1. ルキリウス君、僕は自分が改良されてるだけでなく、全く変革されていくのを実感してます。しかし、僕は未だに、自分の中に改善すべき点は何も残っていない、などと、自分に保証したり、またそんな希望を抱くことはありません。当然のこととして、より削ぎ落さねばならない点、より節制すべき点、より卓越させねばならない多くの点があります。そしてまさに、以前は無視していた自身の欠点に気付くという事実そのものが、僕の精神がより良いものに変わったという証です。病人が自分の病気を自覚することが、当人にとって喜ばしいことであるように。
2. そういう訳で、僕は君に僕のこの突然の変化を伝えたいと思います。そうすることで僕は君との間の、希望や恐怖や利得に決して引き裂かれず、またそのために死ぬことも出来るような真の友情に、全幅の信頼を置くことができるでしょう。3. 僕は君に、友人はいても友情は持たない多くの例を示すことができます。しかしこうしたことは、魂が同じ性向を持ち、崇高な希望を抱く共通の想いに惹きつけられていれば、起こり得ないことです。なぜ起こり得ないかというと、真の友情で結ばれたもの同士は、あらゆるものを、とりわけ困難を、互いに共有するからです。
日々が僕にどれだけ大きな進歩をもたらしているか、想像もつかないでしょう。4. 君が、「あなたにとても役立つと思えたものを、私にも分けて下さい!」と言うのなら、僕はこう答えましょう。僕はこれらの恩恵をふんだんに君に与えたいし、教えることによってまた学べることを嬉しく思います、と。どんなに優れていて有益なものでも、それを自分だけの知識として留めておかねばならないとしたら、僕を喜ばせるものは何もありません。そしてもし叡智が与えられても、それを隠しておかねばばらないとか、口にしてはならないなどの明白な条件があったら、僕はそれを拒絶するでしょう。それを分かち合う友人がいなければ、どんな良いものでも、持っていても楽しくありません。
5. そこで僕は、その本そのものを君に送りましょう。君があちこち探しまわって時間を無駄にすることがないよう、有益な話題については、いくつかの文章に印をつけておくので、僕がよしとして賞賛した部分に、君はすぐに目を向けることができます。とはいえもちろん、生きた声や実際に生活を共にすることは、書かれた言葉以上に君の助けになります。君は実践の場に赴く必要があります。それは第一に、人は聞いたことよりも見たものを信じ、第二に、教訓に従えば道は長いが、生活様式に従えば道は短く有益だからです。クレアンテス*1は、6. もしゼノンの教説を聞いただけだったなら、彼の教えを受け入れ体現することはなかったでしょう。彼は師ゼノンと実際に生活を共にし、彼の真意を洞察し、彼が自分の教えの通りに生きているかどうかを確かめました。プラトンやアリストテレス、そしてそれぞれ異なる道を歩むことになった哲学者達*2はみな、ソクラテスの言葉よりも人柄からより多くのことを学びました。メトロドロス*3やヘルマルコス、ポリュアイノスを偉大な人物にしたのは、エピクロスの教説ではなく、彼との生活を共にしたことです。こんな訳で僕は君に、単に利益を受け取るだけでなく、与えることができるよう命じます。そうすることで僕たちは、互いに大いに助け合うことができるのです。
7. さて、僕は毎日君に少しずつ支払いをする義務があります。どんなヘカトンの言葉が今日僕を喜ばせたと思いますか。それは次のようなものです。「どんな進歩を私が遂げたと思うかね?私は自分自身の友になりはじめたのだ」これは本当に、とても偉大なことです。そのような人物は、決して一人ではありません。彼のような人は全人類の友と言えるでしょう。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 6 - Wikisource, the free online library
・解説
タイトルは「友と知識を分かち合うことについて」にするべきか迷ったが、英語のタイトルに寄せた。友情の賞賛は、セネカの哲学の大きな特徴の一つである。この後の書簡にも友情に関する素晴らしい書簡がいくつもある。セネカは決して、哲学者は一人で紋々と悩まなければならないとか、友達はいらないとか極端なことは言わない。賢者は友達を持たなくても平気だが、いるに越したことはないと、一見当たり前にようだが、しかしとかく哲学に関わる人が忘れがちになることを思い起こさせてくれる。僕自身セネカの本を読むだけでは寂しいので、こうして翻訳という形で多くの人と共有することができれば、それは大きな喜びとなる。訳す際に色々と考えることで、それ自体でまた大きな学びにもなる。
同時にセネカは、自分自身を友とみなすことについて、頻繁にその大切さを強調している。*4自己肯定感を見失い、自己受容を忘れがちな現代人にとっては、耳に痛い話である。ルドルフ・シュタイナーによると、14歳から21歳は、自分が世界からどう見られていいるかを気にする時期だが、21歳から28歳は、自分が世界をどう見るかを気にする時期だという。つまり、自分で自分を友と見れるということが、大人になるということなのだろう。自分を友と見なすことばできれば、本当の友を世界に見つけることも容易いだろう。