徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡87 質素な生活を称えるいくつかの議論について

 1. 僕は「船に乗る前に難破*1」してしまいました。どうしてそのようになったかは申しません。君がこれも、ストア派逆説パラドックスの一つに数え入れては困りますから。しかし、君が聞きたいとお望みなら、いやお望みでなくとも、この逆説が決して間違いではなく、一見した時ほどに驚くに値しないことをお示ししましょう。それはさておき、この旅は次のことを僕に教えてくれました。われわれがいかに余計なものを持っているか、そして、必要に駆られて手放す時に何も感じないものを、いかに容易に手放す決心をすることができるか、ということをです*2

 2. 僕と友人のマクシムスは、馬車一台に収まるほどの非常に少数の奴隷と共に、身に着けているもの以外は何も持たずに、この二日間をとても楽しく過ごしました。寝床は地面に直に敷かれ、僕はその上で横になります。外套は二種類あって、一つは下に敷くもの、もう一つはわれわれを覆うものです。3. 昼食は、これ以上なにも減らせない(ほど質素な)もので、準備には一時間もかかりませんでした。どこでも干しイチジクが一緒で、いつでも書き物板*3が一緒でした。パンがある時には、イチジクはおかずとなり、パンがない時には、パンの代わりになりました。ですからそれらは、毎日僕にとって新年のごちそうになりますし*4、僕は良き思索と魂の豊かさによって、その新年を幸福で満ち足りたものにすることができました。なぜなら魂は、あらゆる外的なものを捨て去り、何ものにも不安を抱かないことで平安を確保し、富を渇望しないことで富を確保した時をおいて他に、偉大になることは決してありませんから。4. 僕が乗る車は農夫用の車です。ラバは歩けることによってのみ、まだ生きていると示せます*5。夏だからというわけでなく、馭者は裸足です。この車が僕のものだと他の人にはゆめゆめ思われたくありません。僕は未だに、真実に対する誤った羞恥心を消し去れずにいます。それで、もっと豪華な一行に出会うたびに、思わず顔を赤らめてしまいます。それは、僕がよしとして賞賛している態度が、まだ確固として僕の中に居座っていないことの証です。質素な車を恥じる人は、豪華な車なら威張り散らすでしょう。

 5. ですから、僕はまだまだ進歩が不十分です。僕は未だに、自分の質素な生活を公言する勇気がありません。今なお、他の旅人たちにどう思われているかが気になります。しかし、そうではなく、多くの人々が賛同する意見に反対して、次のように言うべきでした。「君たちは狂っている、間違っている。君たちは余計なものに賞賛を捧げている!君たちは人を本当の価値で測ることを知らない。財産のこととなると君たちは、金や恩を貸す相手について、最も慎重に計算を見積もる。今や君たちは恩すらも、貸付台帳に記入しようとしている。君たちは言う。『この男の財産は大きいが、負債も大きい。』6. 『あの男は立派な家を持っているが、借金で建てたものだ。』『誰もあれほど綺麗な召使をすぐには見せられないだろうが、この男は借金を返済できない。』『この男はもし債務を返済し終えたら、何も残らない。』君たちは他の全てのことにおいても同様に、各人が実際はどれほど本当の資産を持っているかを、入念に調べあげるだろう。」

 7. 君がある人を金持ちと呼ぶのは、その人が金の家具を旅行に持って行くから、すべての州に耕地を持っているから、分厚い貸付台帳を広げているから、アプリア*6の荒れ地に所有していたとしても妬まれるほどの広大な土地を、ローマの近郊に所有しているから、といった理由でしょう。しかし、君がこうしたあらゆることを言い尽くしたとしても、彼は貧乏なのです。それはなぜでしょう?彼は債務者なのです。「どの程度のですか?」と君はお尋ねになる。彼の持ち物全てのです。あるいは君が、人に借りがあるのと、運命に借りがあるのとでは違いがあると考えるなら話は別ですが。8. 毛色が全身均一に整ったラバを持つことに、何の意味があるのでしょうか?あるいは、装飾された車に乗って、

馬は紫色と刺繍で覆われ、

首からは金色の馬具をぶら下げ、

全身を金で覆い、金色のくつわを噛んでいる*7

ことに。そのような飾りで、主人も馬もより善くなることはありません。

 9. 監察官のマルクス・カトーは、スキピオと同じく国家の助けとなるべく生まれてきた人物です。スキピオがわれわれの敵と戦った一方で、カトーはわれわれの悪徳と戦いました。カトーはいつも駄馬に乗っており、その駄馬は馬鞍に生活に必要なものを乗せて運んでいました。ああ、彼が現代のめかしこんだ連中や、その先駆者やヌミディア人達*8の立てる大きな砂埃に遭遇するところを、ぜひとも見てみたいものです!この伊達男たちは、マルクス・カトーと比較して、さぞかし洗練されて、供回りも立派に見えたでしょう。この連中の主な悩みといえば、あらゆる豪華な道具立ての中にあって、剣を手に取るか、狩猟刀を手に取るか、ということです*910. ああ、凱旋将軍が、監察官が、それら全てに勝ることとして、カトーその人が、ただ一頭の駄馬に満足していたという時代は、どれほど素晴らしいものだったことでしょう!しかも、その一頭の全てでもなかったのです。というのも、馬の体の一部が、両脇腹から垂れ下がった荷物でふさがることがありましたから*10。ですから君は、あの伊達男たちの、よく太った小馬や、アストリア産の馬や、速足の馬の共回り全員よりも、カトーの駄馬、つまりカトー自身が鞍をつけたただ一頭の駄馬の方を、好みはしなかったでしょうか?11. このような話題を続けていると、僕の方から終わりにしない限り、キリがありません。ですから、少なくとも今話題にしていることに関しては、ここで黙ることにします。疑いようもなく、最初にそれらを「荷物(妨害物)」と呼んだ人々は、いずれ実際にそうなることを予見していたのでしょう。今度は、その一端に過ぎないものの、われわれの学派における、美徳の問題に関する三段論法についてお話したいと思います。われわれはそれがあれば、幸福な人生には十分であると考えます。

 12. 「善いものは人を善くする。たとえば、善い音楽の技術は善い音楽家を作る。しかし、偶然的なものは人を善くしない。したがって、偶然によりもたらされるものは善ではない。」これに対しペリパトス派は、前提が誤ってるとして、次のように反論します。「人はいかなる場合でも善いものによって善くなる、という訳ではない。音楽の場合、笛や弦楽器、あるいは歌の伴奏に適した風琴といった、善いものがある。しかし、これらの楽器はいずれも、音楽家を作る訳ではない。」13. われわれはこれに、次のように答えます。「われわれが『音楽における善いもの』という言葉をどういう意味で用いるかを、君たちは分かっていない。というのも、われわれはそれを、音楽家に備わる道具とは言わずに、音楽家を作るもの、と言ってるのだ。しかし、君たちは、技術そのものではなく、技術の道具について言及している。しかし、もし音楽の技術において何か善いものがあったら、それはどんな場合でも音楽家を作るだろう。」そして僕はこの考えを、さらに明確なものとして述べたいと思います。14. 音楽の技術における善いものには、二つの意味があります。一つは、音楽家の演奏それ自体の助けとなるもので、もう一つは、音楽家の技術の助けとなるものです。さて、演奏に関係するのは、笛や弦楽器や風琴といった楽器です。しかし、それらの楽器は音楽家の演奏技術そのものには関係ありません。なぜなら、それらがなくとも、彼は(音楽の)芸術家なのですから。(楽器がないと)その技術を実践することは出来ないかも知れませんが。しかし、人における善いもの、とはこのように二通りの意味がある訳ではありません。人間の善と、人生の善は同じものだからです。

 15. 「どれほど低劣な、軽蔑されるような人にも転がり込んでくるようなものは、善いものではない。しかし富は、女衒にも剣闘士の親方にも転がり込む。しかるに、富は善ではない。」「別の間違った前提がある。」彼ら(ペリパトス派)は言います。「なぜなら、読み書きの技術であれ医療の技術であれ航海の技術であれ、その善は最も低劣な人々にも備わることを、われわれは知っている*11。」16. しかし、これらの技術は、魂の偉大さを示すものではありません。それらはいかなる高みに登ることもなく、偶然がもたらすものを軽蔑することもありません。美徳こそが人を高め、死すべき人間どもが後生大事にするものを越えて人を立たせます。美徳は善と呼ばれるものも、悪と呼ばれるものも、過度に欲したり恐れたりしません。クレオパトラの男妾の一人であるケリドンという男は、莫大な財産を持っていました。また最近ではナタリスという、汚らしく、それに劣らないほど恥知らずな舌を持ち、その口で女の汚れを清めていた男がいましたが、彼は多くの人の相続人であり、多くの相続人も持っていました。それではどうでしょう?金銭がこの男を汚らしくしたのでしょうか?それともこの男が金銭を汚したのでしょうか?デナリウス銀貨が下水に転がり落ちるように、金銭などというものは誰かのもとに転がり込むのです。17. 美徳はそうしたもの全ての上に立ちます。美徳はそれ自身に特有の基準で評価され、これら偶然の産物を何一つ善いものとはみなしません。しかし、医術も航海術も、それら自体にもその追随者にも、このような(偶然の産物の)ものに驚嘆することを禁じません。善い人間でなくとも、医師や航海士、学者になることは出来るのです。そう、料理人になれるのと同じように!偶然に依存しないものを所有する人を、偶然にそうなったとは君は思わないでしょう。人が真に所有している性質は、そうした類のものです。18. 金庫は、その中に入っているものだけの価値があり、金庫自体は、むしろ中身の単なる付属品です。いっぱいに詰まった財布の価値を評価する時、その中身の金額による以外の方法で、評価する人がいるでしょうか?同じことが、莫大な資産の所有者にも当てはまります。その所有者は資産の付属品であり、おまけに過ぎません。

 それでは、なにゆえ賢者は偉大なのでしょうか?偉大な魂を持っているからです。したがって、最も低劣な人物にも転がり込むようなものが善ではないというのは、真実なのです。19. ですから僕は、苦痛を感じないことを善だとは決して思いたくありません。それは蝉や蚤ですら持っているような性質です。また、平穏であり、困難から解放されていることも、善だとは思いたくありません。なぜって、毛虫ほど平穏な生き物がいるでしょうか?何が賢者を作り上げるのかとお尋ねですか?それは神を作りあげるものです。賢者には神的な、天上的な、壮大なものがあることを、君は認めねばなりません。善は全ての人にもたらされる訳ではありませんし、偶然に依存するような人が所有者になることもありません。20. ごらんなさい、

それぞれの国がどんなものを実らせ、また実らせないかを。

あちらでは穀物が、こちらではブドウの木が豊かに育つ。

そして他の地方ではまだ柔らかい草木が残り、自ずから緑に覆われる。

見なさい、トゥモルスの地がサフランの香りを、

インドの地が象牙を、

穏やかなサバの民は乳香を、

それぞれに送りもたらすのを。

そして、裸のカリュベス人は鉄を。*12

 21. これらの産物は、人々が互いに交易できるようにと、別々の国に割り当てられ、各々の国が隣の国に何かを求め、また与えます。最高善もまた、それ自身の割り当ての場を持ちます。それは、象牙や鉄の産地に生じるのではありません。最高善はどこに住まうのかとお尋ねですか?魂にです。魂が純粋で穢れのないものでなければ、そこに神が入り込むことはできません。

 22. 「善は悪からは生じない。しかし、富は貪欲から生じる。ゆえに、富は善ではない。」「真実ではない、」彼らは言います。「善が悪から生じないというのは。なぜなら、神殿荒らしからでも窃盗からでも金銭は得られるから。したがって、神殿荒らしも窃盗も悪だが、それらが悪であるのは、善よりも悪が多く働いてるからに過ぎない。つまり、それらは利益をもたらすものの、その利益には恐怖や不安、心身の苦痛が伴っているということだ。」23. こんなことを言う人々は、神殿荒らしは、多くの悪事を働くので悪であるが、一部では善を得るので、部分的には善であることを認めねばならない、と考えるのでしょう。これほどひどい話があるでしょうか?なるほどわれわれは確かに、神殿荒らしも窃盗も姦通も善に数え入れることができると世の中に納得させてきました。窃盗をしても赤面しない人がどれほど多いことでしょう!姦通を自慢する人がどれほど多いことでしょう!つまり、小さな神殿荒らしは罰せられますが、大きな神殿荒らしは、凱旋行列によって讃えられるのです。24. その上、もし神殿荒らしに何らかの点で全く善い部分があれば、名誉ある行いであり、正しい行いであるとすら呼ばれたでしょう。それはまさしくわれわれの偉大な行いなのですから。しかし、まともに考えるなら、こんなことを認める人はいないでしょう。

 ですから、善は悪から生じることはできません。というのも、もし君たちの言うように、神殿荒らしは多くの悪事を働くという理由でのみ悪であるのなら、神殿荒らしの刑罰が免除され、安全が保障された時、神殿荒らしは完全に善となってしまうのですから。しかし、犯罪に対する最も重い罰は、罪を犯したことそのものの中にあります。25. もし君が、刑罰は死刑執行人のところや牢獄へ行くまで延期されると考えているのなら、それは間違いだと僕は言いましょう。犯罪は犯した直後に、いえそれどころか犯している瞬間に、罰せられるのです。ですから、悪が善から生じることはありません。イチジクがオリーブの樹に実ることがないのと同じです。生まれ育つものは、その種に応じたものです。善はその本来の性質から離れることはありません。偉大なものが卑劣なものから生じないのと同じように、善が悪から生じることはありません。偉大なものとは、善に他なりませんから。

 26. われわれの学派の中にも、こうした意見に対して次のように反論する者たちがあります。「金銭は、どこから得られたものであっても善であると考えよう。たとえそれらが神殿荒らしによって得られたものであったとしても、だからといって金銭が神殿荒らしから生じた訳ではない。次の説明で、われわれの言ってる意味が分かるだろう。つまり、同じ壺の中に黄金と毒蛇が入っているとする。壺から黄金を取り出した場合、それは毒蛇がいたから取り出せたのではない。われわれが言いたいのは、壺は毒蛇を中にもっているが故にわれわれに黄金をもたらしたのではなく、毒蛇を持っているにも関わらず、黄金をもたらした、ということだ。これと同じように、神殿荒らしから利益が得られるのは、神殿荒らしが卑劣で忌むべき行いであるからではなく、そこには利益もまた含まれているからなのだ。壺の中の毒蛇は悪いものだが、毒蛇の横の黄金は悪いものではない。同様に、神殿荒らしにおいては、その利益ではなく、荒らすことが悪なのである。」27. しかし僕の考えは、この人々とは異なります。というのは、これらはそれぞれ、条件が全く異なるからです。前者においては、毒蛇がいなくても黄金を得ることはできますが、後者においては、神殿荒らしを働かなければ、利益を得ることはできません。後者の利益は犯罪行為の横にあるのではなく、犯罪行為と共にあるのです。

 28. 「われわれがそれを獲得せんと熱望する間に、多くの悪に巻き込まれるならば、それは善ではない。しかし、われわれは富を得ようと熱望する間に、多くの悪に巻き込まれる。ゆえに、富は善ではない。」「君たちの言うことには、」人々は言います。「二つの前提が含まれていなければならない。一つ目は、わわれわは富を望む間に、多くの悪に巻き込まれるが、美徳を獲得することを望む間にも、多くの悪に巻き込まれるということだ。或る人は学問のために航海して難破したし、或る人は囚われの身となった。29. 二つ目は次の通りで、われわれが悪に巻き込まれる原因となったものは善ではないが、われわれが富や快楽を通じて悪に巻き込まれるという理屈は成り立たない、ということだ。そうでないなら、富によってわれわれは多くの悪に巻き込まれることになり、富は善ではないどころか、明らかな悪となる。しかし君たちはただ、富は善ではないだけだと言う。さらに、」彼らは続けます。「君たちは富には何らかの有益な点があることは認めている。富を有益なものの一つに数え入れている。しかし、君たちの論法に基づくと、富は決して有益なものにはなり得ない。なぜなら、富を追い求めることで、われわれは多くの不利益を被ることになるからだ。」30. これに反論して、或る人々は次のように答えます。「富が不利益をもたらすと考えるなら、君たちは間違っている。富は誰をも害することはない。人に害を及ぼすのは、本人の愚かさや、隣人の邪悪さである。剣それ自体は人を殺すことはなく、殺人者が使用する武器であるに過ぎないのと同じだ。富が原因で君が害を受けるからといって、富それ自体が君を害する訳ではない。」

 31. ポセイドーニウス*13の理論は、さらに優れたものだと、僕には思えます。彼は、富が悪を引き起こすのは、富そのものが悪事を働くからではなく、悪を行うよう人々を駆り立てるからである、と考えます。なぜなら、直接的に害を引き起こす原因と、害に先行する(駆り立てる)要因とは、別のものだからです。富に内在するのはこの先行要因であり、それらは心を煽り立て、高慢を生み、嫉妬心をもたらし、精神を不安定にさせ、金持ちという評判がいずれわれわれを害することが分かっていても、それに喜びを抱かせます。32. しかし、あらゆる善なるものは元来、非難を受けることはありません。それらは純粋であり、精神を汚すことなく、誘惑することもありません。もちろんそれらは心を高めて、大きなものにしますが、高慢にすることはありません。善であるものは自信を生み出しますが、富は無謀をもたらします。善であるものはわれわれに偉大な精神を与えますが、富は高慢を与えます。そして高慢とは、偉大さを偽ったものに他なりません。

 33. 「その論理によると、」反論者は言います。「富は善でないだけではなく、全く悪であることになる。」さて、もしそれら自体が害を為すものであれば、つまり、僕が先ほど述べたように、直接的な原因となるのであれば、悪だったでしょう。しかし本当のところ、それらは富に内在する先行要因であり、実際人の精神を駆り立てるのみならず、力づくで引き込むのはこの先行要因なのです。そうです、富は見せかけだけの善をわれわれにもたらすものであり、真実に似せて、多くの人からの信用を得るのです。34. 美徳もまた先行要因を持っています。これが人々の嫉妬を引き起します。なぜなら、多くの人はその英知のゆえに、多くの人はその正義のゆえに妬まれるからです。しかしこの先行要因は、美徳に内在するものですが、美徳それ自体の直接原因でもなければ、見せかけだけの真実でもありません。いえ、それどころか、美徳はその輝きを人々の精神に投げかけることによりいっそう真実に近しくなり、それにより人々は美徳をいっそう愛し、美徳に驚嘆するようになるのです。

 35. ポセイドーニウスは、次のような三段論法を立てるべきだと言います。「魂に偉大さも、自信も、悩みからの自由も与えないものは善ではない。しかし富や健康や、それらと同じ類のものは、こうしたものを何も与えない。しかるに、富や健康といったものは、善ではない。」彼はさらにこの三段論法を、次のように広げていきます。「魂に偉大さも、自信も、悩みからの自由も与えずに、その一方で高慢や虚栄心や横柄さをもたらすものは悪である。しかし、運命から贈られるものは、われわれをこれらの邪悪な道に駆り立てる。ゆえに、そうしたものは善ではない。」36. 「しかし、」反論者は言います。「その理論に従うと、偶然によって与えられるものは有益ですらないことになる。」いいえ、有益であるということと、善であるということでは状況が異なります。有益であるということは、不便なものよりは利点が多いということです。しかし、善であるものは混じり気がなく、有害な要素が皆無である必要があります。善であるものとは、害する以上に有益なものではなく、ただ全く善いものなのです。37. その上、有益であるということは、動物や未熟な人間や、愚かな人間にも備わるものです。ですから、有益なものには不便なものが混在している可能性がありますが、それは、「有益である」という言葉が、(混在してる中で)より大く含む要素によって判断されるためです。しかし善とは、ただ賢者のみに備わるものであり、混じり気のない純粋なものでなければならないのです。

 38. 元気を出して下さい。君にはあともう一つだけ、解きほぐすべきヘラクレスの結び目*14が残っています。「善は悪から生じない。しかし、貧乏から富が生じる例は多い。しかるに、富は善ではない。」この三段論法はわれわれの学派では認められませんが、ペリパトス派はこれを好き勝手に結んだり、解いたりしています。しかし、ポセイドーニウスは、この誤謬はあらゆる学派の問答論法において議論されてきたが、アンティパトロス*15によって次にように論破されている、と言います。39. 「『貧乏』という言葉は何かを所有している量が少ないことを意味するのではなく、非所有ないし、昔の人が言ったように、欠乏という意味である―—ギリシャ人はκατὰ στέρησινカタ・ステレーシンと呼ぶこれは、orbationem(喪失)を意味する。『貧乏』とは何かを(量は少なくても)持っていることを表すのではなく、持っていないことを表す。したがって、多くの欠乏から充足が生じることはあり得ない。富は多くの欠乏ではなく、多くの実益から生じる。君は、」彼は続けます。「貧乏という言葉の意味を、間違って解釈している。つまり貧乏とは、わずかなものを所有していることではなく、多くのものを所有していないことを意味する。したがって、この言葉は人が持つものではなく、欠いているものについて用いられるのだ。」40. ギリシャ語の「ανυπαρξιαアニュパルクシアー(現存するものの欠如)」に相当するラテン語があれば、僕はこのことを、もっと容易に説明できたでしょう。この言葉をアンティパトロスは貧乏という意味に用いていますが、僕に言わせれば、貧乏とはわずかなものを所有すること以外の何なのか分かりません。もしわれわれにいつか十分な時間ができたら、富の本質は何か、貧乏の本質は何か、という問題について共に研究してみましょう。しかしその時には、事実については既に解決したかのように言葉に関しての屁理屈を言い合うよりも、貧乏は和らげられ、富による傲慢も和らげるのがよいのではないか、ということもわれわれは考えねばなりません。

 41. われわれがある会議に招集されたとしましょう。そこでは、富の放棄に関する法案が提出されています。アンティパトロスのような三段論法を用いて、その法案に賛成したり、反対したりすることができるでしょうか?この三段論法で、帝国の起源でもあり基盤でもある貧乏を、ローマ人が希求し、賞賛するのに役立つでしょうか?そして他方、この三段論法で、彼らが自分たちの富を恐れ、次のことを思い浮かべるでしょうか?つまり、それらの富は、征服の犠牲者たちの領地で獲得したものであることを。富が原因となり、かつては最も高潔で節度のあったローマの都市に、出世欲や贈収賄や陰謀がなだれ込んだことを。諸民族の征服による戦利品が、富として絢爛に見せびらかされているということを。さらには、一民族が全民族から奪った富は、全民族によって一民族から奪い返される方が容易だということを*16。あんな三段論法で誤魔化すよりも、われわれが自身にこの法案の支持を命じ、直接攻撃することでわれわれの欲望を鎮圧するほうがよほどよいでしょう。われわれはもっと勇敢に語らねばなりません。そうでなければ、もっと率直に。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 87 - Wikisource, the free online library

・解説

 質素な馬車に赤面するという話から、いかにして富を軽蔑するかという話に繋がる。途中ややこしい三段論法が多くて読むだけでも面倒だが、それでもセネカの著作はこうした屁理屈が多い本の中ではかなり文章が一貫していて読みやすい方だと改めて感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:難破した人と同じくらい、貧相な装備で旅をしたということ。

*2:やむを得ない事情のせいで失うことになっても平気なものは、手放すことも容易だと言っているが、このあたりには、セネカの強がりのようなものが感じられて面白い。

*3:蝋などを塗った木や象牙などの薄板で、鉄筆などの筆でその上に書き記した。

*4:干しイチジクは正月の恒例の進物であった。

*5:それほど老いぼれたラバということ。

*6:イタリア東南部の、アドリア海に面した一地方。現在のプグリア。

*7:「アエネイアス」7.277~9

*8:北アフリカヌミディアの住人で、奴隷としてローマで騎馬の従者や使者として使われた。

*9:身分の高い者でも道楽として剣闘士や戦獣士になる人たちがいた。

*10:前述のように、馬鞍に生活必需品を乗せて運ぶこともあったので。

*11:劣悪な人物であっても、優れた技術を持つことはあるということ

*12:ウェルギリウス「農耕詩」1.53~58。

*13:前2世紀のギリシャの哲学者で、ストア派に属する。書簡33,書簡78参照。

*14:ヘラクレスが考えたと言われる、解くのが難しい結び目。

*15:前2世紀の古ストア派の哲学者。ポセイドーニウスの師のパナイティオスの師。

*16:それほどローマという一国家が多数の民族から大きな富を奪ったということ