自らの所有物となった世界を戻らねばならなくなって、絶望したのです*59. 金銭は決して人を豊かにはしません。それどころか常に、金銭自身に対する渇望をさらに人に突きつけるだけです。この原因をお尋ねですか?より多くを持つ人は、さらに多くを持つことができるからです*6

 要するに、クラッススやリキヌス*7と一緒にその名が語られる金持ちの人物を、誰でもわれわれの監査の対象に連れてきて下さい。彼に財産の帳簿を持ってこさせ、現在の財産と、今後見込まれる財産の全てを足した計算をさせましょう。このような人物でも、僕に言わせれば貧乏ですし、君に言わせればいつか貧乏になるのです*810. しかし、自然の要求に従って自分を整える人は、貧乏の感覚のみならず、恐怖をも免れています。そして、人が自分の財産を自然の範疇に収めることがいかに難しいかを知ってもらうために申しますが、僕が先に述べたような人物はもちろん、君が貧乏と呼んでいる人物ですら、実は余計なものを持っているのです。11. しかし、富は大衆を盲目にして、自らに惹きつけます。たとえば、ある男の家から大金が運ばれたり、その家が沢山の黄金で葺かれていたりする様子や、その容姿の麗しさのみならず、服装の立派さでも際立っている奴隷を見せつけることによって。こうした人々の幸福とは全て、大衆の俗見に従ったものです。しかし、われわれが大衆と運命の支配から奪い取ったかの理想の人物は、内面において幸福なのです。12. というのも、先の連中の頭の中では、忙しいだけの貧乏が、富の名称を偽って語っているのです。彼らが富を持っているというのは、実際には熱がわれわれを持っているのに、「熱がある〔熱を持っている〕」というのと同じです。反対にわれわれは普通は、「熱に捉われている」と言います。そしてわれわれは同様に、「富に捉われている」と言うべきです。ですから僕は君に、次のような助言を与えたいと思っており、この助言は、何度言っても十分ではありません。すなわち、君は全てを、自然の要求に沿って測るべきだということです。というのも、自然の欲求は無料で、あるいは非常に安価な費用で満たすことができるからです。ただし、この〔自然の〕欲求の中に、悪徳を混ぜてはなりません。13. どうして君は尋ねる必要があるのでしょう?どのような食卓で、どのような銀の食器で、どのようにそれに相応しい、顔つやの美しい若い給仕が食事を提供するのかを。自然は食事そのもの以外は、何も要求しません。

君は灼けるように喉が渇いた時に、黄金の盃を求めるのだろうか?

君は飢えに苦しんだ時に、孔雀とヒラメの肉以外は、軽蔑するのだろうか*9

 14. 飢えは野心を持ちません。満たされれば止みます。そして、満たすものが何であるかはさほど気にしません。贅沢は「幸福でない」ことにも苦しめられます。つまり贅沢が追求するのは、どうすれば満腹になった後でも空腹を感じられるのか、どうすれば胃袋を満たすのではなく限界以上に詰め込めるのか、どうすれば最初の一杯で癒された喉の渇きを呼び戻すことができるのか、といったことです。ですからホラティウスが、どれほど高価な盃で、どれほど優雅な手つきで水が提供されるかは、喉の渇きには何にも関係がないと言ったのは、素晴らしいことなのです。というのも、もし給仕の少年奴隷の巻き毛がどれほどのものであるか、その差し出す盃がどれほど透き通っているかが重要であると考えるなら、君は喉が渇いていないのです。

 15. 自然がわれわれに与えて下さった恩恵の中でとりわけ優れたものは次の点です。すなわち、自然は、必要不可欠なものからは、好き嫌いを取り除いて下さいました。余計なものには、選り好みの余地があります。われわれは、「これは相応しくない」だとか「これは優雅じゃない」だとか「これは見栄えしない」だとか言うのです。われわれのために生の法則を規定して下さった宇宙の創造主は、われわれの安全を定めたのであって、贅沢を定めたのではありません。われわれの安全に必要なものは全て予め用意され、容易に手に入れることができます。しかし贅沢に必要ものは、悲惨と気苦労なしには決して手に入りません。

 16. ですからわれわれは、この自然の恩恵を偉大なるものの一つを考えて、十分に活用しましょう。そして、われわれが自然に対し最も感謝すべきことは、われわれが本当に必要として望むことは全て、嫌悪感を抱くことなく享受できるということであると考えましょう。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 119 - Wikisource, the free online library

・解説

 ストア派らしい教えだが、セネカの自然への畏敬が他の書簡と比べても際立っている。。セネカは「母ヘルウィアへの慰め」でも自然を称えており、そのあたりにセネカの敬虔さというが、信心深さというか謙虚さというか、哲学者としてのアレテーを感じすにはいられない。

 

 

*1:「最大の富者」になるための

*2:ローマ東方。土器を生産していた。

*3:得られた富を使って

*4:十分でなければ、いくら多くても意味がない

*5:アレクサンドロスは世界の果てを目指して東方遠征に赴いたが、前325年にインドに入る手前で部下の反対にあってそれ以上の進軍を断念して西に引き返し、前323年にバビロンで熱病にかかって死んだ。

*6:多く金を持つ人ほど、その金を元手に投資や商売などで、さらに多くの金を持つことができるから、というニュアンスか

*7:いずれも大金持ちの人物の例。クラッススについては、書簡4.7,書簡104.29参照。リキヌスは戦争捕虜からアウグストゥスの解放奴隷に成り上がり、大金持ちとなった。

*8:より多くを欲しがるようになるので

*9:ホラティウス「風刺詩」1.2.114~116