徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡60 災いの祈りについて

 1. 僕は苦情を申し上げ、訴状を起こし、怒りを立てます。君の乳母が、先生が、母親が君に願っていたことを、君は今も望むのですか?彼らがどんな災いを願っていたか、君はいまだに理解しないのですか*1?ああ、われわれの親族が願うことは、われわれにどれほど敵対することでしょう!そして、それらはより完全に果たされるほど、敵対の度合いも増すのです。この歳に至って僕は、あらゆる災いが幼い頃からわれわれに付きまとってきたことを驚きません。われわれは両親にかけられた呪いの中で育ってきたのですから。そして神々が、われわれ自身が自らのために発した祈り―—災いを求めるのではない―—を聞き届けて下さいますように!

 2. われわれはいつまで神々に求め続けるのでしょうか?まるでいつまでも自分で自分の面倒が見れないかのように。われわれはいつまで大都市の市場を穀物で埋め尽くし続けるのでしょうか?われわれはそれを集めるのに、人にどれほどの期間収穫させるのでしょうか?いつまで沢山の船が、一度の食事に必要な食材を、一つでない*2海から運んでくるのでしょうか?一頭の雄牛は、わずかな牧草地を食めば満足します。一つの森は、象の群れに十分な広さを有します。しかし人間は、大地も海もいずれも搾取します。3. ではどうでしょう?自然がわれわれにこのちっぽけな肉体を与えた時、飽くことを知らない腹を与え、最も巨大で最も貪欲な動物をも(貪欲さで)打ち負かすようにしたのでしょうか?決してそうではありません。自然の欲求を満足させるには、いかに少ない量で済むでしょう?それらはほんの僅かで満たされます。高くつくのはわれわれの胃袋の自然な空腹ではなく、際限のない欲求です。4. ですからこうした、サルスティウス*3も言うような、「腹に従う」連中は、人間ではなく動物の中に数え入れられるべきです。そして動物どころか、死人の中に数え入れられるべき人々もいます。本当に生きている人というのは、多くの人に役立っている人であり、自分自身をそのように用立てます。しかし、身を隠して無気力になっている人は、家の中にいても、墓の中にいるのと同じです。そのような者のまさに家の敷居の大理石に、名前を刻むことができます*4。彼は死を待つまでもなく死んでいるのですから。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 60 - Wikisource, the free online library

・解説

 貪欲の奴隷になったものは、死んだも同然だと言っている。そして前半の両親の「災いの祈り」については、セネカの父親に対する気持ちが少し入ってるのかも知れない。「人生の短さについて」や「恩恵について」でも、どこか毒親論を彷彿とさせるような描写があった。このあたりがセネカは、現代人に寄り添ってると思わせてくれるのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:書簡31参照

*2:多くの

*3:前一世紀のローマの歴史家、政治家

*4:墓碑として