徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡52 指導者を選ぶことについて

 1. ルキリウス君、われわれを、目指してる所とは別の方向に引き込み、そこから離れたいと思っていたところにわれわれを駆り立てるこの力は何なのでしょうか?われわれの精神に反抗し、われわれが願うのを一度きりにすることを許さないのは何なのでしょうか*1?われわれは計画から計画へと揺れ動きます。われわれが願うことはどれも自由ではなく、無条件ではなく、永続的ではありません。2. 「しかし」君は言われる。「一貫性がなく、何事も永続きしないのは愚か者だけです。」しかしわれわれはいつ、どのようにして、この愚かさから抜け出すことができるでしょうか?自分だけでそれを乗り越える十分な力を持っている人はありません。救いの手と、解放してくれる誰かを必要とします。

 3. エピクロスは、或る人々は誰の助けも借りずに、自分で道を切り開いて真実へと進んだと述べています*2エピクロスは、彼らの情熱が内側から来たもので、自分で自分を前進させたことから、彼らを特に賞賛しました。エピクロスはまた、外からの助けが必要で、誰かに道案内されない限り先に進もうとしないが、忠実につき従いはする人たちもいると言います。彼はメトロドロス*3が、これらの人物の一人だと言います。この種の人も優れていますが、第二級の人物です。われわれ自身もまた、かの第一級の人物ではありません。第二級の人物として認められれば上出来なほうです。誰かの助けがあってのみ救われることのできる人物でも、軽蔑する必要はありません。救われたいという意志を持つのも、大切なことです。

 4. 君はさらに、別の種類の人達も見出すでしょう―—この種の人びとも軽蔑されるべきではありません―—正しい道に強制されて引き込まれることができるけれども、案内人だけでなく、駆り立ててくれる人、言わば強制的な指導者をも必要とする人々です。これらは第三級の種類です。この種の人物が誰かとお尋ねなら、ヘルマルコス*4がそうだとエピクロスは言います。そしてエピクロスは、これら二人の人物のうち、メトロドロスには祝意を示しますが、ヘルマルコスにはより大きな敬意を払います。とういのも、どちらも同じ目標に到達しましたが、造り変えるのが困難な素材を用いてそのような結果をもたらしたことは、より大きな功績だからです。

 5. 高さも壮大さも同じだけれども、その基盤が異なる二つの建物が建てられたとしましょう。一方はしっかりとした地面に建てられており、建設の計画も滞りなく進みました。もう一方の例では、基盤を作るのに建設材料を使い果たしました。というのも、それらは柔らかく弱い地面に沈み込み、固い岩に達するまで多くの労力が費やされたからです。この両方に目を向けると、前者の進捗は簡単に分かりますが、後者のより大きい、困難があった部分は隠されています。6. 人の資質にしても、柔軟で扱われやすいものもあれば、労力をかけて、言わば手作業で形作られねばならないものもあり、それ自身の基盤を組むのに、全ての労力が費やされます。したがって、自分自身に困難を抱えたことのない人は、より幸福であると考える必要があります。しかし、もう一方の人は、自分自身の卑劣な性質に打ち勝ち、穏やかなやり方で導かれるのではなく、英知に向かって自分自身を奮闘させたことから、より賞賛に値すると思われます。

 7. 多くの労力を必要とするこの難治性の気質が、われわれに植え付けられていることは確かです。われわれの道には障害があります。「誰を」君は言われる。「呼べばいいのですか?あの人物ですか?この人物ですか?」君にはもう一つの選択肢があり、古の人々を呼ぶこともできます。彼らには君を助ける十分な余裕があります*5。われわれは生きている人からだけでなく、過去の人からも助けを得ることができます。8. しかし、生きている人の中から選ぶのであれば、たいへん巧みに言葉をまくしたて、ありきたりのことを言い、言うなれば彼らの個展を開催するような人物ではなく、自らの生き方をもってわれわれに教え、何をなすべきかを伝え、実践によってそれを証明し、われわれが避けるべきことを示し、われわれに「避けるべし」と言った罠に、自らは決してかかることのないような人物を選ぶべきです。

 その人が話すのを聞くよりも、行いを見た時により感銘を受けるような人物を、案内人に選んで下さい。9. もちろん僕は君が、広場での会合や議論を頻繁に行う哲学者たちの話を聞くことを妨げる気はありません。ただしそれは、彼らが自分自身と他者を改善するという明確な目的を持って人々の前に現れ、利己的な意図から仕事をするのでないならばの話です。哲学者が拍手喝采を求めることほど恥ずべきことがあるでしょうか?病人が手術中の医者を褒めるでしょうか?10. 君たちは黙って、静かな敬意を払って、治療を受けて下さい。たとえ君たちが大声で賞賛を叫んでも、僕はそれを、君たちが痛いところに触れられて上げた呻き声だと思って、耳を傾けます。君たちが注意を傾けているということ、事の重大さに心が動かされているということを示したいのですか?適切な時に、そうすることができるでしょう。僕はもちろん君たちが判断を下し、よりよい方向に一票を投じることを許可します。ピタゴラスは弟子たちに、5年間の沈黙を命じました。このような事情のため、彼らが早急に(ピタゴラスを)賞賛する権利があったと思いますか?

 11. 無知な人々から拍手喝采があっただけで、幸せな気持ちになって講堂を後にする人は、何と狂っていることでしょう!君自身が褒めることのできない人物から褒められて、何が嬉しいのですか?ファビアヌス*6はよく民衆の前で講演を行っていましたが、人々は慎みをもって聴いていました。ときどき大きな賞賛の声が爆発することもありましたが、それは彼の語る内容の偉大さによって引き起こされたのであり、心地よく穏やかで、滑らかな語り声によるものではありませんでした。12. 劇場での歓声と学校での歓声には、違いがあらねばなりません。そして、褒めるということにも、何らかの品位というものがあるのです。注意して見てみると、あらゆる行動には兆候が認められ、最も些細な特徴からでも、人の性質を判断することができます。好色な人物は、彼の歩き方、手の動き、一つの受け答え、頭を指でかく仕草*7、目線の流し方によって分かります。邪悪さは笑い方に現れます。顔つきや外観に、狂気が見えるのです。これらの資質は、ある特徴によって知られるようになります。しかし、称賛をどのように与えたり受け取ったりするかを見れば、全ての人の性質を知ることができます。13. 哲学者の聴衆は、あちらこちらから賞賛の手を差し伸べ、時には彼を崇める聴衆の群れが頭が見えなくなるほど押し寄せることもあります。しかし、君がもし本当のところを理解したなら、それらが賞賛などではなく、ただのうるさい歓声に過ぎないことが分かるでしょう。これらの叫びは、群衆を喜ばせることを目的とした技巧のためにとっておきましょう。哲学の賞賛は、謹んで行いましょう。14. じっさい、若者は時には衝動に従い、自由に喝采する必要がありますが、それは、熱情に促されて、沈黙することに耐えられずにそうする場合に限ります。そのような賞賛は聴衆自身にある種の励ましをもたらし、若い心に刺激を与えます。しかし、語り方ではなく、内容をもって、彼らを目覚めさせて下さい。そうでなければ、雄弁は彼らを害し、内容ではなく弁舌そのものに夢中にさせてしまいます。

 15. この話題は先延ばしにしましょう。というのも、大衆にはどのように演説すべきか、聴衆は演者にどんな耽溺を許すべきか、大衆自身には演者の前でどんなことが許されるかをお示しするには、長く特別な探究を必要としますから。哲学は売り物にされることで、損害を被ってきたことは間違いありません。しかし、商人ではなく神官によって出展されたのなら、哲学はそれ自身の聖域で賞賛されることが出来るのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 52 - Wikisource, the free online library

・解説

 表面的なことではなく中身を見て、正しく人を賞賛し、指導者に選べ、ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:願いがフラフラしてるということ

*2:断片192

*3:エピクロスの弟子であり親友。書簡6書簡14書簡18書簡33参照

*4:エピクロスの弟子。前270年、エピクロス派の学頭となる。書簡6書簡33参照。

*5:「これらの哲人たちは、いつでも時間を空けてくれる」人生の短さについて14.5

*6:セネカの師。書簡11書簡40参照

*7:わいせつな仕草とされた