徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡88 自由な学問と職業の学問について

 1. 自由な学問*1について僕がどう考えているかを知りたいと君はお望みです。僕の答えは次の通りです。僕は金儲けを目的とする学問は、尊重もしませんし、善いものとも考えません。そうした学問は打算的な技術であって、才知を訓練する限りにおいては有用であっても、それらを永久の価値のあるものにはしません。そうした学問に関わるのは、精神がより偉大なものに没入することができない限りにおいてにすべきです。それらは初歩的な手習いであり、功績ではありません。2. ですから、「自由な学問」がなぜそう呼ばれるかがお分かりになりましょう。それらは自由人に生まれた人に相応しい学問だからです。しかし、真の意味で自由な学問とはただ一つ、人を自由にする学問です。それは英知の探究であり、崇高で、逞しく、偉大な精神に基づくものです。それ以外の学問はすべて、些末で稚拙なものです。君もご存知の通り、最も愚劣で恥ずべき連中がそれらの(哲学以外の自由な)学問の教師をしていますが、それらの中に、何か善いものがあると思いますか?われわれはそうした学問は、これから学ぶのではなく、既に学び終えていなければなりません。

 ある人々は、自由な学問についての議論では、それが人を善くするかどうかが重要だと言います。しかしこれらの学問はそうした知識を約束もしないし、目指すこともありません。3. 言語学者は言葉の研究に従事しますが、より遠くに行きたいと思えば歴史学に従事し、最も遠方まで自分の範囲を拡張したいと思えば詩学に従事します。しかし、それらのどれが美徳への道を開くでしょうか?音節を説明したり、用語を研究したり、物語を暗記したり、詩の朗誦における規則を定めたりという、こうしたあらゆることの中に、恐怖を取り除いたり、欲望を根絶したり、情欲を抑制したりするものがあるでしょうか?4. 問題は、これらの人々が美徳を教えるのか教えないのか、ということです。もし教えないのならば、彼らは当然師とはなり得ません。もし教えるのならば、彼らは哲学者です。彼ら(哲学者でない人々)はどうして、美徳を教えることを目的として教壇に立つことがないか、知りたいとお望みですか?彼らが教える各学科の内容が、互いにどれほど異なるかをご覧なさい。同じことを教えていたら、それらは互いに類似したものだったでしょう*2

 5. 彼らはおそらく、ホメロスが哲学者であった*3と君に信じ込ませようとしているのでしょう。とはいえ彼らは、それを証明しようとする当の議論そのものによって、それを反証しています。というのも、彼らは時おり、ホメロスストア学派と見做し、美徳の他に何をも受け入れず、快楽を退け、不死を犠牲にしてでも立派さを放棄しない人物*4だと考えます。また時おり、エピクロス学派と見做し、饗宴と歌で毎日を過ごす共同体の安息な状態を賞賛する人物だと。また時おり、ペリパトス学派と見做し、善を三通りに分類する*5人物だと。また時おり、アカデメイア学派と見做し、あらゆるものは不確実であると考える*6人物だと。しかし、これらの全ての教義が存在するといっても、何一つホメロスに由来するものではないことは明らかです。なぜならそれらは、互いに相矛盾しているのですから。確かに彼ら言うように、ホメロスが哲学者であった可能性はあるのかも知れませんが、もしそうだとしたら、彼が賢者になったのは、詩の知識を身に着けるより以前であったはずです。ですからわれわれは、ホメロスを賢者にした事柄について学びましょう*7

 6. もちろん、ホメロスとヘシオドスではどちらが年上かを探究するのは、僕にとっては何の意味のないことです。それは、ヘカベー*8ヘレネーよりも若かったのに、なぜ彼女はあれほど老いていたのかというのと同じくらい、どうでもいい問題です。僕は言います。アキレスとパトロクロス*9の年齢をそれぞれ正確に知ろうとすることに、何の意味があるのでしょう?7. 君は、「オデュッセウスはどこを彷徨っていたのか?」という問いを立てますか?われわれ自身が彷徨うことのないよう常に努めるのではなく。われわれには、彼がイタリアとシチリアの間で翻弄されていたのか、それともわれわれの知らない世界の海を彷徨っていたのかについての解釈を聞いている暇はありません(じっさいあれほど狭い範囲で、長く漂流することなど不可能ですが)。われわれ自身が、日々われわれを翻弄する精神の嵐に遭遇し、堕落することによって、オデュッセウスを悩ませたあらゆる災いに駆り立てられているのですから。われわれは、肉眼を誘惑する美貌にも、襲い来る敵にも欠くことはありません。こちらには人の血を喜ぶ野蛮な怪物がいて、あちらには耳を誘惑する危険があり、向こうには難破や、あらゆる種類の災いがあります*10。それよりもむしろ、オデュッセウスの例から、どのように祖国を、妻を、父を愛するべきかを、また難破した後でも、これらの名誉ある目的に向かってどのように航海すべきかを、教えて下さい。8. どうしてペーネロペー*11が本当に貞節の模範であったか、それとも同時代の人々を欺いていたかを調べる必要があるのでしょうか?あるいは目の前の男がオデュッセウスだと気付くよりも前に、オデュッセウスではないかと勘繰っていたのかどうかを*12。それよりも、貞節とは何か、われわれはその中にどれほど大きな善を見出すことができるか、それは肉体にあるのかそれとも魂にあるのかといったことを、僕に教えて下さい。

 9. さて、次は音楽家に話題を移しましょう。君が僕に教えてくれるのは、高音と低音が互いにどのように共鳴するか、異なる音を発する弦が、最終的にどのように調和音を奏でるのか、といったことですが、それよりもむしろ、僕の魂を自分自身と共鳴させ、僕の考えることに不調和がないようにして下さい。君は僕に、悲しみの旋律*13について教えてくれますが、それよりもむしろ、逆境の真っ只中にあって、どうすれば悲嘆の声を上げずに済むかを教えて下さい。10. 幾何学*14は僕に土地資産の広さを測定する方法を教えてくれますが、それよりもむしろ、人が所有するのに十分な量はどれだけかを測定する方法を教えて欲しいと思います。彼は僕に計算の方法を教え、僕の手指を貪欲に適うものにしてくれますが、それよりもむしろ、そのような計算には何の価値もないこと、自分の財産で帳簿係を疲れさせる者が、より幸福な訳ではないということを、教えて欲しいと思います。そもそも、自分の財産の総額を自分で計算しなければならないことを最も不幸であると考えるような人にとって、財産とはどれほど無意味になることでしょう。11. 土地をどのように分割するかは知っていても、それをどのように兄弟と分かち合うかを知らなければ、何の意味があるでしょうか?一区画の広さを正確に計算し、物差しと少しでも誤差がないかを調べることに、何の意味があるのでしょうか?もし僕が、厚かましい隣人に土地を少し掠め取られただけで激昂するというのなら。幾何学者は、どうすれば僕が自分の領地を失わずに済むかを教えてくれます。しかし僕は、それを失っても平然としていられるための方法を学びたいと思っています。12. 「しかし」反論する人がいます。「私は父や祖父から受け継いだ土地を追い出されようとしているのです!」ではどうでしょう?君の祖父より以前には、誰がその土地を所有していたのですか?どの人が、とは言いません。どの民族が所有していたかを、君は説明できますか?君は所有者としてではなく、単なる小作人としてその土地に入ったのです。そして誰の小作人でしょう?もし物事が順調に進めば、君の相続人のです。法律家たちは、公共物は長時間の私的利用によっても所有することはできないと言います*15。君が私的利用し、自分のものと呼ぶものは公共の財産であり、実際それは、人類全体の財産なのです。13. おお、何と驚嘆すべき技術なのでしょう。君は円の測り方を知っており、目の前にあるどんな形も正方形に置き換えることができます*16。星と星の間の距離を計算しますし、君の測定の範疇に属さぬものは何もありません。しかし、もし君がその技術の真の達人であるならば、僕の心を測って下さい!それがどれほど立派であるのか、或いはどれほど卑小であるのかを教えて下さい!君は真っ直ぐな線とは何かを知っています。しかし、われわれの人生において、真っ直ぐであるとはどういう意味を知らなければ、何の役に立ちましょう?

 14. さて次は、天体の知識を誇る人達に話を移しましょう。彼らは次のようなことを知っています。

土星の冷たい星は、どこに身を隠すのか、

そして、水星はどのような軌道に彷徨い入るのか*17

 これらを知ることが何の役に立つのでしょう?土星と火星が真向いに並ぶとか、土星が明確に見える夕暮れに水星が沈むのはいつであるかといったことに、僕は悩まされるべきでしょうか?それよりもむしろ、それらの惑星は何処にあろうとも、恵み深く、変化することがないことを学ぶべきではないでしょうか?15. これらの惑星は永久に定められた運命に従い、その道から逸れることはありません。それらは決まった季節に戻り来て、世界のあらゆる活動を促したり、予告したりします。しかし、何が起ころうともこれらの惑星に依っているのですから、不変の事柄に関する知識を得ることに何の意味があるでしょうか?あるいは、それらの惑星が兆候を示すのだとしても、免れ得ない運命を予見することに、何の意味があるでしょうか?君がそれらを知っていようがいるまいが、起こることは決まっているのです。

16. 刹那に進む太陽と、列をなしてつき従う星々を見よ。

そして明日という日が汝を欺くなどとゆめゆめ思わないことだ。

また、晴れ渡る夜の闇も、汝を欺くことはない*18

 しかし、僕は自分を欺く可能性のある物事どもから、十分に、完全に守られています。「何ですか?」17. 君は言われる。「『明日は決して欺きはしない』などと言うのですか?知らぬ間に起こることは、何であれ私を欺くものです。」僕自身も、何が起こるかは分かりませんが、何が起こり得るかは分かっています。僕はこれに関して、何の不安も抱きません。僕は未来全体を待ち構えており、そこから少しでも災いを軽減できるものがあれば、大いに活用します。明日が僕に親切に振舞うことがあれば、それはある種の欺きと言えるかも知れませんが、それでも僕は欺かれはしません。なぜなら僕は、あらゆることが起こり得ることを知っていますが、あらゆる場合に起こる訳ではないことも知っているからです。僕はどんな時にも幸運への備えはできていますが、同時に不運への覚悟もできているのです。

 18. 次の議論に関しても、君は僕が通常とは異なる意見を述べるのを我慢しなくてはなりません。つまり僕は、画家を自由な学問の部類に数え入れることに同意しません。彫刻家や、大理石工や、その他の贅沢を助長するあらゆるものと同様に。また僕は、格闘選手や、泥と油の中にあるあらゆる知識も、自由な学問からは遠ざけます。さもないと、調香師や料理人や、その他われわれの快楽のために知恵を絞るあらゆる連中のことも、受け入れねばならなくなりますから。19. じっさい、これらのがつがつ食べては吐き戻す、体は肥え太り、心は痩せ衰えてる連中のどこに、「自由」の要素があるのでしょうか?あるいは、ローマの若者たちに彼らが課す学問が「自由」なものであると、われわれは本当に信じているのでしょうか?われわれの祖先はかつて若者たちに、真っ直ぐ立って槍を投げることや、棒杭を振り回すことや、馬を御すことや、武器を扱うことを教えなかったでしょうか?われわれの祖先は自分の子らに、横になったまま学べるようなことは何一つ教えませんでした。しかし、昔も今も、美徳を教え育むことはしていません。というのも、馬をあやつり、手綱で馬の速度を制御することができたとしても、自己自身の感情を全く制御できていないとしたら、何の意味があるでしょう?あるいは格闘技や拳闘技で多くの相手を打ち負かしても、自分自身が怒りに打ち負かされているとしたら。

 20. 「それでは」君は言われる。「自由な学問はわれわれの幸福に何も役立たないのでしょうか?」その他のことに関しては大いに役立ちますが、美徳に関しては全く役に立ちません。なぜなら、僕が述べたあれらの技術は、手仕事に関わる、明らかに程度の低いものであって、生活の必需に大いに貢献していますが、美徳に関係するものではありませんから。そして君が、「それでは、なぜわれわれは自由な学問を子供たちに教えているのでしょう?」とお尋ねになるなら、それは子供たちに美徳を与えることができるからではなく、魂に美徳を受け入れる準備をさせることができるからです。たとえば、われわれの祖先が「初等教育」と呼んだ読み書きについての教育は、自由な学問を教えるものではなく、やがてそれらを習熟できるようになるための基礎を整えるものです。それと同じように、自由な学問とは魂を美徳へと導くのではなく、ただ準備を整えるだけなのです。

 21. ポセイドーニウス*19は、学問技術を四種類に分類しています。まず、世俗的で程度の低いもの。次に、娯楽のためのもの。次に、子供の教育に関するもの。そして最後に、自由な学問があります。世俗的な学問技術は職業人に属し、それらは実生活を整えることに関わりがありますが、それらの中には、高貴さや立派さを示すものは何もありません。22. 娯楽のための学問技術とは、目と耳に快楽を与えることを目的としたものです。この部類の技術には、舞台装置の技師を割り当てることができます。彼らは自動的にせり上がる舞台や、音もなく空中に立ち上る板や、その他の様々な奇抜な仕掛けを発明します。たとえば、閉じていたものが開いたり、離れていたものが自ずと一カ所に集まったり、高く立っていたものが徐々に沈んでいったりします。これらを初めて目にする人たちは、大いに驚きます。というのも、それらの人たちは仕組みを知らないので、前兆無しに起こるそれらの全てのことに驚嘆するのです。23. 子供の教育に関する学問技術については、自由な学問に似たところがありますが、それはギリシャ人が「普通教育課程」と呼ぶものであり、われわれローマ人が「自由人のための学問」と呼ぶものです。しかし、「自由な学問」というのは、もっと言えば「真に自由な」学問というのは、美徳に関わりを持つものだけです。

 24. 「しかし」或る人は言います。「哲学にも自然に関する部分、美徳に関する部分、論理に関する部分がある*20。それと同じように、この自由な学問の各分野も、哲学のうちに占める場所を主張する。自然現象に関する問題に取り組む時には、幾何学者の証言により答えが得られる。したがって幾何学は、それが助けを与える分野の一部となるのだ。」25. しかし、多くのものがわれわれの助けとなりますが、だからといってわれわれの一部ではありません。いえむしろ、われわれの一部であったなら、助けとはならなかったでしょう。食物は肉体の助けとなるものですが、肉体の一部ではありません。われわれは幾何学が与える何らかの助けを得ることができます。そして、哲学にも幾何学は不可欠ですが、それは、幾何学者にも工匠が不可欠なのと同じです。しかし、工匠は幾何学者の一部ではありませんし、幾何学も哲学の一部ではありません。26. さらに、それらは各々、独自の領域を持っています。つまり、賢者は自然現象の原因を探究し、学びますが、幾何学者は自然現象を追跡し、その数量や大きさを測定します。賢者は、天体を支配する法則や、それらを成り立たせる諸力、その性質について知っています。天文学者(幾何学者・数学者)は、単にそれらの運行や回帰、昇ったり沈んだりする周期、実際は静止することはないのですが、静止しているように見える時がある期間についての、観察をするのみです。27. 賢者は、物が鏡に映る原因を知っています。しかし、幾何学者は単に物体が反射像からどのくらい離れていればよいか、あるいは、どのような形状の鏡が、或る特定の反射像の形を作るかを教えるのみです。太陽が大きいことは哲学者が証明しますが、どれくらい大きいかは天文学者が証明します。天文学者たちは試行と訓練によって知識を進歩させますが、そのためには特定の根本原理の力を借りる必要があります*21。しかし、どんな学問技術であっても、その基礎が外部に懇願して借り入れるものに依存しているのであれば、しっかりしたものにはなりません。28. しかし哲学は、何も外部に請い願うものはありません。全てを自分自身の土地の上に築き上げます。しかし、数学は言うなれば、他人の土地の上に建てられた、用益権のみがある建物です。それは最初の根本原理を手に入れた後、更に借り入れることによってその先に進みます*22。もしも数学が外からの力を何も借りずに真理に向かって進むことができたなら、またもし宇宙の自然本性を理解することができたなら、それはわれわれの精神に大いに役立ったであろうと言えます。精神とは天界の諸事象に触れることで成長し、天空から何かを自分の中に取り入れるのですから。しかし、魂を完全へと導くものはただ一つ、善と悪についての不変の知識です。ところが他の学問技術*23が、善と悪を探究することは決してありません。

 29. ここで、いくつかの美徳について振り返って見てみましょう。勇敢さとは、恐怖を引き起こすものを軽蔑することです。それは恐怖の力や、われわれの自由を軛の下に繋げようとする全てを見下し、それらに挑み、打ち砕きます。しかし、「自由な学問」はこの美徳を強めるでしょうか?忠誠心は人の心における最も神聖な善です。いかなる圧迫にも裏切りを強いられませんし、いかなる褒賞でも買収できません。忠誠心は言います。「私を焼き、斬り付け、殺すがいい!私は信頼を裏切ることはない。そして、秘密を暴くための拷問が激しいものになればなるほど、私はそれをいっそう心の奥深くに隠すだろう!」はたして「自由な学問」はこのような精神を、われわれの中に作ることができるでしょうか?節制はわれわれの欲望を制御します。それらのあるものは憎んで遠ざけ、あるものは調節して健全な範囲に収めますが、欲望それ自体のために追い求めることはありません。欲望の最良の尺度は、何を得たいかという程度ではなく、何を得るべきかという程度であることを、節制は知っています。30. 博愛心は、同胞に対して傲慢であることを禁じ、強欲であることを禁じます。言葉と行為と感情において、すべての人に親切に、愛想よく振る舞います。どんな災いも、他人事とは考えません。そして、自分自身の善を愛しますが、それはいずれ、他人の善になるからなのです。「自由な学問」が人々にこれらの人格を教えるでしょうか?いいえ、それらの学問は謙虚さも、節制も自制心も、質素も倹約も、他人の命を自分の命であるかのように考え、人は同胞の命を無駄に使うべきではないことを知っている博愛心も、教えることはありません。

 31. 「しかし」或る人は言います。「あなたは『自由な学問』なしでは美徳には到達できないというのに、なぜそれらが美徳の助けとなることを否定しているのか?」それは、食物がないと美徳に到達することはできませんが、食物と美徳は何の関係もないのと同じです。木材がないと船を作ることはできませんが、木材は船の助けにはなりません。僕が言いたいのは、それがなければ作れないものの助けによって、何かが作られると考える理由はない、ということです。32. われわれは、「自由な学問」がなくとも英知に到達することは可能だとすら言えます。なぜなら、美徳は確かに学ばなければならないものですが、自由な学問から学べるものではありませんから。

 ところで、学識(文字に関する)の中に英知はないのに、学識を知らないものが賢者にはなれない、と考える理由はあるでしょうか?英知は言葉ではなく事実を伝えます。そして記憶も、それ自らの外部には何も依存しない方が、より信頼に値するというのは真実でしょう*2433. 英知は広くて大きなものであり、それには充分に自由な場が必要です。それは神々と人類について、過去と未来について、刹那的なものと永遠のものについて、学ぶのでなければなりません。そして、時間についてもです。時間についてだけでも、どれほど多くの問題が存在することでしょう。第一に、時間はそれ自体で存在する何かなのか。第二に、時間以前に、時間なしに存在した何かはあるのか。時間は宇宙とともに始まったのか、それとも、宇宙が始まる前にも何かが存在していたので、時間もまた存在したのか?34. 魂についてだけでも、無数の問題が存在します。魂はどこから来て、どんな性質を持っていて、いつから存在し始め、いつまで存在するのか。ある場所から別の場所へ移動し、その居場所を変え、ある動物から別の動物へと、形状を変えて移り込むのか。あるいは、ただ一度だけ奴隷状態*25となり、そこから解放された後は宇宙全体を遍歴するのか。魂は物質であるのか否か。われわれを通して何かを為すことを終えたら、どうなるのか。現在のこの牢獄から脱出した時、どのように自らの自由を享受するのか。魂は過去の全てを忘却し、肉体から解放されて天へと戻るその時はじめて、真に自分自身を知り始めるのか。

 35. このように、人間の事や神的な事をどれだけ君が知ったとしても、君になお沢山の答えるべきことや学ぶべきことがあることに、君は圧倒されてしまうでしょう。そして、これらの多様で多大な事柄が、君の精神の中で自由な歓待を受けることができるよう、君はそこから余分なものを全て取り除かねばなりません。今のわれわれの狭量な精神の中に、美徳が身を委ねることはありません。偉大なものには、動き回るための広大な場所が必要です。他の全てのものは追い出して、美徳のために胸を空けておきましょう。

 36. 「しかし、沢山の学問技術に通じていることには喜びがあります。」ですから、われわれはそれらの中から必要なものだけを保持しましょう。君は、余計なものを有益なものと同等と見做し、家の中で高価な品々を贅沢に並べ立てる人を非難に値すると考えますが、学識という役に立たない品々に夢中になってる人も、非難に値するとは思いませんか?十分である以上に知りたいと思うことは、一種の不摂生です。37. なぜでしょう?それは、自由な学問をそのように見苦しく追及することは、厄介で、口数が多く、無粋で、自惚れの過ぎる人間を作り上げるからです。彼はどうでもいいことを学んだために、本質的なことを学んでいません。文法学者のディデュモス*26は四千冊もの本を書きましたが、それほど多くの無価値な本を読んだだけだったとしても、僕は彼を哀れんだことでしょう。これらの本の中で彼が研究したのは、ホメロスの出生地はどこだったのか、アエネイアスの本当の母親は誰であったのか、アナクレオン*27は情欲と酒の、どちらにより多く耽ったのか、サッフォー*28は娼婦であったのか、その他、答えを知っても直ぐに忘れるような問題です。さあ、人生は長いなどと言わないで下さい!38. しかし、われわれローマの国民自身について考えてみれば、斧で切り落とさねばならない事柄を沢山お示しできます。

 膨大な時間を費やし、他人の耳に多大な不快感を与えることで初めて、「あなたは何と学識が深いことでしょう!」という賞賛を勝ち取ることができるのです。単純ではありますが、われわれは「あなたは何と善い人物なのでしょう!」と言われることで満足しましょう。39. 僕は次のようなことをするべきでしょうか?つまり、世界中の民族の歴史を紐解いて、詩を最初に書いたのは誰かを探究するべきでしょうか?あるいは、文書による記録がないので、オルフェウス*29ホメロスの間にはどれほどの年代差があるのか計算して導き出すべきでしょうか?あるいは、アリスタルコス*30が他の詩人の文章に沢山の手を加えた無価値な書物を研究して、音節のために人生を浪費すべきでしょうか?それから僕は、幾何学の砂*31の中に埋もれるべきでしょうか?僕はもう、「時間を大切にせよ。」という有益な教えを忘れてしまったのでしょうか?これらのことまで僕は知らねばならないのでしょうか?そして、何を知らずにいられるでしょうか?

 40. 文法学者のアピオン*32は、ガイウス帝*33の時代に、ギリシャ全土で群衆を講演に集め、各地でホメロスの学者として名声を得た人物ですが、よく次のことを言っていました。つまり、ホメロスは二つの叙事詩、「オデュッセイア」と「イーリアス」を完成させた後、トロイア戦争全体を概説する前置きの詩を、自分の作品につけ加えた、というものです。これを証明するために、アピオンは次のように説明しました。ホメロスは「イーリアス」の第一行目に、二個のギリシャ文字を故意に挿入して、それにより自身の作品の書数を表現した、というのです*3441. 多くのことを知ろうとする人はこんなことも知らなけらばならず、それでいていつも、病気により、公的な用事により、私的な用事により、日々の労務により、睡眠により、どれだけ多くの時間が奪われるかは知りません。君の残りの寿命を測ってみれば、そんなもの全てを学んでいる余裕はないのです。

 42. 僕は自由な学問についてこれまで述べてきました。しかし哲学者たちはどれほど沢山の余計な、役に立たない事柄に携わっていることでしょう!彼らもまた自ら、音節の適切な区分の確立や、前置詞や接続詞の正しい性質の研究にのめり込んで、文法学者と張り合い、幾何学者と張り合います。彼らは他の学問の余分なものを全て、自分たちの哲学に取り込みました。その結果、彼らは生き方に気を付けることよりも、語り方に気を付けることを知りました。43. 過度の精密さがどれほどの弊害をもたらすか、そしてそれが、どれほど真理の敵であるかをお話しましょう!プロタゴラス*35は、どんな問題も、どちらの側からでも同じように議論できるし、この主張そのものにおいてすらそうだ、と言っています。ナウシパネス*36も、存在するように思えるものにおいて、存在することと存在しないことの間に違いはない、と言っています。44. パルメニデス*37は、ただ一つの普遍的な存在を除いて、存在するように思えるものは何ものも存在しないと考えました。エレアのゼノンは、ただ一つを取り除くことで全ての難点を取り除きました。つまり、何も存在しない、と言ったのです。ピュロン派も、メガラ派*38もエレア派もアカデメイア派も、みな同じ問題を扱いました。そして彼らは新たな知識として、何も知らない、ということを導入したのです。45. これら全ての知識は「自由な」学問における余計な部分として数え入れることができます。或る学者たちは僕に何の役にも立たない知識を授けますし、或る哲学者たちは(「何も知らないこと」の導入によって)あらゆる知識を得る希望を僕から奪い取ります。何も知らないことよりは、無益なことでも知っているほうがましです。ところが或る哲学者たちは、真理に目を向けるための光すら提供してくれず、さらに或る者たちは、僕の目玉をくり抜いて盲目にします。僕がもしプロタゴラスを信じるなら、自然界に疑わしくないものは何もありません。もしナウシパネスを信じるなら、あらゆるものは不確かである、ということだけが確かです。パルメニデスを信じるなら、ただ一つ以外は何も存在しません。ゼノンを信じるなら、ただ一つすら存在しません。

 46. それでは、われわれは一体何なのでしょうか?われわれを取り囲み、支え、助けてくれる全てのものは何なのでしょう?自然界全ては虚妄な、偽りの影だと言うのでしょうか?僕はどちらにより腹を立てたらよいのか簡単には分かりません。われわれが何も知らないことを望む人々か、それともわれわれが何もかも知ることを望む人々か*39。お元気で。

 

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 88 - Wikisource, the free online library

・解説1

 数学や修辞学などは、哲学と比べてさほど重要ではないことを述べているが、セネカ自身、「自由な学問」についての相当深い知識を持っていたであろう。なので、あくまで深くそれらを学んだ上での意見であることは念頭に置いておくべきだ。幾何学についても、プラトンルドルフ・シュタイナーはその大切さを度々強調している。それに、セネカは自然研究という理系的な趣味も持っていたので、それらから培った論理的な思考力や洞察力が、彼の哲学をより論理的で、美しいものにしたことは疑いの余地はない。まとめると、文法学や数学に勤しむのはいいけど、ほどほどに、ということであろう。

 

・解説2

 さて、今度は本文中に出てきた幾何学天文学、霊学の細かい内容について、ルドルフ・シュタイナープラトンらの見識も交えて、セネカの意見にちょっとだけ抵抗してみよう。セネカ自身、これらの有用な点や意義については、うっすらと理解していたはずである。

 まず、幾何学に関して、プラトンが「幾何学を学んでいない者は哲学への入門を禁ずる」と言ったのは有名な話で、これは何も意地悪で言ったのではなく、魂の認識能力について正当な理由があるのである。それについて、ルドルフ・シュタイナーは以下のように述べている。

 人間だけが計算できる、ということの意味を洞察するのは、それほど容易なことではありません。ギリシャの賢者プラトンアカデメイアにおいては、あらかじめ数学(幾何学)の初歩を学んでいなければ、入学が許されなかったのです。つまりプラトンが魂の学に導こうとしたとき、その弟子たちは、数学の本質、数学という独特な精神活動の本質についてあらかじめ分かっていなければならなかったのです。

 その場合大切だったのは、数学を学ぶことよりも、人間によってのみ、数学を用いることが可能である、ということを理解することでした。アリストテレスもこのことをよく知っていました。つまり、人間だけが法則を、厳格に首尾一貫した法則を見つけ出すことができたのです。そのような法則を人間に直接示したりはしません。単なる観察だけでは、もっとも簡単な数学の定理さえ手に入れることができないのです。このことが理解できないのは、まだ思考の訓練をしたことがなく、自己観察とは何かが分かっていない人だけです。自然の中のどこにも、完全な直線、円、楕円は存在していません。これらは数学の中でしか研究できないのです。ですから私たち人間は、内で出会った知識を外に適用させることのできる存在なのです。

 この事実をよく考えてみなければ、魂の本質に迫ることは決してできません。ですから神智学は、真剣に学ぼうとする弟子に、思考の厳格な訓練を求めます。日常の鬼火のようにちらちらする思考、西洋哲学のその鬼火のような思考ではなく、内的に徹底して自己観察を行う思考の訓練を求めるのです。そういう思考だけが、この問題のもつ広がりを認識できるのだからです。そして数学の訓練を積んで、天文学の分野で最大の成果をあげた人びとは、その広がりを洞察して、それを表現してきました。どうぞ偉大な天文学者ケプラーの著作を読んで下さい。人間の自己観察という基本的な思考行為について、ケプラーは見事な記述を残しています。

 人間の内なる数学的思考は、外なる宇宙空間の果てにまで働きを及ぼすことができるのです。ケプラーはこう述べています。——我々が孤独な研究室に閉じこもって、円や楕円について思考を巡らせ、その単なる我々の思考の成果をもって天空を仰ぎ見、その成果と天文現象との一致を知らされるとき、その一致は本当に奇蹟としか言いようがない。

 ルドルフ・シュタイナー「魂について」P39~40(春秋社出版 高橋巖訳)

 

 これを読むと、数学や幾何学天文学の霊的な素晴らしい側面が垣間見える。とはいえ、現代の数学教師や様々な理系的な学問の教授というと、セネカも言うように、「最も愚劣で恥ずべき連中」がたいへん多く、自分の承認欲求のためにわざと単純な真理を複雑なものとして教え、それにより自分を権威付けようとするゴミのような輩が非常に多いので、現在学校で教えれられている多くの「自由な学問」は様々な意味で、「何の意味もないもの」になってしまっているのかも知れない。

 話をルドルフ・シュタイナーに戻すと、このように数学の利点を述べた上で、セネカの意見に加勢するように、次のように述べている。

 今問題にしているのは、外的な研究成果ではなく、こういう認識の深化なのです。哲学の学堂に入りたいと願う人たちには、こんにちでもすでにその玄関ホールで、どういう人が入学を認められるのかを伝えなければならないでしょう。なぜなら、五感をもつ人が外界を探究できるように、その人は同じように思考の力で魂の本質を探究するのでなければならないからです。このことは、それ以前には不可能でした。

 しかし別の問題もありました。数学的な思考では十分ではないからです。私たちがまったく自分の中に生きて、宇宙のいとなみを私たちの内部から育てていくのは、第一の段階です。それま先ず第一に歩まなければならない最も低い段階にすぎないのです。私たちはそこから先へ更に進まなければなりません。すでに古い時代の魂の研究者は、人間認識の最高の諸領域を、魂の深みから、——数学が天空の星たちの真実を魂の深みから取り出してくるのと同じやり方で―—取り出すことを求めていたのです。このことをプラトンは次の言葉によって求めたのです。——「私の学堂に入門しようとする人は誰でも先ず、数学のコースを取得しなければならない。

 必要だったのは、数学ではなく、数学的思考のような独立した認識の力だったのです。人間は自分の中に外的な自然生活から独立したいとなみをもっており、最高の真理を自分の中から取り出すことができます。そのことを洞察するなら、人間の最上の思考の働きが自然の一切のいとなみを超えたことろにまで及ぶ、ということをも洞察できるのです。

 ルドルフ・シュタイナー「魂について」P41~42(春秋社出版 高橋巖訳)

 

 何だかセネカに近いことを言っているような気がしないでもない。またシュタイナーは別の著作の中でも、自然科学的(数学的)な思考法の有用性について、次のように述べている。

 人間の思考は、この(霊学の)宇宙内容に対しても、自然科学が対象とする宇宙内容に対するときと同じ態度で、研究活動を行うことができる。神秘学は、自然科学の研究方式や研究態度を、感覚的事実の関連や経過から切り離して、しかもその思考の特質を確保し続け、自然科学が感覚的なものについて語ろうとするときと同じ仕方で、非感覚的なものについて語ろうとする。自然科学の研究方法と思考方式とが、感覚的なものの中に立ちどまっている一方で、神秘学は自然界の研究で身につけた方法を、非感覚的な領域に適用しようとする。非感覚的な宇宙内容について、自然研究者が感覚的な世界について語る通りの仕方で、語ろうとする。神秘学は、自然科学的な態度の内部に働く魂の在り方を、つまり科学研究にふさわしい魂の在り方を保っている。

 ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」P39~40(ちくま学芸文庫 高橋巖訳)

 

 これもまあ、同じことを言っている。ゲーテの「ファウスト」においても、ファウストに化けたメフィストフェーレスが、どのように学問に取り組めばよいかと聞いてきた学生に対して次のように述べている。シュタイナーがよく使う、「鬼火のようにちらちらと不安定な思考」は恐らくこのファウストの表現が元になっている。

わしをして言わしむればだね、

最初に聴講すべきは論理学ではあるまいか。

論理学を聴くと精神が訓練されて、

スペインの長靴で締め上げられたように、

思考の道を、これまでよりも慎重に、

辿っていかれるようになり、

鬼火のようなふらふら歩きは、

しないようになるのだ。

さてそれから暫の間は、

自由に飲み喰いするように

これまで至極無造作に一気にやってのけたことを、

一、二、三と順序立ててやることを教えられる。

思想の工場も、

機織の工場と同じことだ。

一踏みで千本の糸が動き、

が往反して、

糸が素早く流れ、

一打ちで無数の織目ができる。

そこで哲学先生の御登場があって、

諸君に「それはこうなくてはならん」と証明なさる。

つまり、第一はこう、第二はこう、

だから第三と第四とはこうなるが、

もし第一と第二とがなかったなら、

第三、第四は存在し得なかっただろう、と。

どこの学生もこのやり方に感心するが、

さりとて本当の機織になれたものはいない。

何か生命のあるものを認識記述しようというのに、

最初にその生命を追い出そうとする。

手許に残るのが部分ばかりというのも当たり前だ。

肝腎要の精神というたがが欠けておるのだな。

化学のいわゆるエンケイレーシス・ナトゥラエ(自然のやり口)がそれだが、

しかし、これが言遁いいのがれであることに気づかぬのだ。

 ゲーテファウスト」第一幕:書斎 1910~1941行(新潮文庫 高橋義孝訳)

 

 ここでも、初歩的に思考をしっかり固めるために論理学は有用であるが、いつまでもそれに拘泥していたら魂を見失ってしまうと教えている。メフィストフェーレスは悪魔だが、このように学生に親切に真実を教えてくれたり、読んでると何かといいやつだったするから憎めない。

 プラトンについての補足事項として、プラトンは有名なプラトン立体、それらと地水火風そしてエーテルとの関連について述べている。立体的な幾何学の認識にも、自然界の洞察と関連する意味があるのである。それらの分類と、プラトンの「ティマイオス」における簡単な説明を以下に羅列する。

 

 ・地:最も安定した立体である、正六面体(立方体)

 ・水:(球に近いので)最も動きやすい、正二十面体 

 ・火:最も鋭く、最も小さいところに入り込みやすい、正四面体

 ・風:(火と水の)中間状態としての、正八面体

 ・エーテル:最も不思議な、正十二面体

 

 これらの立体には双対関係を持つ組み合わせがあり、例えば正六面体(土)の各面の正方形の中心を頂点として内部に立体と作ると、正八面体(風)ができる。同じように、正二十面体(水)と正十二面体(エーテル)も双対関係にある。また、面白いことに、先にシュタイナーが研究しているケプラーは、プラトン立体に基づく太陽系モデルを提唱している。

 

 さて次に、惑星についてのシュタイナーの言及を引用する。

 太陽を見上げましょう。太陽は地球に、最も強い影響を及ぼしています。地上で死に、毎年よみがえるものに、太陽は主に影響を及ぼします。月は死んだものにではなく、生命に影響を及ぼします。火星は精妙な生命、感受に影響を及ぼします。ほかの惑星は心魂と精神などに影響を及ぼします。

 太陽は地上の鉱物にまで働きかける天体です。鉱物に対して、月は何もできませんし、火星も何もできません。月がなかったら、地上に動物は生きられず、植物のみが生存せきていたことでしょう。火星がなかったら、昆虫は幼虫から成虫になるまでの中間期を過ごすことができなかったでしょう。

 あらゆるものが関連しています。たとえば、「私たち人間は、いつ完全に大人になるのか。いつ私たちの成長は止むのか」と、問うことができます。見かけ上は非常に早く、多分、二十歳、二十一歳で成長は止まります。しかし、何かが生じています。多くの人々が、もはや成長はしませんが、内的には何かが生じています。およそ三十歳まで、私たちは成長し、それから衰えはじめます。これを宇宙と比較するなら、土星の周期と一致します*40

 成長と生命の微妙な状態に、惑星が影響します。「あらゆる惑星と同様、火星が地球に近づくとき、この外的な接近に大きな価値を置くべきではない。生命の精妙な状態と宇宙の事物が関連していることのほうが、ずっと重要だ」と、言うことができます。

 ルドルフ・シュタイナー「自然と人間の生活」P75~76(風濤社 西川隆範訳)

 

 このように、惑星は実際に恵み深いのである。そして、シュタイナーは惑星や天体の現象を正しく洞察することで地上の現象を読み解くことができると述べたが、この点に関しては、むしろ僕はセネカの意見を支持したい。つまり、そうした占星術らしきもので仮に将来のことが多少読み取れるとしても、既に起こることが決まっていることを予知することに、どれほどの価値があるのかということである。霊的な洞察をどこまでも行おうとする精神よりも、何が起きても受け入れようというセネカの覚悟のほうが、明日も分からない不安な現代社会に生きるわれわれには眩しく見えるのである。

 しかし最後に、時間についてと死後の魂について、シュタイナーの言葉を添えて、本文の若干の補足を加えて終わりたい。まずは、時間について。宇宙の最初の状態である土星紀について述べた箇所から引用する。

 このことを受け容れるのは、現代人の意識にとって特別難しいことだが、「時間」と呼ばれるものが土星の熱状態と共にはじめて現れる、ということも、ここで述べておかねばならない。それ以前の諸状態は、まったく時間の経過をもたなかった。それらの状態は、霊学が「持続」と呼ぶ領域に属している。それゆえ、本書が「持続の領域」内の諸状態について述べる場合、時間に係る表現はすべて、もっぱら理解を容易にするために用いられている、と考えねばならない。

 ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」P175~176(ちくま学芸文庫 高橋巖訳)

 

 つまり時間は、宇宙の始まりと共に生じたというのが答えである。それ以前の状態がどうだったかというのは、なかなか表現が難しいらしい。続いて、死後の魂の状態について。

 死者は、はじめのうちは、自分がその中へ拡がりつつある星々の世界について意識していません。はじめは自分が離れ去った世界について意識しているだけです。身体をまとって生きていたときの意識界、身体を通して形成してきた人間能力の及ぶ範囲での意識内容だけを持っているのです。卵の殻の中の小さなひよこが意識を持っていたとします。そのひよこが周りの殻を破ってこれまで自分を取り巻いていたこの破れた殻、つまりこれまでの宇宙を、内側からではなく外側から見るときのような経過が、本当に、しかし霊的に生じるのです。もちろんこのようなイメージも私たちが意識の中で作り上げる幻影にすぎませんが、しかしこれはとても適切な幻影なのです。さきほど申し上げましたように、それまで私たちの意識内容となっていた大宇宙が、まるでひとつの星になったように縮小して現れるのです。そして今、この星の中から「光り輝く宇宙叡智」が拡がり始めます。

 ルドルフ・シュタイナー「シュタイナーの死者の書」P171~172(ちくま学芸文庫 高橋巖訳)

 

 シュタイナーによると死後の魂は宇宙全体に拡張し、各惑星を遍歴するのだそうだ。つまりセネカの考察には真理が多大に含まれていたということだ。セネカがそれらを誰かから教わったのか、何かの書物で読んだのか、直感的に洞察したのかは定かではない。しかしいずれにしても、彼はあらゆる事柄に関する真理を正確に洞察した、真の意味で優れた哲学者だったのである。

*1:この時代のローマの「自由な学問」とは一般に、文法学、修辞学、論理学(弁証法)、幾何学、算術、天文学、占星学、音楽などを指す。以降の文章でセネカは、哲学こそが真の意味での「自由な」学問だと話を展開していく。

*2:美徳即ち哲学を教えていれば互いに似通っていただろうが、そうではないので互いに大きく異なるということ。

*3:この説にはデモクリトスやエリスのヒッピアス、および寓話の解説者たちが賛同したが、クセノパネスやヘラクレイトス、そしてプラトン自身もホメロスの非哲学的な寓話性を非難した。

*4:オデュッセウスが、不死にするというカリュプソーの申し出を断ったことを念頭に。

*5:善を倫理的徳、肉体的徳、外的生活の徳の三通りに分類するペリパトス学派の考え方。

*6:中・新アカデメイア学派の懐疑論。「われわれには、カルネアデスと共に、懐疑することが許されている。」人生の短さについて14.2。

*7:仮にホメロスを賢者(哲学者)だと見做すとしても、以下の段落のように修辞学や歴史の観点から彼の著作を細々と読み解くのではなく、読み取れる哲学について学ぶ方が建設的だろう?とセネカは言っている。

*8:トロイアプリアモスの妻

*9:アキレスの親友で、ヘクトルに殺された。

*10:これらはカリュプソー、キュクロペス、キルケ、シレンといったオデュッセウスが遭遇した怪物や魔女などから。

*11:オデュッセウスの妻で、貞節の見本のように語られる一方で、ヘルメースとの間にパーンをもうけたという伝承がある。

*12:乞食に変装したオデュッセウスペーネロペーが話すシーンがあるが、貞節な女性であるならば、目目の前の男性が実は夫であるかどうかなど、勘繰ったりしない、という意味か。

*13:おそらくは短調のこと。

*14:ここでは土地の広さを測る測量師の意味。

*15:つまり、時効取得が認められないということ。

*16:小さな正方形を敷き詰めれば、円の面積を近似的に測定することも可能、といった意味か。

*17:ウェルギリウス「農耕詩」1.336~7

*18:ウェルギリウス「農耕詩」1.424~426

*19:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33,書簡78,書簡87参照。

*20:伝統的な区分。書簡89で詳しく述べられる。

*21:文法や方程式のようなイメージか。

*22:数学は方程式を次々と新たに取り入れて(借り入れて)いくことで、その先に進んでいくという意味だろう。あくまで外部から借り続けなければならないので、哲学のように自立していない、不完全な学問だと言うこと。

*23:自由な学問のような

*24:哲学(英知)が扱う分野は、それ自体の記憶から考察できるものなので、学識を必要としないということ。例えば善悪や魂や時間についての考察に、複雑な(借り物の)前提知識は必要ではない。

*25:肉体を牢獄を見做す。つまり、肉体を持って地上に生まれるのは一度だけなのか、ということ。

*26:前1世紀のギリシャの文献学者。多くの作家の注釈を書き、辞書を編集した。

*27:前6~5世紀のイオニアの抒情詩人。恋と酒を歌った師が多い。

*28:前7世紀のレスボス島生まれの女性の抒情詩人。

*29:ホメロス以前の最も偉大な詩人である、オルフェウス教の創始者

*30:前3~2世紀のギリシャの文献学者。他人の作品に対して勝手に多くの修正や加筆を加えて。

*31:幾何学者は砂の上に図形を描いた。

*32:1世紀のギリシャ人で、アレクサンドリアにいた。

*33:カリグラ帝

*34:イーリアス」の第一行目は「μῆνινメーニナ(怒りを)」であるが、一文字目の「μ」はギリシャ数字の「40」を、二文字目の「η」はギリシャ数字の「8」を指すのでで、この合計の「48」が、「イーリアス」と「オデュッセイア」の合計の書数48書を表してる、ということ。

*35:前6世紀のギリシャソフィストの祖。

*36:前4世紀の懐疑主義ギリシャの哲学者のピュロンの弟子。ピュロンは「エポケー」の提唱者。

*37:前5世紀のギリシャの哲学者。或る種の普遍的な球体以外は、なのものも真には存在しないと考えた。。

*38:ソクラテス派の一派

*39:哲学者達のように「何も知らない」と言い張ることも、文法学者のアピオンのように「何もかも知っている」ことに拘ることも、いずれも誤りである、という意味。

*40:土星の公転周期は29.459年