徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡7 大衆について

 1. 君がとりわけ避けるべきものはなにかとお尋ねですか?それは大衆です。君はまだ、彼らと共にある時、自分自身を信頼することができません。少なくとも僕自身、自分の弱さを認めています。僕は家を出た時と同じ心持ちで、家に帰ることが決してできません。僕の心を落ち着かせていたものがかき乱され、僕が遠ざけていた悪しきものが戻ってきます。長期に渡る病気で衰弱した病人が戸外に連れ出されると、病気はぶり返します。それと同じことが、長期に渡る病から回復せんとしてるわれわれの魂にも起こります。2. 大衆と交わることは有害です。彼らは皆、悪徳を魅力的に見せようとしたり、それをわれわれに刻み付けたり、気づかない間にわれわれを汚します。まったく、多くの人とわれわれが交わるほど、危険も大きくなります。

 しかし、ある種の見世物を楽しむ習慣ほど、良い心にとり有害なものはありません。快楽の道を通り、悪徳が巧妙に心に忍び寄るからです。3. どういう意味か分かりますか?つまり僕は、家に帰ると、より貪欲に、より野心的に、より贅沢に、さらにはより残忍で非人道的になっているということですーーなぜって、大衆と共にいたのですから。僕はたまたま昼の剣闘技の*1見世物を見る機会があり、人が人を斬り殺す見世物から離れた、何かちょっと気の利いた催し物を期待しました*2。しかし実際はその反対でした。午前の(剣闘士と猛獣の)試合はどれほど人道的だったことでしょう。しかし、今やそうした人道は全て捨て去られ、そこには純粋な虐殺のみがありました。何一つ防具を持たない人たちが、体の至る所を打ちつけられ、どの殴打も決して防がれることはありません。4. 多くの観客が、普段の組み合わせや好みの組み合わせの試合*3よりも、こちらの見世物を好むのです。当然のように、武器から防御するための盾も兜も持たされません。観客は言います。「何故身を守る防具や技が必要なのだ!そんなことは死の延長に過ぎない!*4。」朝、彼らはライオンや熊に人間を投げ与え、昼は彼ら観客そのものに、人間を投げ与えます。観客は殺した者が、次は彼を殺さんとする男に立ち向かうよう求めます*5。観客は常に、虐殺のために「最新の」殺す側の人間を用意します*6。全て戦いの後には死があり、その手段は炎と剣です。正規の試合が行われない間、この見世物はずっと続きます。5. 「しかし彼らは強盗や人殺しです!」と君は言うかも知れません。だったらどうなのでしょう?たとえ彼が、殺人者としてこのように罰せられざるを得ない罪を犯したのだとしても、君が哀れにもこんな見世物を見るに値する、どんな罪を君は犯したというんですか?正規の試合の時に、観客は叫びます。「殺せ!打て!焼き払え!何故怯えながら剣を交わすのだ!なぜそんなに斬り合うのが怖いのだ!何故勇敢に死のうとしないのだ!怪我をして怖気づくものは鞭打て!むき出しの胸を打撃に晒し、次々と一撃を食らうがいい!」そして昼の小休止になると言います。「この間にも何か続けられる必要があるから、人の首でも掻き切ろう!」

 さて君は、悪事はそれを成した人に帰ってくるという真実すら理解しないのですか?不滅なる神々に感謝致します。あなた方は未だ、何が残酷であるかを理解できない者たちに、その意味を教えて下さるのですから*76. まだ若く、正しさを堅持することのできない心は、容易に大多数に流されてしまうものなので、悪しき群衆から救い出してあげねばなりません。ソクラテスやカトー*8、ラエリウス*9でさえ、彼らと異なる人々の間にあっては、その徳の強さをゆさぶられたことでしょう。全く、われわれはみなどれだけ才知を磨いても、非常に大勢の味方を引き連れてやってくる悪徳の影響の衝撃に、耐えることはできません。7. 贅沢や貪欲のたった一つの例が、多くの害悪をもたらします。付き合う人が贅沢であれば、われわれはいつの間にか軟弱に、柔弱になります。金持ちと付き合えば、貪欲を刺激されます。悪口の多い人と付き合えば、たとえわれわれが悪意なく誠意を持っていたとしても、彼の汚れの一部を引き受けることになります*10。このように大きな世界に襲われると、どんな影響を君の心に及ぼすと思いますか。君は彼らを真似るか、ひどく嫌うかの選択を迫られます。

 8. しかし、どちらの道も避けねばなりません。多数派だからという理由で、悪人を真似てはいけませんし、自分と異なるからという理由で、多くの人を憎んでもいけません。できる限り、君自身の中に引きこもって下さい*11。君をより良い人間にしてくれる人達と付き合って下さい。君が君自身を改善できるよう導いてくれる人物を、迎え入れて下さい。そうした交わりは、双方に善い影響をもたらします。人は教えることによって学ぶからです。9. 君が自分の才能を誇示したり宣伝するために公共の場へ赴き、大勢の前で朗詠や長演説を披露することを熱望するには及びません。もちろん、君がこうした悪しき群衆にふさわしいつまらぬものをお持ちなら、それを披露するのもよいでしょう*12。しかし君が持つものは、悪しき大衆に容易に理解されるようなものではありません。一人か二人は、興味を示す者があるかも知れませんが、彼らですら、君が形作って訓練してやらねば、君を理解することはできません。君は言うでしょう。「私は何のためにこんなことを学んだのでしょう」と。しかし、努力が無駄になったなどと恐れる必要はありません。君は君自身のためにそれらを学んだのですから。

 10. しかし、今日僕が学んだことが僕自身のためだけにならないよう、僕が注目した同じ意味を持つ三つの優れた言葉を君に紹介したいと思います。この三つの言葉のうち一つをこの手紙の君への支払いとして、後の二つは前払いとして受け取って下さい。最初の言葉はデモクリトスのものです。「私にとって一人は大勢と同じで、大勢は一人と同じだ」11. 次の言葉もまた、著者は不明ですが、偉大な人物によって語られたものです。ごくわずかの人にしか理解されえない学問に、それほど打ち込むのは何故かと尋ねられて、こう返しました。「私にはわずかな人で十分です。一人でも十分です。一人もいなくても十分です。」三つめのこれもまた賞賛に値する言葉はエピクロスのもので、彼が学問仲間の一人に書き送ったものです。「僕はこれを大勢の人ではなく、君のために書いてる。僕たちは互いが互いにとって、十分な数の観客だからね」12. これらの言葉を胸に留めておいて下さい、ルキリウス君。そうすることで君は、ただ大勢から賞賛されることによる喜びを、軽蔑することができます。君のことを分かったように賞賛する大勢の人に囲まれたところで、君が自分自身のことを喜べる理由はあるでしょうか?君のよい資質は、君の内側にこそ目を向けるべきです。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 7 - Wikisource, the free online library

 

・解説

 前半特に闘技場に纏わる部分では、3つの日本語訳はいずれも誤訳とみられる箇所が多かったので、意味の通る文章になるようかなり独自の訳をした部分もある。後半はむしろ僕の訳は稚拙な表現が多いかも知れないので、気になる人は頑張って3つの日本語訳の本を手に入れて欲しい。

 一つ前の書簡6で友人と知識を分け合うことを推奨し、書簡5では哲学者には適度な世間との交わりが必要だと説いたセネカが、この書簡では大衆から受ける悪影響を厳しく糾弾している。これは決して矛盾することではなく、大衆と交わりすぎることも、全く関わらないことも間違いだと言っている。*13一つの極端な意見に偏らないことはセネカの哲学の大きな特徴の一つで、ドグマや教え文句を盲目的に形式的に鵜吞みにする多くの宗教や哲学の教えとは、そういった点で決定的に異なる。そうした上で、大衆というものから受ける弊害を余すところなく叙述してるのは全く見事としか言いようがない。現代人も家を出て、会社や学校で悪しき人物と交流すれば、どんなに気を付けてもその悪影響を受けざるを得ない。教師や上司が、下らない思い付きや妄言を至高の言葉であるかのように垂れ流し、押し付ける。仕事もせず四六時中人の悪口しか言わないおばさんにはうんざりさせられる。ネットの掲示板やツイッターやニュースサイトやまとめブログのコメント欄でも、人の悪意を煽るような言葉や写真をこの上ない下劣な動機で広める連中がいる。*14そうした中にあって、セネカは自分自身を見失わないことの大切さを述べている。しばしば自らの中に引きこもることを推奨している。それは決して義務からの逃避でも怠慢でもなく、真に正しくあろうとすれば、必ず必要になる時間なのである。長時間労働を美徳とする日本人は、そうした余裕を持たない人が多い。だからこそもっとセネカを学び、自分自身と語り合うことの大切さを知らねばならない。

 

*1:午前の猛獣との試合と、午後の剣闘士・罪人同士の試合の間にある、通常はちょっとした催し物。その昼公演で後述の残酷な見世物があったことをセネカは非難している。

*2:「ルキリウスへの手紙」並びに「セネカ哲学全集5巻」ではいずれもここで明らかな誤訳がある。セネカが流血の見世物を期待するかのような書き方がされている。ラテン語原文並びに英語原文を参考にすれば誤訳だとすぐ分かる。こうしたセネカ道徳心に関わる部分での誤訳は好ましくない。

*3:恐らく対戦カードを観客が希望することがあった、ということだろう。

*4:ラテン語原文も英語原文も3種類の日本語訳も鍵括弧はないが、ここを鍵括弧にしないと前後の文で意味が通らない。これをセネカの発言とするのはあまりにナンセンスである。

*5:もちろん次は武器も防具も持たずに

*6:殺しが終わらないということ

*7:ここも、日本語の3つの訳はおかしい。「教える」の主語を「神々」にしないと意味は通らないし(英語原文参照)、前の文の、因果応報に続く文脈として意味が通るのもこの訳のみである。

*8:共和制ローマ時代の政治家、哲学者。ローマ内戦でカエサルに敗れ、自害した。高潔な人物として知られ、セネカが理想の人間の一人でして、頻繁に例に挙げる人物である。

*9:小スキピオの友人で、賢人と言われた。

*10:「錆を擦り付ける」という表現は英語原文にも見られるが直訳が過ぎる。ここは悪口を聞かされるのは気分が悪いものだという現代の日本人に相通じる感覚にマッチするよう意訳した。

*11:「さらに、われわれは、ひんぱんに自己に立ち帰らなければならない。なぜなら、自分と違う性格の人たちと交われば、落ち着いた気持ちがかき乱され、いろいろな感情が沸き起こるからだ」心の安定について17.3

*12:この後の書簡でも頻繁に出てくる、単なる言葉尻を捉えるだけの、無益な問答論法といった所か。

*13:「われわれは、これら二つのものーーすなわち孤独と交わりーーをうまくつなぎ合わせて、交互に入れ替えるべきだ」心の安定について17.3

*14:「きみも、こう思うことがあるだろう。正直は、どれほどまれなものだろうかと。純真は、それほど世に知られないのだろうかと。誠実は、それが得になるとき以外は、姿を現すことがないのだろうかと」心の安定について15.1