徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡76 老年期に英知を学ぶことについて

 1. 僕の毎日の行動を全て君に知らせないと、君は僕に怒って脅しをかけてきます。けれども、さあ見て下さい。君と僕は、どれほど率直な間柄で生きてるかを。なぜなら、僕は次のことをも君の耳に打ち明けるのですから。僕は或る哲学者*1の講義を聞いています。彼の学校に通い、午後二時から始まる講義を聞いて、既にもう四日が経ちました。「勉学には良い年齢ですね!」と君は(皮肉を)言われる。ええ、良い年齢ですとも!とはいえ、長い間学んでいなかったからという理由で、〔新たに〕学ぶことを拒絶することほど、愚かなことがあるでしょうか?2. 「どういう意味ですか?私もだて男や若者たちのするように学ばなければならないのですか?」しかし、もしこんなことだけが僕の老年期の評判を落とすのだとしたら、僕としては大変光栄です。この学校にはあらゆる年代の人が入学できます。君は言い返します。「われわれは若者の後について行くために、歳を取ったのですか?」しかし、老人の僕は劇場に行きますし、戦車競走も見に行きますし、僕の立ち合い無しに決闘が行われることは許しません*2。であれば、僕は哲学者の講義に出席することに、顔を赤らめるでしょうか?

 3. 君は無知である限り学び続けなければなりません。あの格言に従うなら、生きている限りはです。そしてこの格言は、今の僕の状態に一番ぴったり当てはまります。「生きている限りは、いかに生きるかを学び続けなさい。」とはいえ、その学校で僕が教えることが出来ることもあります。何を教えられるかと、君はお尋ねですか?老人でも学び続けなければならない、ということをです。4. しかし僕は、彼の教室に通うたびに、人類というものを恥ずかしく思います。ご存知のように、メトゥロナックスの学校に行くには、ネアーポリス劇場のすぐ側を通らざるを得ません。建物が密集しているところで、人々は誰が優れた笛吹きと呼ばれるに値するかを、多大な熱意をもって評定します。ギリシャのらっぱ吹きや触れ役でさえ、群衆を集めます。しかし他方、「善き人物とは何か?」について議論が交わされ、「善き人物になるにはどうすればよいか?」をわれわれが学ぶ場所には、わずかな人数のみが出席しており、大多数の人々は、このわずかな人のことをも、立派な仕事に従事してるとは考えません。彼等*3のことを空虚で怠慢な人物呼ばわりします。僕自身もそのような嘲笑を浴びることを望みます。無知な人たちの悪口は平静な精神で聞くべきですし、崇高な目標に進んでいる人は、軽蔑そのものを軽蔑するべきですから。

 5. さあ、ルキリウス君、先へ進み、急ぎましょう。君自身も僕のように、老年になってから学ばざるを得なくなることのないように。いえ、君はより急がねばなりません。歳を取ってからではしっかり学ぶことが殆ど叶わない問題に、君は長い間取り組んでこなかったのですから。「私は(そこから)どのくらい進歩できるでしょうか?」と君はお尋ねになる。君が成し遂げようと思った分だけ、進歩します。6. 君はなぜもたもたしているのですか?誰も偶然に英知が与えられることはありません。金銭は勝手に得られることもありますし、名誉も君に授けられます。影響力も権威も、君に割り当てられるでしょう。しかし美徳は、運命によってもたらされるのではありません。また、それについての知識も、軽い努力やわずかな労苦で得られるものではありません。しかし、全ての善を一度に得ようとする努力にも*4、それなりの価値はあります。というのも、善なるものとはただ一つ、立派なものだけですから。世間一般の人々がよしとする他のあらゆる事柄には、真実も確たるものもありません。7. しかし、なぜ立派なことだけが唯一の善であるかについて、以前の手紙*5で僕が十分に検討していなかったと君が判断されるなら、今からお話ししましょう。僕の理論は君に承認されたというよりかは、称賛されたという感じでしたから*6。そして僕は他の意見も合わせて、次にまとめていきましょう。

 8. あらゆるものは、それ自身の善に基づいて評価されます。ブドウの木はその実りの多さとブドウ酒の風味によって評価され、鹿は足の速さで評価されます。荷役獣を評価する時、われわれはその背中がどれほど頑丈かを尋ねます。彼等の唯一の用途は、重荷を運ぶことですから。犬は野獣の足跡を見つけるのであれば、嗅覚の鋭さが第一に重要ですし、獲物を捕らえるのであれば、足の速さが、野獣に立ち向かって追い払うのであれば、勇敢さが第一です。この各々の場合において、最善の性質とされるのは、それぞれの目的とそれぞれに特有の評価の基準によってです。9. では、人間において最善の性質とは何でしょうか?理性です。理性の徳によって人は動物の上に立ち、神のみに上に立たれます。ですから、完全な理性は人間に特有の善であり、その他のあらゆる性質は、動物や植物にも共通のものです。人間は強いですが、ライオンも強いです。人間は美しいですが、孔雀も美しいです。人間は速いですが、馬も速いです。僕はこれら全てにおいて、人間の方が劣るとはいいません。僕が見出したいのは、人はどんな勝るものを持っているかではなく、どんな人間特有のものを持っているかです。人間は体を持ちますが、木も持ちます。人間は意のままに活動し、移動することができますが、獣や虫も同様です。人は声を持ちますが、犬の声はどれほど大きく、鷲の声はどれほど鋭く、雄牛の声はどれほど重々しく、夜啼鶯の声はどれほど甘い旋律を奏でることでしょう!10. では、人間に特有のものとは何でしょう?理性です。理性が正しく、完全なものとなった時、人間の幸福は達成されます。したがって、あらゆるものはそれ自身に特有の善を完成させた時、賞賛に値するものとなり、その本性の目的を達成したことなります。そして、人間に特有の善が理性であるなら、もし人が自己の理性を完全なものとしたならば、その人は賞賛に値し、自己の本性にふさわしい目的を達成したことになります。この完全な理性が美徳と呼ばれます。すなわち立派なものと同様です。

 11. ですから、人間のみに属する善が、人間の唯一の善です。なぜなら、今われわれが知りたいのは善とは何かではなく、人間の善とは何かだからです。そして、理性以外に人間に特有なものが何もないのであれば、理性は人間にとって独自の唯一の善であり、他の全ての善に匹敵するものになるでしょう。人がもし悪人であれば、その人は非難されるでしょう。もし善人であれば、賞賛を受けるでしょう。したがって、人が賞賛されるか非難されるかを決定づけるものが、人の第一の、唯一のものです。12. 君はそれが善であることは疑わないでしょう。唯一の善であるかどうかを疑うだけです。もしある人が、健康、富、沢山の(先祖の)肖像、大勢の人が集まる大広間といった、他のあらゆるものを持っていても、誰の目から見ても悪人であれば、君はその人を非難するでしょう。同様に、もしある人が僕が今挙げたようなものを何一つ持っておらず、金銭も大勢の庇護民クリエンも、高い地位も、祖父や曽祖父の血統もなくても、誰の目から見ても善人であれば、君はその人を賞賛するでしょう。したがって、これこそが人間の唯一の特有の善であり、たとえ他のものの所有に欠いていたとしても、賞賛に値します。しかし、それ以外のあらゆるものをふんだんに所有していたとしても、この善を持たない人は非難され、受け入れられません。13. 人に関してと同じことが、事物に関しても当てはまります。優れた船とされるのは、贅沢な彩色が施されたものでも、船首が金や銀で覆われているものでも、船首の像が象牙の浮彫細工のものでも、国庫の富や王の財産を積んだものでもありません。そうではなく、安定していて堅牢で、水の侵入を防げるよう継ぎ目がぴったりと合わさっていて、打ちつける波に耐えられるほど頑丈で、舵に従順で、素早く、風を気にしない船です。14. 君が優れた剣と呼ぶのは、その剣帯が金のものでも、鞘に宝石がちりばめられているものでもなく、その刃の切れ味が鋭く、その剣先がどんな鎧でも貫くことができる剣です。大工の定規に関しても、われわれはそれがどれほど美しいかではなく、どれほど真っ直ぐであるかを尋ねます。あらゆるものは、その基準となる属性、それに固有の性質について賞賛されます。

 15. したがって、人間についても、どれほど広い土地を耕しているか、利息からどれほどの儲けを得ているか、どれほど大勢の訪問客に参列されているか、どれほど高価な寝台に身を横たえるか、どれほど透き通った杯で酒を飲むかなどは何も関係なく、その人がどれほど善人であるかが問題です。しかし、彼が善人であるのは、彼の理性がよく整えられていて正しく、自己の本性が望むことに一致している場合においてです。16. これが美徳であり、われわれが「立派なもの」と呼ぶ、人間に特有の善です。理性のみが、人間を完全へと導く善ですから。理性が完全なものとなりさえすれば、人間は幸福になります。さらに言うと、これが人間の唯一の善であり、人間が幸福となるための唯一の道です。われわれは確かに、あれらの善*7も美徳によって促進され統合されるので、それらはいずれも美徳の産物であると言います。しかし、美徳がなければ善もないので、美徳それ自体こそが、唯一の善です。17. あらゆる善が魂の中にあるのなら、魂を強化し、高揚させ、拡大するものは全て善です。そして美徳は、魂をより強く、より高く、より大きくします。なぜなら、他のあらゆる、われわれの欲望を刺激するものは、魂を圧迫して弱らせ、われわれには魂を高揚させているように見えても、実は単に肥大させ、大きな虚妄で魂を欺いているだけだからです。ですから、魂を良くするものだけが、唯一の善なのです。

 18. 人生全体におけるあらゆる行動は、何が立派であるか、何が恥ずべきであるかの考慮に基づいて制御されます。われわれの理性が或ることを行うか行わないかは、これら二つのことに照らし合わせて決定されます。これがどういう意味かをご説明しましょう。善人は、たとえそれが労苦を伴うものだったとしても、自分を立派にすると思われることを行うでしょう。それがたとえ、自分に害を及ぼすものだったとしても。危険をもたらすものだったとしても。また、たとえそれが自分に金銭や快楽や権力をもたらすとしても、恥ずべきことは行いません。彼の立派な行いを妨げるものは何もなく、恥ずべき行いに誘うものも何もありません。19. したがって、もし彼が常に立派なことに従い、常に恥ずべきことを避け、人生のあらゆる行いについて次の二つのこと、つまり、立派なこを以外に善は何もなく、恥ずべきこと以外に悪はなにもないと考え、そして、美徳のみが人において損なわれず、それ自身の持続する働きを保つのであれば、その時こそ美徳は彼にとっての唯一の善であり、そこから彼を、善でなくするようなことは起こり得ません。それが変化する危険は過ぎ去りました。愚かさが英知にすり寄ることはあるかも知れませんが、英知が再び無知へと戻ることは決してありません。

 20. おそらく君は、以前の僕の言葉*8を覚えておられるでしょうが、一般的に熱望されたり、あるいは恐れられたりしたものは、多くの人の突発的な激情によって克服されました。炎の中に自らの手を入れた者、拷問吏でもその微笑を妨げることのできなかった者、わが子の埋葬にも涙を流さなかった者、怖気ることなく死を迎えた者がありました。たとえば、愛や、怒りや、切望が、これらの危難に立ち向かっているのです。精神を刺激する衝動に駆り立てられることで、突発的な心の強さがこうしたことを可能にするのならば、衝動的でも突発的でもなく、常に同一かつ不断の力強さで活動する美徳は、どれほどより多くを成し遂げることができるでしょう!21. したがって、突然の激情に動かされる人によってしばしば軽蔑され、賢者によって常に軽蔑されるものは、善でも悪でもありません。ですから、美徳こそが唯一の善です。美徳は運命の両極を大いに軽蔑しながら、その間を誇り高く行進します。

 22. しかし、もし君が立派なこと以外に何か善があるという見解を受け入れるなら、あらゆる美徳は損なわれることになります。というのも、もし美徳が自己自身以外に考慮しなければならないものがあるなら、いかなる美徳も、その獲得も維持も不可能となるでしょうから。そのようなものが存在するとすれば、それは美徳の源である理性と矛盾しますし、理性なしにはあり得ない、真理とも矛盾します。しかし、真理に矛盾するあらゆる見解は間違いです。23. 君も認めるでしょうが、善き人は神々に対して最高の畏敬の念を持たねばなりません。したがって善き人は、自身に何が起こっても、平静な心で耐えるでしょう。なぜなら、それが全ての被造物を動かす神の法則によって起こったことを、彼は知っているからです。だとすれば、彼にとって善なることとはただ一つ、立派なことだけです。というのも、その命じるところは、われわれは神に従い、突然の不幸な出来事に怒りを燃やしたり、自分の不運を嘆いたりするのではなく、忍耐強く運命を受け入れ、その定めに従うべきだということだからです。24. もし立派なもの以外が善であるとすると、われわれは生きることへの貪欲や、生きることのために用意される物品への貪欲に付きまとわれるでしょう。これは耐えがたい、際限のない、不安定な状態です。それゆえ、立派なことのみが善であり、そこにはしっかりとした節度があるのです。

 25. 僕は以前に申しましたが*9、もし神々が楽しまない金銭や名誉といったものが善であるなら、人間の生は神々の生よりも、さらに幸福であることになります。さらにまた、次のような考察があります。もしわれわれの魂が肉体から解放された後も存続することが真実なら、肉体に住んでいる時よりもずっと幸福な状態が、存続するということです。しかし、われわれの肉体のために用いるものが善であるならば、われわれの魂は、解放された時に、悪い状態になってしまいます。そしてそれは、魂が自由で宇宙に身を委ねている時よりも、小屋に閉じ込められ抑えつけられている時の方が幸福だと主張することになり、われわれの信条に反します。26. 僕はまた、次のことも以前に申しました*10。物言わぬ動物が人間と同等に所有しているものが善ならば、物言わぬ動物も、幸福な人生を送るでしょう。それは当然あり得ないことです。人は立派なことを守るためにあらゆることに耐えねばなりません。しかし、もし立派なこと以外に何か善があるのだとしたら、そんなことは必要ありませんが。

 この問題に関しては、以前の手紙*11でかなり詳しく議論しましたが、ここではそれを要約して述べ、簡潔に説明しました。27. しかし、こうした見解は、心を高揚させて、事態が求めるに応じて祖国のために進んで死ぬことができるかどうか、あるいは君自身の安全を支払ってでも、全ての国民の安全を買い求められるかどうか、あるいは耐え忍んでどころか、喜んで首を差し出すことができるかどうかを、君自身に自問自答しない限り、決して真実とは思われないでしょう。もしそのように問うなら、君はそれ以外の善を何も見出しません。なぜなら、君はこの善を得るために、他のあらゆるものを放棄しているのですから。立派なことの力が、どれほど偉大かを考えてごらんなさい。たとえ即座にそうすることになっても、そうすべきだと思えば、君は国のために死ぬでしょう。28. 時には、立派な行為の結果として、非常に僅かな短い時間とはいえ、大きな喜びが得られることがあります。あるいは、立派な行いの成果が何一つ本人の死後には届かず、人々の関心から忘れ去られることもあります。そうであっても、これから為される(立派な)行いについて熟考することだけでも大きな喜びがありますし、勇敢で正しい人は、祖国の自由と、自分が命を捧げて救う全ての人々という、死の報酬を自分自身で思い描いて、最大の喜びを味わい、自身の危難の成果を楽しむのです。29. しかしこの喜び、つまりは最期の偉大な奮闘について熟考することで得られる喜びを奪われた人も、正しく敬虔に行動することにのみ満足して、何のためらいもなく死に飛び込むでしょう。君はさらに、彼を多大に思い留まらせようとこう言うかも知れません。「あなたの行いはすぐに忘れ去られるでしょう。」あるいは、「あなたの同胞は、あなたに大して感謝しないでしょう。」彼は次のように言います。「そうしたことは全て、私の責任の外にある。私の関心は、私の行い自体にしかない。私はそれが立派なものであると理解している。であれば私は、立派さが導き、招集するところには何処へでも行こう。」

 30. ですから、これが唯一の善であり、完成に達した魂だけでなく、高貴で正しい資質を持って生まれたあらゆる魂が、それを知っています。他の全ての善は、下らない、移ろいやすいものです。ですから、そうした善を所持することには、不安が伴います。たとえ幸運の恩恵によりそれらが沢山積み上げられても、それらは所有者に重くのしかかり、常に圧迫し、時には押し潰してしまいます。31. 君の目に映る紫色の高官服を着た人達は、誰も幸福ではありません。演劇の舞台上で王笏*12と王服を与えられるあれらの役者の一人と、何ら変わりありません。彼らは大勢の観客の前ではもったいぶって高靴で闊歩しますが、一度舞台を降りると、履物は外され、本来の身長に戻ります。富や名誉によって高い地位まで引き上げられた人に、本当に偉大な人はいません。ではなぜ、君には彼らが偉大に見えるのでしょうか?それは彼らを、その座っている台座と一緒に測っているからです。小人は山の頂上に立っても、背は高くなりません。巨大な象は、たとえ井戸の中に置かれたとしても、その高さは依然変わりません。32. これがわれわれの苦労の元になる間違いです。これがわれわれが騙される理由です。われわれは人を、その人がどんな人物であるかで評価するのではなく、その人の装身具をつけ加えるのです。しかし、ある人を真に評価しようと思うなら、その人がどんな人物であるかを知りたいと思うなら、裸のままのその人を眺めて下さい。彼の相続財産も、名誉の称号も、その他の幸運がもたらした欺瞞も脇へ置かせ、肉体すらも、脱ぎ捨てさせて下さい。彼の魂、その性質、その大きさを評価し、その偉大さが借り物か、それとも彼自身のものかを、見極めて下さい。

 33. もし人が、鋭く光る剣を怖気ずに眺めることができれば、自分の魂が口から去ろうが喉の傷から去ろうが何の違いもないことを理解できれば、その人は幸福だと言えます。またもし、事故の結果であれ権力者の力によるものであれ、肉体的な苦痛に脅かされることになった時に、鎖や追放や、その他のあらゆる、人の心を動揺させる虚妄の恐怖の話を聞いても、それを大して気にもせずに、次のように言うのであれば、彼を幸福であるということができます。

「おお乙女よ、私の目の前には、

いかなる苦役も、新たにも突然にも、湧き出ることはない。

わたしは自らの魂のなかで、すでにそれらを予め精査しているのだ。*13

今日この時にも、君はこのような恐怖で私を脅かす。しかし、わたしは常にそれらによって自分自身を脅し、人間として、人間の宿命に立ち向かう備えをしているのだ。」34. もし悪いことに対して予め熟慮がなされていたら、それが起こった際の打撃も和らげられます。しかし、愚か者や幸運に信頼を置く者にとって、あらゆる出来事は、それが起こる度に、「新奇に突然に生じる」のであり、未熟な者にとって、悪い出来事の大部分はそれが新奇であることに依ります。このことは、人は最初には困難だと思えたことでも、一度慣れてしまうと、より大きな勇敢さをもって耐えることができるという事実によって証明されます。35. したがって、賢者は他の人々が長い忍耐をかけて軽減する災いを、予め長い熟慮によって軽減し、来るべき苦難に自分自身を慣れさせておきます。われわれはしばしば、未熟な者が「これ(だけ)がわたしを待ち受けていることは分かっていた。」と口にするのを聞きます。しかし賢者は、全てが自分を待ち受けていることを知っています。何が起ころうと、彼は、「わたしには分かっていた。」と言います。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 76 - Wikisource, the free online library

・解説

 書簡74と重複する内容が多く、似たようなことをずっと訳しているのはなかなか苦痛も大きかったが、セネカ自身も、恐らく自分に言い聞かせるため、何度も何度も繰り返し書いていたのだろう。立派なもののみが唯一の善とはいえ、それを生きている人間が心から納得するのは難しいし、恐らく不可能であるだろう。しかし、それを希求する気持ちは失ってはならないと、「幸福な人生について」でも繰り返し説いている。僕自身も、金銭とか名誉とか色欲とかに、道徳よりはるかに重きを置くような生き方をしている。しかしそれでもこうした教えに惹かれるのは、それを求めることそれ自体が魂にとっての一種の呼吸であり、人はどれだけ堕落しても、きっと善を求めずにはいられないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:メトゥロナックス

*2:もちろん冗談

*3:哲学を学ぶ少人数の人々

*4:老年になって一気に勉強しようとすることにも

*5:書簡71

*6:納得して受け入れられたのではく、お世辞をもって褒められた。

*7:書簡74に挙げられた、「孝行な子供たちや、よく統治された国や、立派な両親」などのような善。

*8:書簡74参照。激情により苦難を克服するのであれば、なおさら理性によって克服すべきである、と述べた箇所。

*9:書簡74.14参照

*10:書簡74.16参照

*11:書簡74

*12:君主が持つ象徴的かつ装飾的な杖のこと。共和政ローマにおいては、象牙製王笏 (sceptrum eburneum) が執政官の地位の象徴とされた。

*13:アエネイアス6.103~105