徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡114 性格を表す鏡としての文体について

 1. 君がお尋ねのことは、なぜある時代に堕落した文体が生じるか、またどのようにして才能ある人々が悪趣味(な文体)へと落ち込み、ある時は大げさな表現が、ある時は気取った表現が、ある時は歌のような調子の表現が広まるのかについてです。あるいは、なぜある時は信じられないほど大胆な表現が好まれたり、ある時は途切れ途切れで暗示に満ち、聞くと言うよりもむしろ読解しなければならない言い回しが好まれるのかについてです。あるいはなぜある時代には、隠喩的な表現が慎みもなく多用されていたのかについてです。この答えとして、君も普段からよく聞く言葉をご紹介しましょう。ギリシャでは格言にもなっているもので、「語り方はその人の生き方である。」です。2. まさしく、個人の行動のし方が語り方に似るのと同じように、国家の道徳が退廃し、人々が享楽的になると、話し方もその時代に一般に見られる風潮を反映するようになります。話し方における乱れは、それが一人や二人ではなく大勢に受け入れられれば、世間全体の放縦の証となります。3. 人の才知とその魂は、異なる類のものとはなり得ません。ある人の魂が健全で、整っており、誠実で、節度のあるものであれば、その才知もまた健全で落ち着いたものになります。反対に、魂が堕落すると、才知もまた退廃したものとなります。魂が怠惰な人は、両手もだらけ、両足も緩慢になることは、お分かりでしょう。女々しい人は、歩き方にその軟弱さが現れるでしょう。魂が自信と活力に満ちた人は、闊達に歩くでしょう。魂が狂っているか、あるいは狂気にも似た怒りに捉われている人は、体を慌ただしく動かし、走るのではなく突進するでしょう。

 そして、こうした魂の性質は才知にどれほど大きな影響があると思いますか?才知は魂と全く一体であり、魂によって形作られ、魂の命令に従い、魂に規範を仰いでいるのですから!4. マエケナス*1の生き方がどのようなものであったかは有名なので、今ここで語るには及びません。われわれは知っています。彼がどのように歩いていたか、どれほど女々しかったか、どれほど自己顕示欲が強かったか、どれほど自分の悪癖をひけらかすことを好んでいたかを。それではどうでしょう?彼の話し方の乱れは、その服装と同様、締まりのないものではなかったでしょうか?彼の文体は、その生活や従者や屋敷や妻*2と同様、奇抜なものではなかったでしょうか?彼はもし自分の責務を全うに果たしていたら、偉大な才知を発揮していたことでしょう。しかしそれは、もし彼が曖昧な表現を用いることなく、また語り方においても散漫でなかったならばの話です。ですから彼の雄弁は酔っ払いのそれであり、支離滅裂で、ろれつが回らず、どこまでも弛んでいるのです。

 5. これほど見苦しい文章があるでしょうか*3?「森を川と岸、被さった。」また、次のような、「川に彼ら耕す小舟において。浅瀬を鋤き返し残すのだ。庭園の後。」あるいは、「女との目くばせにその顔を歪む。鳩はあたかも唇に口づけする。その首も疲れて暴れ回る森の暴君の如く息だ。そのこぼれるものを事の始まりに。」あるいは、「救われぬ探究に彼らは祝宴を開く。酒杯に襲撃を家よ加えよ。その希望によっては、確実によっては、死に至らしめよう。」あるいは、「立ち会えぬ祭日。守護の神は自分自身。」あるいは、「細い蝋燭の芯に、はじけた碾き臼。」「母か妻が着せるのは、炉の火よ。」

 6. こうした文章を見ると君はすぐに、これを書いた男はいつも着物の帯も締めずに、街を歩き回っていたということが頭に思う浮かばないでしょうか?というのも、彼は不在の皇帝の職務を代行する時でさえも、合言葉の呼びかけ*4に、いつもだらしのない服装で応じていたのです。あるいは、この男は法廷でも、演説の壇上でも、どんな公的な集会においても、両耳を露出させて頭に外套を巻いて、まるで滑稽劇に見られる金持ちから逃走した奴隷のような風体で現れたことを。あるいは、この男は国家が内戦に陥り、ローマの都市が困窮と混乱にあったまさにその時にも、公的な場で二人の宦官を侍らせていたことを(もっともその二人ですら彼よりは男らしかったですが)。あるいは、この男はただ一人の妻と、千回も結婚した人物だということを*57. マエケナスの先の言葉は、あれほどにも支離滅裂に組み立てられ、あれほどにも無造作に言い捨てられ、あれほどにも通常の語法に著しく反しているので、それにより彼自身の性格も異常で、不健全で、常軌を逸していたことを示しています。確かに彼は、その温厚さにおいて賞賛に値する人物であり、剣を控え、流血を好まず、自由奔放な生き方の限度を超えてまで、自分を誇示しようとすることはありませんでした。しかし彼は、あのような出鱈目な文章の道楽趣味により、その賞賛をも台無しにしてしまったのです。8. というのも、彼の奇怪な語順、倒置語法、そして、しばしば偉大な内容を含みながら文章にされた時にはその迫力を失ってしまうような人を驚かせるだけの発想などから、彼は温厚なのではなく、軟弱なだけであったことは明らかだからです。度の過ぎた繁栄のために、彼の頭はおかしくなってしまったのです。

 このような悪癖はしばしばその人に由来し、しばしばその時代に由来します。9. 繁栄によって贅沢が広く行き渡ると、人々はまず身のまわりを飾り立てることに細心の注意を払うようになります。それから彼らは、調度品に凝り出します。次に彼らは、家そのものに関心を向けます。田舎の別荘のような広い敷地をどのように確保するか、海を越えて運び込ませた大理石でどのように壁を光輝かせるか、黄金で屋根をどのように飾るか、羽目天井の美しさと床の美しさを、どのようにそろえるかということに。そして次に彼らは宴会の食事の席に贅沢を運び込み、最後に提供されることにわれわれが慣れている料理を最初に出したりして通常の料理の順序に真新しさを加えたり、以前は客が到着した時に渡されていたお土産を、最後に渡したりするようになります。

 10. 心が日常生活における通常の風習を蔑視し、かつては習慣であったことを無粋だと見做すことが平気になると、言葉においても目新しいものを探し求め始めます。時には、時代遅れの、古臭い言い回しが引き出されたり、時には、未知の言葉が作り出されたり、歪められた言葉が使われたりします。また時には、これは最近流行っていることでもありますが、大胆な隠喩を頻繁に用いることが、格別優れた文体の証だと見做されることがあります。11. ある人たちは自分たちの考えを短く切り詰めて表現し、もし読み手が自分の理解力に疑念を抱けばそれを喜ぶほどまでに、意味内容を曖昧にします*6。ある人たちはくどくどと冗長に、自分たちの考えを述べます。またある人たちは悪徳の一歩手前に近付くのみならず、悪徳そのものを愛好しますが、そうでもしない限り、注目を得られないと考えるのです。ですから、堕落した文体が好まれるところではどこでも、人々の性質もまた正道から逸脱していることは疑いないでしょう。

 贅沢な宴会や豪華絢爛な服装が病んだ国の証であるように、文体の乱れは、もしそれが広く行き渡っているならば、言葉の源である心までもが、良識を失ったことの証です。じっさい、堕落した言い回しが、無知な大衆だけでなく、より教養ある人々にも受け入れられてることは、驚くには及びません。彼らが異なるのは着物だけで、判断力ではありませんから。12. むしろ驚くべきは、欠陥の多い文体ではなく、欠陥そのものが賞賛されていることです。というのも、いかなる人の才知も、欠陥の多さを許容されることなしに賞賛を受けることは、あり得ませんでした。誰か著名な人物を挙げてみて下さい。彼の時代が彼に許し、見逃したものが何であったかを、僕は言うことができます。その欠陥が大きな妨げとはならなかった人や、その欠陥が役に立った人も少なくないでしょう。そうです、世の人々の賞賛の的である、非常に優れた人物を僕はお示しできるのですが、もし彼らの欠陥をあげつらうとすると、この賞賛を損なうことになります。なぜなら、欠陥を悪徳とすると、それは美徳と絡み合い、美徳を引ずることになってしまいますから。13. さらには、文体には決まった規律というものはありません。人々の使い方に応じて変化し、決して同じままではあり得ません。多くの人々が、十二表法*7の用語で話し、遠い昔に言葉を求めます。彼らにしてみればグラックスクラッススやクリオ*8はあまりに先進的で新奇に過ぎるので、アッピウスやコンカルニウス*9にまで遡るのです。またこれとは反対に、使い尽くされた普通一般の用法に拘るあまり、平凡な文体に陥ってしまう人々もいます。14. このいずれも、それぞれ方向性は反対でも、堕落した文体と言えます。派手で大げさな表現を好み、詩人が使うような言葉以外は一切用いようとせず、通常の用法の言葉を避けることも(後者の平凡な文体に劣らず)堕落しているのです。この前者には、後者と同じ程度の過ちがあります。前者は必要以上に着飾り、後者は必要以上に無精です。前者は脛毛まで抜きますが、後者は腋毛すら抜きません。

 15. 次は、文章の構成に移りましょう。これについても、数えきれないほど多くの悪癖を、君にお示しできるでしょう!ある人たちは、唐突で不規則な文章を好み、滑らかに流れているように思えたものを、意図的にかき乱すのです。彼らはあらゆる場面において、変則がないことを嫌い、耳に不均一な印象を与えるような言い回しを、力強く男らしいと考えるのです。ある人々において見られるのは、文章の構成というよりは、音楽の調子です。それほどまでに卑屈で柔弱な、滑るような文体なのです。16. そして、言葉が先送りされて長い間待たされた挙句、やっとのことで文末に言葉が現れるような、あのような文体については何と言えばよいでしょう?あるいはキケロ*10のように、穏やかに結末に向かっていく文体はどうでしょう?つまり、ゆっくりと文末に下っていく過程で、つねにいつも通りの調子と抑揚を保った文体です!また、文体の欠陥とは、構文だけにあるのではありません。その内容がつまらない幼稚なものであったり、健全であれば羞恥心を抱くほど奇抜で大胆なものであったり、あまりにも華やかで享楽的であったり、あるいは単に音だけを響かせて空虚な結果に終わったりするような場合にも、文体に欠陥があると言えます。

 17. こうした悪癖は、誰かある一人によって広められると、その同時代の人々がそれに従い、その手法を互いに伝え合うことで文体を支配します。ですからサルスティウス*11の全盛期には、文章は切れ切れにされ、言葉は突然途切れ、文章を曖昧で短くすることが、洗練されたことだとされていました。ルキウス・アルルンティウス*12は稀に見る倹約な人物であり、ポエニ戦役に関する歴史書を書いた人物ですが、サルスティウスの熱烈な信奉者でした。サルスティウスの著作には、「彼は銀で軍隊を作った」という表現が、つまり金銭で軍隊を徴募したことを意味する文章があります。アルルンティウスはこの表現が気に入り、自身の著作のあらゆる箇所にこの「作る」という言葉を入れました。ですから、彼はある箇所では「彼らはわれわれの軍の逃走を作った」と言い、またある箇所では「シラクサ人の王ヒエロは戦争を作った」と言い、また別のある箇所では「その知らせがパルノムスの人々のローマへの降伏を作った」と言っています。18. これは君に(一例として)一口味見をして貰ったまでなのですが、彼の著作全体には、このような言葉が沢山散りばめられています。サルスティウスが時折使うだけに留めていた表現でも、アルルンティウスは頻繁に、それもほぼ常習的に用いていましたが、それも理由のないことではありません。前者は心に浮かぶままに言葉を用いたのですが、後者はその言葉を探し求めていたのですから。それゆえ、人が悪癖を規範とすると、どんな結果になるかがお分かりになるでしょう。19. またサルスティウスは、「水が冬めく」という表現をしました。アルルンティウスは、ポエニ戦役について書いた著作の第一巻で、「不意に嵐が冬めいた」という言葉を使っています。また別の箇所で、とりわけ寒い年であったことを表現したかった彼は、「一年全体が冬めいた」と言っています。そして別の箇所では、「それから彼は、六十隻の輸送船に兵士と必要最低限の船員のみを乗せて、冬めく北風の中を見送った」と言っています。このように彼は、あらゆる場面でこの言葉を用い続けます。またある文章でサルスティウスは、「国内戦争において彼は、よき市民としての美徳と名声を求めた」という言葉を使いました。そしてアルルンティウスはすぐに先の第一巻で、レグルスに関する大いなる「美徳と名声」について書かずにはいられませんでした。

 20. これらのような、あるいはこれらに類する文体における欠陥の模倣は、必ずしも節度の放縦や、精神の堕落を示すものではありません。というのも、ある作家の性質を判断するために必要なものは、その人に特有のものであらねばなりませんから。つまり、怒りっぽい人の文体は怒りっぽく、興奮しやすい人の文体は激しており、女々しい人の文体は頼りなく、軟弱であるのと同じです。21. そうした文体は、顎鬚を抜いたり剃ったりしているような連中のものであることは、君もお分かりでしょう。口の上の髭の或る部分は短く刈っておきながら、それ以外の部分は伸び放題にしているような連中で、彼らは風変りな色合いの外套や、透けて見えるトガを着用し、人々の注目を集めないことは、何もしたくないと考えます。彼らは関心を集めるために人々を煽り、目立てるのであれば、非難されることも厭わないという連中です。それこそがマエケナスの文体であり、偶然にではなく、意図的に過ちを犯すその他の全ての人々の文体です*1322. これは、魂における大きな悪から生じます。酒を飲んだ時でも、心がその負荷に耐えられなくなって正気を失わない限りは、呂律が回らなくなることはありません。それと同じように、あの酔っ払った文体ーーこれ以外の表現がありましょうか?ーーも、心がフラついていることで、他者に不快をばら撒いているのです。それゆえ、心にこそ配慮すべきです。なぜなら、われわれの考えや言葉は心から生じ、気質や表情や歩き方までもが心から生じるのですから。心が健全で力強くあれば、文体もまた強健で活力に満ち、男らしいものとなります。しかしもし心が節度を失えば、文体もまた退廃的になります。

23. 王が健在であれば、皆の心は一つだが、

王を失えば、皆が忠義を見失う*14

われわれの王は、われわれの心です。これが健在であれば、他の部分はその責務を守り、忠実に従います。しかし、少しでも心が動揺すれば、他の部分もそれに伴って崩れ去ります。そして心が快楽に屈したならば、心の才知も行為も軟弱になり、いかなる仕事も無気力で、締まりのない状態からなされることになります。24. この比喩を続けて用いたいと思います。つまりわれわれの心は、ある時は王であり、ある時は暴君です。立派なことを重んじ、自らに委ねられた肉体を大切にし、その肉体に対しいかなる不義も卑劣なことも命じなければ、その心は王です。しかし統制を失い、情欲を求める享楽的な心は、忌むべき最も恐ろしいものへと、つまり暴君へと変わります。すると心は、制御を失った感情の餌食となります。そしてあたかも大衆が、最終的に破滅の原因となるものを腹一杯詰め込んで、食べきれなかったものを撫でまわすように、初めのうち心はそうした状態を喜びます。25. しかし病気が徐々に体を蝕み、骨髄や筋肉にまで快楽の影響が及ぶと、過度の享楽により自分自身の手足では喜べなくなった快楽の代わりに、他人の快楽を見ることを喜ぶようになるのです。不摂生のために自分自身では体験できなくなったので、他人の情欲を仲介したり、目撃者になったりするのです。そのような心にとっては、喜びがありふれていることも、嬉しいことではなく、辛いことなのです。なぜなら、ありとあらゆる贅沢な食事全てを、喉と胃袋を通して送ることはできないし、全ての男娼や娼婦の中で、転げまわることはできないし、そのうえ悲しいことは、そうした喜びの大部分が、体力の限度によって制限されているのですから。

 26. じっさい、ルキリウス君、われわれの誰も自分を死すべき存在だと考えないのは、何と狂っていることでしょう?また、脆弱だとも。また、自分をただ一人だとも。調理場と、沢山の火の間を忙しなく動きまる料理人を見て下さい。君は、これほどの大騒ぎをして用意される食事が、ただ一つの胃袋のためであると思えますか?様々な種類の年代ものの葡萄酒が揃えらえた、古酒の貯蔵庫を見て下さい。あれほど多くの執政官の年々に、あれほど多くの葡萄畑から集められたこの貯蔵庫の葡萄酒が通るのは、ただ一つの胃袋のためだと思えますか?どれほど沢山の地域で、どれほど沢山の農民が、畑を掘り返したり耕したりしているかを見て下さい。シチリアやアフリカで作物が植えられるのは、ただ一つの胃袋のためだと思えますか?27. もしわれわれが自分を一人だと見做し、自分一人の肉体に必要なものをよく考え、自分が受け入れらる量がいかに少なく、またその期間がいかに短いかに思いを馳せることができれば、われわれはより分別をもち、より適度を望めるようになるでしょう!しかし、節度を保ちたいなら、人生は短く不確かであることを絶えず思い出すことほど、役に立つことはありません。何をするにしても、第一に考慮すべきは死です。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 114 - Wikisource, the free online library

・解説

 文体について論じた書簡で、セネカの文章に対するプライドのようなものが垣間見えて面白い。そしてセネカ自身の文章はといえば、美しく鋭く、力強く心の深い部分に訴えかけ、それでいで優しさやユーモアも感じさせる軽やかな文章である。もし文体が魂の鏡なのであれば、セネカは相当優れた魂の持ち主ということになる。人々からの評価が何であれ、実際僕は、セネカの文章に(内容においても文体においても)大きく救われている。2000年も後の時代の人間に、これほど助けとなる文章を残すことができるセネカである。それを優れた魂と呼ばないなら、いかなる魂もそう呼ばれることはないだろう。

 

 

 

 

 

*1:書簡19.9,書簡92.35参照

*2:テレンティア。アウグストゥスの愛人だったとも言われている。「とすると、君はマエケナスのほうが幸せだと思うのか。恋のために憂い顔で、気難しい妻の毎日の離縁を泣きながら、彼方から優しく響いてくる合奏団の調べに眠りを求めているからか」摂理について3.10〔岩波文庫の「怒りについて」に収録〕

*3:マエケナスの「私の装いについて」という作品からの引用らしい。引用分も語法などにおいておかしな点が多く、見苦しいものであったようだ。単語を拾いつつ、できるだけ意味不明になるようにかなりオリジナルの訳をした。

*4:宮廷などで身元の確認のために求められた。

*5:テレンティアに対する女々しい恋情を揶揄している。

*6:つまり曖昧な表現をして、読み手が混乱すれば喜ぶという悪趣味な態度だとセネカは批判している。

*7:十二表法とは、前5世紀に10人の立法官によって書かれた、日常生活に最も重要な条文を短縮して十二枚の銅板に刻んだ、ローマの表法。

*8:いずれも前1~2世紀の人物。

*9:いずれも前3世紀の人物。

*10:キケロの文体については、書簡100.7も参照。

*11:前86~35年のローマの歴史家で、「カティリナ戦記」「ユグルタ戦記」が現存。書簡20.5,書簡60.4,書簡109.16も参照。

*12:アウグストゥス時代のローマの政治家、歴史家。

*13:つまり、本12節でいうところの、「欠陥を愛する」が意味すること。

*14:ウェルギリウス「農耕詩」4.212