1. ルキリウス君、僕は君が、言葉や構文について必要以上に拘ることを望みません。君がより配慮すべき、もっと大切なことがあります。追及すべきは、どう書くかではなく、何を書くかであり、この書くということにおいてさえ、目的は書くことではなく考えることであり、それにより、考えをより自分自身のものに、言うなれば刻印することができるのです。2. 誰の文章であれ、それが過度に緻密に、必要以上に洗練された文体になっていたら、その作者の心も同様に、無意味なことにかまけていることがお分かりになりましょう。真に偉大な心の持ち主は、より自然に、屈託なく話します。何を語る時も、彼は懸念よりも自信をより大きく持ちます。
君もよくご存知でしょう、化粧箱から出てきたばかりのように、髭や髪を光らせている、あの若いだて男たちを。彼らには力強いものや、確固たるものは何も望むべくはありません。文体とは魂の身なりです。それが剪定されたり、染め付けられたり、手入れされたりするならば、それは魂が純粋でなく、何かしら欠陥があることを意味します。過度に着飾ることは、男子には相応しくありません。3. もしわれわれが、或る立派な人物の魂を覗き見ることができたならば、ああ、なんと美しく、神聖で、勇ましく、清浄で、輝かしい容貌を目にすることでしょう!こちらでは正義と節制が、あちらでは勇気と賢慮が光を放ちます。これらに加えて、倹約、自制、忍耐、聡明、寛容、そして人間においては稀にしか見られない善である、同胞への信じ難いほどの博愛心、これら全てが、その魂に、自らの光輝を投げかけるのです。また、聡明さに伴う先見の明があり、そしてこれら全ての美徳の中で最も優れた資質である魂の偉大さが、ああ、神よ、まったくどれほどの美麗さを、荘厳さを、壮大さを顕示することでしょう!優美さと力強さが、何と素晴らしく調和していることでしょう!そのようなお顔は、崇拝すべきであると同時に、愛すべきものなのです。4. もし誰か或る人がこうした顔を目にして、それが普段見慣れた人々の顔よりも遥かに高貴で輝かしいものと思ったならば、彼はあたかも神と邂逅したかのように呆然と立ち尽くし、次のように静かな祈りを捧げるのではないでしょうか?「このようなお顔を拝見したことが、どうか許されますように。」そして、その優しさの溢れる表情に惹かれてわれわれは歩み寄り、跪いて礼拝するのではないでしょうか?そしれわれわれは、普通見られる人々の顔よりも遥かに優れた、穏やかでありながら生き生きとした炎に燃えるその顔立ちを長い間見つめた後、畏れ敬いながら、ウェルギリウスの有名な次の言葉を口にするのではないでしょうか。
5. ああ乙女よ、あなたを何とお呼びすればよいか、相応しい言葉が見つかりません!
あなたのお顔は死すべき人間のものではなく、その声は遥かに広く甘美なものです。
どうか祝福を下さい。そしあなたが何者であろうと、われらの苦難を軽くして下さい*1。
そして、もしわれわれがその顔を崇拝することを望めば、その容貌は実際に現れ、われわれの助けとなるでしょう。しかしこの崇拝は、肥え太らせた牡牛を屠ったり、金銀の供物を奉納したり、神殿の宝物庫に硬貨を注ぎ込むことによってなされるのではありません。敬虔で誠実な願いによって果たされます。
6. 僕は申します、もしわれわれが彼女を目にすることを許されたなら、彼女のその姿に対する愛に燃えない者など、誰もいなかったでしょう。というのも、今のところわれわれは、多くのものに視界を遮られ、強すぎる光に目を眩まされたり、過度の暗闇で覆われたりしているからです。しかし、何らかの薬を用いて視力を鋭くしたり清めたりすることができるように、われわれも心の視力を妨害物から解放しようと思えば、美徳を見出すことができるでしょう。たとえ美徳が、肉体に埋もれていようとも、たとえ貧困に妨げられていようとも、たとえ悪評や恥辱が、その道に立ちはだかっていようとも。僕は申します、そうすることでわれわれは、それがたとえ見栄えの悪いものに隠れていても、真の意味で美しいものを、見つけ出すことができるでしょう。7. またこれらとは反対の、悪しきものや、悲嘆に暮れて無気力になった魂を、われわれは見分けることができるでしょう。たとえそれが、光り輝く膨大な富に周囲を覆われていても、それにも関わらず。あるいは、こちらでは名誉ある地位が、あちらでは強大な権力が放つ偽りの光が、見る者の目を眩ませようとも。
8. そうすることでわれわれは、いかに低劣なものを賞賛しているかを理解することでしょう。われわれはまるで子供です。子供はあらゆる玩具を価値があるものと見做し、親や兄弟よりも、ほんの僅かな金銭で買った首飾りの方を大切にします。であれば、アリストーン*2も言っているように、われわれ大人と彼ら子供の違いは何でしょう?あるとすれば、われわれは絵画や彫像に狂奔して、愚かにも遥かに高い金銭を支払っているという点です。子供たちは、浜辺で拾った滑らかな、色とりどりの小石を喜びますが、われわれ大人は、エジプトの砂漠やアフリカの荒地から運ばれてきた、柱廊や大衆を収容できるほどの巨大な食堂を支えるための、斑模様の大理石の柱を喜びます。9. そしてわれわれは、薄い大理石の板で覆われた壁に驚嘆しますが、その裏にどんなものが隠れているかを知っています。われわれが自分の目を欺き、屋根を黄金で葺いている時、われわれを喜ばせているものは嘘偽り以外の何だというのでしょう?というのもわれわれは、この黄金の下には、醜い木材が隠れていることを知っているのですから。
また、こうした表面的な装いとは、壁や屋根にだけ施される訳ではありません。君が目にする、威張り散らして闊歩する名高い連中も皆、その幸福は金箔のようなものです。よくよく見れば、その薄っぺらい上張りの下に、どれほど多くの諸悪が潜んでいるかが分かるでしょう。10. あれほど多くの官吏や裁判官の関心を集めるもの、あれほど多くの官吏や裁判官を生みだすもの、つまり金銭のことですが、それに敬意が払われるようになって以来、物事に対する真の敬意は失われました。われわれは代わる代わる、商品になったり商人になったりして、それがどんな本当の価値があるかではなく、どんな価格であるかを尋ねます。われわれは見返りに応じて義務を果たし、見返りに応じて義務を放棄します。そして、何らかの利益が見込める場合にだけ立派な行いをしますが、卑劣な行いによってより大きな利益を見込める場合は、反対の道に進みます。11. われわれの両親は、金や銀を敬うようわれわれに教え込みました。そして幼少期に植え付けられたこの欲望が、われわれの心の奥深くに居座り、成長と共に大きくなりました。そして、他の事柄においては対立している全国民も、この一点においては意見が一致しています。これは彼らが大切に思っているものであり、子供のために願うものであり、神々に感謝の気持ちを示したい時には、あたかもそれが人間の所有物の中で最も偉大なものであるかのように献上するものです!そしてついには、貧乏が罵声によって非難されるべき対象となり、金持ちには軽蔑され、貧乏人には嫌悪されるようになるのが世の常です。
12. ここにさらに、詩人の歌が加わります。この詩はわれわれの欲望の炎に油を注ぎ、富こそがわれわれ死すべき人間の唯一の偉業であり栄光であるかのように称えるのです。不死なる神々は、富より善きものを何一つ与えることも、所有することもないと人々は考えます。
13. 太陽神の宮殿では、
高き柱が立ち並び、
黄金に光り輝く*3。
あるいは、同じ太陽神の馬車を見て下さい。
車軸は黄金、引き棒も黄金、
車輪を取り巻く縁も黄金で、
車輪の輻は全て白銀であった*4。
そしてついには、人々は最良と思われる時代を、「黄金時代」と呼ぶようになります。14. ギリシャの悲劇詩人たちの中にも、潔白や健康や良き評判を、金銭と取り換える人がいます。
私は金持ちと思われるためなら、悪党と呼ばれても構わない!
皆が私の富はどれほどあるかを尋ねるが、誰も私の魂が善良かは尋ねない。
その富が、どこからどのように生じたかは誰も問わず、ただどれだけあるかが問われる。
すべて人の価値は、その人の所有物が何であるかによるのだ。
所有することが恥になるものなどあるだろうか?何もない!
富が私を祝福してくれるなら、私は喜んで生きるが、
貧乏なら、死ぬことを選ぶ。
富を追い求めて死ぬ者は、立派に死ぬのだ。
金銭よ、人類にとっての偉大なる善よ、
母の愛も幼い子供がくれる喜びも、あるいは功績のために敬慕される父も、
そなたには敵わない。
これほど魅力のあるものが、ウェヌスの顔に輝くならば、
神々や人々の心が、彼女への愛に駆り立てられるのも当然のことだ*5。
15. この最後の数行の詩句がエウリピデスの或る悲劇において朗詠された時、全観衆はその役者と歌詞に罵声を浴びせるために立ち上がり、演劇を中止させようとしました。しかしエウリピデス自身がその舞台に飛び込んで、観衆を鎮め、この守銭奴を待ち受ける運命がどんなものか見守るよう頼みました。ベレロフォンテス*6も、あの悲劇の中で罰を受けましたが、それはすべての人々が人生という演劇の中で受けねばならない罰なのです。16. なぜなら、どんな貪欲な行いも、罰を受けないことはあり得ませんから。もっとも、貪欲はそれ自体で十分な罰ではあるのですが。ああ、金銭は何と多くの涙と労苦を、われわれから搾り取ることでしょう!貪欲は、何かを熱望している時も、手に入れてからも惨めです!加えて、富者をその所有量に応じて日々責め苛む心配についてはどうでしょう!金銭はそれを得ようとしている時よりも、所有してからの方が大きな苦痛をもたらすのです。そして、われわれは損失をどれほど嘆き悲しむことでしょう!損失を実際以上に重いものだと見做して!そしてついには、運命がわれわれの富から何も持ち去らなくても、手に入らないもの全てが損失となるのです!
17. 「しかし」君は言われる。「人々から金持ちと呼ばれながら、同時に幸福だと呼ばれている人もいます。その人と同等の財産を得たいと、皆願っています。」確かにその通りです。ではどうでしょう?人生において、不幸と嫉妬を同時に負うこと以上に、悲惨なことがあるでしょうか*7?富を切望している人は、金持ちの境遇をよくよく考えればよかったのですが!顕職を求める人は、野心に溢れ、最も高い地位に到達した人とよくよく相談していればよかったのですが!そうすれば彼らはきっと、既に追い越したものを軽蔑し、常に新たなものを追い求めている人々を見て、自分たちの祈りを撤回していたことでしょう。というのも、逃げ去る者を幸福が追いかけたところで、その幸福に満足できる者など誰もいませんから。人は自分の計画やその結果について不平を言い、常に得られなかったものの方を好むのです。
18. ですからこれを解決するためには、哲学こそ最大の恩恵を与えると、僕は考えます。つまり君が君自身の行いを、決して後悔せずにいられるということです。この確固たる幸福は、どんな嵐にも乱されることはありません。しかし、緻密に織り込まれた言葉や、流暢に流れる文章によって、この幸福へ導かれることはありせん。君の魂が自らの秩序に従う限りにおいて、言葉を好きに進めて下さい。また君の魂が、高潔で、信念が揺るぎなく、他の者にとって気に入らないことが、まさにそのために君自身の気に入る限りにおいて。また魂が自らの進歩を自らの生き方によって測り、英知とは欲望と恐怖から、どれだけ自由であるかに依ることを知っている限りにおいて。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 115 - Wikisource, the free online library
・解説
金銭や社会的地位のような表面的な幸福ではなく、哲学により真の幸福を見出せ、ということ。セネカはしばしば、両親や友人からの、世俗的な成功を願う祈りを「災いの祈り」と呼んでいる(書簡31,書簡60参照)。