徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡100 ファビアヌスの書物について

 1. お手紙によると、君はファビアヌス・パピリウス*1の「市民の義務について」という書物をたいへん熱心に読んだものの、それは君の期待に応えるものではなかったとして、彼が哲学者であることも忘れて、その文体を非難し始めています。

 君の言う通り、彼は言葉を並べるのではなく、転がり落としているのだとしましょう。しかし、そもそも君が非難しているこうした特徴にはそれ独特の魅力があり、滑らかに流れる文体に相応しい優美さと言えるでしょう。というのも、転がり落ちることと流れることの違いは、大変大きいと僕は考えますから。さらに、僕の言ってることにも、違いがあることをお教えしましょう。2. つまり、ファビアヌスの文体にあるのは言葉の「流出」ではなく「流れ」であるように思われます。彼は大変多くを話しますが、混乱することはなく、それでいて速度も失いません。彼の文体はまさしく、自身の問題を検討して形にするのに無駄な時間をかけないということを主張し、明示しています。しかし、たとえ君の言う通り(不必要に多言を費やしているの)だったとしても、彼は言葉ではなく生き方を築き上げ、耳ではなく心のためにそれらを書き連ねたのです。3. その上、もし君が彼が実際に語るのを聞いたのであれば、細部など気にはならず、その語り全体に君は魅了されたことでしょう。そもそも一般に、語る速さが賞賛に値するものは、手に取って読む時には、価値が下がっているものですから。

 それに、注意深く検討すれば欠点が見つかるものであっても、一目には魅力的に見えるということ自体、褒むべきことです。4. お尋ねになるなら、賞賛を(頑張って)獲得した者のほうが、(一目に)勝ち得た者よりも偉大であると言いましょう。しかし、後者の方が*2より確実であり、将来に関して自分自身により大きな自信を確証できることを僕は知っています。小心な書き方は、哲学者に相応しくありません。言葉に臆病な者が、いつ勇敢で毅然とした態度を示すことが、いつ自らのありのままを示すことができましょう?5. ファビアヌスの文体は不注意なのではなく、不敵なのです。ですから彼の著作には、小心なところは何もありません。彼は言葉をよく選びますが、探し回りはしません。現代風に、不自然に配置されたり反対の意味に用いられることもありません。そして、たとえ日常に使う言葉が用いられることがあっても、その言葉は際立っています。それらは格言の体を装うことがなくとも、厳格で偉大な考えが、自由闊達に述べられています。もちろん、十分に推敲されていないとか、厳密に構成されていないとか、現代風に洗練されたところがないとか、そのような箇所はあるでしょう。しかし全体を見渡せば、無駄に緻密な箇所は何もないことがお分かりになるでしょう。6. もちろん、多種多様な大理石や、部屋から部屋へと流れる水管や、「貧乏の真似事をする部屋」や、簡素な飾りでは何も満足できない贅沢に加わるその他の設備は見られないかも知れません*3。ですが、俗な言い方をすれば、「住みよい家」です。

 さらに言うと、文体について統一した意見というものはありません。あらゆる粗雑さを磨いて取り除きたいという人もあれば、荒っぽい文体を好むあまり、より滑らかになり得た文章を意図的に分割し、予期せぬ形で文の締めくくりが終わるように、言葉を分散させる人もあります。7. キケロの本をお読みになれば、彼の文体には統一性があり、変調はしなやかであり、穏やかでありながら柔弱ではありません。これとは反対に、アシニウス・ポリオ*4の文体は「ごつごつ」で変則的であり、予想もしないところで終わります。つまり、キケロは全体が徐々に結末へと至る一方で、ポリオは急に途切れるのです。明確な韻律の規則を厳密に遵守したごく僅かな例外箇所を除いて。

 8. これに加えて、君はファビアヌスの文章は全体が平凡で、高揚感に書けるように思えると言います。しかし僕としては、彼にそのような欠点があるとは思えません。というのも、彼の文体は平凡なのではなく、穏やかなのであり、彼の平静で整然とした精神に相応しいものだからです。それは低地というよりは、平地です。そこには、君がご希望の雄弁家の気迫や勢いは見られませんし、突然の警句の衝撃も見られません。しかし、全体を見れば、それらがいかに整然としており、褒むべきものであるかが分かるでしょう。彼の文体に威厳はありませんが、われわれに威厳を授けてくれます*5

 9. ファビアヌスに勝ると思う作家を挙げてみて下さい。キケロがよいでしょう。彼はファビアヌスと同じくらい多くの哲学の本を書いていますから。彼(キケロ)は認めましょう。しかし、最大の者に劣るからといって、優れていないことにはなりません。あるいはアシニウス・ポリオを挙げてみましょう。僕は彼のことも認めて、「このような重要な分野で、第三位に立てるのは名誉なことだ。」と答えることで満足しましょう。ティトゥス・リウィウスも挙げることができます。というのも、彼は対話篇(これは哲学書というよりは歴史書としての位置を占めています)と明確に哲学を扱っているものとする作品の両方を書いたからです。彼のことも認めましょう。しかし、たった三人に上に立たれただけのファビアヌスが、どれほど多くの作家より優れているかを考えてみて下さい。そしてこの三人とは、最も雄弁な三人なのです。

 10. しかし彼は、何もかも期待に沿ったものを与えるかというと、そうではありません。彼の文体は高尚ではあるものの、力強さには欠けます。大量に流れてはいるものの、勢いには欠けます。濁ってはいないものの、清らかに過ぎます。「そこには認められません」君は言われる。「悪徳に対する激しい非難が、危難に立ち向かうための勇敢な言葉が、運命に対する誇りある抵抗が、野心を軽蔑し、咎め立てる言葉が。私は贅沢が叱責され、貪欲が糾弾され、放縦が打ち砕かれるのが見たいのです。演説のような鋭さ、悲劇のような荘厳さ、喜劇のような軽快さを望むのです。」君は彼に、些末な言葉遣いに拘るように求めています。しかし、彼は語る内容の重要さに没頭しており、結果的に雄弁となることはあっても、意図的にそうすることはありません。

 11. 彼は著作の全体を詳細に調査したり、分析したり、個々の単語を強調して用いることはないでしょう。それは僕も認めます。多くの言い回しは物足りない点があったり心に響かなかったり、時には文体が冗長に進んでしまうことがあります。しかし、作品全体として見れば、光るところは沢山ありますし、長きに渡って読み手を退屈させません。そして最後に、彼は自分が書いた内容の意味を君に明確に伝えるという、(彼の優れた)特質を君に授けるでしょう*6。彼の目的は君を喜ばせることではなく、何が彼を喜ばせたのかを、君に伝えることだと、お分かりになるでしょう。彼の著述は全て、拍手喝采のためではなく、進歩向上と善き精神のためにあるのです。

 12. ファビアヌスの作品とは僕が言ったような類のものであることを僕は疑いません。とはいえ、僕は彼についての確かな記憶があるというよりは、思い出している状態です。またそれらの著作の全体的な印象は僕の心に残ってはいるものの、最近のこととして、注意深く熟読して精査した訳ではないので、昔ながらの知り合いよろしく、大まかなことを言っているだけです。しかし、彼の講義を聴いていた時、僕は確かにそのように感じたのです。つまり堅苦しくはなく、それでいて充実しており、青年たちの善き未来を鼓舞し、彼のようになることを希求させながらも、彼を超えることを絶望させないといったものです。そしてこれこそ、最も優れた類の鼓舞であると僕は考えます。というのも、その人のようになりたいと思わせながら、その希望を奪い去るといったことは、とても無体なことですから。いずれにせよ彼の書物には言葉が豊かに流れており、細かい点については疑問の余地があっても、全体としては高貴な作品です。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 100 - Wikisource, the free online library

・解説

 誰よりも美しい文章を書くセネカ自身による、文体に対しての言及は非常に興味深い。そもそもセネカの文章が、おかしな表現や分かりにくい流れは使わず、論理的にそれでいて美しく構成されており内容も鋭く、非のうちどころもない文体となっている。そんなセネカの言うことであるから、ファビアヌスの文体について、何かしら思うところがあったのかも知れない。そして「おかしな語法を使わなくとも言葉が光る」とはまさしくセネカ自身の文体の特徴である。師の文体について考察することで、かえってセネカ自身の文体の素晴らしさを強調する結果となっているところが面白い。

 文体や表現方法について倫理書簡集では多数の言及が見られるが、その多くにわれわれ現代人にも通じる教訓がふんだんにある。おかしな日本語を使うやつは、大抵語っている内容そのものもおかしい。文体の美しさと内容の良さというのは、不思議と比例している。逆に言うと、優れた文体を追っていけば、自ずと優れた思想家に辿り着ける。それがルドルフ・シュタイナーセネカである。そして本当に美しい文章というのは、どの言語で語っても美しくなるのである。

 

 

 

 

*1:セネカの師。書簡11,書簡40,書簡52,書簡58参照。もし倫理書簡集がセネカの創作だというのなら、セネカ自身ファビアヌスの文体にいくらかの疑問点があったのかも知れないが、師であることのひいき目からできるだけ良く言ってるのかも知れない。

*2:一目に人を惹きつけるファビアヌスのような文体の方が

*3:贅沢が要求するような無駄な装飾が、ファビアヌスの文体には存在しないということ。

*4:前76~後5年のローマの軍人・政治家・著述家。アントニウスに仕えていたが後に争って政治から身を引き、文学に没頭した。

*5:文体に仰々しい威厳はなくとも、内容が立派なので読んだ人に威厳を与える、という意味。

*6:そもそも何が言いたいか意味不明な文章の奴が多すぎるとセネカは言っている。